夏の夜の夢





 スポットライトに照らされた眩しすぎる場所で一人の少女が笑っている。
 大きな向日葵の花束を抱え、隣に立つ背の高い男を見上げてはにかむように笑う。
 設定は初めてのデート、メインは彼女が抱えている花束。向日葵の黄色を引き立たせるためのブーケは青。夏をテーマに新進気鋭のフラワーデザイナーが作り上げた自称「最高の」作品。爽やかさと上品さと可憐さと青春の甘酸っぱさ――あと二つ三つ形容を口走っていたはずだが忘れた。可憐さや上品さはともかく、青春の甘酸っぱさというのは言語センスを疑うと強烈に思ったので覚えている。
 スタジオ内は冷房が効いているにもかかわらず、スーツをかっちり着込んだ身には多少暑く感じられた。加えてスポットライトの熱のせいもあるのかもしれない。スタジオの隅で現在進行中のコマーシャルの撮影風景を見ながら瀬川は息を吐いた。暑い。
 この暑さの中で涼しい顔をして笑っていられる芸能人というのはすごいものだなとたいした感慨もなく思う。自分で手がけたCMの撮影現場に立ち会うのはそれほど珍しくはないからもう慣れてしまった。もっとも今回は目下CM女王への道を駆け上がっている若手有望タレントの出演とあって、周りはいつも以上に盛り上がっている。そうすると瀬川は逆に冷める。そういう性格だった。
「瀬川さん」
 撮影終了を告げる監督の声が響き渡った後、こちらの姿に気付いた永野ミハルが駆け寄ってきて名前を呼んだ。彼女と仕事をするのはこれで三回目だ。人気者だけあって彼女を使いたいと指定してくるクライアントが多いからだ。瀬川は笑顔を浮かべた。
「お疲れさま。きっとすごくいいCMになるよ、ありがとう」
「瀬川さんのお役に立てたんだったら嬉しいです」
 今年でたしか二十歳になる永野ミハルは、一般的にはもう少女と呼べる年でもないのだろうが、瀬川から見るとまだあどけない少女だった。もともとの顔立ちの幼さのせいもある。これが青春の甘酸っぱさというものかねと頭の中で思ったことは、もちろんおくびにも出さなかった。
 ミハルちゃーんと、彼女のマネージャーが呼んでいるのが聞こえた。
「桂木さんが呼んでるよ」
「え、と、うん。そうですね…」
 ミハルが困ったような顔をする。彼女は瀬川を見上げ、目があうとびっくりしたようにすぐに俯いて、しかしその場を動こうとはしなかった。マネージャーの彼女を呼ぶ声がさらに大きくなる。
「どうしたの」
 瀬川は怪訝に思って問いかけた。マネージャーと喧嘩でもしているのか。思い浮かんだのはそれくらいで、しかしそのことに対して瀬川にできることは何もなかった。だからただ彼女を見つめた。思えば変わった少女で、彼女以外にはたかが広告会社の一社員に過ぎない瀬川に挨拶をするタレントはいない。別にそれで不都合なことは何もなく、どちらかというと、ミハルの態度のほうが不自然で不可解だった。
「……あの、瀬川さん」
「なに」
「今、つきあってる人とか、いるんですか……?」
 決意を秘めたような、思いつめた眼差しでミハルが瀬川を見上げた。思いがけずその視線を受け止める形になった瀬川は一瞬、息が止まるかと思った。それでも表情はあまり変わらなかった。
「……参ったな……」
 思わず漏らした呟きにミハルが泣きそうに顔を歪めた。
「迷惑、ですか……?」
「じゃなくて。そういうんじゃなくてね……そういうの、わりとわかるほうだと思ってたんだけど。鈍くなったなと」
 瀬川は苦笑する。胸ポケットから名刺入れを取り出すと、一枚抜き取ってミハルの手に押し付けた。
「土日で休みが取れることあれば連絡して。けど君は芸能人で君のことを大好きな人がたくさんいる。その人たちすべてを捨ててもいいのかどうか、よく考えてみて」
 ずるい男だと我ながら思った。けれど面倒なことを言い出したのは彼女で、選ぶのも、責任を負うのもすべて彼女一人だった。それに関わる気はないし、関わることはできない。愛されているのは彼女だ。たとえひとときの身勝手な愛し方であっても、偽りではない彼らなりのやり方で。
 名刺を手にした彼女の唇が震え、何か、言いたそうにその唇が開きかけて、止まった。マネージャーがようやく彼女の隣に並んでその腕に触れた。
「もう、すぐ次のお仕事があるって言ったでしょ。あら瀬川さん、こんにちは。またミハルのこと使ってやってくださいね」
「こちらこそ、またぜひご協力をお願いします」
 すべてはクライアントの意向次第だ。彼女を使うも使わないも。けれど彼女にも選ぶ権利があり、こちらの申し出を蹴ることももちろんできるのに、過去三回、彼女はその権利を行使しなかった。二度目に会ったときからは、瀬川の顔を見るとすぐに駆け寄ってくるようになった。
「じゃあこれで失礼します。ほら、ミハル、挨拶して」
 マネージャーに急かされてミハルが瀬川を見上げた。小さな声で「どうもありがとうございました」と頭を下げ、最後に一度、熱に浮かされたような目で瀬川を見て、踵を返した。


 その日、朝から瀬川は不機嫌だった。
 まず、朝からのうだるような暑さが目覚めを気分の悪いものにした。暑いのも寒いのも耐えられなくはないが好きではない。それは当たり前のことだが、どちらかというと、暑いほうが嫌いだった。身体にまとわりつくような空気が不快だ。
 目が覚めてすぐ冷房を入れたから部屋は快適になった。今日は土曜日で、会社も休みだったからたまには家で音楽でも聞いてのんびりするつもりだった。けれど午前十時過ぎに、二人連れの男女がやってきて、瀬川の朝を台無しにし、おそらく午後も台無しにしそうな気配だった。
「……うっとうしいよ、お前ら」
 フローリングの床にしゃがみこんで本を読んでいた二人はその声にそろって顔を上げ、「どうして」とそろって言った。うっとうしい。
「静かに本を読んでるだろ。騒いだら悪いと思って」
 旧友の伊原が言うと、その恋人の山崎千賀子がうんうんと大きくうなずいた。
「あのな、いい年した大人が三人、こんな狭い部屋にいること自体無理があるんだよ。クーラー壊れたんなら図書館にでも行け馬鹿」
「瀬川ってさ、機嫌悪くなると言葉遣い悪くなるよな」
 冷静な指摘にむかっとした。ベッドに寝転んで雑誌を捲っていた瀬川はその雑誌をバンと枕に叩きつけた。
「うるせぇ」
「あ、ほらほら。瀬川君らしくないからやめときたまえ」
「ねえねえ、瀬川君って今彼女いるの?」
 瀬川は枕に突っ伏した。どうして休みの日にこんなろくでもない奴らに悩ませられないといけないのかと理不尽に思った。
「もういい、俺が出て行けばいいんだな」
 最初からわかっていたが、自分の部屋なのに侵略者に明け渡すのが嫌で居座っていたのだが、もう一緒にいるのは限界だった。携帯電話と財布だけ持って立ち上がる。
「え、ちょっと待ってよ。瀬川君の恋愛話聞かせてよ」
「ふざけろ、バーカバーカ」
「ひっどーい、いいわよそれなら。どっか行くんならその間に部屋中探ってやる。勝手にいろいろ見てやる」
「出て行け!」
 瀬川は癇癪を爆発させた。この年になってこんなふうに怒鳴る自分も嫌だったが、言わなければわからない相手なのだから仕方がない。千賀子は伊原よりよほど性質が悪い。彼女のことを知れば知るほど苦手になる。黙っていれば美人なのに、口を開けば色気も何もなくなる。
 強引に追い出そうと千賀子の腕を掴みかけたが、彼女が突然「永野ミハル」と呟いたので、思わず手が止まった。千賀子は瀬川が放り出した雑誌のページを見ている。
「伊原が永野ミハル好きなのよー」
「歌がね。あと、かわいいし」
「瀬川君はどう? この手のタイプはどう? 好み?」
「………」
 答えられずに瀬川は黙り込んだ。あれから一月以上経つが、彼女からの連絡はなかった。当然だ。ないだろうと思って連絡先を告げたのだ。目を覚ませというつもりで彼女を誘った。あれは体のいい断り文句だった。
 けれどもし連絡があったら。
 手にした携帯電話に視線を落とし、瀬川は考えまいと思っていたことを意識した。もしもミハルから連絡があったら、そのときは今度こそはっきりと断らなければならない。芸能人と付き合うなんて馬鹿な真似はしたくなかった。望んでいるのはもっと平凡な普通の暮らしだ。相手は彼女じゃない。
 そのときまるで、瀬川が見ていることに気付いたように携帯電話が鳴り出した。知らない番号。嫌な予感を覚えながら「もしもし」と電話に出ると、考え得る限りで一番悪い相手からの電話だった。永野ミハル。
「ああ……はい。わかった。いいよ、かまわない。そっち行くから。今どこにいるの。え、うちの前? って、うちの前!?」
 驚いて思わず大きな声が出た。以前、一度だけ他愛ない会話の間で実家は画廊を経営しているという話をしたことがあるが、まさかそれを覚えていたとは思わなかった。
 いったん携帯電話を切り、すぐさま部屋を出ようとしてふと中にいる二人の存在を思いだし、瀬川は振り返った。
「悪いけど客が来たから帰ってくれる?」
「彼女? 彼女?」
 千賀子が目を輝かせた。その彼女に冷たい視線を送ってから、伊原に向かって顎をしゃくった。連れて帰れの合図を彼は正確に理解したらしく、肩をすくめて浅くうなずいた。笑いながら。
 それを確かめてから瀬川は急いで部屋を出た。永野ミハルがすぐそばまで来ているというのが信じがたかった。家の場所など言わなかったはずなのに、調べたのだろうか。
 家を一歩出た途端、照り付けてきた八月の日差しの強さに眩暈がしそうだった。冷房の効いた部屋にいる間は忘れられていた暑さが否応なく今が夏であることを思い出させる。
「……瀬川さん」
 呼びかけられて目をやると、長袖の白いシャツに花柄のロングスカートという清楚ないでたちに、どうしようもなく似合わないサングラスをかけた永野ミハルが立っていた。大きな黒い日傘を差している。
「――よくここがわかったね」
「あ、名前、聞いてたので。インターネットで調べたら住所が書いてあって、それで……」
 途中で自分のしたことが恥ずかしくなったのか、ミハルは目を伏せて口篭もった。
「ごめん。外暑いから中入ってもらっていいかな。君さえよければ」
 照りつける日差しの中で立ち話などしたくなかった。それにこんなあからさまな変装ではいつ通りがかった人間に気付かれるかわからない。そんな無用な騒動を起こすのは御免だ。少なくとも自分がいる場所でそんなことになるのは避けたい。
 ミハルはうなずいて、黙って瀬川の後に従った。裏口から家の中に入ると、自分でもおかしいと思っていたのかサングラスを外した。二、三十代の男たちに熱烈に支持されるだけあって、あらためて見るとやはりかわいらしい顔立ちをしていた。スポットライトのないところでも特別に見える。
「入って。ここ、俺の部屋」
 いくばくかの不安を感じつつ扉を開けると、中には誰もいなかったのでほっとした。あの二人はちゃんと帰ってくれたらしい。会わなかったが、きっとギャラリーのほうから出たのだろう。
「どうぞ」
 部屋にひとつきりの椅子をミハルにすすめ、瀬川はベッドの上に腰を下ろした。
 ミハルは緊張した面持ちで椅子に腰をおろし、手持ち無沙汰に部屋の中を見まわした。すっきりしすぎていて面白みがないと初めて部屋に通したとき千賀子に言われたとおり、必要ないものは極力置かないようにしている部屋の中には、見て面白いと思えるものはおそらくなかった。無機質な机と椅子、ノートパソコン、本棚、簡易ベッド、オーディオセット、それが部屋にあるすべてだった。
「あの……」
「電話をくれてありがとう。わざわざ家まで来てくれて本当にありがとう。うれしかった」
「……瀬川さん」
 ミハルが顔を上げた。頬が上気したようにうっすらと赤く染まり、潤んだような目が瀬川のことを見つめている。彼女は今までずっとこんな風に自分のことを見ていたのだろうか。思い出せなかった。
 瀬川が彼女のことを見るときはいつも、目に見えない壁を一枚立てていて、彼女は生身の人間ではなかった。言葉を交わしているときでさえ、一人の人間を相手にしているという感覚はなかった。その彼女が今目の前にいて、不安げに瀬川の言葉を待っている。
「だけど君の気持ちには応えられない。ごめんね」
「……え」
「君はとてもかわいいと思うけど、俺はつき合えない。どうしようか? 家まで送ろうか、それともかえって迷惑かな」
 まさか泣かないだろうなと思いながらミハルを見ると、彼女は泣いてはいなかった。ただその大きな目を何度も瞬かせて、瀬川を見つめていた。返事はなかった。
「永野さん」
「……私は」
 ミハルの声は震えていた。
「私はあなたの言うとおり、ずっと考えました。私を好きだといってくれる人たち、桂木さんや社長さん、みんなを裏切ってもいいのか……考えました。それで、答えが出たからあなたに電話をしました」
「ああ、ごめん。ひょっとしてあのことは忘れてほしいって言うつもりだった?」
「私はあなたのことが好きです。みんな捨ててもかまいません。私はあなたが好き」
 ミハルはたまりかねたように椅子から立ちあがった。瀬川のすぐ前で、身を屈めた。瀬川の手をとり、握りしめる。
「私はあなたのためならみんなを裏切ったってかまわない」
 瀬川も立ちあがり、逆に彼女の手を掴んだ。今にも泣き出しそうな顔で瀬川を見上げたミハルに言った。
「俺はそういう風に誰かを裏切れる人間を好きにならない。君は特別な人間だ。多くの人間に好かれるのは君が特別だからだ。そういう特別な才能を持つ人間が、それに感謝もせずに平気でその才能をいらないと言う。才能はただの権利ではなくて義務だ。その義務を果たさずに平気な顔でいる。自分勝手で無責任で、俺はそういうのが大嫌いだ」
 言いながら、誰に向かって言っているのだろうと思った。誰に対して本当は言いたいのかと。
 八つ当たりかと自分でもわかったからミハルに申し訳ない気持ちになった。ただ、謝るつもりはなかった。彼女とはつきあえない。だから嫌われたほうがいい。
 名刺を渡し、誘ったのは瀬川だった。自分をとるか応援してくれるファンをとるかと選択を迫ったのも。
 なのに彼が選ばせたかった答えははじめから決まっていた。彼女の意志などはじめからどうでもよかった。答えだけがはじめからあった。彼女は選び間違えた。
 この一月、彼女からの連絡をずっと気にしていた自分の気持ちに瀬川は気付いて気付かない振りをした。
「……だったら、」
 背を向けて、走り去るのを期待していた。だからミハルの手を掴む力を緩めたのに、彼女はそうしなかった。
 まっすぐな強い目を上げて、弱々しく見える彼女のどこにそれほどの意志が込められているのかと思うほどの強さのこもった声で言った。
「だったら責任をとってくれますか? 今、私のことを好きだと言ってくれるファンの人たちが数年後に、私のことなんてもう飽きた、今は別の子がいいんだってみんな、みんな離れていったとき、あなたは責任をとってくれるんですか? 私に誰もいなくなったら、あなたがそばにいてくれるんですか? ――あなたが言うように、私がどれだけ頑張っても、きっと彼らは私のことを簡単に捨てていきます。私はそれを責められない。でもそうしたら私、何もなくなってしまう。あなたをあきらめて、彼らを選んでも、私には何も残らないのに……」
 ぼろぼろと、ミハルの大きな瞳から涙が零れた。それを拭おうともせずに必死に顔を上げている姿は痛々しかった。
「……永野さん」
「私あなたのことが好き。あなたのことほとんど何も知りません。だけど好き。いつもあなたのことばかり考えているんです。ねえ、瀬川さん。あなたの名前を呼ぶだけで、私、おかしくなりそう。みんなが私を捨てたとき、あなたがそばにいてくれるのなら私はそれまで頑張ります。何年先でもいいです。私のこと好きになって……そばにいてください。お願い……」
 ミハルが瀬川の胸に顔を押し付けて、背中に両手を回した。
 瀬川はその小さな手を振り解けなかった。彼女の才能は、瀬川が妬んだ才能とは質が違うのだと認めざるを得なかった。人の感情という目に見えないものを拠り所にする才能は、ほんの短い間に形を変えてしまうほど脆い。それを彼女のほうがよく知っている。
 今目の前にいる永野ミハルという少女は、間違いなく生身の人間だった。好きになってほしいと言いながら泣いている。あの永野ミハルが。テレビの中で、眩しいスポットライトの下で笑っていた彼女が。
「先のことは約束できない」
 瀬川の言葉にミハルの身体が震え、ますます強くしがみついてきた。
 仕方なく、瀬川は彼女の髪を優しく撫でてやった。長くて柔らかい、触り心地のよい髪だった。こんなふうに誰かを抱きしめるのは何年振りかと思った。
「だから、今のことだけ。俺にもっと本当の君のことを教えてくれる? 俺も教える。君がそれでも俺のことを嫌いにならないのなら、そばにいるよ。……ただし」
 ここしばらく忙しさと面倒さに甘えてまともに人との付き合いをしていなかった。女でも男でも、付き合うのは面倒だった。面倒だと思う時点でそもそも瀬川には誰かと付き合う資格がなかった。だからはじめに言った。
「君のこと本気で好きにならないかもしれないけど」
「かまいません」
 ミハルの答えは早かった。彼女は涙で濡れた目を上げて、かまいません、ともう一度はっきりと言った。
「そばにいてくれるなら」
 どうしてよりにもよって永野ミハルとつきあう必要があるのかと自分でも不思議だった。およそ考えうる限りではもっとも面倒な部類に属する人間で、人に知られたらどんなことになるのかわからないような相手。瀬川の年ではそろそろ結婚を考えなければいけない時期でもあるのに、そんな言葉とはとうてい結びつかない。
 馬鹿だなあ。
 自分自身と彼女に対して。
 そう思った。今から十分後悔しながら後戻りもできず、短いか長いかもわからない一時に。


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あとがき / 夏の話を冬にUPするなと自分につっこみつつ。ああやばいのです。もう何もストックがないのです。途中やめにしている中編なら二つくらいあるのですが……。