風のない空 1





 好きとか嫌いとかを感じるのが頭なのか心なのか、何度となく考えたことがあるけれど答えは一度として出たことがない。
 好きになった相手の良いところ、悪いところを頭は冷静に言葉にする。――わたしはあの人の顔が好き。ぶっきらぼうだけど時々優しい声が好き。いいかげんなところは嫌い。約束にいつも遅れたり、部屋を散らかし放題にしてちっとも片付けようとしないところは嫌い。
 傍若無人に見えるのに本当はとても繊細で、持って生まれた生真面目さを隠すように派手な格好をして人より少し冷めた目で物事を見る、そういうところは必死の威嚇で自分の身を守ろうとする野生の動物を思わせた。それはあくまで彼女の勝手な思い込みで、彼自身は彼女が感じているような人間では実際はなかったとしても、彼女が好きになったのはそういう男だった。
 好きだった、そのことを覚えているのは頭。記憶。心はどこにあるのかわからない。頭よりももっと身体の真ん中にあるような気がするのだけれど、でも心臓とはたぶん違う。悲しさや嬉しさをどこで感じるのか――それは自分を突き抜けた、もっと広い場所のように思うのに、自分を突き抜けた先は現実という空気に満たされた空間で、そこには個人の感情などが紛れ込む余地はない。結局は自分の中にしか感情の生まれるところも行き着く先もないように思える。
「……中島さん?」
 彼の言葉を聞いたとき咄嗟に浮かんだ男の顔を打ち消して目を上げると、人一倍高い位置から自分を見下ろしている男の目と視線が合って、則子はどうしていいのかわからない気持ちで曖昧な笑顔を浮かべた。いっそ聞こえなかったふりをしてこの場から逃げ出そうかと思った。今も続いているコピーの音がうるさくて聞こえなかった。そう言ったら、隣で困ったような顔をして、本当は視線を逸らしたいのに必死にそれを堪えているような男はいったいなんと言うだろう。
 あまり人の目を見て話さない男だと思っていた。深入りするのを恐れるように表面上でしかつき合わない、話しているうちからその場を逃げ出したがっているような、まるで最初から腰が引けたように他人とつき合う。けれど今見ている彼の目は、とても誠実そうに思えた。逃げ腰なのは相変わらず、それでも視線だけは逸らさずに、ただ黙って則子の答えを待っている。
 たぶんここで聞こえないふりをしたら、彼はもう二度と同じ台詞は口にしないだろうと思った。彼はそれを拒絶の意味だと受け取って静かにこの場を立ち去り、これからは決して必要なこと以外話しかけてこなくなるはずだった。
(それはいや)
 そんなのは絶対に――嫌だった。則子は唇を噛んだ。彼が話しかけてくれるのは単純に嬉しかった。はじめは則子のほうから声をかけるだけだったのが、いつからか顔を合わせると彼からも挨拶をしてくれるようになり、会話を交わす時間は次第に長くなった。あからさまにそれを示すような男ではなかったが、好意を持たれているのは明らかで、そして自分が彼に好意を持っているのも、同じくらい明らかだった。
 このときのことを考えたことがなかったといえば嘘になる。それは自分の自惚れだと自嘲しながらも、そのことを考えると顔が赤くなるのがわかった。だから彼につき合ってほしいと言われて、嬉しくないはずがなかった。なのにすぐにうなずくことができなかったのは、自分の中にまだ別の人間への思いが残っていることを知っているからだった。そしておそらくは、彼の中にも。
「あの……少し、考えさせてもらってもいいですか」
 やっとのことで則子に言えたのはそれだけだった。すると川口はまるでイエスかノーの答えしか予想していなかったように面食らった顔をして、すぐに大きくうなずいた。
「ああ、そうだね、急にこんなこと言ってごめん。……急がないから、考えてみて」
 不意に彼の身体からよけいな力が抜けたように見えた。それからふと困ったように笑って「こんなところで話すことでもなかったな」と小さな声で呟いた。それは則子にというよりは自分に向かって言っているようだったから則子は答えを返さなかったが、会社のコピー室で告白というのはいかにも川口らしいと思った。場所を選ぶことなど考えもしない不器用な男。
「じゃあ」
 逃げるように背を向けたその後ろ姿に思わず声をかけそうになって、何とか思いとどまった。嬉しいのか悲しいのかわからない。自分が本当はどうしたいのかもわからない。
 それでももう随分前から、気がつくと彼の姿を目で追うようになっていた。


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あとがき / 「音のない雨」の続編です。「音のない雨」を書いたときは続編を書く気などなかったのですが、ぼーっと新しい小説を考えているときに何となく続きが書きたくなり、3ヶ月くらい経ってから書き始めました。全部で85Pですが……最初に告白します。それでも終わりませんでした。さらに続編が1本と番外編が1本あり、この番外編は実は昨日書き終わったのですが、それぞれ198P、160Pずつあって、シリーズ全部足すと540Pもあるという恐ろしい事態に……。