風のない空 10





 八月の生温い風がかすかに髪を揺らして通り過ぎていくのを不快に感じながら、中島則子は立ち止まって大きく息をついた。
 図書館を待ち合わせ場所に決めてしまったことを今更のように後悔する。駐車場は常に一杯だから車は使えない、そして駅からは徒歩で十五分もかかる場所で夏に待ち合わせをしたのが馬鹿だった。はじめからわかっていたはずなのに、冷房の効いた涼しい部屋で話しているときは今の暑さを想像できなかったのだから仕方がない。咽もと過ぎれば暑さ忘れる……そう考え、一人で笑った。暑かった。
 図書館の冷房の効いた館内に入るとようやくほっと人心地がついた。経費節減なのか職員の冷え性予防なのか、こうした公共機関の冷房はあまりよく効いていないことが多いが、暑い中を歩いてきた人間にとってはそれでもずいぶんと違う。発明した人に感謝してもしたりないような便利なものを嫌いだという和はかわいそうだとふと則子は思った。冷房のなかった時代よりきっと気温は上がっているはずなのに。
 少し館内を見回すと、社会人用の読書コーナーで本を読んでいる男の後ろ姿がすぐに視界に飛び込んできた。
「川口さん」
 周囲の邪魔にならないように小声で声をかけたけれど、読書に熱中しているらしい相手は気づかなかった。則子が見てもわからないコンピュータの本を食い入るように見つめている。最近コンタクトをつけても小さい字は見えづらい、とぼやいていたからそのせいもあるのかもしれない。
「川口さん」
 その姿を眺めているのも悪くはないと思った。でもじっとその場に立ち尽くしているのも変に思われるだろうから、則子はもう一度、今度は少しだけ大きな声で呼びかけた。次の瞬間ひどく驚いたように川口が顔を上げて、すぐに「ああ」と照れ隠しのように笑った。本当に熱中して読んでいたらしい。
「ごめん。びっくりした」
「いつも思うけど、川口さんの集中力ってすごいよね」
「……ごめん」
 則子の言葉を皮肉と受け取ったらしく、川口は再び頭を下げた。誉め言葉のつもりだったのに、と則子は思ったがあえて口にはしなかった。
 最近気づいたことだが、川口実という男は誉められることに慣れていないらしい。和のように人の賞賛を当然のような顔で受け、あまつさえ鬱陶しいと思う人間がいる一方で、川口のようにそうしたことにひどく免疫のない人間がいる。コンピュータに詳しくてすごい、大学院まで行ったなんてすごい、優しい、そうしたことを言うと彼は決まって困ったような顔をする。口癖は「そんなことないよ」だ。
(変な人)
 だけど優しい。彼は否定するけれど、人の気持ちに対して神経質なほど敏感だから人と関わることに臆病なのだ。誰かに思いが向かうと自分のことをすべて忘れてしまうくらいのめりこむ人。彼は自分というものをほとんど意識しないから、人を羨むこともしない。相手のよいところをただ素直に認めて賞賛する。
 美紀子が彼のどういうところを好きになったのかわかると思った。彼より他の人がよくなった理由はきっと彼女にしかわからない。則子はその彼と会ったことがないし、会ってもきっとわからない。美紀子と自分は違うから。
「違うところ行く?」
 立ち上がりかけた川口がわずかに名残惜しそうに本に目をやるのを見て思わず苦笑が漏れた。
「もうちょっとここで涼んでいこうよ。私もちょっと読みたい本あるし」
「うん」
 一見無表情に見えるけれど、彼は本当はわかりやすい表情をする人間だった。このときもほっとしたのが明らかにわかる顔と声に則子はふうっと優しい気持ちになった。和といてこんな気持ちになったことはない。静かで穏やかで、ひどく優しい気持ち。
 一月ほど前、久しぶりに会った以前の恋人は驚くほど変わっていなかった。髪の色や服装はたしかに社会人らしいものになっていたけれど、それでも彼の喋り方や視線の合わせ方、興味があるのかないのかわからないような曖昧な態度といった本質的なものは何一つ変わってはいなかった。
 彼を見たとき、愛しさよりも懐かしさのほうがこみ上げた自分の心に驚いた。もっと心が騒ぐかと思った。しかし自分の中で、彼はもう一番大切な人ではなくなっていた。頭で気づくより先に、どこかでとっくに結論は出ていたのだった。
 川口の肩にちょっとだけ触れて、本を探すために則子はその場を離れた。何でもいい。早く何か見つけて彼のそばにいたい。何も話をしなくても、ただそばにいるだけでいい。


 気がつくといつのまにか図書館に来たときから二時間以上もたっていた。一冊読み終えた川口はようやく周囲に意識を向けてはじめてそのことに気がついた。すぐに則子に謝ろうと隣を見ると、彼女はいつのまにか机にうつ伏せて眠っていた。
「………」
 起こせなくて、かといって別の本を読み始めるとまた何時間も集中してしまいそうだったので、川口は黙って同じ本をまた開いた。ふと顔に冷房の風が吹きつけてきてそのひんやりとした冷たさに思わず目を細めて首を竦める。
 窓の外には晴れた空が広がっている、その暑さを少しだけ懐かしいと思った。


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あとがき / いやあようやく終わりましたね〜。妙に長かったような気がします。まあ本当は最初に告白した通り終わっていないのですが、続きがやたら長すぎるのでUPするかどうかはわかりません……(でも他にUPできるものがないからするかも)