風のない空 2





 六月に入ってから気温は急激に上がり、社内でも扇子や手近な書類でぱたぱたと扇いでは「暑い、暑い」を連発する恨みがましい姿が日常的に見られるようになったころ、ようやく今年初めての冷房が入り、同僚たちはみなこれで原始的な暑さともおさらばだとばかりに晴れ晴れとした顔で喜び合った。社内は今まで蒸し風呂状態だったのが嘘のように一転して冷え冷えと冷房が効きわたり、女性社員が膝にショールをかけている姿を見るといったい今は何月なんだと訝しくなるほどだった。
「といってもなあ、事務やってる連中はいいが、俺らにはあんまり関係ないからな。会社に帰ってやれデスクワークでもするかと思ったときには切れてやがるし。俺も夏だけは事務がよかったよ」
 夏バテでもしているのか、どこか元気のない声で杉田がぼやくのに和は肯定も否定もせずにただ肩をすくめた。それを見咎めて杉田は面白くなさそうに眉を寄せる。
「お前暑くないの? 涼しげな面しやがって、実は南国生まれとか?」
「僕だって暑いですよ。でもクーラーはあまり好きじゃないんで、事務も嫌だと思って」
「クーラー嫌い? いまどき珍しい奴だな。じゃあ家では扇風機だけ?」
「まあ……扇風機もあんまり好きじゃないんで」
「はあ? お前よく耐えられるな。夏には強いほうなのか」
「いえ、違います。どちらかというと人より弱いです。本当は口を開くのも億劫なくらいで」
 言ってしまった後で、これでは今している会話も実は不本意なのだという意味に取られるかと思ったが、杉田は気にしなかったらしく、「それは重症だぞ」と笑った。
「俺と同じじゃないか。二人そろってバテてたら客はさぞかし嫌だろうなあ」
 杉田は三十代に入ったばかりの陽気な男で、和は彼について営業を学んでいる最中だった。同期入社がわずか五人という、中高生向けの学習教材を作っている小さな会社で、そのうち営業課に配属されたのは和一人だけだった。たった五人のためには研修らしい研修もなく、直接配属先で仕事を学べということのようだったので、同期といっても四月に一度飲みにいっただけでさほど親しい人間はいない。会えば挨拶くらいはするが、ただそれだけで、自然同じ課にいる人間のほうが近い存在になる。
「今日は僕が運転しますよ」
 いつものように杉田が車のキーを取ろうとするのを遮って手を伸ばすと、バシッとその手を弾かれた。何をするんだとの思いを込めて杉田を見ると、彼はすばやくキーを確保して手のひらに握りこんだ。
「道もろくに知らないくせに何言ってんだ」
「でも普通は新人が運転するでしょう」
「気にするな、新人。第一お前の運転だと俺の寿命が縮む。最悪初心者マークがとれてから俺を助手席に乗せろ」
 それだけ言うとさっさと駐車場に向けて歩き出してしまう。反論できなかった和は渋々そのあとに従ったが、大学在学中、できれば入ったばかりの頃に免許を取っておかなかったことが今更のように悔やまれた。仕事には運転くらいできないとね、と面接の場で言われ、慌てて教習所に通い始めたのが去年の十二月。もともと運転のセンスがなかったのか補習を人より多く受けて卒業したのが二月。初心者マーク卒業にはあと八ヶ月もある。
 白のミニキャブの運転席に乗り込むと、杉田は窓を全開にして車を発進させた。彼の運転は滑らかだと和はいつも感心する。他の車が無茶な操作をしたときはひどい悪態をつくが、その分彼の運転は丁寧だった。無理な割り込みも、よほど前の車が遅いのでない限り追い越しもしない。見かけに寄らない紳士的な運転はどこか、兄を思い出させるところがあった。
「そういや、もうすぐ二十五日か。ボーナスが出るな」
 ふと杉田が思い出したように呟いた。彼は和のほうをちらりと見ると「長谷川には初ボーナスだな。うれしいだろう」と笑った。
「使い道はもう決めてあるのか」
「家賃の前払いとか……」
「あほか、やめろ。初ボーナスだぞ、もっと建設的なことに使えよ」
「建設的なこと? ……貯金とか?」
「ジジィかお前は。若いうちから貯金なんかしなくていい。男ならぱーっと使え。たとえば日頃世話になってる先輩に一杯奢るとか」
「ああ」
 なるほどたしかに建設的だ。杉田にはこれからもいろいろ世話になるだろうし、機嫌を取っていて悪いことはどこにもない。そう考えてうなずくと、杉田は呆れたような顔で和を見て、すぐに視線を前方に戻した。
「お前、わかれよ冗談くらい」
「いや、奢りますよ。杉田さんにはいつも本当にお世話になってるし」
「んじゃ別の機会に奢れ。あのなあ、初めてのボーナスってのは自分が今まで世話になった相手のために使うもんだ。といっても俺みたいな昨日今日の付き合いの奴じゃなくて、もっとずっと長く世話になってる人間だよ。わかるだろ」
 杉田はそれ以上その会話を続けようとはせずに、「ったく、朝から照るなあ」とぼやいて頭をかいた。和は窓の外に視線を流し、見るともなしに移り変わっていく景色を眺めた。何軒も連なる家々のそれぞれに人が暮らし、生きているのだと思うことは奇妙な感じがした。顔も知らない人間が、自分とはまったく無関係にそれぞれの生活をしているのだという当たり前の現実が、なぜだか不思議なことのように思えて仕方がなかった。 杉田の言葉に引きずられるようにして、和は家族のことを考えた。両親と兄にはこちらの住所は教えたものの電話番号は言わなかったから四月以来音信不通だ。心配しているかもしれない、していないかもしれない。会いたがっているかもしれない、別にどうでもいいと思っているかもしれない。
(でも俺は会いたい)
 名古屋に来てもうじき三ヶ月、もっと長い間離れていたことだってあるはずなのに、今までのどんなときよりも家族に会いたいと思っている自分を彼は正直に認めた。ひとりきりで今までと遠く離れた場所で暮らし始めたせいかもしれない。
 ――二十五にもなってホームシックか。
 自嘲して杉田には知られないように少し笑う。それでも会いたいと思った。 赤信号で車が停止すると、吹き込んでいた風も止んで、車内の蒸し暑さが増した。
「ほんとにお前、こっちのがいい?」
 うんざりした声で尋ねられて初めて、和は杉田が冷房を入れずにいてくれたことに気がついた。


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あとがき / 1とまったくつながっていない2……。名古屋弁で喋らないのかというつっこみは勘弁してください。ぐふう。