六月も最後の週に入ると昼間の気温は三十度を超えるようになり、去年に続いて今年も猛暑になりそうだというのが大方の新聞やテレビニュースでの予想のようだった。 暑くなりそうな日には、朝から肌がじっとりと汗をかいているからたいていわかる。その日もそうで、いっこうに気温の下がらなかった夜のせいで寝不足気味な目を時計のアラームで何とかこじ開け、則子はシャワーを浴びて服を着替えた。夏の間は朝食は食べない。トマトジュースを一杯だけ飲んで終わり。それは一人暮らしを始めてからの決まりごとのように、毎年ずっと変わらない。 彼女がアルバイトをしている会社はアパートから車で三十分弱の距離にある。その中には渋滞待ちしている時間も大分含まれるが、時間がかかればそれだけ遠いように感じる。運転はあまり好きではないからよけいだった。 社員用の駐車場は会社から少し離れた場所にあって、そこに車を駐車して歩く、そのわずかな距離すらも夏には苦痛だった。色の白い彼女の肌は日に焼けると黒くなるのではなく赤くなり、少し焼けただけでもヒリヒリと痛む。できることなら日の下にいる時間はなるべく短くしたかった。 「中島さん、おはよう」 足早に会社へ向かう則子の背中に呼びかける声があった。振り返ると同じ課の藤井という男で、彼はまるで暑さなど感じていないかのような涼しげな笑顔で手を上げた。 「おはようございます、今日は遅いんですね」 「ちょっと寝坊してさ。中島さんはいつもこの時間? 混んでるでしょ。俺は待つのが嫌いだからいつも早く来るんだよ」 薄い青のシャツにグレーのスラックス。いつものように少しの歪みもなく締められたネクタイはスラックスよりも少し濃いグレー。腰の位置が高いせいか、それほど背が高いわけでもないのに足が長く見える。この夏の暑さの中でも、彼の背筋はいつもきれいに伸びていた。 彼に会うと、則子はいつもそうした外見的なことが気になって仕方がなかった。恋愛対象として興味があるわけではない。ただあまりにも出来過ぎているように思えるから無意識に彼の欠点を探そうとしているのかもしれない。自分でもその感情はいまだによく理解できなかった。彼に欠点を見つけていったい何が嬉しいのだろう。 「あのさ、こういうこと聞くのはプライバシーの侵害だと思うし、気に触ったら答えなくていいんだけど」 藤井が彼には珍しくまわりくどい言い方をした。興味を引かれて何ですか、と尋ねると、彼は則子と並んで歩きながら、しかし彼女のほうは見ずに前を向いたままで続けた。 「中島さん川口に何か言った? いや、別にあいつが何か言ってきたわけじゃないんだけど、何となく先週くらいから元気がないというか、落ち着かないように見える。無表情に見えてけっこう顔に出る奴だからわかるんだ。それで時々、本当に時々だけど中島さんのほうを見てる。だからひょっとして君なら何か知ってるかと思って」 思いがけない言葉に則子は面食らってすぐにはどういう反応をしていいのかわからなかった。まさか藤井の口からこんなことを尋ねられるとは思わなかったし、川口が自分のことを見ているというのにも全然気がつかなかった。彼につき合ってほしいと言われたのは先週の水曜日。もうあれから六日も過ぎたのに返事をしていないことを気にしているのだろうか。 「誤解しないでほしいけど、中島さんを責めてるわけじゃないんだ。そういうのは当人同士の問題だし、だから君があいつをふったんだとしても仕方ないんだけど、もしそうなら教えてほしいと思って。川口は自分からは何も言わないから慰めようもなくてさ」 彼はまるで、則子が川口をふったと決めつけているようだった。そんなことしていないとすぐに言い返したかったが、返事をしていない今の状況では言える立場ではなかった。むしろ保留にして引き伸ばしている分だけより悪いのかもしれない。俯いて黙ったままでいると、藤井もそれ以上何も言おうとはしなかった。 会社の正面玄関の前まで来たところで則子は立ち止まった。入ってしまえば中には会社の人間の目がある。二人で八階の職場まで一緒に行くところを誰かに見られるのは嫌だった。人気者の彼といて他の女の子たちにいろいろ言われるのも嫌だし、川口に見られるのはもっと嫌だ。それに何より、職場につく前に彼に聞いておきたい事があった。 「中島さん?」 「あの、ちょっとだけいいですか」 会社の裏の、こんな朝にはほとんど誰も通らない場所を選んで藤井を誘った。彼は文句を言うでもなく黙ってついてきて、則子が立ち止まると困惑するように彼女を見た。 「藤井さんは、川口さんの前の奥さんに、会われたことありますか?」 「え」 「どんな人なんですか?」 自分がまだ和のことを思い切れないように、川口もまた別れた相手のことを思っているのではないかと考えるのはいい気分ではなかった。決してありえないことではないし、むしろ一度結婚までした相手を簡単に忘れられるはずがない。仕方がないことだと、そうわかっていてもやはり、彼女のことが気になった。 「気になる? ……って、なるよな、当たり前か。でも俺もそんなによく知ってるわけじゃないんだ。何回か家に行ったときに会っただけで。そうだね、美人だったよ。しっかりしてる感じだった。同級生だったって聞いたけど、二人でいると夫婦っていうより姉と弟みたいだったな。すごく仲が良さそうに見えたから、別れたって聞いたときはびっくりしたよ。信じられなかった」 藤井は正直だったが、無神経だった。その答えを聞いた瞬間に則子はもう尋ねたことを後悔した。 「彼女の気持ちをわかってやれなかった自分が悪いんだって川口は言ってたけど、かなりショックを受けてるみたいだった。はっきり言わなかったけど美紀子さんのほうから切り出したみたいだな。まあ自分から言い出して落ち込む奴もいないだろうけど」 「……わかりました」 もうこれ以上聞きたくはなかった。 (わたしはずるい) 自分は和のことをまだ忘れられないのに、川口にだけ彼女のことを忘れることを求めている。 「中島さん」 何か言いかけた藤井を遮って則子は笑った。彼のことが苦手だ。はっきりそうわかった。彼のように、何でもできて、他人のことを気にかけていられるくらいいつも余裕がある人間には、きっとできない人間の気持ちなどわからない。汚い自分勝手な気持ちなど捨ててしまいたいのにそうできない。彼を見ていると否応なく劣等感を感じさせられる。 (和くんもこんな気持ちだったのかな) 兄に対して和が抱いていた気持ちは今の自分が感じているものに近いのだろうかとふと思った。けれどあの時はまだわからなかった。もしも別れる前にわかっていたら、今もまだつき合っていられたのだろうか。彼といたら、こんなにも他の男のことで迷ったりしなかったのだろうか。 (会いたい) 彼に会えば、今の自分の気持ちに決着がつくのではないかと縋るように思った。 |
| あとがき / ちなみにこれは10まで続きます。ああ、長い……。 |