風のない空 4





 今の家が自分ひとりで住むには大きすぎるという事実は彼女が出て行ったとき以来ずっと変わらない。
 前屈みになった姿勢でリビングのソファに腰を下ろした川口は、所在無さげに両手の指を組み合わせ、ひとりきりで音もなく静まり返った室内を黙って見回した。奮発して買った、しかし今はほとんど見ることもなくなった二十九インチのテレビ。その上には新婚旅行で行ったハワイの青い空と海の写真が飾ってある。美紀子は青が好きだった。晴れ渡った秋の空と、陸地から遠く離れた海の青が一番好きだと一度だけ、笑いながら教えてくれたことがある。川口の好きな色も尋ねて彼が答えに窮すると、実は緑が似合うわよと決めつけた。
(服とかじゃなくて、雰囲気がね。緑とか黄色とか、そういう感じ)
 そんな些細な一言をいまだに鮮やかに思い出せるのは自分でも意外なことだった。
 美紀子と別れたとき、怒りとも悲しみともつかない激情に流されて彼女を思い出すようなものはすべて捨ててしまった。彼女に選んでもらった服、一緒にうつした写真。けれどテレビの上の写真は処分しなかった。服や別の写真を捨てているうちにいつの間にか、ただの美しい風景まで捨てるだけの怒りはどこかへ消えてなくなっていた。 今ではその写真を意識することも少なくなり、時折、何かの拍子に存在を思い出すことがあるだけだ。
 やがて決心して川口は立ち上がり、電話の横に置いてあるアドレス帳を手にとった。別れたあとしばらくして美紀子は電話で自分の連絡先を知らせてきた。それは彼女なりの誠意なのかもしれなかったが、そのときの川口にしてみればいっそ一切姿を見せず、声も聞かせずにいてくれたほうがよほどよかった。彼女のことを思い出すのも、自分のどこがいけなかったのか考えることも、もうしたくはなかった。
 受話器を取って大きく息を吸い込む。自分からかけることがあるなんて思わなかった。彼女のことは、今は以前よりずっと冷静に考えられるようになったけれど、それでもその声を聞くのはためらわれた。彼女が幸せならいいと思う。しかし自分と別れたことで彼女がその幸せを手に入れたのだと思うことはつらかった。その幸せを与えてあげられなかった自分にも、一人で幸せを見つけた彼女にもやりきれない思いを感じる。結局二人で過ごした六年間は何だったのかと、そう思わずにいられないのが何より虚しかった。
「……もしもし?」
 ツーコールで電話先に出たのが美紀子の声だとすぐにわかった。その声を聞いたとたんに心拍数が増したような気がする。
 彼女のことを今でも昔のように愛しているとは思わないけれど、まるでそう錯覚するようなこの気持ちはどう表現したらいいのかわからない。一度はお互いのことを誰より大切に思っていたというそのことが、気持ちが変わった後でもまだ重要な事実であるかのような、そんな意味のない思い込みに嫌気がする。こんなことをまだ考えているから駄目なんだと思い、気持ちを切り替えるようにことさら大きな声を出した。
「あの、川口です。わかる? いきなり電話してごめん。実は君にお願いがあって」
 頭の中で練習した台詞を口にする。美紀子の声は、電話を通すと少し違ったように聞こえる。自分からの電話に嫌そうな、あるいは他人行儀な反応を返されるのが怖くて、川口は早口で用件を切り出した。
「会ってほしい人がいるんだ。いや、女の人だよ。……うん。まだ、違う。でもつき合いたいと思ってる。彼女が君のこと気にしてるみたいだから、いっそ会ってもらったほうがいいのかもしれないと思って……え? ああ、そう、同じ会社の。――無理な頼みだって思うけど、もしよかったら会ってもらえないか」
 今日会社で藤井からそのことを聞いたときは、正直言って驚いた。則子が美紀子のことを気にしないはずがないのに、そんなことを欠片も考えなかった自分の配慮のなさにショックを受け、同時に藤井の「口で何を説明するより直接会って話したほうがいいんじゃないか」という言葉に困惑した。二度と顔を見ることも声を聞くこともないと思っていたのに、今になってどうやって美紀子に連絡をすればいいのだろう。その場では川口も藤井の言葉に同意したが、頭で理解することと実際の感情とはまるで違う。
 受話器を手にしたまま、川口は壁にもたれかかって俯いた。美紀子の声は彼と別れる前と何も変わらないように聞こえた。安心したようなそうでないような、煮え切らない気持ちが胸の中にある。それはたしかに怒りでも憎しみでもないのだけれど、純粋な懐かしさや愛情とも異なっている。
 美紀子は則子に会うことを承諾してくれた。そのことにほっとして、礼の言葉もそこそこに川口は逃げるように受話器を置いた。会うときは二人がいいと彼女は言った。だから川口は美紀子に会わなくていい。かつて一番近くにいた人間が、今はもう手の届かないところにいるのだということを自分の目で確認しなくてもいい。
 軽く一度だけ、壁に拳を叩きつけた。
 中島則子のことが好きだ。彼女の笑顔を見るとほっとして、そばにいたいと思う。
 けれど美紀子のことも好きだった。他の誰より好きだったことがある。
 それだけはどうしても変わらないことだった。


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あとがき / 現実問題として別れた相手を今の恋人に会わせようと思う人はいるのでしょうか。たぶんいないような気が……。いたらある意味チャレンジャーですな。