彼女はきれいな女の人だった。 「中島則子さん?」 やわらかい栗色の長い髪を流れるままにして、ひとり窓の外を眺めていたようだった彼女は則子がすぐそばに立ったことに気がつくと、驚いた様子もなく顔を上げ、まっすぐに則子のほうを見た。 「友野美紀子です。はじめまして」 「……はじめまして」 自分の口から出た言葉は情けないほどに上ずっていた。則子は恥ずかしさで顔が赤くなり、俯いた。 「どうぞ」 席を勧められて機械のようにぎごちなく彼女の向かい側に腰かける。待ち合わせ場所は駅前の小さな喫茶店。時間は二時。約束までまだ十分近くあるというのに先に来て待っていたのは彼女のほうだった。無理をして会ってもらうのは自分なのだから彼女より早く来ようと思っていたのに、その思惑は見事に外れた。 川口から聞いた美紀子の特徴は、長い髪と(もっとも髪型は変えているかもしれないからと彼は自信がなさそうだった)女性にしては背の高いほうであるということ、その二つだけだったから、正直彼女が来てもわかるかどうか則子は不安だった。けれど実際来てみればひとりで喫茶店にいる女性など限られているし、そのうち川口の言った特徴に当てはまる人間といったら一人しかいなかった。 店に入ってその姿を視界に認めた瞬間から、きれいな人だということはわかっていた。はっきりした目鼻立ち。流れるような長い髪。身体にぴったりとした薄いブルーのブラウスは彼女にとてもよく似合っていて、彼女を働いている人間らしく知的に見せていた。川口と同い年、つまり自分より一つ上だと聞いたけれど、たった一年違うだけとは思えないほど落ち着いた大人の女に見える。――そう考えて、則子は自分の思考の子供っぽさに赤面した。先月でもう二十七にもなったというのに、いつまで自分は大人じゃないつもりでいるのだろう。 「今日はあの、無理を言ってすみませんでした。お忙しいのに、本当に……」 「いいえ。私も会いたかったからいいのよ。実が――あ、ごめんなさい、川口くんが選んだ人を見てみたかったから。値踏みするように聞こえたらごめんなさいね。そういうつもりじゃないのよ」 美紀子が簡単に漏らした値踏みという言葉に則子はどきりとした。川口と結婚していた女性に会いたかった。二人の別れた理由を訊いて、自分たちが上手くやっていけるかどうかを確認したかった。そして知りたかった。彼女が、川口がいつまでも未練を残すような女なのかどうかを。 「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」 ウエイターが水を二人分運んできたところを見ると、美紀子がここへ来たのは則子とほとんど変わらなかったのかもしれない。 美紀子はメニューを見て少し考え、「私はストロベリーパフェ。中島さんは?」と問いかけてきた。 「わたしはオレンジジュースを」 正直言うと美紀子の注文は意外だった。そういうものが彼女には似合わないような気がしたからだ。けれど彼女は平然としてウエイターと注文の確認をし、彼が立ち去ると則子を見てわずかにはにかむように笑った。 「あのね、練習してるのよ」 「練習?」 「パフェを食べる練習」 意味がよくわからなかった。けれど重ねて問いかけるのも失礼な気がして則子が黙り込むと、美紀子はいたずらっぽく小さく笑っただけだった。唇の、きっと何年たっても自分には似合わないようなきれいな赤い口紅に目が惹かれる。テーブルの上に置かれた左手のほっそりとした指先には薄いピンク色のマニキュア。その薬指に指輪がないことを思わず確認し……則子はわずかに自己嫌悪に陥った。 「ねえ、私に聞きたいことがあるのなら何でも聞いてちょうだいね。失礼かもしれないとかそういうこと考えなくていいから。中島さんが川口君のことを好きになってくれて、そのために必要なら、私何でも答えるわ」 顔のきれいな人は、どうして声まできれいなんだろうと不思議に思った。見つめられると変な気持ちになってどうしていいかわからなくなる。和も顔立ちの整った男だったけれど、女性の美しさは男性のものとはやはり決定的に異なっている。かすかな香水の匂いだとか、睫毛や唇、爪の先までさまざまに手をかけて整えられた身体のすべてから、包み込むようなやわらかさと温もりと優しさを感じる。 「中島さん?」 「ご……めんなさい。何を聞いたらいいのかわからなくなって。会うことしか考えてなかったから……」 「じゃあゆっくり考えて。でも、そうね、よかったら私から質問してもいい?」 則子はうなずいた。拒否する理由はなかった。 「川口君のことが好き?」 美紀子の質問は端的で、それゆえに一番答えにくい種類のものだった。好きとか嫌いとか、頭で考えてわかることならよかった。けれどそうではないから答えがすぐに出てこない。 彼女の前で、見え透いた嘘はつきたくなかった。 「……好き、です。でも一番かどうかはわからないんです。これからずっと好きでいられるかどうかも」 「それは誰にもわからないわ」 美紀子の声は優しかった。 「先のことなんて誰にもわからない。信じることができるだけ。私もね、あの人と結婚したとき信じたの。決意したって言ったほうが正しいかもしれない。この人のことをずっと好きでいよう、大切にしようって思った。でも結局は別れることになってしまった。信じるとか、決意とかってそんなものよ。だから、それはわからないままでいいと思うわ」 「一番かどうかわからなくても? ただ川口さんが優しいから甘えてるだけかもしれない。本当は他の人のことが好きなのに、上手くいかないから、川口さんを利用してるだけかもしれない」 「好きな人がいるの?」 責めるような響きはその声にはなかった。なのに責められているような気がして、それはきっと彼女ではなく自分自身のなかにある疚しさのせいなのだとわかっても、則子は彼女の目をまともに見ることができなかった。 川口のことが好きなのかどうか。何度も自分に問いかけて、答えはいつも曖昧なまま結論は出なかった。 好きなのは間違いないのに、一番にと断言することができない。そしてそうでなければ好きだと胸を張って言う資格はない。 「前に、付き合っていた人がいるんです」 「その人のことが今も好き?」 「わかりません。すごく好きだったけど……でも、よりを戻したいとかいうんじゃなくて、ただ、好きだったことが忘れられなくて……」 「私も川口君がとても好きだったわ。そのことは一生忘れないわ」 その言葉に思わず顔を上げた則子が何かを言うより早く、先ほどと同じウエイターがオレンジジュースとストロベリーパフェをもって二人の席にやって来た。「お待たせいたしました」丁寧な言葉と動作でテーブルの上に注文のものと伝票を置き、一礼して彼が去っていくまで二人は口をきかなかった。 「だったらどうして……」 「別れたか? 理由は彼から聞いてる?」 「お互いに気持ちが冷めてきたからだって」 「そう言ったけど、嘘よ。本当は私に好きな人ができたの。私が彼を裏切ったのよ」 パフェを一口口にして、何回食べても食べづらいのよね、これ、と独り言のように呟いて美紀子が顔をしかめた。クリームのついた唇を舐める。 「好きな人……?」 則子は呆然とした。そんな話は聞いていない。 裏切ったとか、そんな物騒な言葉を持ち出すわりに美紀子は先ほどまでとまったく変わらない平然とした顔をしてパフェと格闘している。実際に見てもやはり彼女にあまり似合っていなかった。 「だってそんな、川口さんはそんなこと一言も……」 「あの人は知らないのよ。私が言わなかったから」 「どうして? 彼を騙したんですか?」 「まあ、そうね。別に離婚したとき浮気してたわけじゃないんだけど、嘘をついたことに違いはないわね」 「どうして……?」 好きな人ができたと言って、川口が怒ったり彼女を責めたりするのが怖かったのだろうか。それとも素直に離婚に応じてくれなくなることが不安だったのか。 美紀子をじっと見つめると、彼女は少し困ったように微笑んで、「きっと私がずるいからね」と言った。それ以上の言葉は聞かれなかった。 「そんなの……ひどい」 ほとんど無意識に則子は呟いた。一瞬目の前に本人がいることを忘れてしまっていて、気がついてはっとしたときにはもう手遅れで、美紀子はそうねと小さくうなずいた。 「ひどいわね。でも、結果的にはよかったと思わない? 別の人を好きになった私が自分の気持ちに嘘をついて彼と暮らしていくより、中島さんみたいなかわいい彼女ができたほうが彼にとって幸せだと思わない?」 「そんなこと思いません」 答える声は、意思に反して硬く尖ったものだった。 (何でだろう、泣きたい) 彼女の言葉は正論だろうか? 気持ちは裏切っているのに形だけ残していても仕方がない――それはたしかにそのとおりだと思うけれど、気持ちなんて人には見えないのだから、相手がそのことに気づかなければ形だけでも十分意味があるのではないか。どちらかが愛し続ける限りは一緒に暮らす。それがお互いに好きになって結婚した者同士の最低限のルールなのではないだろうか。 それとも結婚も恋愛も同じで、片方の気持ちが冷めたら相手の気持ちなどまったく関係なくなるものなのか。 「ごめんなさい」 美紀子が謝った。謝ってほしいわけじゃない。けれど俯いた彼女の顔を見ると、それ以上何も言えなくなった。彼女を責めたり傷つけたりする言葉は一つも言えなくなった。 「私ね、こんな気持ち初めてなの。誰かのことを考えるとおかしくなる気持ち。泣きたくなるのよ。鼻がツーンとするの。声が聞きたい、顔が見たいって思って、我慢できなくなるの。嫌だなあって思うのよ。どこがそんなにいいのっていつも思うの。でも駄目なのよ。あの人じゃなきゃ駄目」 かすかに微笑を浮かべた彼女の顔が泣いているように則子には見えた。どう声をかけたらいいのかわからずに則子はおろおろした。 「あの……」 「あのね、私の言う筋合いじゃないのわかってるけど、川口君はいい人よ。きっとあなたを大切にしてくれる。だから迷ってるなら、彼を選んであげて。私は中島さんが前に好きだった人を知らないけど、結婚するなら彼が一番だって今も思ってる。厚かましくてごめんなさいね。一つの意見として聞いておいて」 彼女を好きになった川口の気持ちがわかると思った。美人で、しっかりしていて、知的で、でも本当は情熱的で、とても自分の気持ちに正直な人。嘘をつけない不器用な川口のまっすぐさに、それはある意味でとてもよく似ている。 (私はこんなにも人を好きになったことがない) 泣きそうな顔で呟かれた彼女の気持ちを理解できるほど、誰かのことを好きになったことがない。 (だからこんなに、迷う……) |
| あとがき / 誕生日をいつに設定して書いたのか忘れたので、いつか矛盾が生じるような気がしてなりません……。あわわ。 |