風のない空 7





 六月最後の土曜日は全国的に朝から晴れ渡り、気持ちが悪いほどの暑さは長時間新幹線に乗って疲れきった身体にはほとんど拷問のようなものだった。
 うんざりする。夏なんて北極圏にでも飛んでいってしまえと心の中で呟いた長谷川和は、バス停から家までのわずかな距離を歩くのでもう憔悴しきってしまっていた。こんなことなら家に連絡して迎えに来てもらえばよかったと思ったが後の祭り。もともと夏に弱い上に面倒なことが嫌いで、スポーツや身体を鍛えることからは無縁に生きてきたから決定的に体力がない。営業という部署にいる以上このままでいけないのはわかっているが、気力も体力もゼロに近づく夏に身体を鍛えるなど考えるだけで眩暈がする。
 立ち止まり、ため息をついてぐしゃぐしゃと髪をかき回した。わずか数分の間に頭は火がつかないのが不思議なくらい熱くなっている。いきなり発火して、焼け死んだら、死因は太陽のせいになるのか? と一瞬後に自分でも落ち込むほどくだらないことを考えた後で、彼はまた歩き始めた。とりあえず前に進まないことにはずっと暑いままだ。 家に続く最後の角を曲がったところで、これで家族が外出していなかったりしたら正真正銘の馬鹿だな、とふと思った彼の不安は、幸い杞憂に終わった。
 最初に目に入ったのはこの暑さの中ガレージで熱心に洗車をしている兄の姿だった。白のステップワゴンはたしか今年に入ってから新しく買い換えられたもので、その前は紺色のスバルだった。いきなり軽四からミニバンに変えた理由を尋ねたときの彼の答えは、「大きいほうが飲み会のときみんなを乗せられて便利だから」という甚だ面白くないもので、和は呆れてただ肩をすくめたのを覚えている。
 家の前に立った和が声をかけるのより、兄が気づいて彼に笑いかけるほうが早かった。
「どうしたんだ。連絡してくれたら迎えに行ったのに」
 ほとんど驚いた素振りもなくそう言ってごく自然に笑った昭は、水道の蛇口を捻って水を止めると、和の姿をあらためて見てようやく気づいたような顔をした。
「髪を染めたのか?」
「まぁね。学生じゃなし別に茶髪禁止ってわけでもないけど、ちょっと心機一転と思ってさ」
 四月一日の入社式の前日に、髪を短く切って色も黒く染めた。はじめは鏡を見るたび違和感を感じていたその姿にももう慣れた。
「ピアスも」
 ピアス穴のほとんど塞がりかけた耳たぶにかすかに触れるように手を伸ばし、昭は「社会人らしくなったな」とその言葉とは裏腹に子供に向かって言うような優しげな声で呟いた。
「兄貴は変わってないよ」
「いまさらどう変われるっていうんだ」
「元気そうで何よりってこと」
 言いながら眺めたステップワゴンはさすがに洗ったばかりらしく太陽の光を反射して輝いている。和は名古屋に置いてきた自分の車を思い出し、最近全然洗ってやっていないこともついでのように思い出した。
 そういえば近頃妙に硝子が見えづらくなったのはそのせいかと、ぼんやり考えているとそれをどう勘違いしたのか昭が、「よかったらドライブでも行くか?」と言い出した。
「母さんたちは出かけてるんだ。俺は留守番。昼はまだなんだろう? 嫌じゃなければ外で食おう」
「洗車はもういいの」
「ああ。ちょうど終わったとこ。着替えて戸締りしてくるからちょっと待ってろ。窓全部開けといて」
 土産にでももらったのか、何かの動物らしきキーホルダーがついたキーを受け取って和は言われたとおりにした。兄の車に乗るのは久しぶりだ。昔は彼が大学の休みにこちらへ帰ってくるたびにせがんで乗せてもらっていた。小さなその車は決してかっこいいわけでも早いわけでもなかったが、運転する兄の姿を見るのが好きだった。
「待たせたな。何が食いたい?」
 夏だというのに長袖のシャツに着替えてきた昭は運転席に乗り込みながら尋ねた。
「夏バテ中だから軽いもんでいいや。脂っこくなくて量が少ないもの」
「そんなことばかり言ってるからよけい夏バテするんだぞ。残してもいいからちゃんとしたものを食べなさい」
「兄貴ちょっと髪伸びた?」
 唐突な話題転換に昭は呆れたように和を見て、やがてあきらめたのか小さく苦笑いし、指先で自分の前髪をつまんでみせた。
「最近散髪に行ってないからな。そのうち切るよ」
「今のままでもいいのに。似合ってるよ」
「はいはい。とりあえず駅前に出よう。店は向こうで決めればいい」
 アクセルを踏み込んで昭は車を発進させた。和はシートに頭をもたせかけ、眼を閉じて窓から吹き込んでくる風の涼しさに息をつく。和のクーラー嫌いを知っているから兄は和と一緒にいるときは気を遣ってくれる。外出するとこの時期どうしても店内はクーラーで過剰なほど冷やされているが、それはもうあきらめるしかないだろう。別にわずかの時間ならさほど気分が悪くなるわけでもない。
「あのさ、兄貴なんか欲しいものある?」
 目を開けて、思い出してそう尋ねた。
「どうして? いきなりだな」
「ボーナスが出たんだよ。初ボーナスは今まで世話になった人のために使えって先輩にも言われたしさ」
「それはいい先輩だ」
 昭は笑いながら和のほうを見て、でも、と続ける。
「俺は気持ちだけもらっとく。母さんと父さんには何か買ってあげると喜ぶだろう。けど残りは自分のために使えばいい。生活、大変じゃないか?」
 名古屋での就職が決まったとき、新生活にはお金がかかるからと母親はかなりの金額を渡してくれようとしたが、和はそれを断った。今までさんざん心配をかけてきたこともあり、これ以上親から何かをしてもらうのはためらわれた。代わりに兄からアパートの敷金礼金と一月分の家賃だけを借り、その他の費用はわずかな期間だけしたアルバイトの金で間に合わせた。正直かなりぎりぎりの生活だったけれど、食費や交際費を切り詰めて何とかしのいでいる。
「無理して身体壊したら意味がないんだからな。俺に遠慮なんかしないでくれ。母さんたちには言わないから」
 心配されているのはわかる。けれどそんなことをしたらわざわざ遠く離れた名古屋で就職した意味がない。家族から離れ、一人で生きていける男になろうと思ったから決断した。和は首を振った。
「平気だよ。兄貴に借りた金も少しずつ返すし、そのうち余裕ができたら家にいくらか送るようにもするから。心配いらない」
「だけど」
「もう子供じゃないよ」
 ついこの間まで子供のように親のすねをかじって暮らしていた自分の生活を思うと自嘲の笑いが漏れる。母たちが心配するのも無理のないことだ。でももうそれでは駄目だとわかった。子供のままでいるのはもうやめる。「子供じゃない」自分に言い聞かせるように和が呟くと、昭は「そうか」とだけ答えて、それきりその話題は終わりになった。
 その後しばらくの間どちらも口を開かず、車内では車のエンジン音と風の吹き付ける音だけが聞こえていた。誰かと二人きりでいるときの沈黙を重苦しいものだと感じたことは和にはなかったが、兄といるときの沈黙だけは別だった。かつてはそれはひどい不安を伴うものだった。兄が何も言わないのは自分といてもつまらないからだと思い、自分から必死に話題を探したけれど、四つも年の離れた相手にどういう話題をふればいいのかわからなかった。兄は和の好きなものや嫌いなものをよく知っていたが、和は兄が何を好きでどういう趣味を持っているのか、ほとんど何も知らなかった。
 だが今は以前感じていた重苦しさを不思議と感じなかった。隣にいてその整った横顔を見ていると言葉などなくてもかまわないと思えてくる。
 だから昭が再び口を開いたとき、かえって和は驚いたくらいだった。
「悪かったな」
「え?」
「ずっとお前のこと子ども扱いして。頭ではわかってるんだ。お前はとっくに大人なんだってわかってるし、母さんにもそう言ってるくせに、実際に会うと駄目だな。上手くできない」
 前を向いたまま、いつものように淡々としたほとんど感情の揺れのない声で呟かれた言葉に、それでも和は違和感を感じた。なんでも器用にこなし、だれとでも如才なくつきあっていけるかわりに何に対してもイーブンで特別なものを持たないと、そう信じていた兄には似つかわしくないような弱気な声に思えた。
 やがて車は駅前の立体駐車場に止まり、一歩外に出ると夏の強い陽射しが容赦なく照り付けてきて眩しさに和は目を細めた。遠いと思っていた兄が、意外なほど近くにいるように感じられたのが不思議でならなかった。子供の頃、自分は間違っていたのだろうかと思った。兄は特別でもなんでもなく、一人の普通の人間で、好きなものも大切なものも当然持っていて、ただそれに気づかなかっただけなのだろうか。
「平気か?」
 和の肩を軽く叩いて昭が尋ねる。こんなに近くにいたのに気づかなかった。
「……平気だよ」


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あとがき / UP前に読み返していて、ピアス穴って実はどのくらいで塞がるのかとかミニバンって要するにどういう車?といった疑問が浮かびました。……む、無知……いつもどれだけ適当に書いているかバレます……。