風のない空 8





 翌日の日曜日は朝から薄曇りで、陽射しは緩いものの気温のほうは晴れの日と大差なく、雨が近いのか空気が湿り気を帯びているためじめじめとして憂鬱になるほどの不快な天気だった。最近晴れの日が続いていたから忘れていたが、そういえば梅雨明けもまだなのだったと思い出す。
 出掛けに鏡の前でまじまじと自分の姿をチェックしていたら兄にからかわれた。デートか何かだと思われたらしい。そんな遠距離恋愛を続けられるほどの根性はないと言うと、兄は少し首をかしげて「それもそうだな」と短く笑った。
 送っていってやろうかとの申し出をありがたく受け、和が待ち合わせの駅ビル四階の書店についたのが九時五十分。電話で聞いたとき本屋で待ち合わせなどどうかしてるんじゃないかと正直思ったが、あえて文句をいうほどのことでもないので黙って了承した。送ってもらったおかげで時間より早く着きすぎてしまったけれど店内を回って立ち読みをする気にもなれない。和は待ち合わせのとおり椅子やベンチの置いてある一角に行き、手近で空いていた椅子を引いて腰を下ろした。
 そのスペースには他にも数人の男女が座っていて、ひょっとしたらもう相手の男も来ているかもしれないと思い、彼らをわずかに注意深く見回してみる。全部で六人のうち二人は女で、別の二人は学生の友人どうしらしく、漫画雑誌を笑いあいながら読んでいた。
 可能性があるとしたら残りの二人。整髪剤できれいにセットされた髪と涼しげな色のシャツがいかにも仕事のできるサラリーマン風の男と、対照的にTシャツとジーパン姿で大学生のように見えるが、真っ黒な短い髪と眼鏡がどこか野暮ったい真面目そうな男。
 和は眉をひそめて二人を交互に見、それからサラリーマン風の男のほうをあらためて眺めた。もう来ているとしたらこちらだろうと思ったからだ。
 年は二十代の後半から三十代前半。筋肉質というほどでもないが決してひ弱にも見えないしっかりとした体つきで、顔立ちも悪くなかった。則子が和と比べてこういう男を選んだ気持ちはわかるような気もした。
(川口……か)
 則子から聞いた男の名前。それを聞いたとき、和はまず同じ名前の知り合いを思い出した。同じ大学の先輩だった川口美紀子という名の彼女は、離婚して姓が変わってしまったらしいのだが、出会った頃にはもうその名前だったから和は彼女の元の姓を知らない。だから彼にとっては彼女は今でも川口美紀子のままだ。別に珍しい名前ではないし、苗字が同じだから親戚だと思うほうがおかしいが、それでもその名を聞くと彼女のことを思い出す。そういえば彼女の夫はなんという名前だっただろうかと、ふと思った。聞いた気もするが思い出せない。もうずいぶん前の話だ。
 もう一度ちらりと男のほうを見て、声をかけてみようかと一瞬思ったがすぐに馬鹿らしくなってやめた。則子がくればわかることだ。何もわざわざ自分のほうから面倒なことをすることもない。それにあの男がそうなのだとしたら、相手の方だって他のだれに声をかけることもせずに真剣に本を読んでいる。お互い様だ。
「あの……」
 背もたれに体重をかけて目をつぶった瞬間、間近に声をかけられて和は驚いて目を開けた。
 いつのまにそばに来ていたのか眼鏡をかけた大学生風の男が、ひどくためらっているような様子で和を見下ろしている。立ち上がるとこんなに背が高かったのかと和は意外な気持ちで彼を見上げた。
「違ってたらすみません。長谷川さん……ですか?」
「……そうですけど……」
 何で名前を知っている。その思いが表情に出て、次の瞬間にはこの場で自分の名前を知っている見知らぬ他人がいるとしたらそれは一人だけだと気がついた。
「川口さん?」
 問い返した声は自分でも間の抜けたものだったと思う。てっきりもう一人の男がそうなのだとばかり思い込んでいたから不意をつかれた。まさかこちらがそうなのか? 驚きの表情を隠せずに思わず男を凝視した和に、彼は困ったような顔をしてうなずいた。
「川口です。はじめまして」
「ああ……どうも」
 いったい何センチくらいあるのだろう。百九十近いのじゃないか? 見下ろされる感覚はあまり愉快なものではなかった。ましてや相手が相手だけによけいだ。自分をふった女の選んだ男。ある意味でそれは、和のほうが彼よりも劣っているということになるからだ。
「おいくつでしたっけ、年?」
 則子より一つ上だと聞いていたがとてもそうは見えない外見に、確認の意味で問いかけた。
「二十七です。今年、八になります」
 やっぱり三つ上なのか。嘘だろう。あらためて目の前の背だけがひょろっと高い男を見つめた。いまどき珍しいような黒髪に分厚いフレーム付の眼鏡。顔立ちに対する感想は平凡の一言で、長く覚えておくにはあまりに印象の薄い顔。悪くもないが決して良くはない。何より全体のイメージがぼんやりとしてはっきりせず、つかみどころがない。
(おいおい……)
 和は脱力しそうになった。こんな男のほうが自分よりよかったというのだろうか。納得できない、断じて納得できないと、川口に会うまでは則子が自分と別れたいと思ったのも無理はないと思っていたことを忘れて、和は理不尽な思いでいっぱいになった。
「………」
 黙って互いを窺っているうちに、和は相手の視線がひどく気になりだした。自分が凝視する分にはかまわなくても相手から見られるのは別だ。たとえ悪意があるのではないにしてもじろじろ見られるのは不愉快だった。非難の気持ちをこめて睨みつけると、しかし川口はそれに気づかなかったのか、相変わらず不自然なほどまっすぐに和の顔を見つめていた。
「あの……どこかで会ったことありませんか」
「俺と?」
「俺が見かけただけかもしれないです。でもどこかで……」
 川口の言葉が終わらないうちに、和は視界の端に則子の姿を認めてそちらを見た。今度は川口のほうもその視線に気づいたらしく、和の目の動きを追って顔を動かし、同じように則子のほうを見た。
「和くん? うそ、ちゃんと遅れず来てくれたんだ」
 久しぶりに会って第一声がそれというのも情けないような気がした。則子は少し髪が伸びたようだ。薄いブルーのブラウスの上に日焼け予防のためか長袖の白いカーディガンを羽織り、紺色のタイトスカートとの組み合わせが涼しげだった。則子は続いて川口を見ると、驚いたように目を見開いた。
「川口さん眼鏡どうしたの?」
「ちょっと、昨日コンタクト落としたみたいで。今日買いに行くつもりだけど、この眼鏡昔のだから度が合わないし……」
 言いながら川口は気持ちが悪そうに瞬きをした。ということはさすがに普段はこの妙な眼鏡はかけていないということか。なぜか和は少しだけほっとした。そしてすぐになぜ自分がそんなことにほっとしなければいけないんだと首をひねった。
「あ、和くん髪の色染めたんだ。黒い」
「ああ、うん」
 則子は何のためらいもなく和の髪に触れてくる。不快なわけではなかったが恋人の前で別の男に対してすることでもないだろう。和のほうが困惑して川口の顔を窺うと、彼は特に何を思った風もなく相変わらずつかみどころのない顔でぼんやりと俯きがちに立っている。
(……変だろ)
 出会ってわずかな時間しかたっていないにもかかわらず、この二人は本当に恋人同士なのだろうかと疑問に思った。とてもそうは見えない。似合わないというだけでなく、会話を交わしたときの微妙に遠い距離感が不自然な気がする。せいぜい友達以上恋人未満。悪くすると友達以下だ。
「どこか落ち着いて話できるとこ行こうか」
 則子が言い出して、場所を変えることにした。その前に「ちょっと待って」と川口が手に持っていた雑誌をレジに持って行き、すぐに支払を終えて戻ってきた。半透明の袋から覗くその雑誌は何やらコンピュータ関係のものらしく、和にはまったく興味が湧かない代物だった。
 川口は雑誌をそのまま腕に抱えて歩き出す。この後喫茶店に行って話をしたり、和が帰った後は二人でデートの続きをしたりするのではないのだろうか。なのになぜこんなときにあんな荷物になるものを買うんだ? 和には理解できなかった。
 則子が選んだ店は、かつて和と彼女が付き合っていたときによく行った店だった。川口とも同じようにこの店で会うのだろうか。気に入りの店というのは一緒に来る相手が変わっても変わらないものだと、やや皮肉混じりにそう思った。
「今日はわざわざ来てもらってごめんね。忙しかった?」
「別にかまわないよ。ちょうどこっちに帰る用事あったし」
「帰るって?」
「ああ、言ってなかったけど俺、今名古屋で暮らしてるんだよ。あっちで就職した」
 別れた相手に言う必要もないことだと思ったから言わなかったのだが、今則子に向き合うとなぜか後ろめたいような気がして和は微妙に目をそらした。
 彼女はいつも和にちゃんと就職活動をしろと言い続けていた。最後のほうはもうあきらめたように何も言わなくなったが、二人が別れることになったのにはその問題も少なからずあったはずだ。なのに彼女と別れたとたんに就職を決めたというのは、さすがに言いづらいことだった。彼女もいい気分ではないだろう。
「名古屋? 遠いんだね」
 則子は驚いた様子で目を見開いたが、少なくとも表面上は嫌な顔をせずにそんな感想を述べた。それから小さく笑って、
「でも和くんがスーツ着て働いてるところなんか想像できないな。どんなことをしてる会社なの?」
「中高生向けの学習教材を作ってるところだよ。よく本屋でも売ってるような。それを塾とか学校で使ってもらえるように毎日見本持って回るのが俺の仕事。小さいところだけど、いい人が多いから居心地はいいよ」
 本当はまだいい人かどうか判断できるほどまわりの人間を知らないが、唯一いっしょにいる時間が長くてよく話もする杉田を基準にして和は答えた。彼といるのは楽だった。ただの同僚ゆえかよけいな干渉はしてこないし、かといって表面上だけの割り切った付き合いだと相手に思わせるほど淡白でもない。親しげでかつ鬱陶しくはない境界というものを彼は心得ているように思えた。それは和の中ではいつも曖昧で、よくわからないからたいていの人間に対しては表面上のつきあいしかできない。鬱陶しがられるくらいなら冷たいと思われたほうがましだからだ。
「へえ、よかったね」
「ああ」
 則子が笑うたびに後ろめたさが強くなる。けれど別れを切り出したのは則子のほうだ。彼女のことを好きだったし、浮気をしたことなど一度もない。それでも自分を捨てて違う男を選んだのは彼女のほうだったはずだ。
 先ほどからひとり会話から取り残されている川口をちらりと見ると、彼は眼鏡を外してテーブルに置いた指先を見るように俯いていた。彼ほど背が高いと人と話すときはいつも俯かなければならないから自然にそれが癖になるのだろうかと思った。まっすぐ前を見て歩けない。
 会話が止まったことを不思議に思ったのか川口が視線を上げて、目が合った。彼の視力が眼鏡なしでどのくらい見える程度のものなのかわからない。しかし目が合ったことはわかったらしく、彼は困惑したように瞬きをしてすぐにまた俯いた。はっきりしない、気が弱そうな男だという印象がさらに強まった。
 そういえばさっき、どこかで会ったことはないかと彼が言ったのを思い出した。こんな平凡な男、一度見ただけでは覚えていろというほうが無理だ。けれどひょっとして……そう思う可能性を和は否定し切れなかった。
 尋ねようとしたときに、一瞬早く則子が川口に何か小声で話しかけて、その些細な一言にふと彼が笑った。
(………)
 和と話しているときはこわばったまま愛想笑いすら浮かべなかったその顔が、笑うとふっと力が抜けたように空気が変わって見える。しじゅうへらへらしているような連中は思い出すときには決まって笑顔なのだけれど、彼らがいつ、どうして笑ったのかは覚えていない。けれど目の前の男は今、たしかに笑ったのだ。笑うとただでさえ童顔なのが一層幼く少年のような印象になる。
 ――愛想笑いができない人。他の人が上辺だけ笑うところで彼は困ったような顔をするの。でも、だからね、笑ってくれると嬉しいのよ。そういうのってあるじゃない。
 美紀子の言葉を唐突に思い出し、和はあらためて川口の顔を見た。美紀子と同い年だと言っていた彼女の夫。けれど彼のほうがいつも若く見られるといって憤慨していた。背が高くて、それ以外は目立たないけれどとても優しいのだとよく自慢していた。他にもいろいろ、コンピュータに強いとか、服装に無頓着だとか。それは今目の前にいる男の印象と何一つ食い違うところがない。
 確信に近い気持ちで、ひょっとして、と思った。 だがそのことを尋ねることはしなかった。彼がかつて美紀子と結婚していて、今は則子と付き合っているのだとしてだからどうだというのだ。本人同士がそれでいいなら他の誰に口を出せるはずもない。
 ――そういうのってあるじゃない。
 ああ本当にね、と和は苦笑混じりにかつての先輩の言葉に同意した。
(ああいう笑い方は、嫌いじゃない……)


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あとがき / なんだかもう何も書くことが……。