風のない空 9





 初めて会った長谷川和という男の外見は、想像していたよりもずっと真面目できちんとしているような印象を受けた。
 不真面目でだらしがない、と則子から聞かされていたせいで勝手に最近の若い学生のような姿を想像していたから、正直彼が現れたときすぐにはわからなかった。けれど本屋に来て本も読まず座ってぼんやりしている姿にもしかして、と思い、その整った顔立ちを見てその思いは強まった。黒い髪は染めたのかもしれない。時間にいつも遅れてくる癖も直したのかもしれない。
 思い切って声をかけると、相手は驚いた顔で川口を見上げた。それは少しも躊躇することのないまっすぐな射るような視線だったから、その居心地の悪さに声をかけたことを後悔して視線を逸らそうとしたのは一瞬。え、と思ってあらためて彼を見る。
 生活のにおいがほとんど感じられない淡白なほどすっきりとした容姿。どこかで見たことがある、と思った。その記憶は決して嫌なものではなく、むしろその逆で、だからよけいに気になった。どこで会ったのだろう。どういうふうに?
 気がつくと不躾なほど彼を凝視していたようで、迷惑そうにされているのがわかって頭に血が上るような気がした。内心の混乱を誤魔化すように慌ててどこかで会ったことがないかと尋ねてみたが彼は心当たりがないようで、よけいに不審そうな表情を浮かべただけだった。ちょうどそのとき則子が来てくれたから助かったものの、もう少しでも二人でいたら変な奴だと思われたかもしれない。いや、もう既に思われているかもしれない。そう思うとなぜだかやりきれないような気分になった。
 正直言って、彼に会うことは川口の希望ではなかった。美紀子に会わせてもらうのだから、川口にも則子が昔付き合っていた相手に会ってほしいと言われたときはひどく驚いた。そんなことをしてどういう意味があるのかわからなかったし、何を話していいのかもわからなかった。だから断ろうと思った。けれどそうしなかったのは、川口の中にも好奇心があったからだ。それは嫉妬というのとは違う。嫉妬は感じなかった。あったのはむしろ同じ一人の女性を好きになった人間としての共感と、仲間意識に近い好奇心だった。
 別れた後でも屈託なく話す則子と和の会話を、川口はそういうものなのだろうかと内心不思議に思いながら黙って聞いていた。普通はこうなのだろうか。それとも彼らが特別なのか。きっと自分だったら同じようにはできない。美紀子と会ったとき、こんなふうに親しい友人あるいは今でも恋人同士であるかのように話をすることはできない。おかしいのは自分のほうなのだろうか。
 しばらくかけていなかった眼鏡がどうにも気持ち悪くてそっと外した。
 度も合っていないし、微妙に歪んだ形も直さずにそのままにしてあるから長時間かけ続けていると耳が痛くなる。眼鏡を外すととたんに視界がぼんやりと滲み、目元を覆って硬く目を閉じた。
 再び目を開けて、はっきりしない視界の中で見るものもなかったからじっと指先を見ていた。ここに自分がいるのは場違いなような気がして居心地が悪かった。楽しそうに話をしている二人の邪魔をしたくはないのに、かといってここで席を立っても不愉快な思いをさせるかもしれない。
 不意に会話が途切れたので目を上げると、なぜか長谷川和と目が合って驚いた。慌てて目を逸らす。人の目を見るのは苦手だ。まして彼のようにまっすぐな視線を受け止めるのは。
「川口さん。和くんって目つき悪いからちょっと見睨んでるみたいに見えるんだけど、本人あれが普通なのよ。気にしないでね」
 隣から則子が小声でそんなことを囁いた。川口が俯いたのを和の視線に怯えたからだと思ったらしい。それは誤解でもあり本当のことでもあったが、則子のその心遣いが嬉しくて川口は微笑んだ。
 その後も則子と和の会話はお互いの現状や昔の思い出話に終始し、まったく普通の友人同士と変わらないように見えた。だが則子は彼と会えたことを純粋に喜んでいるようだ。川口といるときよりも笑顔が一層華やかで楽しげだった。そのことに胸の痛みを感じなかったと言えば嘘になるけれど、この期に及んでなお、それは嫉妬という感情とは程遠いように思えた。自分でも意外なほど落ち着いている。
「あー、則子さん。ちょっと俺頼みがあるんだけど」
 和が突然言い出して、則子は軽く首を傾げて先を促す仕草をした。
「俺川口さんと二人で話したいからさ、悪いけど、ちょっとの間貸してくれる?」
「か、貸すって……」
「どっかで時間つぶして。終わったら電話するから」
「……わかりました」
 則子は仕方がないなと言いたげに肩をすくめて席を立った。あっけにとられている川口をよそに話は勝手にまとまってしまったようだ。ふたりっきりにされても困る、と慌てて則子を見たけれど、彼女は和と川口のふたりに向かってちょっと笑っただけだった。
「さて」
 則子が立ち去ると、片頬をさすりながら芝居がかった声で和が呟いた。川口は顔を上げられなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のようだと今の状況を思った。なぜそんなことを思うのか自分でもわからない。彼の視線が怖いと思うのは、彼に対して何か悪いことをしているような気がするのは自分が彼から則子を奪おうとしているからだろうか。けれどそれはおかしい。彼女はまだ返事をくれていないし、それに今日見た限り、自分に望みは薄いように思える。
「則子さんのことを好き?」
 問いかけられてはっと顔を上げた。
 和は思ったよりもずっと穏やかな顔をして川口の答えを待っている。
 川口はうなずいて、すぐに「好きです」と声に出して呟くように言った。
「大事にしてあげて」
 和は友達に対するように自然に笑った。その端正な笑顔に川口は胸が締め付けられるような気分になる。ああそう、この笑顔。こういう顔をたしかに以前どこかで見たことがある。どこかで。
「俺はできなかった。だからあなたが則子さんを幸せにしてください。則子さんはあなたのこと好きだよ。大丈夫」
 揺らがない口調で断言すると、不意に煙草吸ってもいい、と尋ねてきたので、川口はうなずいた。和はポケットから煙草を取り出してわずかに眉をひそめながら口に銜える。ライターで火をつけるその何気ない仕草に視線を奪われて、気がつくと目が離せなくなった。
「俺さあ、ホントは嫌いなんだよ、煙草。でも大学とか入るとまわり大抵吸ってるし、自分だけ吸わないの不公平だったからさ。川口さんはどう? 煙草吸う?」
 急に親しげに話しかけられて戸惑った。初対面の、しかも年下の人間に対してどういう態度で接したらいいのかわからない。互いに敬語なら楽だった。けれど普通に砕けた口調で話すのは難しい。
「いや……」
「ああ、だろうね。そんな感じ。うちの兄貴もさ、吸わないよ。最近の人ってわりに吸わない人多いね。やっぱり身体に悪いから?」
 でも俺身体はどうでもいいんだよ、と言って和は笑った。笑うようなことではないと思ったから川口は笑わなかった。ただ困惑して彼の顔を見て、どうして自分の身体をどうでもいいなんて言うんだろうと思った。
「兄貴のこと知ってる?」
「え?」
「俺にどっかで会ったことないかって聞いただろ。あれ、ひょっとして兄貴のことだったのかと思ってさ」
「お兄さん?」
 はっとした。彼ではないのだろうか。彼によく似た顔立ちの、もう少し年上の、もっと落ち着いていて笑顔の似合う――そう考えたところでようやく川口はそれが誰なのか思い出した。もう一年以上も前の雨の日に、美紀子との思い出が強く残る家を売ろうかどうしようかと悩んで訪れた住宅展示場にいた若い社員だ。彼の前で無様に泣き出してしまったことを思い出すと今でも顔が赤くなるけれど、そんな恥の記憶を含めてもなおどこか忘れがたいような思い出として残っていること。
「思い出した……」
「へえ?」
「君のお兄さんなのか……」
 顔はたしかに似ている。けれど印象があまりに違うからすぐに思い出せなかった。
「似てる? でも性格違うって思ってるだろ。顔、すごくわかりやすいよ」
 口元を歪めるようにして和が笑った。どうしてだろう、屈託がある、と川口は不思議に思った。兄弟とはいえ性格も印象も違って当たり前なのに、それがまるで悪いことであるかのように思っている、そんなふうに感じられる。
「お兄さんのこと嫌いなの」
「俺? そう見える?」
「わからない。好きなようにも嫌いなようにも見える。どうでもいいようにだけは見えない」
「……あたり」
 思わず呟いた川口の言葉に和はつまらなそうに答えてふいっとそっぽを向いた。持て余すように煙草を吸い込み、紫煙を吐き出す。川口は煙草の煙にはもうとっくに慣れて目の前で吸われても何も感じないようになっていたが、彼が煙草を吸う姿はあまり見たくないと思った。なぜだろう。痛々しく見える。
「やっぱりやめたほうがいいよ、煙草」
 だから思わずそう口にした。よけいなおせっかいだと思われるかもしれない。それでも誰かが言ってやらねばならないような気がした。彼は――かつて一度だけ会った和の兄は言わなかったのだろうか。
「そう?」
 ちらりと目だけ川口に向けると、和は唇の端で笑った。
「じゃあ今はやめる」
 ほとんど減っていない煙草の火を灰皿に押し付けて消し、和は立ち上がった。川口ははじめ、彼が手洗いにでも行くのかと思った。だからそれをただ見ていたが、見過ごしてしまいそうな自然な動作で和が伝票を手にしたのを見てようやくもう帰るつもりなのだということに気がついた。そしてそのことに、自分でも理解できないような焦りを感じて戸惑った。
「則子さんには川口さんから電話して。俺はこのまま名古屋へ帰るからさ。今日は会えてよかったよ、じゃあ」
「あ……」
 引き止める言葉は川口にはなかった。咽まで出かかった言葉を飲み込む。 ここで別れたらおそらくもう二度と会うことはないだろうとわかっていた。彼の兄ともそうだった。あんなふうにして泣いている姿を見せてしまったのも、その場限りで出会った人間だという思いがあったからかもしれない。二度と会わない。ただ一度だけ。
 和は振り返らずに店を出て行った。浮かしかけた身体を再び椅子に沈めて川口はぼんやりと窓の外を見た。彼が帰ったことを知ったら則子が悲しむんじゃないかと、しばらくしてから気がついた。


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あとがき / あと1回で終わりなのですが、我ながらつくづく山場のない平坦な話だなあという印象がさらに深まりました。いや、地味な話を目指してはいるのですが、ちょっと意味が違うかもしれない気がうっすらと……。