冬の音楽





 指先から零れる音をまるで奇跡のように感じていた。


「悪い、待たせたか」
 誰もいない第一音楽室、後ろのほうの席に座って頬杖をついていた私は夢から覚めたように目を開けて、その声のしたほうへ視線を向けた。
「先輩」
「授業が長引いてさ」
 言いながら教室の中に足を踏み入れる、その瞬間に、たった今まで見ていたものが夢だったのだと、本当はもうその声を聞いた瞬間からわかっていたことをあらためて確認し、私はあやふやな笑顔を浮かべた。
 伊原先輩は誰もが認める長い足ですぐそばまで歩いてくると、笑いながら寝てたのか、と言った。
「寝ぼけたような顔してる」
 友達は皆、あんなかっこいい人と付き合ってるなんて恵が羨ましい、と言う。
 先輩は長いきれいな指で私の髪にそっと触れると、すぐに離してまたいつものように何を考えているかわからない静かな表情になった。彼はそう、とても静かな人で、笑うときもため息をつくときも、冗談を言うときも怒るときもいつも、本当にいつもとても静かなのだった。
 その静けさを、私はこの上なく羨ましいと思う。
 たぶんきっとその静けさこそが、あの音楽に唯一寄り添えるものであるような気がしたから。
「あ、と、そうだこれ」
 思い出したようにポケットの中から伊原先輩が何かを取り出した。
「演奏会のチケット、欲しがってただろう。千賀に頼んだらタダでくれたよ」
 千賀子先輩の!
 私は飛び上がらんばかりに喜んで――本当はもう買ってあったのだけれど、千賀子先輩自身からもらうのはまた全然別のことなのだ――受け取ったチケットを胸に抱いた。
 嬉しい。嬉しい嬉しい嬉しい。
「お前、本当に好きなのな」
 伊原先輩の声にどきりとする。顔を上げるとしかし、先輩は別に深い意味があったわけでもないらしく、興味のなさそうな顔で音楽室の中を見回していた。
「音楽って、俺はよくわからないよ」
 この人の指は楽器を奏でるためにはできていない。世の中にはきっともう、何か一つのことだけをするために生まれてきた人というのが確かにいて、この人はそういう人なのだ。
 そして千賀子先輩も、きっとそういう人だった。
「そんなに音楽好きなくせに何で美術コース選択してんの」
「……好きだからです」
「何が? 絵、描くのじゃないよな」
 音楽が。
 音楽が死ぬほど好きだから自分の手で汚したくないんです。本当に好きなものは遠くから眺めていることしかできない人間なんです。
 伊原先輩の声は静かに冷たい。私の絵を知っているこの人はきっと一生私を本当に愛することなんてないだろうと思う。この人の一番大切なものに真剣に向き合わない私は、たぶん本当は彼に嫌われている。ただ、お互い自分の宝物を表にさらして平気でいられるほど強くはないだけだった。
「俺は行かないけど」
 演奏会の話だった。
「千賀によろしく言っといて」
 私は、慌てた。
「え、だってこれ、先輩にくれたんでしょう。先輩が行かなかったら山崎先輩、がっかりするかも」
 伊原先輩のかわりに私がいたら。
 千賀子先輩は悲しむかもしれない。きっと伊原先輩に演奏を聞いてもらいたいはずだから。
「あいつが? しないよ」
 伊原先輩は平然として笑う。何でがっかりなんてするんだよと面白い冗談を聞いたみたいにくり返し笑った。
「俺がこういうの苦手なの知ってるし」
「でも……」
「好きなやつが行くのがいいんだよ。嫌いなやつは必要ない。そういうものだろ、こういうのは?」
 そういうものだろ、絵も音楽も。
 こんなとき、私は先輩に嫌われていることをあらためて感じる。それはたぶん、私のすべてではなくて、でも伊原先輩にとって一番大切なところで、私は先輩に寄り添うことができない。これははじめから恋ではなくて、私はもちろん――伊原先輩も、そのことに気づいていながら付き合い続けている。
 暖房なんかとっくに切れている音楽室の中、吐いた空気がふっと白く濁って消える。
 千賀子先輩はたぶん、この人のことを好きなのだと思う。


 そして私はずっと、指先から零れる音をまるで奇跡のように感じていた。


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あとがき / 「夏の風景」に続く季節シリーズ(秋が飛んでいる上に時間も遡っていますが)。千賀子は「夏の風景」の「私」です。なんだか別人のようですが。いつか秋と春を埋める日も来れば……いいなあ。