winter snow







 その日はいつにも増して気温の低い朝から始まった。
 午後から夜にかけて雪がちらつくことがあるかもしれませんと、たまたまつけたチャンネルで若いニュースキャスターがにこやかに告げていた。もしそうなれば初雪ですね。
 エアコンの効いた室内ではほとんど寒さを感じないが、言われて窓の外を見ると、広がる空は寒々しく曇った色をしている。外に出るのがいやになる日だなと思った。こんな日は、家で炬燵にでも入って寝ているのが良き日本人の生活というものだ。ましてや自分の場合はサラリーマンのように毎日定時に仕事へ行かねばならないわけでもない。
 しかし頭をちらりと掠めたその考えをすぐに振り払って、伊原は出かける支度をした。普段は滅多に着ない紺の揃いのスーツに黒いコートを羽織る。少し伸びすぎた髪も洗面台の鏡の前で整えた。そうしながら、鏡の中の自分はそれなりに年相応に落ち着いて見える、と思い、おかしくなって一人で笑った。見慣れているはずの自分の顔がまるで他人のようによそよそしく見えたからだった。
 おかしなものだ。自分は何も変わっていないつもりでいても、ふと気づくと随分以前とは変わってしまっているというのは。
 はじめてこのマンションで一人暮しを始めた大学一年生の頃からいつのまにか十年近く経とうとしているが、たしかにあの頃とは考え方も、立場も、そして顔も少しは変わったのだろう。変わろうとせずとも人は変わる。あるいは変わりたくないと願っても否応もなく。
 ならば変わりたいと望む者は、より大きく変わるのだろうか。変われるのだろうか、時の流れが変えていくもの以外に、自分の力で。
 鏡の中の自分は素知らぬ顔をしている。苦笑して腕時計に目を落とすと、約束の時間まであまり余裕がなかった。 伊原は出がけにもう一度、大きな窓から見える景色を眺めた。もの言いたげに黙り込む灰色の雲が一面に広がっていて、雪にしろ雨にしろ、いずれどちらかが降り出すのはもう時間の問題のように思われた。


 予想していたことだったが、その日、やはり彼は姿を見せなかった。
 十二月二十日。栗坂夏生・伊原茂二人展は都内有名デパートの六階に設えられた特別展示室で始まった。
 初日の開場は十時。初日のみ、作家自らが作品の解説や訪れた客との直接の対話を行うという企画つきで、そのため絶対に遅れてくるなと一週間前から厳命を受けていた。それはもちろん伊原だけではなくもう一人の主役である夏生についても同様のはずだったが、会場に着いたときも、そして十時をとっくに回った今も、彼の姿はなかった。予め予想していたことだったから伊原は別段慌てもしなかった。たださすがに、企画主の息子であり今回の二人展の裏方を勤めてくれた友人の顔を見るのは気が引けた。
 怒り狂っているか呆れているか、あるいは単にあきらめているか。いずれにせよ、良い顔をしていないことだけは確かだ。大事な二人展の初日、それも作家来場という宣伝まで打っている日に来ないというのは裏切りにも等しい。
 だが、そうさせたのはある意味で自分かもしれないという思いが、よけいに瀬川に対する後ろめたさを感じさせた。何もこんな大事な展覧会の前に、夏生を傷つけるようなことを言わなくてもよかったのだ。あの繊細な少年が、ほとんど盲目的に慕っていた伊原の言葉に大きなショックを受けるであろうことなどわかっていた。わかっていて言ったのだ。そうすることで自分が楽になると思ったから。
「今日は栗坂くんは来てないの」
 何度目かわからない来場者からの問いかけに、笑顔を浮かべる。
「ええ。申し訳ありません。体調が思わしくないらしく、今日は欠席させていただくことになりました」
「そうか、残念だね」
 中年の、どこか垢抜けた雰囲気の男はそう言ってすっと視線を遠くへ流した。つられるようにその視線の先を追うと、そこには栗坂夏生の作品『空白の伝統』があった。夏生はもともと静物画や風景画をよく描いていたが、最近は抽象画や小動物を主題にした絵を多く描くようになった。『空白の伝統』は、真っ白な背景に三匹の金色の蝶が舞っている、幻想的で、そして――彼の作品の常なのだが――見る者になぜか危うい脆さを感じさせる作品だった。
 いい絵だな、と滅多に人を誉めない瀬川がこの作品の前で一人ぽつりと呟いていたのを聞いた。
(ああ)
 心の中で頷いたが、口に出しては何も言わなかった。別に瀬川と二人で夏生の絵を褒め称えたところで何にもならない。いや、というよりむしろ自分の精神衛生上有害だろう。不思議なことに、他に優れた作品などいくらだって見てきたはずなのに、そうした作品に脅威を覚えたことなど一度もなかった。嫉妬も憧れも。
 なのになぜ、夏生の作品についてだけは心穏やかでいられないのだろう。
 ひょっとしたら作者をよく知っているからだろうか。それが自分よりずっと若い少年で、彼の幼さや脆さ、素直さや強い眼差しを、すでに自分が持っていないこと、あるいははじめから持っていなかったことに気づかされるからだろうか。
 持たないものへの憧れ――かつて、夏生が求めているものを瀬川がそう表したことがある。
 きっとそれは、夏生だけではなく、あらゆる人間がすべて、求めているものなのではないか。
 自分の手にないからこそ、それは美しく、慕わしく、どこまでも澄みきっている。手が届かないほど遠く。
「伊原」
 聞きなれたアルトの声にはっとして、伊原はすぐ近くで自分の名を呼んだ相手を見つめた。
 山崎千賀子は黒いセーターにタイトスカートといういつもより随分上品で地味な出で立ちで、しかし服装に似つかわしくないにやにや笑いでこちらを見上げていた。
「今立ったまま寝てたでしょ。すごく呆けた顔してたわよ」
「寝れないよ、立ったままなんか」
「じゃあ考え事? 私のこと?」
「馬鹿」
「わかった、夏生くんのことでしょ」
 千賀子は鋭い。図星を指されてすぐには返答ができなかった。
「じゃ、連れてきてあげようか?」
 伊原は彼女の顔をまじまじと見つめた。子供の頃から習っていたというピアノの腕をいかして今は中学校の音楽教師をしている彼女はたいてい薄化粧で、性格にも服装にもどこか中性的なところがある。夏生とも仲がよく、おとなしい夏生には千賀子くらい押しの強い人間のほうが合っているらしい。からかわれていつも困ったような顔をしていた夏生を思い出す。
 それほど過去のことでもないのに、不思議なほど懐かしく感じた。自分の名を呼ぶ彼の小さな声。時々見せるはにかむような笑顔。慕われているのが彼の表情からも、言葉からもはっきりとわかった。
 後悔しているわけではない。自分のためにも、そしておそらく夏生のためにも、あれは言わなければならないことだった。ただそれでも。
 彼を傷つけたことに対する罪悪感も、それに伴う寂しさも、自分の感傷だからどうしようもない。
「雪が降ってるか?」
 踵を返しかけていた千賀子はちらりと振り返り、「そろそろね」と笑って伊原に手を振った。




 ドンドンと、扉を叩く音がする。
 最初はインターホンの音がしていた。けれどずっと無視していたら、そのうちコンコンという控えめなノックに変わり、次第にドンドンになり、今ではほとんどガンガンに変わろうとしている。
 毛布の中に頭を突っ込んで耳を塞いだ。誰だか知らないが、放っておいてほしい。もう関わらないから、一人でいるから、だからそっとしておいてほしい。
 どこで間違えたのだろう、と思う。
 初めて訪れた東京で、何気なく見かけた大学の学園祭で彼の絵を見た。一目で好きになり、偶然作者に声をかけられて――嬉しくて思わず彼を呼び止めた。絵を教えてほしいと懇願した。それは、たぶん、間違っていなかった。そうしていなければ今の自分はいない。その数年後に東京の大学に誘われて、会いたくなって彼のマンションへ行った。それも間違っていなかった。彼は笑顔で再会を喜んでくれたし、彼の絵は初めて見たときと同じように、いや、以前よりずっと美しく、夏生を打ちのめした。
 美しいものに憧れるのは当たり前のことだ。
 ただ憧れているものに近づきすぎると、自分が惨めになる。
 そんなことわかっていたはずだった。わかっていたのにどうして、近づきすぎてしまったのだろう。自分の力も、どれだけ頑張っても埋められないものがたしかに存在することもわかっていたはずなのに。
 突きつけられてようやく目が覚めた。今度こそはっきりと。
「ごめんなさい……」
 毛布の中で、耳を塞いで目を閉じた。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返した。
 迷惑をかけてごめんなさい。鬱陶しがられているのに気づかなくて、優しさにつけこんでごめんなさい。
 二人展なんて、そんな図々しい、身のほどもわきまえないことに舞いあがってオーケーして、あなたの誇りを傷つけて。
 じわりと目元が熱くなってくる。あの日以来、もう何度目かわからない後悔をして、夏生はひたすら身体を丸めて縮こまっていた。背ばかり伸びても何も成長していない。彼の絵に出会った日から、変わりたいと毎日願い続けてきたのに、結局何年たっても変わることなどできなかった。自分の描く絵は少しも彼のように美しくない。あたたかくも、優しくもない。
「こら! あーけーてーよー! さーむーいー!!」
 ガンガンガンと続けざまにものすごい音がして――まるで扉を蹴りつけているような音だった――続けて女の大声が聞こえた。
 夏生は思わず目を開けて起きあがった。聞き覚えのある声だった。
 かといってすぐには動けず、どうしようかと混乱しながら視線をさまよわせていたら、また猛烈なノックの音と声がした。
「夏生くんてばー! 締めだしー! 締めだしー! ひどいー!!」
 迷っている暇はなかった。このままこれが続くと近所迷惑なこと甚だしい。
 理性が命じるままに飛び起きて、玄関のチェーンと鍵を開けた。そこには予想通りの人物が立っていた。
 右足を後ろに振りかぶった姿勢のまま夏生を見上げた山崎千賀子は、すぐに足を下ろしてにっこり笑った。
 夏生は服の袖で目元を拭って目を伏せる。会いたくない顔だった。
「ねえ、これから一緒に展覧会行こうよ。今日が初日だって忘れてたでしょ」
 明るい千賀子の言葉に痛みを覚えながら夏生は首を振った。そんな大切なことを忘れていたはずがない。
 今日は伊原と夏生の二人展の初日。開場は十時。初日は作家二人が自らの作品の紹介をすることになっていたが、行けるはずがなかった。瀬川にも朝電話をかけて、体調が悪いので今日は行けないと告げてある。電話の向こうで瀬川が黙り込み、その後で返されるであろう言葉が怖くてすぐに電話を切った。夏生の作品に力があると誉めてくれた男の責める声を聞きたくはなかった。少なくとも今は。
「伊原の絵、見なくていいの」
 どきりとした。結局展示場には一度も足を向けなかったから、どんなふうに作品がレイアウトされているのかもまるで知らない。一つの場所に、今までの伊原の作品の多くが集められているところを思い描くと、たまらなく、胸が高鳴った。
 見たくないわけがない。何をあきらめても見たい。自分の絵なんかどうだっていい。ただ、自分が何より美しいと感じた人の絵が見たい。それはきっと今この世界のどこよりも美しい場所だろう。
「明日……行きますから」
 彼に会わせる顔がない。だから今日は駄目だった。本当は今すぐにでも飛んでいって絵を見たいけれど、今日だけは駄目だ。明日からは毎日だって通うのに。自分がもっと裕福な大人なら、いくら払っても彼の絵を手に入れるのに。
「明日でいいなら今日だっていいでしょ」
 千賀子が夏生の腕を掴んだ。
「今日は駄目なんです」
「何の用事があるの?」
「……体調が悪いので」
「歩けないほど悪いの? じゃあ途中で倒れたら救急車呼んであげる」
 無茶苦茶だ。夏生はすぐには返答ができなかった。しかし千賀子は夏生の手を引っ張って無理やりに引きずった。
「ち……かこさん、僕は……!」
「伊原を嫌いにならないでやってよ」
 え、と思った。思いがけない言葉に夏生は一瞬耳を疑い、それから反対じゃないかと思った。夏生が彼を嫌いになったのではなく、彼が夏生を嫌いになったのだ。だからもう来るなと言った。もう顔も見たくないと、そういう意味だと思った。
「伊原を嫌わないで」
 もう一度、振り返って夏生の顔を真っ直ぐに見つめながら千賀子が言った。
 夏生は首を振り、弱々しい笑みを浮かべた。
「嫌いになんてなるわけがありません。けど、伊原さんは僕が行ったら嫌だろうと思うんです」
「そんなことないわ」
「それは……千賀子さんが決めることじゃないでしょう」
 言ってしまってから、随分失礼な言い方だったような気がして後悔した。けれどどう言ったらよかったのかわからずに、ただ謝ろうと思って口を開きかけたら、彼女の言葉のほうが先だった。
「そうだけど、わかるんだもん。伊原は夏生くんのことも、夏生くんの絵も大好きよ。けど好きになることって苦しいでしょう。あいついっつもすかしてるけど本当はあんまり大人になりきれてないから、上手く言えないの。夏生くんを傷つけてたら許してあげて。それで、あいつに謝るチャンスをあげてほしいの。お願いよ」
 千賀子の声は、夏生にはまるで知らない言葉を話しているように聞こえた。その言葉はあまりにも彼の考えと違いすぎて、どう理解したらいいのかわからない。
 慰めてくれようとしているのだろうか。
 そう思うと、わずかだが納得できるような気がした。だから感謝のつもりで少しだけ笑った。それから、もうどうせこれ以上失うものはない、と思った。
 行っても行かなくても、どうせ変わらないのなら少しでも早く彼の絵を見たい。たとえ彼と顔を合わせることで彼を不快にさせても、その顔を見ないでいたら平気だと思った。嫌な顔をされても、それに気づかずいられたらきっと平気だ。結局、怖いのはそのことで傷つく自分自身だからだ。
「ありがとうございます。……これから一緒に、行ってくれますか?」




 初日だからなのか宣伝の効果があったのか、会場の人の入りは盛況で、始まりはまずまず成功といったところだった。買い物のついでだろうが何だろうが、わざわざ入場料を払って会場を訪れてくれる人々には心から感謝した。その顔ぶれは様々で、いかにも美術が好きそうな中年男性もいれば、ごく普通の主婦らしき女性も、中学生くらいの学生もいる。漏れ聞こえてくる会話から美大生かと思われる若者も多く、藤花展で金賞を受賞した栗坂夏生の名は彼らにとってはすでに特別なものであるらしかった。
「疲れたらしばらく外に出てきてもいいぞ」
 いつのまにかそばに来ていた瀬川が珍しく優しい言葉をかけてきたことにいくぶん驚きながら、伊原は首を振った。
「いいや。来てくれた人を見てるだけでも楽しい。……やっぱり嬉しいものだな」
「そりゃあそうだ。結局、見られることを喜ばない人間は絵なんて描かないと俺は思ってる。自己満足なんて言う奴は気づいてないだけだ。栗坂だってそうだろうに、馬鹿な奴だ」
 突き放すような言い方に、怒りよりもむしろ夏生に対する好意が見えたような気がした。瀬川は怒りっぽい男だが、根本のところは冷静で、洞察力が鋭い。だから感情的になって人を不必要に傷つけることもしないし、言った後で悔やむということもあまりないだろう。
 お前がうらやましいよと伊原は思った。後悔していない、必要なことだったと思い込もうとしても、本当にそうだったのかと自問する声が消えない。それによって何を得、何を失ったのだろう。もしも過去に戻ってやり直せるとしたら、自分はどうするだろう。それでもやはり言っただろうか。
 おそらく、そう、やはり――言っただろう。
 けれどやり直せるなら、もっと、他に言いたいことがあった。
 そのとき会場が、わずかにざわめきを増したような気がして伊原は物思いを打ちきった。
 何だ? と思うのとほとんど同時に、その理由に気づいた。栗坂、とすぐ隣にいた瀬川が呟いた。
 会場の入り口に、千賀子と一緒の夏生の姿があった。色褪せたジーンズに黒いジャンパー、履き古されたスニーカー。そのどこにでもいる若者の姿からは、彼が今最も有望視されている若手画家だとは想像もできないだろう。けれどその目が、おどおどした表情の中で唯一まっすぐで強いその視線だけが、彼の存在を特別なものにする。
 伊原は迷わず彼の元に歩み寄った。夏生が怯えるように目を逸らし、そのことに改めて、彼をどれだけ傷つけたかを知った。
 もう以前のように、自分のことを慕ってくれることはないだろう。何もなかったようには戻れない。けれどそれでも、彼がここへ来てくれて良かったと思う。これは彼と、自分の二人展だ。彼には知る権利がある。人がどんな顔をして彼の絵を見るのか。その賞賛も侮蔑も、すべて受ける権利と義務がある。
「お前と話ができるのをみんな待ってるよ」
 夏生の肩を叩いた。そしてすぐに彼のそばを離れ、休憩を取るために会場を出た。階段の踊り場の窓から見えた外の景色はあいかわらず白く寒々しく、けれどまだ、雪は降っていなかった。


 六時の閉場のあと、デパートの外に出るとあたりはもう真っ暗だった。出口まで一緒に来た夏生は、その間一言も口を開かず、ずっと俯いて伊原と目を合わせないようにしていた。伊原のことを横暴だと言って、睨むくらいの気概があればよかったのにと思う。もし彼がそんな人間だったら、もっといろいろなことが簡単だったはずなのに。
「夏生」
 どうせ駅までは一緒の道のりのはずなのに、伊原と一緒にいるのを拒むように出口で足を止めた夏生を振り返って名を呼んだ。彼は驚いたように顔を上げ、すぐにまた俯いた。
 近づくと、怯えるように一歩下がった。この繊細で傷つきやすい少年は、いつも人から傷つけられることを恐れている。だからはじめから自分で傷ついて、少しでもその痛みを減らそうとしている。自分の作品に自信を持たず、人の賞賛を受け付けず、自分を貶すことで自分を守っている。
 それを臆病だと責めるのはたやすい。けれどその、痛々しいほどの弱さが、彼の作品を他の誰とも違うものにしていることもまた真実だった。彼は弱いから、いつも満足することなく、常により強いもの、美しいものを求める。焦がれるほどに強く、ただ誠実に。救いを求めるように。
「俺はお前の絵が好きだよ」
 苦笑交じりに告げた言葉に夏生がはっとしたように顔を上げた。
 今ではもうほとんど背が変わらない。本当にいつのまに、あの少年はこんなに大きくなったのだろう。
「他の誰にも描けない、お前だけの絵だ。俺は好きだよ。今まで言えなくてごめん。お前に負けを認めたみたいで、悔しかったから言えなかった」
「そ、んなこと……」
 夏生が必死の顔で首を振った。
「僕の絵なんて伊原さんの絵には比べられません。僕はあなたみたいな絵が描きたい。ずっとずっと、そう思って……」
「けど、お前の絵は全然俺に似てない」
 遮って言うと、夏生は大きく目を見開いた。
 伊原はまっすぐその目を見つめた。初めて会ったときから印象的なのは視線の強さだった。内面の弱さと裏腹に熱に潤んだような強い目。何かにこれほどまでに集中することができるのかと驚き、羨んだ。それはきっと、天才と呼ばれる人間にだけ与えられた才能のようなものだと思った。
「似てないよ。自分でもわかってるだろう。お前の絵は、お前の世界だ。お前だけの。俺の絵に似せたお前の絵なんか見たくないよ。俺はお前の世界が好きだ。全然似ていないからこそ、よけいに羨ましいと思う」
 夏生は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、弱々しく首を振った。何を否定しているのか伊原にはわからなかった。いったいどう言えば思っていることが彼に伝わるのか、わからなかった。
 一歩足を踏み出す。夏生は今度は下がらなかった。けれど相変わらず怯えたような不安げな顔をしている。
 才能は、いつでも何かと引き換えにするのだろうか。美しいものはいつも、足りないものを補うようにしてしか生まれないのだろうか。
 だとしたら、それは悲しいことだ。
「夏生。お前が俺の絵を好きだと言ってくれたように、俺もお前の絵が好きだよ。もっとお前の描く世界が見たいよ。そのことだけ、信じてほしい」
 夏生は返事をしなかった。
 ただ目を上げて、しばらくずっと伊原の顔を見ていた。伊原も同じように、黙って彼の目を見返した。
 それ以上伝える言葉はなかった。はじめから、言葉よりずっと雄弁なものを自分たちは持っているはずだった。結局描き出す絵によってしか、本当の自分の思いを伝えることなどできはしない。もともと絵から生まれた関係は、絵によってしか保てない。
 この一生をかけると決めたものを通してしか、自分たちの関係は成り立たないのだと伊原は知っていた。
 不意に何か大切なものを見つけたように、夏生が目を見張って小さく声をあげた。
 その視線を追うように振り返って、伊原もようやく、雪が降り始めたことに気がついた。強風に混じって舞うように降り出した雪は、ネオンの明かりに照らされてうっすらと光を帯びている。デパートから出てくる客たちが足を止めて、どこかはしゃいだように雪の降る様を見ていた。この冬初めての雪。
「初雪だ」
 夏生がふっと息を吐き出して小さく笑った。伊原も同じように笑いながら空を見上げる。
 もうあと十日もすれば年が暮れる。いろいろあった一年も終わり、また新たな年を迎える。変わるものと変わらないもの。持っているもの、失ったもの。愛しいと思う気持ち。消えていく憧れ。生まれる思い。手にした賞賛と蔑み。手に入れたいと願う名声、地位。そして誇り。
 様々なものを詰め込んでまた一年が回り出す。けれどその少し手前で、もう少しだけ。
 降り続ける雪を見上げたまま、しばらくその場に佇んでいた。もう何も考えず、白い雪だけをただ見つめていた。


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あとがき / シリーズ最終話です。年の瀬できりもよいので。このシリーズには正直非常に思い入れがあるのですが、とりあえずこれで一区切りしようと思います。でもこの話を書く前に書いていた話が4つほどあるので(季節や順番がばらばらなのでUPしてなかったのですが)それも順次UPしようと思います。まあ言ってしまえば他に書き溜めているものがないというか……。