winter step





 身近にいる人間との関係は、自分の場合、たいてい一つの言葉では言い表せないと思ったことがある。
 高層ビルの立ち並ぶ駅前の通り、信号がようやく青に変わってばらばらと人の波が動き出した。吹きつけてくる冷たい風に首をすくめながら、コートのポケットに手を突っ込んだまま伊原もそれに倣って歩き出す。
 今日は朝から曇り空で、日の光が見えない分よけいに気温が低く感じられる日だった。今にも雨が降りそうというほどでもない白い空は、けれどひょっとして雪でも降るのではないかと思うほど寒々しく見える。十二月も半ばを過ぎ、街は間近に迫ったクリスマスの彩りに染め上げられていた。喫茶店のウインドウにスプレーで描かれたサンタクロースのペイント、眼鏡屋の前に飾られた白いクリスマスツリー。大手電気店からはお決まりのクリスマスソングが大きな音で流れてきた。
 こういう街の雑然とした賑わいが嫌いではなかった。いつも忙しく慌ただしく流れていく時間が、ほんの少しだけ緩むように感じる。通りすぎる人々の顔にわずかに柔らかさと華やかさが滲む。伊原は歩調を緩めて街の景色を眺めながら歩いた。時間に余裕を持たせて出てきたから急ぐこともない。始まりまで一週間を切った栗坂夏生との二人展のチェックのため、会場となる有名デパートへ向かうところだった。ここまで来るともう、別段何を焦ったって仕方がない。千賀子が「いつもながら図太い男よね」と呆れたように言っていたが、別に繊細だとは思わないがとりたてて図太いわけでもない。
 たとえば山崎千賀子は伊原にとって、恋人であり友人だった。高校のときからの友人づきあいは、今年に入ってから少しだけ変わった。けれど友人でなくなったとは思わない。恋人であることと良き友人であることは矛盾しない。少なくとも彼女の場合には。
 一つの言葉で言い表せない関係は、親友と唯一呼べるであろう男との間でも同様だった。
「お前はわざわざ時間を測って来てるのか?」
 約束の時間ちょうどにやってきた伊原の顔と腕時計を見比べながら、瀬川は嫌な顔をして言った。はじめは見慣れなかった眼鏡をかけた彼の顔にも、今は大分慣れて違和感を感じなくなっていた。なまじ整っているだけに冷たさを感じさせる顔立ちのきつさを緩和させるのにたしかに一役買っていると感心する。職場の先輩に勧められてかけているのだと聞いたが、その先輩のアドバイスは的確だったと言わざるを得ない。
「大体の配置はもうできてる。見て回って、直したいところがあったら教えてくれ」
 こうして彼と一緒に仕事をする日があるなど思ったこともなかった。伊原は頷いて、自分と栗坂夏生の作品が展示されている会場へ足を踏み入れた。
 一度だけ振り返ると、瀬川はいかにも会社員らしくきっちりと着たスーツの背を向けて、早くも別の誰かと話をしていた。伊原に対するときよりぐっと穏やかに柔らかくなる表情。顔が見えなくてもわかった。他人に向ける彼の愛想の良さはもう十分なほど。
 大学で初めて会ったとき、たぶん、この男は自分のことを嫌いなんだろうと思った。睨みつけるような視線を感じた気がしたからだ。ただの気のせいだったかもしれない。彼とは初対面だったし、初対面で嫌われるほど自分は印象的な人間でもないと思っていた。それでも嫌われているという感覚はなかなか消えず、それは今でも時々感じる。だから本当に嫌われているのかもしれない。だがそれ以上に好かれている感じもする。ただしそんなことを言ったら絶交されるだろう。伊原は笑いをかみ殺した。そしてまた前方に視線を向けた。
 伊原の絵と夏生の絵を、はっきりと二つに分けて展示するのが最初の案だった。
 けれど伊原が拒否した。彼は夏生の絵と交互に展示されることを望んだ。そのほうが違いが際立つし、本当の意味での二人展らしくていいと思ったからだった。それを聞いたとき一瞬瀬川は眉を顰めたように見えたが、結局そういう形に決まった。伊原の意見が尊重されたのか、それとももっと別の理由があったのか知らない。そんなことはどうでもいいことだった。
 美術館より明るい照明の下、まやかしもきかず、作品はそのありのままの姿を晒していた。ここに展示されているすべての絵を伊原は知っている。自分の絵はもとより、栗坂夏生の絵もすべて、描きあがってすぐに目にしていた。いつだって夏生が見てほしいと言うからだ。自信なさそうに、泣き出しそうに感想を求めるくせに、最初から自分で価値を決めているのに気付いていた。何をどう誉めても彼は悲しげに首を振るばかりだった。それは藤花展で金賞を受賞した後も変わらなかった。
 誉められれば誉められるほど、夏生は頑なになっていくようだった。確固たる理想。かくあるべきと彼が信じているもの。
 彼の絵を見るたび、彼の言葉を聞くたび、掻き毟られるような思いとともに伊原が捨てているものがあるのを彼は知らない。いや、知らなかった。今は知っているかもしれない。わからない。どういう風に彼が伊原の言葉を聞いたのか、確かめる術はない。
 一回りして入り口の場所に戻ってくると、目敏く気付いた瀬川が声をかけてきた。
「どうだった」
「別にいいんじゃないか」
「それだけか」
「すごくいい会場だ。光栄だ」
 心底から言うと、瀬川はまたあの睨みつけるような目をした。眼鏡をかけてくれていてよかったと思う。そうでないとまともに視線を受けてしまう。
「夏生は来てないのか」
 何気なく尋ねると、瀬川はいっそう剣呑な表情になった。吐き捨てる。
「どんなのでも文句はないから好きにしてくれだと。お前らそろいもそろって腹が立つよ」
「一緒にするなよ。ちゃんと来てるだろう」
「お前、何か栗坂に言っただろう」
 断定する口調にどきりとした。それでも内心を見せないポーカーフェイスは伊原の得意とするところだった。瀬川が額にかかる前髪をうるさげに払った。ああと、伊原は微笑みながら頷いた。
「もう俺の部屋に来るなと言ったよ。今はお前はライバルだから、もう馴れ合うつもりはないと言った」
 はじめて会ったときの彼はまだ中学生だった。小学生にしか見えない背の低い少年で、あどけない顔で、真剣に伊原の絵を見ていた。焦がれるような眼差しが一途で、痛々しかった。彼の描く絵と同じように。
 年の離れた弟のようで、時には絵の生徒のようで、そしてライバルだった。
 もうずっと、心の奥底に沈めていた感情を、ようやく表に出す気になった。そうしなければこの先には進んでいけないとわかったからだ。
 瀬川がため息をついた。何も言わなかった。ただ呆れたように伊原を見て、仕事中の彼らしくない乱暴な仕草で神経質に髪を掻き毟った。
 伊原はそんな親友から目を逸らし、入り口に最も近いところに飾られてある夏生の小品に目をやった。彼が一番最近描いた小さな猫の絵だ。
 兄でもいい、先生でも、あるいは友人でもよかった。
 そのすべてであることもできたはずだった。けれど夏生に対してだけは、その関係をもっとはっきりとさせたいと思った。曖昧な関係の気楽さを、潔癖な夏生は結局のところ求めているとは思えなかった。そして自分も彼に対しては、――何より大切なものだと幼いときに決めた絵に対してだけは、中途半端でありたくなかった。
 絵の中の白い猫が真っ赤な目でこちらを睨みつけていた。デパート全体を包む陽気なジングルベル、不似合いに不機嫌な猫の視線。
 伊原は思わず笑い出して、しばらく笑いが止まらなかった。猫の毛は雪のように白い。目は泣き腫らしたように赤い。夏生は泣いたのだろうか。わからなかった。


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あとがき / 何だかこのシリーズも終わりに向かっている気がしますねえ。書きやすくて書こうと思えばまだいくらでも書ける気がしますが、そろそろ他の話を考えろという気が……。