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キヲク ふと目が覚めて、枕もとの目覚まし時計を手にすると、時計の針はまだ明け方の5時前だった。だが8月、季節は真夏である。すでに、うっすらと、外が明るくなっている。都会とはいえ、かすかな小鳥のさえずりが、窓ガラスを通して、聞こえてくる。ここから十数キロ離れた大通りを走る車の音も、それに混じって聞こえてきた。 静かに...けれども着実に、今日一日が始まろうとしている。 眠い目を擦って、ごろりと寝返りを打てば、其処には、まだ眠りから覚めない安らかな寝顔があった。何気なく、顔を覗き込んでみると、やや乱れた金色の髪が、額に頬にかかっていて、まだ、あどけなさが見え隠れしている。 彼と暮らし始めてから、早数年。 不破は、そっとベットから降りると、そのままリビングへと向かった。カーテンを少しだけ開けてみると、都会の朝、道行く人たちも、まだ疎らで、外の空気全体が霞んでいるようにも見える。軽く息を漏らして、とりあえず、トイレに行って戻ってくると、今度は、朝日が昇り始めたようだった。 ソファーの上に放置されている自分のカバンを取り上げて、内ポケットの中から一枚の写真を抜き出す。 昨晩、何気なく部屋の中を整理していて、見つけた一枚の写真。 思わず、彼に気づかれたくなくて、ここなら安全だと、仕舞い込んでしまった写真。 色褪せた紙切れになってしまった。 けれども、これが唯一のモノだった。 あの夏の選抜予選で、誰かが撮った写真。二人だけが写っている唯一の写真。不破を指導する渋沢の横顔が、色褪せている写真にも関わらず、そこだけ未だ鮮明に写っている。写真だけではない、不破自身の記憶の中に、渋沢の横顔は、その笑顔は存在する。 笑顔が...残っている。 ふいに、背後から風を感じて、振り向いた。窓がほんの少し開いていたようだ。早朝の爽やかな風が、其処から滑り込んできたのだ。カーテンが微かに揺れている。 出逢わなければよかったね... これが、渋沢の最後の言葉だった。 彼は、どうしてそう言ったのだろう。自分は渋沢に出会えて、良かったと思っていたのに。 暫くの間、考えて、それでも理解することが出来なくて、とうとう本人に、直接、聞きに行ってしまった。 渋沢は、とても驚いて、けれど、すぐに哀しそうな顔をして笑って...黙って不破の身体を、そっと抱きしめた。 優しく抱きしめる渋沢の腕は、とても温かかった。初めて出会った時の笑顔のように...。 そうして、ようやく不破は気がついた。 渋沢の優しさに、その想いの深さに、今まで、自分が気付きもしなかった事に。 一体、自分は、渋沢の...何を見てたのだろう、何を...。 振り向けば、いつも其処には、不破を包み込む、渋沢の優しい笑顔があった。 其れに甘えていた自分。 あの日、あの時。春まだ浅き、日差しの中。薄紅の桜が、まるで雪のように舞い降りていた、あの時。 渋沢の腕の中、彼の想いに気がついて、けれども、其れに応えられない自分がいた。 自分には、あの時すでに、もう...。 カーテンが再び揺れた。不破は窓に近づいて、カーテンと、開きかけていた窓を全開にした。 リビングに、より一層、爽やかな風が吹き込んでくる。不破の前髪を揺らした。 あの日と同じ風が、今日も吹く。 「あれっ、随分と早いんやね...?」 「!?」 ぎょっとして、声のする方向に振り返れば、乱れた金色の髪を掻き上げるシゲの姿が目に入った。 シゲが大きな欠伸をしている間に、さり気なく気付かれぬように、写真を元の場所、カバンの内ポケットへと戻す。 そして、窓際へと歩み寄って、もう片方のカーテンを思いっきり開ける。 「うっ...」 眩しい真夏の朝の太陽に、一瞬、不破が目を奪われていると... 「渋沢、今日、戻ってくるんやったな」 「えっ...?」 振り返れば、シゲがしっかりと、あの写真を手にして、ソファーに座り込んでいた。 真夏だが、まだ明け方の涼しい時間帯だというのに、不破の背中に、一筋の冷たい汗が流れ落ちた。 「...逢いたいか?」 シゲの一言に、不破はゆっくりと深呼吸した。 「そうだな...だが、今更、逢ったところで...」 「渡さへん」 「なにっ?」 言いかけた不破の言葉を遮るように、シゲが喋ったので、不破は驚いて、シゲの顔を見つめた。 シゲも、じっと不破の顔を見つめていた。だが、すぐに、いつものように、にかっと笑うと、 「なぁんてな...っと!」 シゲは背伸びをするかのように、ソファーから立ち上がり、写真を元の場所へと戻した。 「で、今日の予定は?」 シゲの大きな瞳がくるくると動く。愛嬌があって、悪戯好きの...大きなネコみたいだった。 不破も微かに笑いながら、ふっと息を漏らした。 「特にない。強いて言えば、買い物、だな」 「ん? 何、買うの?」 「食料、その他日用雑貨、それから...」 「??」 「おまえが欲しがっていたモノを一つ」 「へっ?」 「忘れているのなら...」 「あっ! 思い出したっ! あったらしいモデルのシューズが出たんやった!」 「先月の誕生日に、何もやらなかったからな」 「...」 「あの時、欲しいモノが見つかったら買ってやる、という約束だったから...」 ふわっと身体が抱き寄せられて、驚いて目をぱちくりしていると、 「覚えててくれたんか」 耳元で、シゲが優しく囁いた。 「あぁ、おまえとの約束を、忘れたことは、まだ一度もない」 「そうやったな...でも、オレ、一番欲しいモンは、もうとっくに貰ろうてるから...」 「シゲ?」 「これ以上、望んだら、ホンマはあかんって、いちおー遠慮してるんやで?」 「そうか? では要らないか?」 「...けど、其れも欲しい...」 不破も、そっとシゲの背中に両腕を回した。 「やはり遠慮など、おまえには似合わないな」 「そーやね、やっぱ性に合わへんな」 シゲがくくっと笑った。 「ほな、遠慮なく...」 シゲの右手が、不破のパジャマの中に滑り込んできた。慌てて、その手を押し返そうとして、うっかりバランスを崩してしまった。ソファーに押し倒されるような格好になって、シゲはますます調子づいて、不破の身体を押し開こうとする。 「おいっ! 朝っぱらから...っ!!」 「朝やから、ゲンキなんやもん♪」 「おまえというヤツは、昨夜あれだけ...」 「オレに、遠慮は似合わないんやろ?」 「...」 むっとする不破の口唇に、シゲがそっとキスをした。 「大地、めちゃ大好きや」 「シゲ?」 「大好き♪」 そう言って、シゲの口唇が、不破の首筋から胸元へと滑り落ちる。ゆっくりと、けれども確実に、刻印をつけていく。 朝日の眩しいリビングで、不破は昨夜同様、意識を手放すまで、シゲに全てを委ねて...。 それでも、失いつつある意識の中で、不破の脳裏には、あの優しい笑顔が、まだ残っていた。 其れは、不破の中に残された、たった一つの記憶だった。 空港を降り立った途端、大勢の報道陣に囲まれて、渋沢克郎は目を丸くした。此処まで、自分が騒がれる立場になるとは...だが、海外でも、その実力を発揮している渋沢では、当然の扱いである。しかし、本人には、それほどの自覚がないようだ。他にも海外でプレーしている選手はいるのに...などと呑気に考えながら、軽くインタビューを受ける。報道陣だけではなく、渋沢のファンらしい群衆にも囲まれて、渋沢、困りながらも、いつもの笑顔は忘れてない。 いつもの...けれど本当は、自分は、あの日から、笑うことができなくなっていた。 心から笑うことが、出来なくなっていた。うわべだけの笑顔。取り繕うことだけの笑顔。 彼を失った、あの日から、ずっと。 どうにか、タクシーに乗り込んで、この騒ぎから解放されると、渋沢は盛大に溜息を漏らした。シートにどっかり座り込んで、ネクタイを緩めていると、運転手が笑っていた。「大変ですねぇ」と一言だけ、そう言うと、渋沢の自宅へと、真っ直ぐに車を走らせる。無口な運転手で良かった。これ以上のから騒ぎは、ご免だ。渋沢は苦笑いして、窓の外、後ろに走り去る東京の街並みを、ぼんやり見ていた。 半年ぶりの帰国である。行ったり来たりの生活にも、かなり慣れてきたが、さすがに疲れた。思わず、ウトウトしかけた時だった。車が信号で止まった瞬間、うっすらと目を開けて、 (此処は...どこらへんだろうか?) 渋沢は、窓の外を見つめた。華やかな街中を、大勢の人間が行き来していた。その光景を、ぼんやりとした意識で見つめていた渋沢の瞳の中に、突然、一人の青年の横顔だけが、くっきりと浮かび上がった。渋沢は、緩めていた身体を、がばっと起こした。その様子に運転手が少し驚いていたが、渋沢は其れに気付くことなく、只ひたすら、往来の中、ゆっくりと歩いている彼の姿だけ見つめていた。そうして凝視し続ける間に、車はゆっくり発進した。信号が青に変わったからである。 (あっ...) 走り出す車の中、ほんの一瞬だけだったが、彼の微かな笑顔が見えた。 彼が...自分の傍らを歩く、金色の髪の男に、微笑みかけたのだった。 瞬く間に、彼の姿は人混みの中に消えていった。窓の外の景色が、次々と変わっていく。 渋沢は、深い溜息を吐くと、再び、シートへと身体を沈めた。目を閉じ、もう一度、大きく息を吐く。 「不破のことが、好きやねん」 何のためらいもなく、そう言えてしまうあの男に、自分は激しく嫉妬した。 自分が伝えたい気持ちを、あの男は、いとも簡単に言えてしまうのだ。 そして、自分は、彼を失った。 今思えば、たった一言だけで良かったのだ。 彼を好きだと想う気持ちに、理由など何も要らなかったのだ。 こんな簡単な事が、どうして自分には出来なかったのだろうか。 あの春の日差しの中、抱きしめた彼の温もりが、今もこの手の中に残っている。 伝えたかった、この想い。だからこそ、彼のことを、思い出には出来なかった。 見苦しいと、あの男に罵られてもいい。彼は自分にとって、かけがえのない存在、それは今も...。 閉じた瞳の奥、彼の横顔が目に浮かぶ。 けれど、自分の中にある彼の横顔は、笑っていない。 彼の笑顔は、あの男にだけ向けられているものだから。 それでも 渋沢は、自分の記憶の中、彼を探し続けていた。 今もずっと、彼だけを...。 探していた 見つけられない事を知りながら 記憶の中 彼だけを永遠に探し続ける 「あっ...」 「ん? なんやねん?」 突然、立ち止まって振り返った不破の横で、シゲが不思議そうな顔をしている。 「誰かおったんか?」 「...呼ばれたような気がした」 「へっ?」 シゲも振り返る。だが、往来のど真ん中で立ち止まると、他の人間にとっては迷惑な事、この上ない。 邪魔だと言わんばかりに、見ず知らずの人間たちに睨み付けられる。それでも、不破は動かなかった。 「大地?」 「あ? あぁ、気のせいだろう」 不破は再び歩き出した。シゲも歩調を合わせて歩き出すが、何となく納得できない表情だ。 「誰に呼ばれたような気がした?」 「ん?」 「渋沢か?」 シゲの問いかけに、不破は答えなかった。黙々と歩き続けて、また立ち止まった。だが、今度は振り返らない。 「大地?」 「おまえだ」 「はい?」 「おまえがオレを呼んだ」 「大地...」 「だから此処にいる」 夏の風が、二人の頬を撫でていく。 シゲが笑った。この笑顔が、今の自分の全て。 これからも、自分の記憶の中に刻み込まれていく。 かけがえのないもの 「帰るか」 「はいなっ!」 不破に擦り寄ってくるシゲに、 「おい、暑苦しいゾ」 と悪態を吐きながらも、不破の瞳は、ほんの少しだけ曇っていた。 ウソをついたから。自分を呼んだのは、記憶の片隅にある、あの笑顔だったから。 多分シゲも、其れに気がついている。けれどもシゲは、不破を追いつめようとはしなかった。 其れは、シゲの渋沢に対する、たった一つの思いやりなのかもしれない。 そう...不破の中に残された、たった一つの記憶。 もう二度と戻ることない、あの日の...記憶。 思い出に出来ない...たった一つの記憶。 FIN ☆ ―――――――――― ☆ 邑 様 散々、待たしておいて、これかいっ!...と、お叱りを受けてしまいそうで...その、す、すみませんっ!!(滝汗) それに、何が書きたかったのかと言いますと...リクエスト頂いた『シゲ不破←渋沢』で、ひたすら果てしなく、報われない渋沢を描きたかっただけなんですけど...こんなんじゃ...ダメっすよねぇ(うるうる)。つーか、渋沢ファンに、完璧にケンカ売ってますな(苦笑)。 あの...こんな駄作でも、受け取って頂けるのでしょうか? もしもし、お気に召さなければ、ソッコーで別テーマにて書かせて頂きますデスっ! 右手を差し出し、頭を下げて...「ヨロシクおねがいしますっ!」...って、ネルトンかいっ!?(知ってます?) 何卒、何卒...ヨロシクお願い致します(平伏)。 date:2002.09.07(Sat) 佐藤圭大 拝 ☆ ―――――――――― ☆
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