――――― 泣いたらあかん

人混みの中、小さな身体が震えて立ち止まりそうになる。

「なぁ、泣くなよ。泣くのやめてくれへんか?なんや、オレが悪いことしてるみたいや。」

繋いだ小さな手が震えている。瞳から大粒の涙が零れ落ちて、けど口唇はぎゅっと噛みしめたままで。
声も出さずに、彼は泣いている。

「なぁ、おまわりさんのトコ、行けば絶対大丈夫やから。泣いたらあかんて。」

繋がれていない右手の甲で、彼の涙をぐいっと拭ってやる。その時、右手に持っていたビニール袋が、彼の顔に当たった。不思議そうに袋の中身を見つめる彼の視線に、仕方なく繋いだ手を離して、袋から一番キレイそうなヤツを出してやる。 きょとんとしている彼の右手に、それを握らせてやると、ますます驚いた顔をする。

「それやるから、もう泣くな。」

右手に握らされられたそれを、彼はじっと見つめている。涙は止まることはなかったけど。

「お守りや。」
「.....」
「一等、お気に入りや。それ取るのに、エライ苦労したんやで。」
「.....」
「それやるんやから、もう泣くな。もう、怖いことあらへんで?」

彼は左手の甲で、ぐいっと涙を拭った。
そして、右手に持たされたそれを、大事そうに握りしめると、こくりと頷いた。

「ありがとう、は?」
「?」

きょとんとして、また彼が見つめてくる。

「ごめんなさい、と、ありがとう、はキチンと言えないとあかんで!」

いつも母親に言われているセリフ。母親の真似をして彼に言った。
目をぱちぱちしている彼。でも次にはちゃんと、小さい声ながらも彼は呟いた。

「ありがとう」

彼の声に、気分が良くなって

「どういたしましてぇ! ほな、行こうか?」

また、手を繋いで歩き出す。
彼はもう泣いていない。けど、相変わらず黙ったままで。
人混みを歩くには、小さな身体どうしでは、今にもはぐれてしまいそうだった。
それでも二人で一生懸命歩いた。互いの繋いだ手をぎゅっと握りしめながら。



「佐藤茂樹ぃ!!」

後頭部への痛みと、自分の名前を耳元で大声で呼ばれて、シゲはがばっと顔を上げた。
目の中に、自分を見つめてどっと笑い出す、クラスメイトの顔が飛び込んできた。

「授業中だぞ!おまえってヤツは何回注意したら...」
「あらら、すんまへーん。いやぁ、エライ気持ち良かったもんですから。」
「私の授業が子守歌にでも聞こえたというのかね?」

年齢40歳前後くらいの、ベテラン英語教師の松浦が、眉を吊り上げてシゲの顔をじっと覗き込んでくる。

(おやじに見つめられても、気色悪いだけや...)

シゲは思わず仰け反って、視線を宙へと泳がした。

「佐藤、後ろに立っていなさい!」
「へいへい。」
「返事は『はい』だろう!」
「は〜い!」

生返事のシゲに、松浦は舌打ちをする。クラスメイトはいつものことなので、くすくす笑っているだけだ。
授業が再開して、シゲは軽く欠伸をする。教室のうしろに立たされたシゲは、何気なく窓の外を見た。
今日はすこぶる天気が良い。梅雨明け宣言したばかりの今日は、やや湿度が高いものの、空の蒼さが目に浸みる。
シゲはもう一度軽く欠伸をする。そして、ふと思い出す。

(久しぶりにあの夢、見たなぁ...)

遠い日の思い出。まだ小学校にあがる前、地元の花火大会に母親と出掛けた日だった。母親があの男と逢うことを知っていたから、一人でこっそり家に戻った時だった。勝手知ったる場所だったので迷うことなく家路を歩いていると、道の片隅でぼんやりたっている同じ年齢くらいの子供に気がついた。どうしてその子供が気になったのか、シゲはわからなかったけど、こんな子供が一人でいるのに誰一人、彼のことを気にとめずに歩いていのが不思議だった。

だから、シゲは彼に近づいた。多分、地元の子供ではない。見覚えのない顔だった。話しかけると、そいつは泣き出した。

(あぁ、迷子やな)

すぐに分かった。けれど、そいつは声を出さずに泣くやつだった。ヘンなやつ。 ぼろぼろ泣いているのに、身体が震えているのに、それでも泣き声一つ出さない。

多分、気が強いんだろうな。

近くの交番へそいつを連れて行く途中、泣いているそいつを励ますつもりで、ビニール袋にしこたま入ったスーパーボールを一つ、そいつの手に握らせた。夜店の『スーパーボールすくい』で、獲得したものだった。今となっては、何が面白くてあんなゲームしたのか覚えていないが、子供心にスリルがあって楽しかったのだろう。

すくいあげた中で、一番キレイで大きなものを、彼にあげたのだ。
それが欲しくて、何回もやったのに。けれども、泣いている彼の顔をそれ以上見たくなくて。
ついついあげてしまったのだ。

(あのあと、結構、後悔したっけ...)

シゲがくすりと笑った。

交番に彼を連れていって、顔見知りのお巡りさんに彼を渡す時、本当はそれを返してもらいたくなっていた。
だけど一度あげたものを取り返すのは、なんか悪いような気分になって、そのまま彼と別れたのだ。
それっきり、彼には一度も会っていない。当然だ。やはり地元の子供ではなかったから。旅行者だったらしい。
後から母親が、お巡りさんから聞いてきた話だった。東京から来た子供だった、と。
名前も聞かされなかった。でも、無事に両親に会えたようだ。

もう泣いていないだろう。

お気に入りをあげたことよりも、今度は別な事が心にひっかかっていた。
彼は笑っただろうか? そっちの方が気になった。だって、泣き顔しか見ていなかったから。


「シゲさんっ!!」
「おわっ!!」

突然、視界一杯に、新太郎の顔が広がって、シゲは後ろに仰け反った。
仰け反りすぎて、後頭部を再びぶつけてしまった。

「いたた...なんやねん!!」

涙目で新太郎をみると、彼のうしろでクラスメイト達が笑い転げているのが見えた。

「シゲさんこそ!授業、とっくに終わっちゃいましたよ!」
「へっ?」

後頭部をさすりながら教室を見渡すと、確かに授業は終わったらしい。松浦の姿も見えない。

「立ったまま、しかも目を開けたまま眠れるなんて、シゲさんってやっぱ器用な人ですねぇ〜」
「うっさいわ...」

シゲはバツ悪そうにそう言うと、教室から出ていこうとした。

「シゲさん!次の授業、体育ですよ!更衣室へ行くんだったら...」
「さぼるわ。」
「へっ?」
「なんや、ノルスタジックな気分やねん。授業、うける気がちっともわかへん。せやから、さぼるわ。」

ひらひらを右手を振って出ていってしまう。シゲの後ろ姿を見送りながら、新太郎は溜息を一つ吐く。

「...どうしたんだろう?」

さぼるのはいつもシゲだが、普通の教科と違って体育の授業をさぼるなんて...
ちょっとシゲの様子がおかしい気がする。

「でも、まっ、いいか?」

新太郎は授業の準備をすると、シゲと反対方向の廊下を歩きだした。



シゲのさぼる場所。昼寝場所にもなっている其処は、屋上の一番人目のつかない場所。
日当たりが良くて、見晴らしも良い。今日のような快晴にはもってこいの場所だった。

「さてと。」

シゲはいつも場所へと向かう。屋上に出て、さらにその場所へ行くには、小さな梯子を上らなければならない。
軽快に上って、さて寝転ぼうとすると...

「ん?」

いつもの場所は、既に先客がいた。珍しい。此処はシゲ専用みたいになっている。だから、誰も此処にはこない。先客は、枕代わりに組んだ両腕に、頭をのせて寝転んでいる。仰向けになっているが、シゲからは前髪が邪魔で顔がよく見えない。

(誰や?)

ひょいっと顔を覗き込んだ。
その時。


――――― どきり


高鳴る心臓。身体の中に何かが疼いた。彼の寝顔から目が離せなくなった。
閉じられたその瞼に揺れる長い睫毛。きめ細やかな白い肌。すっと通った鼻筋。華奢な顎。艶やかな口唇。
すやすやと聞こえてくる微かな寝息が、シゲの耳朶をくすぐる。
息をひそめて彼を見つめるシゲ。だが次の瞬間、シゲはがばっと身体を起こした。

(男だろーがぁ!!!)

くるりと彼に背を向け、ばくばく高鳴る心臓を必死に押さえようとする。
だが、目に焼き付いた彼の寝顔が離れない。

(えーぇい!!どないしたんや!まったくもう!!)

頭をがりがり掻いて唸るシゲ。心臓は静まる気配がない。
その時だった。

「おい?誰だ、おまえは?」

突然、背後から声をかけられて、シゲは驚いて振りかえる。

「そこで、何をしている?」

冷たい声だった。先程の柔らかな寝顔をした彼とは、全く別人のような彼がそこにいた。起きあがって、シゲのことをじっと見ている。無表情な顔。冷たい瞳。まるで睨み付けられているようだ。そう、かなり目つきが悪い。シゲはぽかんと口を開けてしまった。あまりの変貌ぶりに声も出せない。黙っているシゲに対して彼は微かに眉をひそめると、軽く背伸びをした。はっとして、シゲが我に返る。高鳴っていた心臓は、一気に静かになった。

「そこ、オレの指定席なんやけど。」

彼が座り込んでいる場所を指さして、むっとした口調で言い放つ。なんだか、詐欺にでもあったような気分だ。尤も、勝手に自分がのぼせ上がっただけだったのだが。それにしても、ついさっきまでの彼とは全く違った印象だった。目つき一つでここまで、がらりと変貌するヤツは珍しい。しかし、見覚えのないヤツだと思った。シゲに指さされて、彼は不思議そうな顔をした。そして、

「どこの学校にもいるものだな。」

と冷たく言い返してきた。

「なにがや?」
「どこの学校にも、自分の都合とやらを押しつけてくるヤツがいる。」
「なっ!?」

シゲが彼の胸ぐらを掴もうとした時、彼の制服が自分のものと違うことに気がついた。

「おまえこそ、誰や?見たことないな?」

シゲはまじまじと彼の顔をみる。そんなシゲに、彼はふんと鼻先で笑った。

「教科書の類は間に合ったのだが、制服までは時間が足りなかった。」
「へっ?」
「今日、転校してきた。2年...C組だったな、オレのクラスは。」
「.....」
「オレの名前は不破大地。おまえは?」

今度は彼が...不破が、シゲの顔をまじまじと見つめてくる。全く、目つきの悪いヤツだ。こんなヤツを、何故あのように見間違えたのだろうか? これ程、綺麗なヤツは見たことないと思ったのに。シゲは軽く溜息を吐くと、

「オレは...」

言いかけて、ふと校庭の方が騒がしいことに気がついた。ここからは、わずかに校庭の一角が見える。そこには、人集りがあった。何事か?と、シゲが目を凝らして見ると、どうやら体育の授業中に誰かがケガをしたらしい。 (ドジなやっちゃな...) シゲが再び、視線を不破に戻そうとした瞬間、視界の片隅に見覚えのある顔が見えた。はっとするシゲ。人集りの中心にいるのは...
しゃがみこんだ新太郎ともう一人の生徒の姿。遠いながらも、新太郎の苦しそうに歪めた顔が見える。

「あいつ!!」

咄嗟に身をひるがえして、シゲは校庭へと走り出していた。全力で走るシゲ。
その時、シゲの頭の中からは、不破のことなどきれいさっぱりと消えていたのだった。



「ほら、もうえーかげんにせえやぁ?」

シゲは新太郎の頭をぽんぽんと叩く。

「しゃーないやんか、おまえが悪いわけじゃないやろが?」
「でも!!」

半泣き状態の新太郎。彼のケガは大したことはなかった。

「ボクが急にしゃがみこまなければ、中野くん...転ばなかった!!」
「そりゃ、いきなり目の前のヤツが消えんやから、しゃーないなぁ。中野も気付かんと突っ込んでしもうたんやろから。」
「だから!!やっぱりボクが悪いんだ!!」
「まぁ、それもそうやけど...気付かんほうも...中野、ぼけっとしとったんやろな?」
「....」
「なんで、ランニング中にしゃがみ込んだわけ?」
「それは...シューズのヒモが解けかかったから...こういう時は、先生に、コースから外れて直しなさいって言われてたのに...」
「....」
「それなのに、後ろから誰も来てないと思ったから、その場で直そうとして...中野くんが走ってきたのに気付かなかった!!」

新太郎は完全にベソをかいてしまった。シゲは盛大に溜息を吐くと、がりがりと頭を掻いた。泣かれるのはキライだ。アイツのことを思い出すから。シゲは新太郎の頭に、タオルをばさっと被せた。新太郎の泣き顔見えなくなったが、肩が震えているのが分かる。無理もないことかもしれない。急にしゃがみ込んだ新太郎につまずいて、中野は右足首を骨折してしまったのだから。新太郎の方は軽い打撲で済んだので、余計に罪悪感が強くなる。シゲはどっかりとイスに座り込む。

ここは保健室。養護教諭も、この騒ぎで出払っている。授業中の事故となると、教師もPTA連中も煩いだろう。でも故意的なものではないのだから、あくまでも事故なのだから、新太郎としては注意を受けるだけだろう。あとは、新太郎の親と中野の親どうしで話し合えば良い。事故とはいえ、双方の誠意というものがなければ、中学校という閉鎖的な社会とはいえ成り立たない。

「もう、気にすんなって。」
「....」
「新太郎は十分反省してんのやから。中野かて心配ないゆうて、かえっておまえのこと気ぃ遣いながら、病院に行ったんやろ?」
「....」
「あとの事は、親とセンセに任せればいいさ。」

新太郎がタオルから顔を覗かせる。ぐしゃぐしゃに泣いていた。シゲが苦笑いする。

「...ぅしよぅ...」
「ん?なんや?何か言うたか?」

新太郎が何か喋った。よく聞き取れなくて、シゲが身を乗り出して聞き返す。
「...なっ...ぃかい...どうしよう...」
「へっ?だから、何言うとんのや!?」
「夏の...大会だよ...中野、ウチのGKなのに...」
「あっ...」
「どぅしよう!シゲさんっ!!」

新太郎が何を言いたいのか、ようやくシゲにも理解できた。ケガした中野は、南中学サッカー部、唯一人のGK。
つまり、今日のケガはかなりの重傷で、夏の大会を3週間後に控えたこの時期、彼の代わりになるヤツなどいない。

「そ...やったなぁ...」

シゲもがっくりと肩を落とす。すっかり忘れていた。控えのGKは、まだ1年生でサッカー歴1ヶ月だった。
とても試合まで間に合わない。

「中野くんをケガさせたことも落ち込んじゃうけど、試合のこと考えると...どうしたらいいのか...」

がっくりと肩を落とす二人。そこへ威勢良くドアが開いた。

「新太郎!!」

入ってきたのは、キャプテンの田中。新太郎とは物心ついた頃からの大親友だった。

「田中!?」
「中野がケガしたってぇ!!おまえのせいで!?」


ぴきり。


空気がひび割れる音がしたのは気のせいだろうか? 多分、新太郎が凍り付いた音だろう。
だが、次の瞬間、新太郎は頭に被せられたタオルを振り払い、保健室の窓へ走り込んだ。

「新太郎!?」
「ご、ごめんなさ〜いっ!!死んでお詫びをぉ!!」
「なっ!?早まるな!新太郎!!」

窓から飛び降りようとする新太郎の身体を、田中が後ろからくい止める。

「やめろ!新太郎!!」

田中が必死に説得するが、新太郎の勢いは止まらない。すると、

「アホらしい。」

ぽつりとシゲが呟いた。

「なっ!何言ってんだよ!!シゲも止めてくれよ!!」
「止めるって...ここ1階やでぇ?」
「へっ?」

はっとする新太郎と田中。シゲはがりがりを頭を掻く。

「こっから飛び降りたってケガもせぇへんわ。」
「.....」
「はぁ〜、しゃーないなぁ、オレがGKやったるわ。」
「えぇっ!?」
「他に出来るヤツおらんやろ?せやから、オレがやったるわ。あんまり気ぃが向かんけど。」
「シゲさん...」

新太郎の目がまた潤みだした。しかし、

「ダメだ!!」

田中が大声をだした。

「シゲがGKやったら...誰が点を入れるんだぁ!!」

思いっきりこけるシゲと新太郎。だが、田中の言うとおりだ。春の大会で、どうしても勝たなければならない状況に追いつめられたサッカー部は、シゲに助っ人を頼んだ。ブランクはあっても、そこらへんのヤツよりよっほどセンスが良いシゲだった。事情があって試合開始まで間に合わなかったシゲだったが、後半残り20分、シゲと新太郎の活躍で、強豪武蔵台付属中学に2対1で勝利した。あの試合から、シゲは正式にサッカー部員になった。シゲが入るまでのサッカー部は、公式戦で1回も勝ったことが無かったチームだった。つまり、得点できるヤツがいない。これといった上手い選手がいないせいだ。

「そうやなぁ...田中の言うのも一理あるけど、でもGKやれるヤツはオレしかおらへんやろ?」
「う...」
「得点したって守ってくれるヤツがおらへんかったら、なんにもならへんねん。点入れるのは新太郎と田中に任せるわ、どや?」
「....」

言葉に詰まる田中と新太郎。二人ともがっくりと肩を落とす。

「それしか...ないだろうな...」

田中がぽつりと呟いた、その時。窓の外から、賑やかな声が聞こえてきた。三人とも何気なく窓の外を見る。校庭でサッカーの授業が行われているらしい。聞こえてきた声は、声援にも似た歓声だった。

「何だろ?」

新太郎が窓から身を乗り出して、校庭を見つめる。田中もシゲも窓から顔を出す。

「あいつ...」

シゲが呟いた。新太郎と田中がシゲの顔を見上げる。だが、シゲは二人の視線など気にしていない。
ただひたすら、校庭にいるあいつの姿だけを見つめている。

「あらっ?どうしたの?」

保健室のドアが開いて、養護教諭が戻ってきた。

「あっ!先生!!中野の様子は!?」

新太郎が真っ先に口を開いた。先生は苦笑いしながら、「全治3週間ってところかしらねぇ。」と答えてくれた。
がっくりと肩を落とす新太郎。先生はそんな新太郎の肩を軽く叩くと、

「あんまりへこむんじゃないわよ。鈴木くんの気持ちは十分、中野くんに伝わっているから、ねっ?」

そう励ましてくれた。

「ところで何をみんなで一生懸命見ているの?」

ひょいっと先生も窓から顔を覗かせる。すると、「あら?あの子...」と呟いた。
シゲがそれに反応した。

「知り合いでっか?」
「えっ?知り合いって...」

シゲが指さす。そこにはGKをやっている、あの転校生の姿があった。

「あぁ、転校生でしょ?不破くんっていったかしら。さっき気分が悪いって言って、休んでいったのよね。」
「....」
「顔色よくなかったけど、直ったからって言って、教室へ戻ったのよね。大丈夫かしら?」

先生は不破のことをじっと見ながら「でも、元気そうね。」と笑った。
シゲは黙っていた。シゲだけではない。田中も、新太郎だって、黙って不破のことをじっと見ている。

「上手い...」

ぽつりと新太郎が呟く。田中も横でこくこくと頷く。体育の授業でやるサッカーなど、所詮お遊び程度のものだった。それだけにゴールする機会が多い。連携プレーなど出来ないからだ。ボールがめまぐるしく両チームの間を行き交っている。どれも大したシュートではないが、DFがあてにならない分、GKはかなり忙しい。何度もシュートされる。しかし、それをことごとく、しかもスマートにセーブするあいつ。確かに上手い。それもかなりハイレベルな技術を持っている。校庭の騒ぎは、そんな不破に対する驚きにも似た声援だった。

「あの子...上手いわねぇ。」

先生もぽつりと呟く。素人目から見ても相当なヤツなのだ。
だが、次の瞬間、シゲは耳を疑った。

「やっぱ、武蔵台付属から転校してきたからかしら?」

(えっ...なんやて...)

はっとして先生の方へ振り返る。シゲだけではない。田中や新太郎も、だ。
三人に振り向かれて、先生はぎょっとする。

「なに?どうしたの?」
「先生、武蔵台付属って...」

新太郎が口を開いた。

「えっ?えぇ。あの子、不破くんって、武蔵台付属から今日転校してきたのよね。あそこってサッカーの名門中学でしょ?もしかしたらサッカー部だったりして...って思ったのよねぇ。」

先生はぽりぽりと頬を掻く。三人はまた黙って不破の姿を追いかける。武蔵台付属からの転校生。武蔵台付属には、サッカーをするために全国から少年達が集まるのだ。だとしたら、可能性は高い。そのうち、授業終了の合図が聞こえて、サッカーの授業は終わった。生徒達が各自教室へと戻っていく。校舎内に賑やかな声が聞こえてくる。

「よし!新太郎行くぞ!!」

田中が突然、新太郎の手を引っ張って、保健室を出ていこうとするので、新太郎はびっくりして大声を出した。

「なに!急にどうしたの!?」
「あの...不破ってヤツを勧誘に行くんだよ!!」
「えぇ!?ちょっと待ってよ!武蔵台付属から転校してきたからってサッカーやってたとは限らないじゃないかぁ!?」
「そりゃそーだけど、でもあれだけ運動神経がいいんだったら、ウチのサッカー部でも十分やっていけるゾ!」
「田中...なんかウチのサッカー部って情けない...」
「仕方ないだろ!?ウチは弱小なんだから!! それにさっきの授業ってC組だよな?あそこは陸上部が多いんだよ!先、越されないうちに行くぞ!新太郎!!」

強引に田中に引っ張られて、新太郎は仕方なく保健室を出ていった。その様子を養護教諭が苦笑いしながら見ていたが、

「あらっ?佐藤くん、どうしたの?」

まだ黙ったままのシゲに気がついて声をかけた。

「えっ...あぁ、ほなオレも失礼しますわ。」

ぼんやりしていたシゲ。先生に軽く挨拶すると、シゲも保健室から出ていった。
廊下にでてからも、シゲはぼんやりしていた。ふらりと歩きながら、ふと廊下の窓から空を見上げる。

あの試合の日も、今日みたいに快晴だった。
フィールドがワクワクする場所だと、初めて知った日だった。
滅茶苦茶、楽しかった。自分の限界試したくて、体が心が喜んでいた。
あいつに勝ちたい。そう思ったあの試合。あいつ...武蔵台付属のGK、渋沢克郎に初めて出会った日。
強豪とは聞いていたが、これほどスゴイGKがいるとは想像していなかった。
あいつを倒したい。身体中の血が騒ぎだした。あのワクワク、ドキドキが、めちゃくちゃ気持ちよかった。

「さよか..あいつ、渋沢のとこから来たんか...」

シゲの身体の中に、何かが疼きだした。
あの日感じたドキドキが再び戻ってきたような感覚に、シゲは思わず笑みがこぼれた。

(不破大地...めっちゃ楽しくなりそうや!!)



「断る。」

冷たい言葉と無表情。無愛想を通り越している。不破の態度には、さすがの新太郎と田中のコンビもあっけなく玉砕された。新太郎達だけではない。他の運動部全てに対して、不破は同じ態度をとった。だが、あきらめの悪さは校内ピカ一の新太郎。放課後、玉砕覚悟で不破に再挑戦する。シゲも仕方なく、それに付き合った。

「何度来ても同じだ。断る。」
「どうして?サッカー嫌いですか?」
「いや、嫌いではない。だが、興味も無い。それだけだ。」
「そんな...」

やはり駄目か...新太郎がしゅんとした時。

「サッカー、やってたんとちゃうか?」

シゲが話しかけた。不破はぴくりと眉を動かすと、「前の学校では、どの部にも所属していなかった。」あっさりと答えた。

「ふ〜ん、さよか...それにしちゃ...」
「なんだ?」

不破がぎろりと睨む。

(ホンマ、目つきの悪いやっちゃな...)

シゲがむっとする。

(なんで、さっきはあんな風に見間違えたんやろ?目、腐ってしもうたんやろか?)

シゲも不破のことを睨み返す。新太郎は二人の間でおろおろしている。

「ほな、PKで決めるのはどうや?」
「なに?」

シゲの突然の申し出に、不破が少しだけ驚いた。新太郎も驚いた。

「シゲさん、急にどうして...」
「ごちゃごちゃ言うてもラチあかんて。そやったら、いっそPKで決めへんか?」
「....」
「面白いか、面白くないか。勝負してきめよーや?どや?」

不破は腕を組んで、首を傾げた。どうやら、考えているらしい。
しばらくして、ぱっと顔をあげた。

「よかろう。」

不破の返事に、新太郎は思わず、心の中でガッツポーズをとった。
シゲなら安心。絶対大丈夫!新太郎はそう思っていた。
なのに、だ。PKは3回勝負。先に2つ獲った方が勝ち。
1回目。シゲのシュートはあっけなく、不破にセーブされた。
「う...そっ...」

目をぱちくりする新太郎。他のサッカー部員達も唖然とする。
不破の身のこなし方は完璧だった。これでサッカーやったことないなんて信じられない。

「ふ〜ん、ナルホド、そーいうことか...」
「シゲさん!?何、納得してるんですか!頑張って下さいよ〜!!」

咄嗟に叫ぶ新太郎。だが新太郎だけではない。サッカー部員全員が「お願いしますよ!」と期待の目で注目している。

「人気者はツライね、お互いに♪」
「何のことだ。」

シゲのふざけた様子に、不破がむっとして答える。
2回目。咄嗟にモーションを変えたシゲ。インステップドライブ。渋沢と対決した時と同じ技。

「くそっ!!」

不破の動きが一瞬だけ遅かった。体勢を変えてセーブしようとしたが、ボールはゴールのきわどいところに決まった。

「やったぁ!!」
「さすが!シゲ!!」

歓声があがる。だが、シゲはどこか浮かない表情だった。
3回目。これで勝負が決まる。皆が固唾を呑んで見守る中、シゲがボールを蹴った。不破が右へ飛ぶ。しかし。

「なにぃ!?」

ボールは左コーナの角にテンテンと転がっていった。シゲはヒールで軽く蹴っただけだった。完全に裏をかいたのだった。
再度沸き上がる歓声。シゲは新太郎に抱きつかれた。

「やりましたね!シゲさん!!」
「あったりまえやろが!!」

シゲに軽く小突かれる新太郎。ひとしきり笑うと、新太郎はすぐに不破に駆け寄った。

「不破くん!これで...」
「やはり面白くない。」
「へっ?」
「サッカーは面白くない。興味もわかない。」
「不破くん...」
「失礼する。」

不破は自分の荷物を手に持つと、この場を立ち去ろうとした。

「やっぱり、な。」
「シゲさん?」

シゲがぽつりと不破の背中に呟いた。

「不破、おまえ、渋沢のコピーやな。」
「!!」

立ち止まる不破。肩が微かに震え出す。

「やっぱりな。不破の動き見ていて気がついたんや。渋沢の真似しとるだけや。コピーや。」
「オレは...!!」

不破が振り返った。その瞳は明らかに怒気を孕んでいる。シゲも負けずと睨み返す。
新太郎はまたしても二人の間ではらはらしている。居心地の悪い沈黙。
不破は何か言いかけたが、すぐに口を噤むと、また歩き出した。

「不破くん!」

新太郎が追いかけようとする。だが、シゲがそれを制す。

「シゲさん...」
「オレが行くわ。」
「えっ?」

シゲは片目を瞑って新太郎に合図すると、不破のあとを追いかけた。
取り残された新太郎とサッカー部員達。

「不破、サッカー部に入ってくれるんだよな?」

田中の呟きに誰も答えない。誰もが呆然と、不破とシゲの後ろ姿を見送っていたから。



「不破!」

シゲの呼びかけに、不破は答えない。歩みを緩めるところか、より一層すたすたと歩いていく。

「おい!こら!ちょっと待たんか!!」

ようやく不破に追いついて、腕を捕まえてこちらを振り向かせようとした時。

「離せ!」

不破がシゲの腕を振り払おうとした。だが、強引に振り回したので、互いの身体のバランスが崩れた。

「おわっ!?」

その拍子に脇の茂みの中に、二人の身体は雪崩れ込んでしまったのだ。

「あいたた、なんや急に...」
「痛いゾ...どけ..」

苦しそうな不破の声にはっとする。倒れ込んだその体勢は、シゲが不破の上に覆い被さるような形になっていた。
急接近。シゲの心臓が跳ね上がる。シゲの身体が固まってしまった。

「おい...苦しいゾ。」
「あぁ、すまん。」

シゲが少しだけ身体をずらす。だが、不破を解放したわけではなかった。
何故だろう?このまま離したくなかった。
不破はどいてくれないシゲに対して、不思議そうな顔をして見上げてくるが、突然顔を近づけてきた。

「へっ!?」

焦るシゲ。だが不破は平然としている。そして、

「もう一度勝負してくれないか?」

きっぱりと告げた。きょとんとするシゲ。不破はじっとシゲを見上げている。

「オレはアイツのコピーではない!」
「不破?」
「勝負してくれないか?」
「別に...かまわんけど...」
「そうか、では、3日後に...」
「ちょい待ち。」
「?何だ?」
「PK勝負は今日だけやで?」
「だから、もう一度勝負してほしいと頼んでいるのだが。」
「そりゃ...約束違反やな。」
「・・・・」
「さっきの勝負はナシってことかいな?それはちょっと困るんやけど。」
「では、どうすれば良いのだ?」
「せやなぁ...」

ちょっとだけ悪ふざけをしてみたくなった。シゲはにやりと笑う。

「オレにキスしてくれたら、さっきの勝負はナシでもええで?」
「!!」

どうしこんなこと言い出すのか?自分でもわからないシゲだった。
でも、捕まえた不破を離したくなくて。何かに背中を押されたような気がした。

「おまえ...」
「ん?」
「ホモか?」

がっくりするシゲ。

「ちゃうわ!オレはいたってノーマルやっ!!」
「では、何故、オレにキスを要求する?」
「うっ。」
「オレが女にでも見えるのか?」
「...じぇんじぇん...」
「だったら、何故だ?」

ぎろりと睨んでくる不破。だが、心なしか不破の頬が赤くなっているような気がする。
ちょっと可愛いかも...と、怪しい方向へ思考が向かい始めるシゲ。心臓がどきどきしている。
こんな気分は生まれて初めてかもしれない。
黙り込んだシゲの態度をどう受け止めたのか、不破は軽く溜息を吐くと、両腕をシゲに首に回した。

「へっ?」
「了解した。」

不破が目を閉じた。シゲの瞳に、初めて会った時の不破の顔がフラッシュバックする。不破の顔が近づいてくる。

「ん...」

微かに漏れる吐息。触れ合う互いの口唇。
心臓が一気に跳ね上がる。心拍数が上がる。身体中が痺れてくる。頭の中が空っぽになっていく。
その瞬間、不破の口唇が離れた。

「これで...」

不破が言いかけた途端、今度はシゲがその口唇を塞いだ。

「!!」

驚く不破。だがもっと驚いたのは、不破の口腔に侵入してきたもの。
それに絡め取られて、口唇を吸い上げられて、不破の息が乱れる。呼吸ができなくて苦しくなる。

「ん...んっ!...」

咄嗟にシゲの首筋に爪を立てる。シゲの肩がぴくりと揺れる。けれども、シゲは離してくれない。
好き勝手動き回るシゲのそれに翻弄されて、不破の瞳に涙が滲んでくる。
どれくらい時間が経っただろうか。ようやく解放される頃、不破はすっかり泣いていた。声もださずに。

「あっ...」

罪悪感がシゲを襲う。泣かせてしまった。けれど....。
シゲが何かを思い出そうとした時だった。

「大地!!」

シゲの頭上から声が聞こえた。
不破の名を呼ぶ声。
はっとしてシゲが振り仰ぐ。
そこに居たのは...

「克郎?」

不破が彼の名前を呼んだ。
武蔵台附属中学のGK、渋沢克郎。
シゲとは、ある意味因縁深いヤツ。どうして彼が此処にいるのか?

「貴様...大地から離れろ!!」

わなわなと震えた渋沢の拳は、シゲの顔面むかって振り下ろされた。
咄嗟にかわすシゲ。ケンカならシゲは誰にも負けない。

「このっ!!」

もう一度、渋沢がシゲに拳を振り上げた瞬間、不破がその腕を取り押さえた。

「やめろ!克郎!」
「大地!?」
「こんなところでケンカをしたら、サッカーができなくなるゾ!」

不破の制止で、渋沢ははっとする。しかし、渋沢の怒りは収まる気配はないようだ。

「克郎、どうして此処にきたのだ?」

不破が渋沢の腕を離して、問いかけた。今度は渋沢が不破の腕を掴んだ。

「どうしてだって!?それはこっちが聞くことだ!!遠征から帰ってきたら、大地が引っ越したと...転校までしてしまったと聞いて...どうして何も言ってくれなかったんだ!!」
「一応、おまえの母親には伝えておいたのだが?」
「大地...」
「おまえが遠征している間に急に決まったことだ。父親はドイツ、母親はアメリカ、二人とも仕事で 単身赴任になったのだ。 オレは一人で家にいようと思っていたのだが、3年間もオレを一人にしておけないと、親戚の...はとこの家でオレの面倒をみてくれることになった。はとこの家から武蔵台まで通えない距離ではないが、どうせ引っ越すなら学校も転校してしまった方が都合が良いと思ったのだ。 ...本当に急に決まったことなのだ。克郎に話す時間もなかった。」

一息に喋った不破は、大きく息を吸った。そして「驚かせてすまなかった」とぽつりと告げた。

「大地」

渋沢も深呼吸した。不破の両肩に手を置くと、不破の顔を覗き込む。

「事情は分かった。けど、転校する必要はなかったはずだ!」
「克郎?」
「せっかく武蔵台に入学出来たのに転校するなんて...ウチの学校で何かあったのか!?」
「いや、特に何もないが。」
「だったら!?」
「克郎、何を怒っているのだ?」
「何を...だって!?」

渋沢はぎっとシゲを睨み付けた。

「大地、これはどういうことなんだ?」
「??」
「彼と...何をしていたんだ!?」

不破が咄嗟に口を押さえる。頬を真っ赤に染めると、俯いてしまった。
シゲは急に話題をこちらに振られて、バツが悪くなる。
どうやら、渋沢にしっかり見られていたらしい。
見られていたなら仕方ない。溜息を一つ吐くと、シゲは開き直った。

「何って...多分、見てのとおり。」
「なっ!?」
「いちおー、同意の上なんですけどぉ...」

不破がますます顔を赤くしてしまった。肩が微かに震えだす。
また、泣き出した?
シゲが慌てて、不破の腕を引っ張ろうと手をのばすと、

「大地に触れるな!!」

渋沢が強引に、不破の身体を自分に引き寄せた。
勢い余って、不破の身体はすっぽりと渋沢の腕に中に入り込んでしまった。

「克郎?」
「話がある。一緒に来なさい!」

渋沢は、驚く不破の身体を引きずるように歩き出した。

「克郎!?」
「とにかく来るんだ!!」

渋沢に連れられて、不破は仕方なくその場を離れていった。
取り残されたのはシゲ一人。二人を見送って溜息をまた一つ吐く。

「シゲさん」
「おわっ!?」

背後から声を掛けられて、シゲが飛び上がる。いつの間にか新太郎が来ていた。

「不破くん、どうしたんですか?」
「んー?」

シゲは曖昧な返事をする。新太郎の様子からして、多分、不破とのことは見ていないようだ。

「不破くんと一緒に帰った人って、武蔵台付属の渋沢さんじゃないですか?」
「そーみたいやね。」
「そーみたいって...シゲさん、さっき話してたじゃないですか?」
「へっ?」
「話はよく聞こえませんでしたけど、渋沢さん、めちゃくちゃ怒っていませんでしたか?」
「そーみたいやね。」
「シゲさん?」
「不破のヤツ、渋沢となんや深いお知り合いみたいやわ。」
「はぁ?」
「なんつーか...」

シゲは頭をがりがり掻きだす。渋沢は、サッカーをしている時とは全くの別人に見えた。
不破は大人しく渋沢の言うこと聞いてるし、それに...何かが引っかかる。

「まっ、えーか?とりあえず今日のところは!」
「シゲさん?」
「練習しよか?」
「え、えぇ。けど...」
「まぁ、不破のことは明日考えよ!なっ?」
「はぁ...」

釈然としない新太郎の背中をぽんと叩いて、シゲはグランドへと戻っていく。

「あれっ?」

後ろからついてきた新太郎が、急に立ち止まる。何かを拾い上げる。

「どないしたん?」

シゲは振り返って、新太郎が拾い上げたそれをまじまじと見る。

「それ、八坂神社のお守りやん。」
「えっ?何ですか?」
「祇園祭って知っとるやろ?それで有名なところや。なんでそれが...」

よく見ると、そのお守りには小さな袋がくくりつけられていた。

「??」

シゲがその小さな袋を開けると、

「スーパーボール?」

新太郎が先に声を上げた。
シゲが手にしたそれは、半透明で中にきらきら光る粉が入っている。
どこにでもあるようなものだった。

「何でしょうね?それ??」

シゲは黙ってそれを見つめている。

「シゲさん?」
「これ、どこに落ちとった?」
「えっ?どこって、そこの茂みに隠れるように落ちてましたよ。」
「....」
「シゲさん?」
「さよか...」
「??」

シゲはそれを日差しにかざす。片目を瞑ってその中を覗くときらきら光ってキレイだった。
多分、これの持ち主は...シゲはくすりと笑った。

「シゲさん?」

もう一度、新太郎が声を掛ける。

「あ?あぁ、これな。多分、あいつのもんやろうから、後で返しとくわ。」
「はぁ...」

ますます首を傾げる新太郎。シゲはそれをポケットにしまい込むと、歩き出した。
新太郎も、てくてくシゲの後をついていく。
初夏の夕方。そよ吹く風が心地よくて、シゲの足取りは軽かった。



黙って歩く渋沢の背中を怖々と、不破は見つめている。渋沢が怒っている理由は理解できるのだが、どうしてそこまで怒るのかが分からなかった。シゲとキスした。その現場を渋沢に見られてしまった。人気がないとはいえ、誰に見られるかわからないような場所だった。そのような場所で、同性どうしでキスしていたことを、渋沢は怒っているのだと、不破は思っていた。

だが、シゲに殴りかかったり、転校したことをあれほど怒り出すのは、不破にしてみれば何となく納得できない。渋沢の行動が理解できない。今だって、こうして自分の手を強引に引っ張って歩いている渋沢のことが、理解できない。不破は首を捻りながら、渋沢に連れられるまま歩いていくと、渋沢の家に着いてしまった。渋沢は、無言で不破を自分の家に押し入れる。

一瞬、不破はちらりと隣の家を見た。そこは、不破の家だった。渋沢と不破は、家が隣同士。不破は一人っ子。渋沢も同じだった。そのせいか、二人で一緒にいることが多かったし、不破の両親は仕事で留守がちなので、不破はほとんど毎日、渋沢の家で過ごしていた。時には、渋沢の家で寝泊まりすることもあったくらいだ。傍目からみれば、仲の良い、兄弟のように育った二人だったが、いつしか、その関係が不破にとって負担に思えてきたのだ。

「渋沢のコピーや。」

シゲに言われた一言が胸に突き刺さる。似てもにつかぬ容貌の二人だったが、物心ついた時から一緒だ。自然と似かよってくる部分がある。お隣さんで、学校も一緒。渋沢は常に不破の側にいてくれる。安心がある。とても落ち着く。
けれど、どこか負担に思える時がある。うっとおしい、というワケではないが、なんとなく...。

自分が、渋沢という人間に浸食されているような感覚に囚われていた。

だから、両親の海外赴任は良い機会だと思った。この家を離れるのには、転校するには良い口実だと思った。別に渋沢が嫌いなワケじゃない。むしろ、好きな方だ。なのに、不破は此処から離れることを望んだのだ。けれども、離れてまだ数日だというのに、こうして渋沢に連れ戻されてしまったのだ。

渋沢は家の中に不破を入れて玄関のカギをかけると、ようやくほっとした。
自分の領域の中に、不破を閉じこめて安心したのだ。

(なんてことだ...)

渋沢は黙って自室へと向かう。不破もその後を黙ってついてくる。こんなことになろうとは...予想もしていなかった。遠征はたったの1週間だった。多忙な日々を送っていたせいで、自宅どころか不破にさえも連絡が取れなかった。そのせいだ。話を聞いていれば、せめて転校くらいはくい止められたものを! 本当は、不破が引っ越すことだって耐え難い。自分の側から不破が離れてしまうのが耐えられない。いつの頃からだろうか、こんな屈折的な想いに縛られるようになったのは。仲の良い、兄弟のように育った、と親同士は思っているらしい。傍目から見てもそう映るらしい。だが、弟のように思えた時期は、あっという間に過ぎてしまった。気がつけば、不破を独占したい、自分だけのものにしたい、誰にも渡したくない、ドス黒い欲望が心の中に渦巻いていた。

不破は、小さな頃から、何でもはっきり言う、裏表の無い性格だった。そのせいで、人あたりが悪くて、孤立しやすかった。頭の良いことも、他人からねたまれた。かわいげのない子供だと言われていた。だから、いつも渋沢が側にいてやったのだ。渋沢は誰とでも仲良くなれる、愛想の良い子供だった。人から好かれるタイプだった。ある意味、不破と正反対だった。だからこそ、渋沢は不破の側にいてあげることが義務のように感じていたのだ。いつだって、不破の側に、不破の手を引いてやることが、渋沢の役目。不破も渋沢によく懐いてくれた。渋沢にしか見せない笑顔も、よく見せてくれた。

純粋で、無垢で、真っ白で。一つ年下の不破が、愛おしくて仕方なかった。ずっと側にいてほしい、誰にも渡したくない。

想う心は、エゴに変わる。

その不破が、渋沢から離れていった。家の事情だと説明されても納得できない。不破らしくない。まるで、自分から離れたがっているように思えて仕方ない。焦る気持ち。親戚の家で不破の帰りを待つことができなくて、思わず転校先まで出向いてしまった。そして....決定的なものを見てしまった。

(あいつ!!)

忌々しい!なんてことだ。大切にしてきた掌中の珠を奪い取られた気分だった。それもちょっとした隙をつかれて!

あの男、佐藤茂樹!

春の大会で、思わぬ1回戦敗退を期した武蔵台付属中学。あいつの出現で、全ての歯車が狂ってしまった。あの試合が終わったら、大会が終わったら、渋沢は不破に自分の想いを伝えようとしていた。もうこれ以上、待っていられない。踏み出さなければ、何も始まらない。意を決して、あの大会に臨んだのだ。

それなのに、結果は信じられない1回戦敗退。おかげで、夏の大会に向けて、練習量が大幅に増えてしまった。遠征もしばしば行われるようになった。ただでさえも不破に会える時間が少ないというのに、ますます会えなくなってしまったのだ。

その結果が、これだ。不破が自分の側から離れた。それも、あいつのいる学校へ転校してしまった。
そして...

「くそっ!!」

渋沢が自室のドアを後ろ手で勢い良く閉めた。先に部屋へ入らせられた不破は、その音にびくりと身体を震わす。
不破がゆっくりと振り返ると、渋沢と視線が絡み合った。途端、渋沢が不破の両肩を激しく掴む。

「どういうことだ!!」

不破が顔を歪める。これほど厳しく渋沢に詰め寄られたことはない。

「何故...あいつとキスした!?」
「それは..」
「あいつが好きなのか!?」
「克郎?」
「あいつが...」
「佐藤とは今日初めて話をした。」
「大地?」
「春の大会で、克郎達と試合をしたな?佐藤は...」
「あぁ...」
「後半20分で試合に出てきた。ケガをしながらも相当な技を持っているヤツだった。」
「...」
「克郎が...負けたのは初めて観た。」
「...」
「佐藤のことは、その試合で知っていたが、話をしたのは今日が初めてだ。だから...。」

不破が両手で顔を覆い隠す。その仕草に、渋沢は言いしれぬ不安に襲われる。

「キスしたのは...佐藤の言うように『同意』の上だ。でも!理由はある!!理由は...」
「大地!?」
「克郎、オレはどうかしてしまったのだろうか?」
「えっ?」
「佐藤とキスしてイヤじゃなかった...」
「!!!」
「イヤじゃなかったんだ...」

不破の告白に、渋沢は言葉を無くした。
大切してきた唯一のもの。それが、たった一日で他のヤツに奪われてしまうなんて!?
今までの時間はなんだったのか?大地と過ごしてきた、十数年の時間は...。

「この感情が何なのか...理解出来ない...」

不破は、自分の顔を覆い隠した両手をゆっくりとはずす。泣いていた。声も出さずに。不破のクセだった。これほどまで泣くのに、声も上げないなんて。ただ、細い肩が微かに震えているだけで。大きな瞳に溢れんばかりに、大粒の涙が浮かんでいる。

「克郎、オレは佐藤のことを...」
「違う!!」
「えっ?」
「違う!!違う!!」

頭を振る渋沢に、不破は呆然と見上げるだけだった。

「克郎...?」
「違う..忘れるんだ、大地...」
「えっ?」
「アイツ...佐藤茂樹の事は忘れるんだ!!」
「!?」
「頼む...忘れてくれ...」

絞り出すような渋沢の声に、不破は驚いて渋沢の顔を覗き込もうとする。
だが、渋沢は顔を伏せて、不破のことを見ようとしない。

「克郎?」
「...きだ...」
「えっ...何?克郎、何を言って...」

渋沢が何を言ったのか、不破が聞き返した。

「...好きだ...大地...」
「えっ?」
「大地」


――――― 好きだ...愛している


耳元で囁かれた言葉。不破は一瞬にして、身体を強張らせた。
何? 何と言った? 不破は自分の耳を疑った。

「好きだ...大地...誰にも渡したくない...」

渋沢の掌が、不破の脇腹を撫で上げていたかと思うと、突然、シャツの中へと侵入を開始した。

「!!」

動揺する不破。渋沢の侵入を止めることが出来ない。

「い...いやだ..克郎...やめろ!」

身を捩って、渋沢に抵抗する。だが、押さえ込まれた身体は、容易にその拘束から離れられない。

「いやだぁ!!克郎!!いやぁ!!」

抵抗を封じられた身体。唯一、自由になる左腕を宙へと伸ばす。だが、それは何も捕まえられない。


――――― タスケテ!!サトウ!!


声にならない声が、虚しく空を舞う。掴み損ねた掌が、ゆっくりベットに沈んでいく。
誰も...助けてくれない。



初夏の天気は変わりやすい。今年初の台風が近づいているせいかもしれない。梅雨明け宣言したばかりだというのに。目まぐるしく変化する天気に振り回させる。じっとりと汗ばみながら、シゲは下宿先の寺の和尚に頼まれた用事を済ませて帰る途中だった。まぁったく、あの生臭ボーズがぁ!! 悪態を吐きながら、シゲは家路を急ぐ。

(はよ、帰って風呂にはいろっと!!)

それから、美味しくもない寺の夕飯を食べて、お気に入りにTV番組でも観て、と今夜の予定を立てながら、いつもの公園を通過しようとした時だった。よく気がついたものだ。シゲは、後になってそう考えた。人目のつかない茂みの中に、見覚えのある人影を見つけた。咄嗟に振り返った。そして、それを確認する。

「不破!?」

確認して、思わず大声を出してしまった。数時間前に渋沢によって連れ去られるかのように行ってしまった、不破大地だった。茂みの中にがざがさと入り込む。

「どないしたん!?こんな場所で!!」

不破は顔を伏せている。動く気配がない。

「不破?」

もう一度、声をかけて、不破の肩を揺さぶる。ぴくりと不破が反応して、シゲの腕を振り払う。
だが、振り払った腕が、シゲのものだと気がついた不破は、急に泣き出しそうな顔をして、シゲを見つめてきた。

「不破...」

恐る恐る、不破の身体を抱きかかえる。不破はシゲの行動に抵抗しない。むしろ、シゲの腕の中に自分をそっくり預けている。苦しそうな呼吸。額に汗が滲んでいる。どこか具合でも悪いのだろうか? 顔色が真っ青だった。

「不破、どないしたん?どっか具合でも...」

そう言いかけたシゲの目が、不破の首筋から、開いたシャツから見える胸元まで、無数の赤い斑点があることに気がついた。瞬間、ぎょっとする。(まさか...)シゲが身を強張らせる。思わずぎゅっと不破の肩を抱きしめる。

「..まない..」
「えっ?」

不破が微かな声で呟いた。

「すまないが...オレをあそこまで連れて行ってくれないだろうか?」
「あそこって...?」

不破が右手で指し示す方向。近頃、完成したばかりの高級マンション。

「あそこの最上階が、はとこの家だ。そこまで連れて行ってくれないだろうか?」
「...」
「もう、歩くことができないのだ...頼む..」

肩で息をしている。かなり苦しそうだ。シゲは黙って、不破を背負ってやる。身長はシゲとそれほど変わらないクセに、ウェイトはかなり軽いようだ。歩き出すと、小さな声だったがはっきりとシゲの耳に聞こえた。

「ありがとう...」



自分よりは軽いとはいえ、それ程大差があるワケではない。不破を背負って、目的の場所まで到着するまで、シゲはかなり無理をしたが、それでもどうにか辿り着いた。ようやく玄関に入り込むと、不破を降ろした。不破はそのままぐったりと横たわってしまった。

「おい?大丈夫かいな...?」

シゲも呼吸が乱れている。かなりしんどかった。エレベータがあったのが幸いだったが、それでもかなりの距離を背負って歩いた。

「不破?」

不破がようやく顔を上げた。

「すまなかった..」

そう言うと部屋の中へ入ろうとする。しかし、立ち上がることができない。苦しそうに背中を丸めている。

「ひどくやられたもんやな。」
「!!!」

不破がぎくりと身体を震わせる。シゲは不破の横に腰掛けると、くしゃりと自分の髪を掻き上げた。

「オレのせいやな...」
「えっ?」
「オレのせいやろ?渋沢にこないな事されたのは?ちゃうか?」
「...」
「渋沢、おまえの何やねん?何でこないなことすんねん?」

不破は答えない。黙って俯いている。

「渋沢と付き合おうとるのか?」
「えっ?」
「その...恋人ちゅうヤツか?」
「!!」
「そーなんか?そ、やったら、オレがしたこと...」
「違う...」
「ん?」
「そうではない!!」
「不破?」

不破の肩ががくがく震えている。嗚咽を堪えているのが分かる。

「不破...せやったら、渋沢はおまえの何やねん!?」

はっとする不破。ぎゅっとシゲの腕を捕まえる。

「克郎は...オレの家に隣に住んでいる。小さい頃からいつも一緒だった。いつも...オレの側にいてくれた。」

不破が深呼吸する。

「いつも一緒で、いつも克郎のことを見ていた。だから..おまえの言うとおり、オレは克郎の真似をしていた。克郎みたいになりたかった。」
「...」
「けれど、イヤになった。オレは克郎ではない!!だから、克郎から離れることにした。なのに...!!」

不破が頭を振る。思い出したくない。あんな...怖い思いは!? 震える不破の身体を抱きかかえると、シゲはシャワ−室へと向かった。こういったマンションの作りは大体において、似かよったところがある。シゲは知っているワケではないが、多分ここら辺りだろうとドアを開けると、そこは目的の場所だった。

不破の衣服を脱がしながら、シゲが訊く。はとこの事。この家の事。それに、ぽつりぽつりと不破が答える。この部屋は、はとこが仕事中に仮眠を取るためのもの。はとこには、既に家族らしい家族が存在しないこと。だから、この家には特に誰かが住んでいる気配はない。食事の世話などは、ハウスキーパーに任せてある。他にもいろいろと...そうしているうちに、不破を全裸にした。シゲも同じ姿になった。

不破は立っているのがやっとらしく、こんな状況でもぼんやりしている。赤い花びら模様が無数に散りばめられている不破の身体を見て、シゲは軽く舌打ちすると、不破の身体を抱きかかえて、シャワー室へと入る。

ぬるめのシャワーを不破の身体にかけてやりながら、ゆっくりと不破の最奥部分に指を這わす。
ぴくりと不破の身体が震える。シゲの肩をきつく掴む。

「あ...あぁ...いやだぁ...」
「不破、力、抜いてや!大丈夫や、痛いことあらへん、キレイにするだけや!しっかりせぇ!なっ?」

頭を振って厭がる不破の耳元に、あやすように懸命に囁きかける。不破が、また泣き出した。シゲは不破の身体をしっかり抱きしめてやる。優しく、いたわるように。ゆっくりと指を動かす。不破の中から、押し込められたものを掻き出してやると、不破の身体はびくびくと震えだした。

「大丈夫や...もう、怖いことあらへん...」

背中を優しく撫でてやる。不破は、泣きながらも大人しくシゲに従っている。シゲは、不破の身体をキレイにしてやると、シャワー室から不破を連れ出した。此処は、高級ホテル並みに何でも揃っているようだ。不破の身体に、真っ白い洗い立てのバスローブを掛けてやる。自分も同じようにそれを身体に引っかけると、不破の身体を抱きかかえて、ベットまで連れていく。不破を寝かせると、ようやくシゲは、ほっと息を吐いた。不破は、いくらかラクになったのか、顔色が良くなったように見えた。

「喉が..乾いた...」

不破がぽつりと喋った。シゲは、キッチンへと向かう。綺麗に整理整頓されているその空間は、モデルルームみたいで人の住んでいる気配が感じられない。それでも、冷蔵庫を開ければ、それなりの物が入っていて、シゲはミネラルウォータのペットボトルを2本取り出すと、不破の部屋へと戻っていった。

薄暗闇の中、不破の微かな呼吸が響いている。一瞬、眠ってしまったのかと思って、顔を覗き込むと、不破は微かに目を開いていた。その瞳にはまた、新しい涙が滲んでいた。

「ほい。」

シゲは、持ってきたペットボトルの封を切ると、それを不破に手渡してやる。不破は、ゆっくりとした動作で、それをごくりと飲んだ。ほぅっと息を吐く。不破が横たわるベットの脇に座り込みながら、シゲも自分の分をごくりと飲む。シゲもほっと息を吐く。

「...ありがとう...」

不破が呟いた。その声に、シゲが振り返ると、微かな不破の笑顔にぶつかった。シゲの脳裏に浮かぶ、小さな泣き顔。それが、微かに笑った。微笑んでくれた。遠い日の思い出。シゲもくすりとわらった。

「ほら?」

シゲが、制服のポケットから取り出して、小さなそれを不破の手に渡してやる。不破は、あっと小さな声をだした。

「これは...?」
「落としもんや、不破のやろ?」

新太郎が拾ったお守りだった。不破はそれを手にかざして、じっと見つめている。

「あぁ、オレのだ。どうして、オレのだと分かった?」
「不破と...キスした場所に落ちとった。」
「!...そうか...。」

不破は、目を閉じてそれを胸に抱える。不破の手を、シゲが優しく添えてやる。

「もう、怖いことあらへんでぇ?」
「えっ?」
「もう...泣かんでもえぇ..」

シゲの優しい声に、不破が目を細めてじっとシゲを見つめる。不破の瞳の奥で、シゲの姿が、遠い日の、見覚えのある少年の姿に重なって映った。幼い頃の、不破の記憶。唯一人、知らない土地ではぐれて、泣くこともできずに怖くて怖くて立ち竦んでいた、あの夜。そんな自分を助けてくれた、同じくらい年頃の少年は、自分を励ましてくれようとして、大切なそれを自分にくれたのだった。

握りしめたそれを、シゲがあの時と同じように包み込むように握ってくれている。不破が片方の手を、シゲの頬にそっと添える。シゲが目をぱちくりさせていると、不破はゆっくりとシゲの頬から髪へと、指を滑らしていく。

「綺麗な色だな...」

シゲの髪を指で梳きながら、不破が微かに震えているのがわかった。

「まだ、傷むんか?」
「あっ...いや、もう大丈夫だ。随分と...世話になった。」
「どういたしましてぇ!」

シゲが明るく答えてやると、不破がまた瞳を潤ませ始めた。

「おまえは...」
「ん?」

一瞬、口籠もる不破。涙が滲んでいるせいか、不破の瞳は憂いの色が濃かった。
軽く吐息をはくと、「なんでもない」と不破は頭を振った。

「もう、ゆっくりと休んだ方がええ、なっ?」

シゲは不破の布団をぽんぽんと叩くと、ゆっくりと立ち上がった。
すると、不破がシゲの手を急に掴んできた。驚くシゲの耳に、不破の震える声が聞こえた。

「しばらく傍にいてくれないだろうか?」
「不破?」
「駄目か?」
「いや...オレでよかったら、いつでもOKや!」

シゲはもう一度、不破のベットサイドに腰掛ける。お互いの手は繋がれたままで。じんわりと温もりが伝わってくる。

「佐藤...」
「あん?何や?」
「オレは佐藤のことを呼んでいた。」
「へっ?」
「あの時...」

不破の肩が震え出す。

「克郎が怖かった...とても怖かった! オレの知っている克郎ではなかった!どうして、あんなことを...」
「....」
「あの行為の意味が分からない!どうしてなのか分からない!!オレには苦しかっただけだ!!どうして...!!」
「不破...」
「怖くて、とても怖くて、あの時、何故か、咄嗟に佐藤の名前を叫んでいた。佐藤のことを呼んでいたんだ。そしたら...」
「そしたら?」
「克郎がもっと怖くなって...オレは恐ろしくなった。」

シゲが軽く舌打ちする。ここまでくれば、シゲにだって渋沢の考えがよく分かった。渋沢にとって不破はとても大切な人なのだろう。多分、愛おしくて仕方ないのだろう。それが、たった一日でシゲに奪われた。正確に言えば、奪われかけただけだが。シゲの出現が、渋沢を焦らせたのだろう。あの冷静で、温厚そうなヤツが、豹変したのだ。でもそれだけ、不破の中でシゲの存在が次第に大きくなっているからだ。無論、それはシゲだって同じなのだが。

「それなのに...それなのに...オレは克郎が嫌いになれない!」
「!?」
「あんなことされて、なのに、だ。オレは克郎が...」
「...」
「佐藤、オレは分からない! 克郎に、あんなことされても嫌いになれない。だけど、オレは...」

不破が繋がれたシゲの手をぎゅうと握る。

「おまえのこと...佐藤....」

シゲが不破の髪をくしゃりとかきあげる。

「今日は、もうゆっくりと休んだ方がええ。ゆっくりと眠った方が...寝るまで、傍にいてやっから。」

不破の口唇に、軽くキスしてやる。不破は抵抗しない。シゲも不思議な気持ちがした。同性同士である。考えもしていなかった。自分にこんな一面があるなんて。だけど、多分、これは相手が不破だからだ、シゲは思う。他のヤツに、こんなことしたい、なんて絶対思わない。それこそ、気色悪いとしか思えない。それなのに、不破とはイヤじゃない。むしろ、もっと触れたいと思う。もっと知りたいと思う。渋沢の気持ちが、少しだけ分かるような気がした。

(けどなぁ、なんでこんなに....惚れてしもうたんやろ?)

目を閉じて微睡み始めた不破の顔を、シゲは息をひそめてじっと見つめる。あの鋭い瞳がなければ、かなり印象がかわるものだ。今こうしている不破は、初めて会った時の印象がある。どきどきする。やっぱり自分の目に、狂いはなかった。不破は本当に綺麗だったから。もう一度キスすると、不破の瞼が微かに揺れた。けれども、開く様子は無かった。不破の微かな寝息が聞こえてくる。そっと繋がれた手を離して、シゲは着替えた。特に住んでないとはいえ、家人がいつ戻ってくるか分からない。念のために、そう思った時だった。

来訪者を告げる、インターホンの音が聞こえた。咄嗟に不破を見るが、ぐっすりと眠っている。気づく様子がない。しかし、しつこく鳴らされたら、せっかくの睡眠を妨げられてしまう。シゲは急いで、玄関へ向かった。呼び鈴がまた鳴らされるので、うっかり来訪者を確認せず、玄関のドアを開けてしまった。

「あっ!!」

シゲはしまったと思った。当然、こうなる事は予想できたのに。

「どうして、君が此処に...」

相手も驚きを隠せない。それもそうだ。大切にしてきた不破を奪われかけたのだから。
途端、渋沢はぐっと拳を握ると、「大地は?」と聞いてきた。
シゲは黙って、渋沢を家の中へと入れる。渋沢も黙って入ってきたが、かなり険悪な雰囲気である。

「不破なら、今、寝たトコやから、起こさん方がええと思うで?」
「.....」

不破の眠っている部屋のドアを指さす。渋沢は身動きしない。黙ったままだ。

「公園で行き倒れっとわ。」
「!?」
「あんなヒドイ状態で、めちゃカワイソやった。まさか、済んだからって、放りだしたんか?」
「ち、違う!出ていったんだ!」
「...」
「家の者が帰ってきたので話をしている隙に、出ていってしまったんだ!気づくのが遅くて...」
「まぁ、そんなトコやろって思っとたけど。」
「えっ?」
「『優しく頼りがいのある大好きなお兄ちゃん』に、いきなり、あないなことされたら、そりゃ驚いて逃げ出すわ。」
「大地が...そう言ったのか?」
「いや、詳しくは何も話さへんけど、大体察しはつくやんか。身体中、自分のもんや宣言するみたい痣つけられとったら。」
「...見たのか?」
「シャワーで洗ってあげました♪」
「なにぃ!!」
「放っといたら可哀相やろ?エライ無理させたようやないの?」
「...」
「まぁ、気持ちはわからんでもないけど...」

シゲが頭をがりがり掻く。渋沢はむっとしながらも、最初にシゲと遭遇した時のような勢いはない。

「けど、あんたのことキライになれへんって言うとったで?あんなことされても。」
「えっ?」
「あんた、不破の事、こないに大切やったら、もう二度と裏切らないことや。」
「...」
「あんたの事、めちゃくちゃ信用してる。それを、あんた裏切ったんやから。」
「...」
「じゃ、オレは引き上げるわ。」
「えっ?」
「後は、あんたに任したわ。」
「...」
「今は...不破の気持ちの方が大事やから。」
「...」
「けど、あんたとはフィールドの外でも勝負やわ。」
「!!」
「次は、負けへんでぇ。」

シゲはそう言うと、玄関へと向かって歩き出した。

「佐藤!」

後ろから渋沢が呼び止めた。振り返るシゲ。

「今日は本当にすまなかった...あ、ありがとう。」

渋沢の照れくさそうな、けど何処か苦々しそうな笑顔に、シゲはにかっと笑い返してやった。

「どういたしましてぇ!」

元気良く、不破の家を後にする。
小走りだったシゲの足取りが、次第に全力疾走へと変わる。
息が切れ、足がもつれる頃、シゲはようやく立ち止まった。
前屈みになり、ひとしきり肩で大きく息をして、ほぅっと深呼吸した。

これでいい。今はこれでいい。

シゲは自分に言い聞かす。
今はまだ早い、まだ始まったばかりだ。
そう、試合開始のホイッスルは、たった今、鳴ったばかりなのだから。

夕闇が迫る茜色に空を見上げて、シゲは思いっきり背伸びをする。
わくわくする。どきどきする。これからの事を考えると、じっとしていられない。
今日のところは退いておく。けど、次は負けない。絶対、負けない。
シゲが右手の拳を、空高く振り上げる。


――――― よっしゃ!! これからやぁ!!


初夏の風が清々しく吹き抜けていった。




FIN



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あとがき

思いっきり「偽物」でスミマセン。m(_ _)m
今回は渋沢に譲ったシゲですが、次回はそうはいかないでしょう!?
だとしたら、また、不幸になるのは渋沢か? いつになったら、渋沢は...報われないのか? 
哀れ渋沢、やっぱり悲劇の主人公!? 可哀相すぎる!?

同じような言い回しが多くて、表現能力の無さに、トホホ...情けなくて涙が出ます。
最後まで読んで頂いて、本当にどうも有り難うございました。

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