「克郎は、どっちが良いのだ?」

渋沢の目の前に差し出された雑誌。京弥が興味深そうに、渋沢の顔を見上げてくる。京弥がめくったその雑誌のページには、近頃人気のアイドルらしき二人の美少女の写真が載っていた。それも、ほとんど服を着ていない、露わな姿態の写真だった。

「きょ...京弥〜!!」

咄嗟に、渋沢は京弥から、その雑誌を取り上げる。
渋沢のベットに寝転んでいた京弥は、むっとして起きあがった。

「何をそんなに慌てているのだ? 克郎くらいの年頃なら、別に恥ずかしがることではないだろう?」

とても、5歳の子供らしからぬ口調だ。渋沢は盛大に溜息を吐く。

自分が悪かった。この雑誌は、近頃、覇気のない渋沢を気遣って、友人の一人が貸してくれたものだった。それを、うっかり机の上に出しっぱなしにしてしまったのがいけなかった。遊びに来ていた京弥に、見つかっても仕方ないことだった。

「で、克郎は、どっちが良いのだ?」
「あのね、京弥...」
「胸のでかさとスタイルの良さでは右側だったが、顔の良いのは左側だった。で、克郎は、どっちが良い?」
「...」

返す言葉が出てこない。
渋沢は、頭を抱え込んでしまう。

「おい?克郎?どうした??」

渋沢の頭をぺしぺし叩く京弥。

まったく、この子は...

渋沢は京弥に滅茶苦茶、弱かった。
正確に言えば、弱くなってしまったのだ。

大地によく似た顔立ちの京弥。
でも、その性格は、似て非なるもの。

大地ではない。

それにも関わらず、渋沢は京弥に弱かった。

多分、それは...

「シゲのトコに行くと、こういった雑誌は沢山あるゾ。」
「へっ?」

咄嗟に、渋沢が顔を上げる。京弥は渋沢に、子供らしからぬ無表情な顔で喋りだした。

「シゲは遠縁にあたる寺に下宿していて、そこの兄(あに)さん達に、そーいう本を貰うそうだ。住職も読んでいるらしいゾ。」

はぁ? 呆気にとられる渋沢。

仏道に帰依する者が、そーいう本見ていいんですかい? 
それに、好奇心旺盛の男子中学生にそんなもん、あげていいんですかぁ!?
あぁ、頭が痛い...

「大地も読んでたことあるゾ。」
「なっ!?」
「シゲとか田中に借りて読んでたゾ。ちなみに、そーいう本を読む時は、主にヌク時に使うらしい。」
「...」
「克郎はそういう時に使わないのか?」

何も言えません...渋沢、目眩を必死に堪える。

「しかし、オレには、まだヌクというものがよく理解できん。大地が説明してくれたが...」
「大地がぁ!?」
「あぁ、かなり詳しく説明してくれたが、オレの理解を遙かに超えていた内容だった。」
「...」
「おい?克郎?どうした??大丈夫か??」

信じられない、あの大地が...

渋沢の記憶にある大地は、素直で無垢で清らかで...というか、こういった事に無関心だった。今時の中学生らしくなくて、少し心配するくらいだった。それが...付き合い始めた友人のせいだろう。まぁ、それくらいの会話や知識は無ければ、かえっておかしい事かもしれないが...しかし!!

渋沢、再び、頭を抱える。あの大地が...自分が大切に守ってきた大地が...!!

初めて抱いた時の彼は、清純で無垢で、性的興奮など全く知らなかったのに...あぁ、神様、あんまりです...って、最初にそーいうこと教えたのはおまえだろう!!と、どこからか神様の声が聞こえてきそうだ。(こーいうのを自業自得というのだろうか?)

「克郎...」

京弥が渋沢の首に両腕を回してきた。
驚いて、渋沢が顔をあげると、京弥は眠そうな顔をしている。

「眠くなった...」

子供は不思議だ。突然、電池がきれるみたいに眠くなる。
渋沢が苦笑いした。

「じゃあ、ボクのベット、使ってもいいよ?」
「う〜ん...克郎、お休みのキスして...」

はぁ?何ですか??

渋沢はあんぐりと口を開けてしまった。だが、京弥はおねだりするみたいに、瞳を潤ませている。
多分、眠いだけだと思うのだが...5歳児にしては、きょーれつに艶っぽすぎます...

渋沢、背中に冷や汗を流しながら、この状況をどうすれば良いのか、必死に頭をフル回転させていると...

「シゲはいつも大地にキスしてもらっているゾ。」
「へっ?」
「それから、二人で同じベットで寝ているゾ。たまに覗きに行くと、二人ともパジャマ着てないで寝ている時がある。よく風邪引かないものだと感心しているのだ。」

佐藤茂樹...いつか殺してやる...

大地とそういった深い関係になった事は、一万億光年、譲ったとしても、だ!!
せめて、京弥が遊びに来ている時ぐらいは、そーいう行動は控えろってんだ!!

いつになく荒々しい渋沢の表情に、京弥は眠い目をこすりながら「?」顔だった。
けれど、本当に眠いらしい。あどけない大きな欠伸を一つして、京弥は...自分から渋沢にキスをした。
それも、頬ではない、もろ口唇に...。

「!!!!!」

瞠目する渋沢。だが、京弥はそれで満足したらしく、「お休みなさい。」と一言告げて、そのまま渋沢のベットに潜り込んでしまった。しばらくすると、すやすやと心地よい寝息が聞こえてきた。思わず、渋沢はがっくりと肩を落とす。そのまま、京弥が眠るベットに顎を乗せて、可愛い京弥の寝顔を見つめていると、不思議な思いに囚われる。

大地によく似た京弥。でも、京弥は大地ではなくて...

ふと、渋沢は眉を顰める。

もう、これ以上、大切なものを失いたくない。
あの過ちを繰り返したくない。もう、二度と...

渋沢は目を閉じる。浮かんでは消えていく愛おしい面影は、一体、誰なのか...渋沢は困惑する。
けれども、これだけは、はっきりと分かっている。

もう二度と、自分は誰かを愛せない、ということを...。



「克郎! 片づけは終わったのか!?」

威勢良く、玄関のドアを開けて入ってきたのは、京弥とそして...?
京弥の後ろに続いて入ってきた彼らの姿を認識すると、渋沢は目をぱちくりさせた。

「もうかってまっかっ!!」
「佐藤??」

「こんにちは!渋沢さん!!」
「鈴木くん??」

「さすが、日本代表GKの部屋ですね、豪勢だな。」
「中野くん??」

「いやぁ〜!!どうーもぉ!!お邪魔しますデス!!」
「田中くん??」

そして...

「久しぶりだな、克郎。」
「...だ、大地!!」

あまりにも見覚えのある顔が次々と部屋に入って来たので、渋沢はしばし唖然としてしまった。すると京弥が、両手をぱん!と勢いよく、渋沢の顔前で叩いた。その音で、渋沢は目をぱちくりさせると、ようやく口を開いた。

「きょ...京弥、これは...?」
「克郎の引っ越し祝いだ。というよりは、手伝いに呼んだのだが、もう片づけは終わったのか?」

部屋の中を見渡す京弥。まだ雑然とした雰囲気で、どちらかといえば、足の踏み場がない部屋の状態は、とても片づいたとは言えない。京弥は、部屋のあちらこちらに積み重なった引っ越し用のダンボール箱を指ではじきながら、

「やはり、この程度だな、引っ越し業者では。とても、今すぐ、住めるような状態ではないな。」
「まぁ、仕方ないよ。自分で整理した方が分かりやすいし...」

渋沢は苦笑いしながら、手にした食器などを棚に並べている。

「こういった細かい事は、比較的、新太郎と大地が得意だゾ。」

テーブルの上に乗せられているダンボール箱を、京弥が開封すると、

「適当に並べておくから、後で時間をみて自分で直せば良いだろう?」
「いや、それは...」
「とにかく、この箱の山積み状態をどうにかしないと、今晩、寝られないゾ。」

確かに...一人で暮らすには結構広い間取りの部屋が、所狭しと積み重なったダンボール箱の大群に占拠されている。大型家具はそれなりに置かれていても、その他はまるで片付けられていないのだ。

「一人のくせに、荷物が多すぎるぞ?克郎?」
「あぁ、結局、自分の荷物は全部、家から持ち出して来たからね。」

「何故?」

渋沢と京弥の会話に、大地が入ってきた。首を傾げて、渋沢の顔を見上げてくる。その大地の仕草に、渋沢の目が一瞬、釘付けになる。久しぶりに逢ったせいだろうか、大地の首筋や顎がより一層、華奢になったように感じられて、渋沢はどきっとしたのだ。途切れた会話に、大地が「?」顔していると、京弥が渋沢の耳を引っ張った。

「いたっ...」
「何を見ている??」
「えっ...いや、その...」

京弥のやや低い声に、渋沢は自分の考えを見透かされたようで動揺してしまう。
渋沢は慌てて軽く咳払いをすると、大地の質問に答えてやる。

「父方の祖父母を引き取ることになってね。ちょうど、オレも家を出ようとしていたから、「邪魔だから荷物を全部持っていけ」って事になったんだよ。」
「そうか...あの家から、克郎の部屋はなくなったのか...」
「う...うん、そう...」

少し寂しげな表情をする大地。何を思い出しているのだろうか? あの部屋は、幼い頃、渋沢と大地が一緒に過ごした場所だった。それがなくなってしまったことが、寂しいのだろうか? だが、あの部屋は...大地にとって、嫌な思い出もあるはずだ。

あの部屋で、大地は渋沢に抱かれた。

大地にとって、忌まわしい思い出だろう。無理強いしてしまった事は、大地だけでなく渋沢も苦しめた。それでも、渋沢は待とうと思ったのだ。大地の心が自分に向いてくれるまで。しかし、その望みは叶うことはなかった。

大地は、渋沢から離れていった。
離れて...大地が選んだその相手は...

大地の手が再び動いて荷物を片づけ始めると、渋沢も同じように手を動かし始める。けれども、渋沢の目は、大地の指先や腕、肩、背中、さらに腰へと、奪われてしまって、思うように身体が動かない。すると、

「ほい!渋沢!!」

いきなり、シゲが渋沢に缶ビールを投げてきた。慌てて渋沢がそれを受け取ると、シゲはにかっと笑った。渋沢の思考は、シゲにはすっかりお見通しらしい。渋沢は手にした缶ビールに視線を落とすと、はぁっと溜息を吐いた。

「新太郎も飲むか!?」
「えっ!?田中、ちょ..ちょっと、待って!!」

田中も、缶ビールを新太郎にぽいっと投げてくるので、新太郎は持っていた食器を落としそうになる。大地が横から、新太郎の代わりにそれを受け取ると、「おまえ達、まだ早いのでは?」と、怪訝そうな顔をした。

「そうだゾ!シゲ!田中!! おまえ達、何しに来たのだ!?」

京弥も中野と一緒に片付けながら、シゲに文句を言うと、

「おれら、宴会要員とちゃうか?」
「そーそー!!今日は新しいネタを仕入れてきたのだ!」

シゲと田中が缶ビールを飲みながら、けらけら笑い出す。二人の様子を見ながら、中野がメガネをくいっと引き上げると、ぶつぶつ呟いた。

「田中の宴会芸など、オレは見飽きたぞ。やらんでいい。」
「えっ〜!! 今日は考えに考えてきたんだゾ〜!!」
「くだらん。絶対やるなよ、田中。」
「ちぇっ〜!! んじゃあ、中野のいない時にやっちゃおうっ!!」

「オレも見たくないゾ!」

京弥が即答する。

「田中の芸は煩いだけで、ちっともわからん。」
「へ〜んだ!お子様には理解できないのだ!!」

舌を出す田中に、京弥がむっとした顔をする。
小さい頃から、京弥は子供扱いがキライな子供だった。

そんな二人の様子を見て、渋沢が思わず吹き出して笑ってしまう。

あれから、10年。
あっという間に、月日は流れた。

京弥は15歳になった。
今年は高校を受験する年だ。

渋沢の目の前で繰り広げられる京弥と田中の無邪気な言い争いに、渋沢はますます目を細めて見ている。

成長した京弥は、本当に、大地によく似ている。
顔立ちだけではなく、やや華奢な作りの体格や、仕草、言葉遣い、そして声までもそっくりだった。

愛しい大地に、よく似た京弥。
でも、京弥は大地ではない。大地では...では、京弥は一体...?

「おい、そこの宴会要員。」

渋沢は後ろから声がしたので驚いて振り返ると、そこには大地が片づけをしながら、こちらを見ていた。
だが、大地の視線は渋沢を通り越して、シゲを見ている。つまり、大地は渋沢ではなく、シゲに声をかけたのだ。

「はいな!...って、オレのことかいな?」
「他に誰がいる?」
「へいへい...で、何のご用ですか?」
「そこの部屋を片付けろ。『宴会』...とやらが出来ないだろう?」

「え、宴会って...」

渋沢がまた驚いて大地に聞き返すと、大地は相変わらずの無表情な顔で、

「克郎の引っ越しを祝いをやるのだと、皆、京弥に連れてこられたのだ。あと30分もすれば、京介から引っ越し祝いの食料が届くハズだ。」
「ええっ!?」
「京弥がいつも克郎に世話になっていると、京介からの伝言だ。それに、この状態ではろくな夕食も作れないだろう?」
「...」
「さてと...」

大地は適当に、皿類やコップといった食器をテーブルの上に出し始めた。
新太郎も田中に、「ビールばかり飲んでないで、いい加減に手伝いなよ!」と文句を言っている。

呆然としている渋沢に、大地がそっと囁いた。

「明日の午後は、日本代表の顔合わせがあるのだろう?」
「えっ?...あ、あぁ、そうだけど...」
「大変だな。セカンドステージも始まったから余計に...」
「うん、でも楽しいよ。それに、忙しい方が...余計な事、考えずに済むからね。」
「克郎?」

渋沢と目が合って、大地が一瞬、戸惑いの表情をする。多分、大地も気がついているのだろう。渋沢が、まだ大地に心を残していることを。今、この部屋に大地以外の誰もいなければ、渋沢はその手を大地に伸ばしているかもしれない。大地の髪に、身体に、全てに手を伸ばして、触れてしまうだろう。抱きしめてしまうだろう。

そうして、過ちをまた繰り返す。

「克郎、おまえは...」

開きかけた大地の口唇に、横からぬっと差し出されたビールの缶が押し当てられる。
大地は驚いて、缶を押しつけてくるのが誰なのか確認しようと、首を回して見あげた。

「大地も飲むか?」

シゲだった。いつの間にか大地の身長を軽く超えたシゲ。その目線は大地をしっかり見下ろしている。
大地もシゲを見上げると、

「いらん。それより、おまえも明日、克郎と一緒に行くのだろう? 今日は飲み過ぎるなよ。」
「へいへい。」

大地に受け取ることを断られた缶ビールを、シゲは勢いよく開けると、一口ぐいっと飲み込んだ。
たった今、飲み過ぎるなと警告したのに...、大地がむっとした顔をするので、シゲは軽く片目を瞑った。

その時、来客が来た事を示すインターホンが鳴った。

京弥が素早く反応して、玄関に走っていく。京介から引っ越し祝いの、様々な食料と飲み物が届いたらしい。
田中や新太郎も運ぶのを手伝うのに、京弥のあとに続いた。

「あっ、そうや...」

シゲが何か思いだしたように顔を天井に向けたので、大地が「なんだ?」と問き返す。
シゲは、ぽりぽりと頭を掻きながら、大地に笑いかけた。

「明日の午前中は、取材が1件、入ってたわ。しもうた...明日はいつもより早く起きなあかんか...」
「取材?」
「あぁ、移籍するか否か、オレに直接聞きたいんやて。」
「...イタリアだったな?」
「んー?けど、オレ、言葉、よう話せへんから行ってもなぁ...まぁ、大地が一緒ならええけど。」
「オレは仕事がある。今、日本を離れるわけにはいかん。」
「ほぅらな? せやから、移籍ゆうて騒がれても、オレにはそんな気、起きてへんねん。」
「だが、心惹かれる話だろ? プロなら、一度は海外でプレーしたいと思うだろう?」
「まぁな、けど、後ろ髪引かれまくりや...めちゃ心配...」
「んっ?」

大地の顎をシゲの指が捕らえた。そして、瞠目する大地の口唇を、ゆっくりと指先で撫でていくと、シゲはにやりと笑った。

「信用してへんわけじゃないんやけどな...もしものことがあったら、オレが我慢できへんねん。」
「シゲ?」

シゲの、もう片方の腕が大地の腰に軽く回された。ゆっくりと大地の身体を、シゲが引き寄せる。

「シゲ...」

シゲを見上げる大地の瞳が、微かに揺れていた。

あんな表情も出来たんだ...

ぐしゃっ...

何かが潰れる音に、シゲと大地がはっとする。音のする方を見れば、そこには缶ビールを握りつぶした渋沢の姿があった。全身をわなわなと震わせている。

「あっ...渋沢、おったんか...」
「...佐藤...」

貴様というヤツは...わざとらしすぎるぞ。
渋沢は思いっきり、シゲを睨み付ける。

この10年。
愛しい彼を奪われて、渋沢がどれほど苦しんだか...悲しんだか...。

だが、いつしか月日は、それぞれの取り巻く環境や生活を大きく変化させていた。

渋沢とシゲは、プロ選手として、今では同じチームに所属している。互いに、これほど頼りがいのある選手は、確かにいない。だが、それでも大地のことがある以上、渋沢はシゲと必要以上に関わり合いを持てなかった。同じチームの仲間としての信頼関係はあったが、フィールドを一歩出れば、すれ違うことが多い。試合以外で、練習以外で、声を交わすことは滅多になかった。必要以上の会話が持てなかった。それは...こうして時折、シゲが大地に触れるところを見せつけるから。しかも、人目を避けながら、渋沢にだけ見せるかの如く、あてつけのようにするから。

そう、今だって、京弥と他三名が、玄関に行ってしまった、そのスキの行動だ。
そう、いつだって、シゲはわざと大地を呼び寄せて、渋沢の目の前で、大地に堂々と触れてくる。

遠慮のないシゲの行動は、多分、渋沢への挑戦、もしくは牽制に他ならない。
獲れるものなら獲ってみろ。絶対、渡さない...返さない。

シゲは無言で、渋沢に釘をさしているのだ。思い知らそうとしているのだ。
もう、諦めろと...大地のことは諦めてくれと...

だが、それはかえって渋沢を煽り立てていた。物心ついた頃から一緒にすごしてきた大地を、何よりも大切に慈しんできた大地を、ほんの一瞬、手を離したスキに奪われた。その悔しさと切なさは、一生忘れられるものではない。

だから...もう、誰も愛せないのだと...

「あいたっ...」

大地がシゲから、ひらりと離れた。どうやら、シゲの腕を抓ったか、何かしたらしい。
シゲが痛がっている僅かなスキに、大地はシゲから身を翻したのだ。

大地がシゲから離れたその瞬間、京弥と新太郎達が部屋に戻ってきた。

「克郎? どうした?」

缶を握りつぶしている渋沢の様子に気がついて、京弥が渋沢の顔を覗き込んできた。
急接近してきた京弥の顔に、渋沢は一瞬ぎょっとして身体を仰け反ると、

「いた...」

渋沢は後頭部を食器棚にぶつけてしまった。痛がって、頭をさする渋沢を、京弥は訝しげな顔になる。
そして、渋沢より少し離れて立っているシゲと、渋沢の顔を交互に見ながら、京弥は首を捻って考え込んでしまった。

渋沢とシゲの間に流れる奇妙な空気の流れに、気付かない京弥ではない。今までも、時折、この奇妙な空気を感じていた。そして、この原因が何であるのか、京弥はとっくに理解しているのだ。京弥は、むっとした表情になると、口を開いて喋り出そうとした時だった。

「京弥...どうした?」

いつの間にか、京弥の後ろに近づいてきた大地が、京弥の手にしている荷物をそっと取り上げるので、京弥ははっとして振り返る。その途端、京弥の耳に新太郎達の楽しげな会話が聞こえてきた。居間のテーブル周辺は、どうにか、人が座れてくつろげるくらいのスペースが出来ていた。すでにテーブルの上には、京介から届いたオードブルやら何やらが、所狭しと並べられている。

「まだ中途半端な状態だが、一旦休止しないか? 克郎?」

大地に言われて、渋沢が表情を少しだけ和らげた。シゲは頬を軽く掻きながら、バツ悪そうにしている。

「...そうだね。せっかくだから、そうしようか?」

大地に笑いかける渋沢の様子に、ようやく京弥もぱっと顔を明るくさせた。

「うん!食べよう!!お腹すいたのだ!!」
「細いくせに京弥は、よく食べるな...」
「大地が食べなさすぎるのだゾ。それに、大地の方が細いと思う。近頃、ますます痩せてきたではないのか?」

大地と京弥の会話を聞きながら、渋沢が席につくと、新太郎が気を利かせて渋沢のコップにビールを注いでくれた。
京弥もしっかりコップを差し出すと、「お子様はこっち!」と田中にウーロン茶を注がれてしまった。
むっとして抗議する京弥に、大地がぎろりと睨んで釘をさす。仕方なく諦める京弥。さすがに年上のはとこには敵わないようだ。

「さすが、京介兄ちゃん! 相変わらず豪勢だなぁ!」

乾杯もそこそこに、テーブルの上に並べられた豪華な料理を田中が遠慮なく食べ始めると、大地がぽつりと呟いた。

「克郎には京弥がいつも世話になっているからと言っていた。そうだ。一応、田中にも世話になっている、とも言ってたゾ。」
「『一応』って何だよ! オレは京弥の先生だぞ!!」

「ふん。田中の授業は騒がしいだけで、よく分からんゾ。」

京弥が鼻先で笑うので、田中がむっとして「つまんねー授業はしない主義なの!オレは!!」と反論する。

田中は意外にも、一昨年の春、めでたく教員試験に合格して、京弥の通う武蔵台中学の教師になった。田中が教師という職業を選んだことは周囲を驚かせたが、彼はこう見えても、人をやる気にさせる、その場を盛り上げる、といった機知に富む性質の持ち主だ。それ故、田中はたちまち生徒達に受け入れられてしまったようだった。なかなか侮れないヤツである。

そんな田中とは、5歳の頃から知り合いの京弥である。学校の中では生徒と教師の関係だが、一度、校外に出れば、いつもの勝手知ったる仲になる。「先生」などとは間違っても呼ばない。生意気で、タメ口きく京弥になる。

「田中の授業を聞くくらいなら、教科書を読めば事足りるゾ。」
「言ったなぁ〜!!まったく、でかくなると可愛げがない!!幼稚園の頃は、あんなに可愛かったのに...」

遠い目をする田中の横で、新太郎が笑いながら、

「そう言えば、京弥くんってよく電池がきれるみたいに寝ちゃってたよね。」

そう言い出すと、中野もメガネをいじりながら喋り出す。

「この間、ウチの事務所に来て、急に大人しくなったと思ったら、ソファーで寝ていた。所長に言い訳するのが大変だったゾ。」
「あれは!!...悪かったと反省してる。」

中野は、昨年、異例の早さで弁護士の資格を取得した。今年の春からは、都内でも名が知られた某法律事務所に勤務している。京弥は大地に似て、頭の良い子供である。中野の仕事に興味があるようで、時折、中野の仕事場に入り込んでいるらしい。同世代と遊ばない子供である。困ったものだ、と渋沢が苦笑いする。

「ほぉ〜、反省なんて言葉知ってたのか、京弥?」

田中がからかうので、京弥がまたむっとした。京弥は一見、無表情な顔立ちの持ち主であったが、大地とは違って、実はその表情は変化に富んでいる。感情の起伏が分かりやすい。渋沢でも、大地が何を考えているのか分からないことがあったが、京弥の場合はほとんど分かる。だからこそ、『京弥は大地ではない』と、渋沢は自覚できるのだった。

だから、自分にとって京弥の存在は...

ふと、渋沢は視線を大地に向けると、大地はシゲと小声で何か話している。
渋沢は、その口唇の動きに自然と見とれてしまう。

すると、横から京弥がぬっと顔を覗かせた。

「何を見ている?」
「えっ!?いや...その...」

しどろもどろになる渋沢を、不思議そうに見つめる京弥。その瞳は大地によく似ていて、大地同様、目つきが悪いと言われるが、京弥の瞳の色はとても綺麗だ。汚れのない綺麗な瞳だと思う。その瞳に映される自分の姿は、とても醜いものに感じられた。自分の中の汚れた部分を見つめられているようで、渋沢は、つい視線を床に落とした。

「???」

京弥がますます不思議そうな顔をして渋沢のことを見ているので、大地がそれに気がついた。気がついて...けれど声はかけずに、しばらく静かに二人のことを見ていたが、ふと、大地が口元に微かな笑みを浮かべた。

「どないしたん?」

シゲが小さな声で大地に囁く。大地はシゲに顔を上げると「別に...」と素っ気なく答えた。

「シゲさん! 香織ちゃんって覚えてます?」
「へっ?」

いきなり新太郎に話しかけられて、シゲは目をぱちくりさせた。

「サッカー部のマネージャもどきやってくれてた子なんですけど...」
「あぁ、覚えとるよ。けど、それがどないしたん?」
「香織ちゃん、先週、結婚したんですよ。」
「へっ?」
「先週、僕ら、結婚式に呼ばれてましてね。不破くんは二次会参加だったんだけど...」

「話したハズだぞ。」

驚いて大地のことを見るシゲに、大地がまた素っ気なく答える。シゲは頬を掻きながら、「そーでしたっけ?」と、とぼけている。多分、疲れて上の空だったのだろう。大地が軽く溜息を吐く。

「香織ちゃんが、シゲさんに宜しくって言ってました。」
「ふーん、それで?」
「それだけです。」
「あっそ...」

「幼なじみの同級生が、就職早々結婚してしまったので、この三名の愚痴に付き合わされて大変だった。」
「反省してるってばぁ〜!!」

大地の台詞に、新太郎が大声をあげる。

「だってさ!オレ、香織ちゃんと同じ会社だし...相手は、先輩だったけどさ、なんつーか...」

新太郎は大学卒業後、どうにか無事に一般企業に就職できたのだが、まだまだ新人扱いで仕事らしい仕事をさせてもらえず、ひたすら慌ただしい日々を送っている。そんな中、突然の幼なじみの結婚に、胸中穏やかではなかったようだ。

「別に、香織ちゃんがどうこうってワケじゃなくて...なんつーか...」
「『彼女いない歴24年』に、虚しさを感じたということか?」
「そう言う、中野もそーでしょうがぁ!!」
「はははは...オレら三人、そーいう縁なく、ここまで来ちまったもんな!」
「ついに開き直ったか、田中。」
「オレには新太郎がいるから良いのだ♪」
「だから、何でそーなるワケなの!!」

「...という騒ぎを先週末、ウチで散々やられていたのだ。おまえの遠征中に、だ。」
「なるほど...おらんで良かったわ...」

新太郎達の騒ぎを見ながら、シゲが苦笑いする。けれども、相変わらずの三人の会話に、どことなくほっとする。
大地も微かに笑うと、ビールを一口飲んだ。

「不破、全然食べてないゾ。」

中野が急に大地に話題を振ったので、大地がきょとんとした顔をした。

「不破くんって、もともと食が細いよね。けど、なんだか、ますます痩せてない?」
「オレも、そう思った。仕事キツイのか?」

「いや、それほどではないが...」

大地は、K医大を卒業後、黒須財団の傘下にある研究所で働いていた。どういった内容の研究なのか、新太郎達は聞かされていない。これはシゲも同じことだった。「ヤバイことやってんだろ〜!!」と、よく田中に言われるが、大地は「企業秘密」と言って、詳しいことは一切口外しない。それだけに、こうして時折逢う、大地の様子に皆が心配するのもムリはない。

「シゲがきちんと食べさせないからだゾ。」
「なんでオレやねん?」

「亭主の稼ぎが悪いとか...」
「だから、何でオレやねん?」

「一緒に暮らしているんだから、少しは不破くんのこと面倒みてあげないと...」
「せやからぁ!!」

三人に交互に言われて、シゲが思わず大声を出した。

「うっさいわぁ!!」

「煩いことないゾ!やはりシゲが悪いぞ!シゲが毎晩、やりすぎるからいけないのだゾ!!」


ぶっ!!


シゲ達の会話に突然、割り込んだ京弥。それも爆弾発言付きで。
咄嗟に、渋沢は飲んでいたビールを床に吹いてしまった。

「克郎...どうした?汚いぞ?」

京弥が近くにあったタオルで床を拭く。

「きょ...京弥〜!!」
「なんだ?」

口を抑えて顔を真っ赤にしている渋沢を、さらに不思議そうに京弥は見上げる。京弥だけではない。大地やシゲ、それに新太郎達も目を丸くしている。すると、

「渋沢さん、まさか、知らなかったとか...」

新太郎がおそるおそる声をかける。

「知らんわけないやろ?」

シゲが即答する。

「渋沢が驚いたのは、京弥が知ってるからやろ?」
「オレが?」
「そっ!克郎兄ちゃんは、こーいうことうっさいから...」

「佐藤...」
「は、はいな!?」

渋沢の低い声に呼ばれて、シゲがびくりと身体を震わせる。

「し、渋沢さん、何でしょうかぁ...?」
「佐藤...一度、警告したハズだぞ...」
「は?」
「京弥がいる時は...控えろ!!と、注意したハズだ!!」
「せやかて、このガキ、ウチのマンションの合い鍵持ってるから、勝手に入ってくるんや! しゃーないねん!!」

「あの部屋は元々、京介のものだったのだゾ。それを大地が譲り受けて、シゲが転がり込んでいるだけではないか?」

京弥が負けずと、シゲに言い返してくる。

「それかて、合い鍵なんて、なんで持ってんねん?」
「何かあった時の為に、京介が持っていたものをオレが拝借しているのだ。」
「なんつーガキじゃ。」
「むっ!ガキではないゾ!!」
「ガキやろが!そーいうトコ、覗きにくるなんてぇのはなぁ!!」


バン!!


渋沢が床を叩いた。

「とにかくだ!!京弥に余計なことを吹き込むな!!佐藤!!」

渋沢の怒声が部屋中に響き渡る。積年の恨みもあるのだろう。渋沢の怒りは収まる気配がない。見たこともない珍しい光景に、新太郎達はひたすら呆然としてしまった。結局、この騒ぎが収まるまでに、軽く一時間は経過してしまい、この日のうちに引っ越し作業は完了できずに夜を迎えてしまったのだった。



「さてと...」

どうにか荷物を整理して、渋沢はふぅっと息を吐いた。まだ開封されていないダンボール箱はあるが、とりあえず生活するには困らない程度に部屋の中は片づいた。寝室として割り当てた一番奥の洋間には、自宅から運び出した愛用のベットが据え付けられている。

渋沢がひょっいと部屋を覗くと、ベットには京弥がぐっすりと寝ていた。京弥の側では、大地が細々したものを整理しながら、京弥が起きるのを待っている。

すでに、新太郎達は帰った後である。シゲは新太郎達よりは粘って渋沢の部屋にいたが、京弥が起きないことと、今夜は大地が京弥と一緒に黒須の家に行くことになっていたので、仕方なく、一足先に、帰宅したのだった。

今、渋沢の部屋には、大地と、気持ちよさそうに寝ている京弥の三人だけである。

渋沢は、大地の後ろ姿をじっと見つめた。

細くなった...

自分から離れてサッカーを始めた大地は、身体の線は華奢ではあったが、それでもまだ、サッカー選手らしく、身体には筋肉があったし、それなりに逞しさもあった。だが、高校を卒業して医大生になった大地は、サッカーをきっぱりとやめてしまった。そのせいだろう、大地の身体は、以前よりか細くなって、すっかり身体つきが変化してしまったのだ。

手際良く、本棚に本を並べていく大地の肩や腕、指先は、自分と同じGKだったと思えないほどの弱々しく、背伸びをする背中や腰、足首は、折れるのではないかと思えるほど、細く見えた。

逢うたびに思う。
大地はあの男に変えられているのだと。
あの男に愛されて、大地は...

未練がましい...

渋沢はふと笑った。全く諦めの悪い性格だ...
咄嗟に出た渋沢の溜息に、大地が気が付いて振り返った。

「克郎?」

大地が首を傾げながら、渋沢のことをじっと見ている。何をしているんだ?、大地の表情はそう言っていた。
渋沢はまたくすりと笑うと、大地のそばに歩み寄った。一瞬、大地の肩が微かに揺れる。

「すまないね、結局、大地に最後まで手伝って貰って...もう、あとは自分一人で出来るから大丈夫だよ。」
「そうか? かえって邪魔をしているような気がしたのだが...」
「そんなことないよ。とても助かったよ。ありがとうね、大地。」
「...いや...別に..」

渋沢の柔らかい微笑みに、大地が微かに頬を赤らめる。照れているのだろう。こういった仕草は、幼い頃から変わりない。
渋沢も嬉しくなって、より一層、微笑んでしまった。そして、「お茶でも飲む?」と大地に訊くと、大地はこくりと頷いた。

起きる気配のない京弥を部屋に残して、渋沢と大地はリビングへと戻る。

お湯を沸かして、手際よくお茶の準備をする克郎を見ながら、大地がふと呟く。

「克郎が煎れるお茶を飲むのは、久しぶりだな。」
「そう?そうだね。でも、近頃は、自分でも煎れる時間がなくて、京弥がよく煎れてくれるようになったんだよ。」
「京弥が?」
「あぁ、京弥もすっかり上手になったよ。けど、まだ、ちょっと落ち着きがないかな?まぁ、性格もあるだろうけど。」
「京弥はオレと違って、せっかちなタイプだ。しっかりしているとも言うがな。」
「そうかもね。けど、本質的には、大地とそれほど変わりないと思ってるんだけど。」
「かなり違うと思うのだが...」

大地が首を傾げて考えるので、渋沢がくすくす笑った。見た目が同じなせいかもしれないが、やはり大地と京弥はよく似ていると思う。しかし、長い付き合いで、彼らの違いが微妙にあることにも、渋沢は気が付いている。大地はどちらかといえば『おっとり』している一面がある。

それは多分、母親似なのだろう。お隣さんだったから、渋沢は大地の母親もよく知っている。勝ち気な自分の母親と違って、大地の母親は外で仕事をしているわりには、おっとりして、ほのぼのしている印象があった。大地が京弥より柔らかなイメージがあるのは、そのせいだろう。

だが、京弥は違う。京弥は負けん気が強い。子供扱いされるのがキライなことから察するに、あれはかなり気性が荒いようだ。すぐに怒るし、よく笑う。表情の変化が大地と比べものにならないほど、はっきりしている。もっとも、京弥と初対面の人は、その変化がほとんど感じられないらしいのだが、渋沢にはそれがよく分かる。

京弥は好き嫌いもはっきりしている。自分の考えをしっかり持っている。15歳の自分の頃よりも、京弥は頼もしく感じられる。今だって、自分の方が京弥に振り回されたりしている。主導権が京弥にあるようだった。だがそれは、意外と渋沢には嬉しいこと思えた。

渋沢は思わず、口元に笑みを浮かべた。

「克郎?」

一人で物思いにふけているこんでいる渋沢の顔を、大地が覗き込んできた。
渋沢が驚いて、咄嗟に手に持っていたカップを落としそうになる。

「あっ!」

慌ててカップを持ち直そうとした時、大地もそれに手を出してきた。
渋沢の手に、大地の手が重なった。

どきり...

久しく感じられなかった心臓の高鳴りに、渋沢が頬を紅潮させる。
だが、大地は特に何も思わないらしい。

「どうした?一人で笑ったり、赤くなったり...忙しいヤツだな?」

不思議そうな顔をしている。
渋沢はますます笑ってしまった。

そう...もう、大地は...そうなんだよな...

一人相撲している自分に笑いながら、渋沢がカップにお茶を注ぐと、部屋中に良い匂いが漂いはじめた。大地はイスに座らずに、テーブルに軽く腰掛けながら、渋沢の様子をじっと見ている。渋沢が大地にカップを手渡すと、大地は「ありがとう。いただきます」と礼を言った。

挨拶は基本。

大地にそう教えたのは、彼だった。
今でも、大地が大切に持っている『お守り』をくれたのは彼だった。

大地からその話を聞いたのは、大地が自分から離れて数年経った時だった。

運命かもしれない。大地と彼が再会したのは。再会して互いに惹かれあったのは、目に見えない引力に導かれたからだ。そして、自分には、それを覆すだけの力は無かった。不甲斐なさに嘆くというよりは、むしろやるせなかった。切なかった。

けれども、その想いは、京弥と一緒に過ごすことで、渋沢自身かなり救われていた。京弥の中に大地の面影を見ていた。愛しい大地の面影を追い続けていた。追い続けて、でも報われる事は決して無くて。それでも...。

自分の引力は、他の誰かと惹かれあうのだろうか?

「ないだろうな、きっと..」
「えっ?」

思わず独り言を呟いてしまって、渋沢は慌てて口を抑える。だが、それを訊いてしまった大地は、何事かと渋沢の顔をじっと見ている。渋沢は苦笑いしながら、「いや、別に何でもないよ。」と力無く答えた。

大地は納得できないような表情だったが、それでも視線を渋沢から離すと、ぼんやりと窓の外を見つめた。マンションの5階から見える夜景は住宅街の灯りしか見えないが、華々しいネオンがない分、物寂しいが綺麗に見える。だが、その灯りに照らされる大地の横顔の方が、より綺麗かもしれない。

華奢な首筋、細く尖った顎、すっと通った鼻筋、そして、薄桜色した口唇と、白い肌。

あの男のものなのに、これほどまで大地に心惹かれている自分に、渋沢は頭を振る。

「克郎?」

大地が振り返る。渋沢は眉を顰めて、微かに笑う。

「未練がましくて...イヤになるな...」
「ん?」
「まだ、諦めきれないらしい、オレは...」
「克郎?」
「オレは...まだ...大地の事が諦めきれない。」
「!?」
「こうしていると、手を伸ばして触れたくなる...また、過ちを繰り返してしまいそうだ...」
「克郎、おまえ...」

渋沢の手が大地の頬に伸びてくる。だが、その指先は、決して触れない距離でぴたりと止まった。
見開かれた大地の瞳の中に、寂しげな渋沢の笑顔が映る。

「克郎...何を言っているのだ?...おまえ、まさか...」
「ごめん...無理強いはしない約束だからね。」

大地の言葉を遮るように、渋沢の指先が離れた。
その指先を、渋沢はじっと見つめながら、大きな溜息を吐いた。

「京弥と一緒にいると、いつも大地のことを思い出しているんだよ。京弥の中に大地を見ていて...けど、それって身代わりみたいじゃないか?」
「克郎.....」
「そんな自分が情けなくてね。京弥のこと、見ていると辛くなる時がある。苦しくなるんだよ...もう、誰も...大地以外、愛せない...」
「克郎、気が付いていないのか!?」
「えっ?」
「何故、こんな事を言い出すのだ!? まさか、気が付いていないのか!? おまえ自身、もうとっくに...」


がたん!


物音にはっとして、渋沢と大地が音のする方に振り返った。

「京弥!?」

そこに立っていたのは京弥だった。いつのまにか起きたらしい。寝室のドアを開けて、じっと渋沢の顔を見ていた。

「起きたのか、京弥。」

大地が京弥に近づいた。

「だったら、そろそろ黒須の家に戻らなければ...京介からおまえに大切な話があるそうだ。」
「...」
「京弥?」

無言の京弥に、「どうした?」と言って、大地が手を伸ばそうすると、

「触るな!!」

突然、京弥がその手を振り払った。驚く大地に、京弥がぎろっと睨み付ける。その瞳は微かに濡れていた。

「なんで..何でなんだよ...」
「京弥?」
「何で...何で、大地はシゲなんだよ...何で、克郎じゃ駄目なんだよ!!」
「!?」
「何で...克郎は...大地じゃなきゃ駄目なんだよ...」
「京弥...」
「何で...オレじゃ駄目なんだよ!!」

「京弥!?」

走って部屋を出ていこうとすると京弥の腕を、渋沢が捕まえた。
京弥の身体がよろめいて、一瞬、重心を失う。その京弥の身体を、渋沢が抱きとめた。

「京弥...」
「オレ...知ってた。」

俯いていた京弥が顔をあげて、渋沢を正面から見据える。その瞳は涙で濡れていて、けれども瞳の輝きは失われていなかった。真っ直ぐ渋沢を見つめる京弥の瞳は、渋沢の心臓を射抜いた。射抜かれた痛みに、瞬間、息を呑み、渋沢は言葉を失う。京弥の瞳から溢れ零れる涙を、ただ黙って見つめていた。

「けど...身代わりでもいいと思ってた。」
「!?」
「大地の身代わりでもいいと思った...克郎のそばにいられるなら、それでもいいと思ってた!」
「...」
「だけど、それも駄目なら、オレはどうすればいいんだ!! 克郎のそばにいることすら意味が無いって言うのか!!」
「京弥!?」
「大地以外、愛せないなんて...誰も愛せないなんて...オレがそばにいることがイヤなのか!?」
「それは...!?」

京弥が渋沢の身体を突き飛ばした。

「いつまでも子供扱いすんな!! オレは克郎のことが好きなのに...好きだからそばにいたのに...身代わりだってなんだって...」
「京弥!!」
「克郎の馬鹿野郎!!」

走り出した京弥の腕を、今度は掴み損ねた。
渋沢の手が虚しく空を切る瞬間、渋沢の脳裏に遠い記憶が鮮やかに蘇った。


あの日。あの時。


渋沢は大地の手を掴み損ねた。一度は捕まえられたと思ったのに、次の瞬間、大地の手はするりと渋沢から離れていった。

大切なものを失った瞬間だった。

二度と手にすることが出来なくなった瞬間だった。

あの瞬間...自分は、かけがえのない大切な人を失ってしまったのだ。

ばたん!

勢いよく閉ざされたドアの音を遠くに聞きながら、渋沢は京弥の腕を掴み損ねた、自分の手を見つめた。
ただ黙って、ひたすら、その手を見つめ続けた。


あの時と同じだ。
あの瞬間と同じだった。
大切なものを失った瞬間。
あの瞬間と...


「克郎。」

呆然と立ち尽くす渋沢のそばに、大地が歩み寄ってきた。

「おまえは、とっくに気が付いていたハズだぞ。京弥の気持ちにも...そして自分の気持ちにも、だ。」
「大地...」
「気が付いて...それなのに、わざと考えないようにしていただろう!? 何故だ!? 何故、そこまでオレにこだわる!?」
「...」
「いや、違うな。おまえは、オレを見ていると言っていたが、それは違うぞ。おまえは、オレの中に京弥をみていた。違うか?」
「...」
「おまえはとっくにオレへの想いなど断ち切っていたのだ。おまえがこだわっていたのは、オレの時と同じようになりたくなかっただけだ。」
「...」
「京弥をオレのように傷つけたくなかった。失いたくなかった。同じ過ちを繰り返したくなかったからだ。」
「大地...」
「だが、違うぞ、それは。同じ過ちを繰り返したくないと思いながら、結局、おまえは過ちを繰り返している。それも、別な過ちを、だ。」
「あっ...」

渋沢が見つめていた掌で、自分の顔を覆い隠した。

何て事だ...今更、気が付くなんて...!!

渋沢の肩が小刻みに震えだした。

「克郎。」

大地が渋沢の腕を掴んだ。

「えっ?」
「まだ、間に合う。」

そう言って、大地が渋沢のことを玄関へと引っ張った。

「大地?」
「今なら、まだ間に合う。来い!克郎!!」

大地が力一杯引っ張るので、渋沢の身体がようやく動いた。

「間に合うって...」
「京弥が帰るところは黒須の家しかない。追いかけるぞ、克郎!」
「大地...」
「また...失いたいのか...京弥を失いたいのか!?」
「...」

大地がぎっと渋沢を睨みつける。大地とて、自分が渋沢にとってかけがえのない大切な存在であったのか知っていた。そして、自分は渋沢の想いを知りながらも、シゲのもとに行ってしまった。その事が、どれほど渋沢を傷つけ苦しめたのか、大地だって分かっていた。だからこそ、もう二度と、渋沢を同じ目に遭わせたくなかった。

二度と...苦しめたくなかった。

「行くぞ、克郎。」

大地は渋沢の腕を引っ張ると、黒須の家へと向かった。渋沢は黙って、大地にされるがままになっている。大地の手に引かれて。過去に失った大切な人の手に引かれて、だ。渋沢はぼんやりと、大地の手を見つめた。そうして思い知らされる。

自分が欲して止やまないのは、すでにこの手ではない事を。自分が今、必要としているのは、そばにいてほしいと思うのは、すでにこの手ではなくなっている事を。


一番そばにいてほしい人。一番大切な人。それは...。



「京弥は帰っているか?」

大地の声が、広い空間にこだまする。黒須の家だった。やたらと広い屋敷の中、二階へ通じる階段の下で、大地は京介と向かいあっている。大地の後ろには渋沢がいる。その渋沢を凝視しながら、京介は階段を塞ぐような形で無言で立っていた。

「部屋に戻っているのだろう? 通してもらうぞ。」

大地が渋沢の手を引いて、京介の横を通り抜けようとすると、京介が微かに口唇を動かした。

「京弥は、留学を承諾したぞ。」
「なに!?」

京介がじろりと大地を見る。

「今晩、おまえを呼んだのは他でもない。京弥の留学のことで、大地に意見してもらいたかったからだ。京弥には、いずれ黒須の家を、ひいてはオレの後を継いでもらう。留学は、その為のものだ。だが、京弥のことだ。すんなり言う事を訊くハズがないと考えて、そこで大地から京弥に留学を薦めて貰おうと思ったのだが...あっさりと京弥は承諾したぞ。」
「それは...」
「フン、どうせ原因はそこにいるヤツだろう?」

今度は渋沢のことを、じろりと見てくる京介。
すでにお見通しということらしい。渋沢は深呼吸すると、静かに京介に告げた。

「京弥に逢わせて下さい。」

渋沢の凛とした声が響いた。京介の視線から逸らすことなく、渋沢の瞳は真っ直ぐに見返してくる。
京介はしばらく黙っていたが、軽く息を吐くと、口の端に意地悪な笑みを浮かべた。

「留学は決定だ。これから必要な手続きを始める。」
「京介!!」

大地が叫んだ。すると京介が。また大地の事をじろりと睨んだ。

「京弥は承諾したのだぞ?」
「それは京弥の本心ではない!」
「だが、一度承諾した事だ。覆すことは出来ない。」
「なっ!?」
「いずれ京弥は、黒須財団の頂点に立つ人間になるのだ。安易な返事をしてはいけない身分になるのだからな。」
「今の京弥は冷静ではない! おまえなら、それくらい見抜いているハズだ! 京介!!」
「フン、中途半端な恋愛ごっこなど、いい加減、もう終わらせるべきだ。」
「それは京弥に決めさせる!」
「なに?」
「全ては京弥の意志だ!京弥に決めさせる!!」

大地は一瞬京介を睨み返すと、すぐに渋沢へと振り返った。

「京弥のところへ行け。」
「大地?」
「京弥の留学の話は、オレが止める。だから、克郎は京弥のところへ行け。」
「...」
「案ずるな。留学を承諾したのは、京弥の意志ではない。だから、早く行け。行って、京弥に本当のことを話してこい。」

「京弥は、きっと...待っている。」


大地の言葉に後押しされて、渋沢は階段を上っていった。途中、京介の脇を通り抜けたが、京介は特に止めはしなかった。だが通り過ぎる瞬間、京介はぽつりと呟いた。


「今度は、おまえに奪われるのだな...オレが大切に見守ってきたものを...」



京弥の部屋は二階の突き当たりだった。渋沢は一度、此処を訪れたことがある。友達と呼ぶには、京弥とはあまりにも歳が離れていたので、渋沢に興味を持った京介に呼ばれて此処を訪ねたのだ。それ以来、訪れたことのない部屋だった。

京弥の部屋へと歩きながら、渋沢はふと思い出す。

最近、『家庭訪問』と称して、田中が京弥の部屋に入ったことを話してくれたことがある。部屋の中は簡素で、今時の少年らしくなく、飾りっけが全く無かった、と言っていた。だが、部屋の壁に一枚だけポスターが貼られていた、と田中が教えてくれた。背番号「1」をつけた渋沢のポスター。そこには、京弥にねだられて書いた渋沢のサインが入っていた。

「憧れってヤツなんですかねぇ、そんな素振りなんて見せないのに...あれでも、照れくさいのかな?」

田中が笑いながら、そう言ったことを思い出した。それを聞いた時、渋沢も苦笑いした。そして、それが単なる憧れだと思いたかった。京弥が自分のことをどんな風に見ていたのか、どれほど想ってくれていたのか...気付いていながら、気付かぬフリをしていた。そして、自分の中で、京弥の存在がどれほど大きくなっていたのか...渋沢は見て見ぬフリをしてきたのだ。

大地に似ている京弥。だが、京弥は大地ではない。いつしか、渋沢は認めていたのだ。京弥の事を。京弥の存在を。
すでに大地との事は過去になっていたのだという事を。今の自分にとっては、京弥は大切な人なのだと。かけがえのない存在なのだと。

けれど、それを認めるのが怖くて...結局、京弥を傷つけてしまった。
今更、どんな顔をして、京弥に逢えば良いのか...

渋沢は、京弥の部屋の前で立ち止まった。それきり動けなくなった。指一本、動かすことが出来なかった。この扉の向こうに京弥がいる。大切な人だ。けれども、泣かせてしまった。不用意な自分の言葉で、曖昧な態度で傷つけてしまった。
渋沢は口唇を噛みしめる。

やはり、取り返しがつかないのだろうか...


がちゃ!!


いきなり目の前の扉が開いたかと思うと、突然、渋沢の視界が反転した。
そして、次の瞬間、渋沢の後頭部および背中に衝撃が走った。

「いたっ!!」

咄嗟に声をだして、渋沢は目を閉じる。
しばらく、その痛みに耐えながら、何事が起きたのかと、そっと目を開けると...

「きょ..京弥?」

視界一杯に広がった京弥の泣き顔。京弥は口唇を噛みしめ、震えている。渋沢は、必死にこの状況を把握しようと、呆けていた頭をフル回転させた。そして、ようやく理解できた。どうやら、自分は京弥に部屋の中に引っ張り込まれて、そのまま押し倒されたらしい。京弥が渋沢の身体の上に覆い被さっているのだった。

「なんでだよ...」

京弥が声を絞り出した。

「なんで...なんで、部屋の前まで来て...入ってこないんだよ!!」
「京弥...」

京弥がぐすっと鼻を啜った。

「京介と大地の声が聞こえたから...克郎の足音が聞こえたから...部屋の鍵、開けて待ってたのに...待ってたのに、なんで入ってこないんだよ!!」

瞠目する渋沢。京弥は渋沢が来たことに気がついていたのだ。そして、待っていたのだ。渋沢のことを。
渋沢が部屋に入ってくることを、京弥は待っていたのだ。

「京弥...」

渋沢が京弥の頬にそっと手を当てると、京弥の瞳から大粒の涙が溢れ零れた。

「なんで、肝心な時になると逃げちゃうんだよ...逃げんなよ...オレ、待ってたんだから...オレ、克郎のこと待ってたんだから...」
「京弥...」
「克郎が追いかけてきてくれるの待ってたんだ...克郎のこと...オレ、克郎のこと好きなんだぞ。」
「うん...」
「子供だと思って馬鹿にするな、本気だぞ。本気で好きなんだぞ。」
「うん...」
「大地のことなんか、もう忘れろよ。オレがいるんだから、オレのことだけ見てろよ。だから...」
「京弥...」
「オレは克郎のそばから離れないぞ。絶対、離れないぞ。覚悟しろ。」
「...」
「だから、オレの手を離さないでくれ...絶対、離さないでくれ...」

半ベソ状態の京弥の顔を見上げて、渋沢はくすりと笑った。
可愛くて、嬉しくて...これほど自分を慕ってくれている京弥が愛おしかった。

渋沢が京弥の背中に腕を回した。

「離さないよ、もう。」
「ホントか!?」

京弥の表情が、途端に明るくなる。
それを見て、今度は渋沢の方が、泣き出しそうになった。

「克郎?」
「京弥...」


―――――  愛してるよ...ずっとそばにいてほしい...


渋沢から告げられた言葉に、京弥はまた泣き出した。
泣きながらしがみついてくる京弥の背中を、渋沢はしっかりと抱きしめた。

ようやく手に入れた、大切で、愛おしい存在。
遠回りしたが、もう離さない。もう決して、この手を離さない。

もう二度と...離さない...



「降りてこないな。」

京介の前にコーヒーを出してやると、ぽつりと京介が呟いた。だが、その言葉に大地は何も反応しなかった。黙って京介の対面に座って、コーヒーを啜っている。

なかなか降りてこない渋沢と京弥を待ちくたびれて、大地と京介は、一旦リビングへと引き上げたのだった。大地と京介の話し合いは、とにかく京弥しだい、と落ち着いて、その京弥の出方を待っているワケだが、肝心の京弥が部屋から出てこない。手持ち無沙汰に、大地がコーヒーを煎れたのだが、京介はそれに口をつけようとしない。どことなく、そわそわしている。

「どうして降りてこない?」
「...」
「一体、何をしているのだ?」
「...」
「おい...」
「...」

大地はひたすら黙っている。すると、京介は何を思ったのか、部屋を出ていこうした。

バン!!

京介の後頭部に、クッションが投げつけられた。

「何をする?」

京介がむっとしながら振り返る。

「覗きに行こうなどと、下世話なことをするな!」

クッションを投げつけたのは大地だった。こちらもむっとしながら、京介を睨んでいる。

「何故? 京弥が心配ではないのか?」
「もう、子供ではない。」
「フン、だから心配なのだろう? 京弥は...やり方をしらないハズだぞ?」
「なっ!?」
「もっとも、あの男は知っているだろうから、心配ないと言えば心配ないのだが...」
「京介...おまえは...」
「あぁ、そうだ、京弥がよく話していたな。大地のところへ行くと、必ずシゲがおまえのベットにいて...」

バン!!

再び、京介にクッションが投げつけられたが、今度は上手くそれをかわした。

「すでに熟知しているわけか?」

意地悪く京介が笑うと、大地はますますむっとする。
そんな大地を後目に、京介は天井を、二階を見上げるような仕草をすると、軽く息を吐いた。

「直人は...いつ、帰国するのだ?」

突然、大地に訊かれて、京介が驚いて振り返った。
今度は、大地が意地悪そうに笑った。

「ふん、人の事を言えた義理か? おまえは...」

京介が首を傾げて、考え込む。この仕草は、目つき同様、遺伝らしい。全く、奇妙な遺伝である。

「来週には、帰ってくる。二年ぶりだ。」

ふと、京介の瞳が優しくなる。黒須財団の若き頭首、黒須京介が和やかな瞳になるのは、はとこにあたる『不破大地』と『黒須京弥』と、そして『小林直人』だけだった。

直人は、京介の唯一人の親友であり、かつ、『恋人』の地位を確保していたのだが、それは半強制的な関係だと、直人はよく怒っていた。けれど、それが半強制的ではなないことくらい、周囲は知っている。直人にしてみれば照れくさいのだろう。とにかく素直に認めなかった。

ところが、その直人が、何を思ったのか、ある日突然、海外青年協力隊とやらに参加して、二年間も日本を留守にすることになった。京介の手が届かないところへ行ってしまったワケだ。おかげで、京介の周囲は、この二年間、八つ当たりされる日々が続いている。だが、その直人が、ようやく任務(?)を終えて、めでたく帰国してくるのだった。

「では、これでもう、京弥とオレは八つ当たりされなくて済むのだな?」
「誰が八つ当たりをしていた?」
「していない、とは言わせないぞ。」
「う〜ん...」

ますます首を傾げる京介。
大地がくすりと笑った。

「イヤになるほど、似ているな。オレ達は。」
「そうか? オレは『攻』だが、おまえと京弥は『受』だろう? 全然、違うぞ?」

がん!!

大地が京介の顔面に投げたのは、TVのリモコン。
思いっきりヒットした。

「真面目に痛いぞ! 大地!!」

鼻を押さえて大声をあげる京介に、しらんふりしている大地。
だが、ふと、大地が呟いた。

「信頼しあっているのだな、おまえ達は。」
「ん?」

相当痛かったらしい。京介はまだ鼻を押さえている。大地が手元にあったタオルを、京介に投げてやると、京介はそれを受け取って大地の対面に座り直した。

「京介に耐えられることなら、オレにもできるかもしれない。」
「何の事だ? 大地?」

京介が、また首を傾げる。じっと大地のことを見つめるが、大地は視線を床に落としたままだった。
大地が大きな溜息を吐いた。そして、微かに笑った。

「オレも決めなければいけないな...」



次の日。

大地とシゲのマンションに珍しい客が二人、訪れていた。
一人はよく来るのだが、もう一人は、この10年間、来たことがない客だった。

10年前。

まだ大地とシゲと再会する前は、大地を訪ねて此処にはよく来ていた渋沢だった。だが、シゲと大地が恋人になった時、二度と此処には来ないだろうと、渋沢は思っていた。二人が暮らすこの部屋に、足を踏み入れることはないだろう、と。

それが、この10年という年月が変えてしまったのだ。

こうして、かつて一番大切だった人、一番愛していた人と、この部屋で会う事が出来るとは夢にも思わなかった。
そして、自分の傍らには、今一番、愛おしくて仕方ない人が、座っている。

不思議な光景だと、渋沢は目を細めた。

大地とシゲと、そして京弥に囲まれて、こうして4人で、この部屋にいることが不思議で仕方なかった。
今までも、4人きりになったことがあったが、その時はこの部屋ではなかったし、こんな気持ちにもならなかった。

こんな穏やかな気持ちになれるなんて...渋沢はくすりと笑った。

「何が可笑しい?」

京弥が渋沢の頬を抓る。

「痛いよ...京弥...」

痛がる渋沢を見ながら、シゲが笑った。

「しゃーないやんか、幸せすぎて自然と笑ってしまうんやから。冬が長かった分、そりゃ嬉しいわけで...」
「それをおまえが言うのか、シゲ? 冬を長引かせた張本人のおまえが...」

京弥がシゲを指さすと、シゲはぎょっとしながら「別に長引かせたワケじゃ...」と、苦笑いした。

「けど、シゲが大地を寝取らなければ、克郎は不幸にならずに済んだのだぞ!」
「そしたら、今の京弥くんは、此処にはおらんことになりまっせ?」

京弥の憎まれ口に、シゲがしっかり言い返す。
むっとする京弥。シゲの横に座っている大地が微かに微笑んだ。

「良かったな...おめでとう、克郎。」
「あっ...いや、その...ありがとう...」

渋沢の頬が真っ赤になる。『おめでとう』と、祝福されることが奇妙な感じだった。
同性どうしで、しかも祝福してくれるのが、かつての想い人だから、渋沢にしてみれば、どことなく落ち着かない。
けれど、横にいる京弥が、「どうした?」と言って、顔を覗き込んでくるので、渋沢はまた笑ってしまった。
徹底的に、京弥に甘い渋沢である。これはもう、自他ともに認めてしまうくらいだ。
京弥の髪をくしゃりと撫でてやると、京弥は何故かむっとした表情をする。そして、渋沢の胸倉を掴んで言った。

「また、子供扱いしているな!! もう、子供じゃないぞ!! 昨夜、3回、出来たではないか!!」

ぶっ!!

渋沢が顔を赤くして京弥の名を叫ぶ前に、大地とシゲが口に含んだ飲み物を同時に吐き出した。
その様子に、京弥が「?」顔になる。そして、「汚いぞ?おまえ達?」と指さして睨みつけてくる。

「きょ..京弥...ごほっ..」

大地が口を押さえ、咽せかえりながらも苦しそうに声を出す。
すると、シゲが大声で笑い出した。

「ええやんけ!!大地!! こうまで、そっくりやと、かえって気持ちええわぁ!!」

げらげら笑いながら、大地の背中を叩くシゲを、京弥と渋沢が不思議そうに見ている。
ひとしきり笑うとシゲは、渋沢に向き直って、にかっと笑った。

「ホンマ、良かったなぁ...」
「佐藤?」

シゲが目を細めて、嬉しそうに笑うので、渋沢がますます不思議そうな顔をすると、シゲは小さな声で呟いた。

「ホンマ、良かったわ...これでも、気になってたから...」

シゲの呟く声に、大地が咽せ返るのどうにか止めて、シゲの顔を振り仰いだ。
すると、大地の頬に、そっとシゲが掌を添えて囁く。

「京弥の言うとおり...寝取ったみたいなカンジやったから、エライ気になっとんたんやわ...」
「シゲ?」

首を傾げるシゲを見つめてくる大地に向かって、さらにシゲは言葉を続けた。

「渋沢がどれだけ、大地のこと大切にしとったんか分かるだけに、エライつらかったんや。けど、オレかて、こればかりは譲る気にはならへんかった。」
「...」
「オレかて、大地は大切なんや。こればかりは手放す気なんて絶対あらへん。けどな、渋沢が辛そうな顔する度に、オレかて辛くなって...」
「...」
「はよ、諦めてくれへんかな...はよ、他にエエ人見つけてくれへんかな...って、いっつも気になってたから...けど、これで、オレもようやく肩の荷がおりたワケで...」

シゲが深呼吸した。大地の頬に手を添えながら、にっと笑った。

「これで、安心して、日本を離れられるワケや。」

「えっ?」

渋沢と京弥が目をぱちくりさせた。シゲは改めて二人に向き直ると、静かに告げた。

「オレ、イタリアに行くことにしたわ。」

部屋の中に沈黙が流れて、一瞬、時間が止まってしまったのではないかと錯覚するほどだった。
シゲがイタリアに行く? つまり、移籍する話か? それは...大地と離れて暮らすことなのか?
京弥が咄嗟に口を開いた。

「何故だ!シゲ!! 何故、イタリアに行くのだ!?」

詰め寄る京弥に、シゲは苦笑いしながら答えた。

「大地が信じろって言うから...オレに信じろって言うから...それに嘘はないってオレも信じられるから...行くことに決めたんや。」

シゲが大きく深呼吸した。

「オレはイタリアに行く。大地と離れるのはイヤやけど...けど、このままじゃ、オレ達、これ以上、前に進めへんねん...先に進めへんねん。」
「...」
「一年...もしかしたら二年以上かかるかもしれへん。その間に、オレ達がどうなるのか...このまま死ぬまで一緒にいられるのか...それを見きわる為にオレは行く、オレ達は一旦離れる。」

呆然とする渋沢と京弥の顔を交互に見ながら、シゲがまた笑った。

「出来立てホヤホヤのお二人さんの前で、こないな事言うたらあかんかもしれへんけど、いずれあんたらにも分かる...」

「そばにいても分からない事があるのに、離れたらもっと分からなくなるのではないのか!?」

シゲが最後まで言い終わらないうちに、京弥が大声を出した。
渋沢は黙って聞いている。大地の顔をじっと見つめていると、大地がふと息を吐いた。

「京弥の言うことも分かる。」
「だったら...!」
「オレがシゲと出会ったのは、14歳の誕生日を迎える前だった。」
「...」
「それから、ずっとこうして二人で一緒に暮らしてきた。ずっと一緒だった。」
「...飽きたのか?」
「そうではない。」

京弥の相槌に、大地がむっとして即答する。

「そばにいても分からない事は沢山ある。今だってそうだ。」
「...」
「離れる事は、正直言って怖いと思う。これがきっかけで、もう一緒にいられなくなるかもしれない。離れている間に気持ちがすれ違って、もう二度と一緒にいられなくなるかもしれない。けれど...」

大地がシゲに顔を向ける。

「オレは佐藤茂樹という人間を束縛したくないんだ。」

「束縛? 何だ、それ? シゲは十分、好き勝手にやっていると思うゾ。」

京弥の言い種に、シゲが苦笑いしている。大地は、そんな京弥に構わずに、渋沢へと顔を向けた。

「克郎なら分かるはずだ。海外でプレーしたことのある克郎なら。今、シゲにとって、海外へ行く事は大きなチャンスだ。さらに、前へ進めるかどうか、より高みへと進めるかどうか...オレは、オレがいることで、シゲを縛り付けたくない。」

「あの時は、オレはすっごく嫌だった。」

京弥が口を挟んできた。

「1年半、克郎が行ってた間、すっごく嫌だった。だから、克郎がケガして帰ってきた時、正直言って、ラッキーって思ったゾ。」
「おい...」

大地が黙っていろと言わんばかりに、京弥を睨み付ける。
だが、京弥の口は止まらない。さらに喋り続ける。

「離れるのは絶対イヤだ。もし、克郎が行くなら、オレも一緒に行くぞ。」
「渋沢にも、こういった話はあんねん。」
「えっ? そうなのか!?」

京弥がぱっと渋沢の顔を見上げると、渋沢は少し困った顔をした。

「渋沢の場合、ケガして一旦帰国しただけや。向こうから出てけって言われたワケやない。渋沢なら、向こうで十分通用するんやで、京弥?」
「...」

「サッカーは、特に選手としての寿命が一番短いスポーツだ。シゲは今25歳。これから先、どれくらい選手として活躍できるか...はっきり言えば、瀬戸際の年齢とも言える。」

大地の言葉の中に『25』という数字が出てきた途端、京弥が驚いて反応した。

「25?シゲは克郎と同じ歳なのか?大地と同級生ではないのか?」
「オレ、1年、留年してんねん。小学生の時にな。」
「何で?」
「まぁ、そのいろいろと事情がありまして...せやから、渋沢かてここらが正念場ってトコやで?」
「...オレはイヤだ。克郎が行くなら、オレも一緒に行く! 大地もシゲと一緒に行けば良いではないか!?」

「オレは此処に残る。」
「何故?」
「言っただろ? オレはシゲを縛り付けたくない。」
「???」
「一緒に行くことだけが、一緒にいることだけが、全て良い事とは限らない。分かり合える事だと思えない。離れて分かる事もある。」
「...オレは絶対イヤだ。」

譲らない京弥に、シゲがまた笑った。

「まぁ、今の京弥には分からんことかもしれへん...」
「むっ!また、子供扱いしたな!!」

怒って立ち上がろうとする京弥の髪を、くしゃりと渋沢が撫でた。
京弥が目をぱちくりさせると、渋沢は京弥に微笑みながら、ようやく口を開いた。

「二人で決めた事だ。オレ達がとやかく言う事ではない。そうだな?...大地。」

渋沢が大地に向き直ると、大地はこくりと頷いた。

「シゲを送り出す事、此処に残る事、全てはオレの意志だ。オレが決めた事だ。シゲもそれに賛成してくれた。」
「そうか...」

渋沢が視線を、大地からシゲへと移すと、シゲは小首を傾げながら、にかっと笑った。不思議な気がした。こうして、大地とともに、此処からシゲを送り出すことになるとは、渋沢は不思議でならなかった。あれほど互いに苦い想いを経験した二人が、こうもラクに向き合える日が来た事に。『時』が解決してくれたのだろうか? 

信じられない気がしたが、確かにとてもラクに向かいあっている自分を、渋沢は感じていた。

「元気で...」
「あぁ、渋沢も、な?」

窓から差し込んでくる日差しは暖かくて眩しくて、建物の合間から見える空はとても蒼く澄んでいる。
東京には蒼空がない、なんて誰が言ったのだろう? 蒼空は、確かに此処にある。誰の中にも、この綺麗な蒼空はある。

苦い想い出が、いい想い出にかわった瞬間だった。



「ほな、行ってくるわ。」

ゲート前、振り返ったシゲに、大地がこくりと頷いた。

「気をつけて...」
「あぁ、着いたら、電話する。」

見送る人、旅立つ人、迎える人、帰ってきた人...人混みで混雑している空港の中。
シゲは大地に見送られて、新境地へと出発する。

「いってらっしゃい! シゲさん!!」
「頑張れよ、シゲ。」
「不破のことは、オレ達にまっかせなさいっ!!」

「それが一番、怖いんやけど...」

シゲの旅立ちをしっかり見届けようとやってきた、いつもの三人組。大地の後ろで手を振って笑っている。「呼んでもないのに来んな!」とシゲに怒られながらも、「へ〜んだ!ホントは寂しいクセに!!」と言い返してくる連中だ。彼らと出会って共に過ごした年月は、大地と共に過ごしてきたのと同じである。大地とシゲが今までこうして一緒にいることができたのも、ある意味、彼らが支えてくれていたからかもしれない。

「シゲの三日坊主に千円。」
「なんじゃ!京弥!!それは!?」
「シゲのことだから、どうせすぐにイヤになって帰ってくる。だから、三日坊主。」
「おまえなぁ〜!!」

大地の横に立っている京弥は、いつのまにか大地と同じ身長になっていた。京弥の成長に気がつく度に、年月が着実に経過していることを感じられる。それだけ、自分も着実に歳を重ねているのだと思い知らされる。だからこそ、この旅立ちは、自分にとって最後のチャンスかもしれない。シゲを快く送り出してくれる大地に感謝しなければならない、シゲはそう思った。

「そう簡単に帰ってくるか、どアホ。」
「どーだか。」

田中が口を挟んできた。

「けど、いくらシゲでもなぁ...せめて1週間くらいは持つんじゃないのか?」
「なんじゃ!?田中!!」

「いや、それではあまりに早かろう。オレは2週間。」
「中野!?」

「あっ、オレも2週間くらいかな〜って思うんだけど...」
「新太郎もか...」

「せめて1ヶ月は持ってほしいところだな。」
「し、渋沢まで!! なんじゃ!!皆してぇ!!」」

「その程度のヤツだと思われている、という事だろう?」
「大地...」

口々に自分の堪え性のない事を言われて、シゲががっくりと肩を落とすと、

「契約は1年だろ? その前に使いものにならんと、放り出されないようにな。」
「京介はん、あんさんが一番きっついわ...」

トドメの一言を受けて、撃沈するシゲ。そのシゲの背中を、田中が威勢良く叩く。

「まぁ!元気で頑張ってこいや!!」
「いったぁ〜!!」

大声をあげるシゲに、皆が一斉に笑い出す。シゲも痛さ故か、涙目になりながらも、笑い出した。
これほど多くの人達に支えられているのだと、改めて感謝するシゲだった。

出発便の案内放送が流れてきて、シゲは笑うのを止めると、ふとゲートの方に振り返る。別れの時間がすぐそこまで迫ってきていた。

「ほな、またな。」

軽く片手を上げて挨拶すると、新太郎達が一斉に「いってらっしゃい!帰ってくんなよ!!」と大声で叫んで、げらげら笑い出した。「なんじゃ!おまえらは...!!」シゲも笑いながら返事をかえしてやると、すぐにゲートに向かって歩き出した。シゲの後ろ姿を、皆がそれぞれの思いで黙って見送っている。ふと、大地が京弥に囁いた。

「三日もたないのは、オレの方かもしれない...」
「へっ?」

大地が何を言い出したのか、京弥が理解できないうちに、大地はシゲに向かって走り出した。

「シゲ!!」

大地に呼ばれて振り返るシゲ。振り向いたシゲの首に、大地の腕が絡みついた。そして...

「「「...やっ...ちゃっ...たよ...」」」

目を見張る新太郎達。予想していたとはいえ、まさかこれほどの混雑している人混みの中では絶対やらないだろうと踏んでいただけに、大地の大胆な行動に、唖然として声が出ない。さすがに通り過ぎる多くの人達が気がついて、立ち止まって見たり、口を押さえて足早に離れていったりと、様々な反応がゲート前で繰り広げられていた。

そりゃそうでしょ? 白昼堂々、これだけの往来で、男同士が抱き合ってキスしてれば、誰だって驚きますって!!

「あの馬鹿が...」
「きょ...京介さん...?」

額に怒りマークつけまくりの京介の低い呟き声に、新太郎が背筋を凍らせる。

「また、余計な金を遣わせる気だな、大地は...」
「あ、あの...」
「佐藤茂樹は優秀な選手だ、知名度がかなり高い。今まで、大地との仲を騒がれなかったのは、黒須が『金』で抑えていたからだ。」
「そ、そうなんですか...」
「そうだ! 『熱愛発覚!』などといったゴシップ記事は全て回収してきたのだ。それを...また余計な事をやりおって...」

眉間に深い縦筋を刻み込んで腕を組む京介。そんな京介に睨まれているのも気付かないのか、二人はまだ止める気配がない。
すると、

「いいな〜、あれ。オレも今度やろっと♪」
「なに、突然言い出すんですか!! 京弥!?」

渋沢の服をくいくいっと掴みながら、京弥がにっこり笑う。渋沢は京弥の爆弾発言に、赤くなったり青くなったりしている。

「今度、克郎が遠征に行く時にでも絶対やるのだ。」
「駄目です!! 絶対に駄目!!」
「何故だ! オレだってあーいうことしたいぞ!!」
「駄目!駄目!駄目!! 絶対、駄目!!」
「克郎はオレが嫌いなのか!? それとも、まだ大地に未練があるのか!?」
「そーじゃなくて!!...心臓に悪すぎます...」

ぐったりしてしゃがみ込んでしまう渋沢の背中に、京弥が両腕を絡ませてのしかかる。

「おい、京弥。」
「なんだ、京介。」
「おまえ達まで、余計な事はするな。」
「???」
「渋沢克郎も、知名度はハンパじゃないのだぞ。そっちまで抑えるのは、かなり面倒だ。おまえ達ぐらいは大人しくして貰いたい。」
「えっー、大地ばっかりズルイぞ。」
「とにかく...」

「京介!! 京介じゃないか!!」

遠くから京介の名を呼んで走ってくる人影が、雑踏の中に見え隠れしながら近づいてきた。それが誰であるのか、京介が見定めた時、今まで眉間に寄せていた皺がすっかり消えて、新太郎達が見たこともない笑みを京介が浮かべた。

「直人!」
「迎えに来てくれたんだ!! 京介!! 元気だった!?」
「あぁ、直人も元気そうだな。」
「うん!元気だったよ...って、何の騒ぎ?」

ひょいっと直人が京介の肩越しに、人集りを覗き込むと...

「えぇっ!! あれ、大地くんじゃないかぁ!?」
「そうだ、オレのはとこだ。」
「そうだって...いいのかよ!? あんなことさせといてぇ!?」
「う〜ん、今日のところは、やってしまったものは仕方ない。」
「京介...」
「『金』がかかるが仕方ないだろう...ところで! 直人!!」
「へっ?」

くいっと直人のシャツの襟を掴むと、京介は意地悪そうな笑顔を浮かべた。

「よくも2年間、放ったらかしてくれたな?」
「え...えぇっ!! だって、それは...」
「散々待たされたバツだ。今日はとことん付き合ってもらうゾ。」
「付き合うって...えぇっ!! オレ、帰ってきたばかりで、疲れて...」
「言い訳無用。終われば、今日のところはひとまず解放してやる。」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!! 京介〜!!」

抵抗する直人を引っ張って行こうとする京介だったが、数m歩いたところで、くるりと新太郎達に振り返った。

「おい! そこの三馬鹿トリオ!!」
「へっ!? それって僕たちのことですか!?」
「他に誰がいる?」
「...」
「あとで、大地を黒須の家に連れてきて貰いたい。」
「はぁ...」
「三日どころか一日ももたないようでは、先が思いやられる! とことん言い聞かせておかねば!!」

京介はそう言い捨てると、直人を連れて、あっと言う間に、人混みの中に消えていった。

「へ〜んだ、京介だってオレ達のこと言えた義理ではないゾ。」

立ち去った京介の背中に、京弥が舌を出してみせると、ようやく気がついたのか、渋沢がはっとして自分の背中に抱きついている京弥の身体を引き剥がす。京弥はむっとしながらも大人しく従ったが、しっかり渋沢の腕に自分の腕を巻き付けると、にっこり笑った。

「オレ達も行くのだ♪」
「行くって...」
「大地のことは、新太郎達に任せれば良いから、オレ達もどこか行くのだ。」
「どこかって...」
「せっかくだから、デートしたいのだ!!」
「でっ!?」

咄嗟に口を抑える渋沢だったが、出来立てほやほやの間柄で、おまけにこの年下の恋人に滅茶苦茶弱い渋沢である。京弥に振り回されて、赤くなったり青くなったりと何かと忙しいが、これもひとえに幸せであればこそだ。苦笑いしながら、渋沢は京弥に引き連れられて、二人はこの場を後にした。だが、几帳面な渋沢である。新太郎達にはきちんと挨拶して立ち去っていった。

取り残されたの新太郎、田中、中野。
そして、彼らの後方で、今だしつこく止めないあの二人。

「おい、どーする?」

さすがに田中も、眉が吊り上がっている。

「そーだね、誰が止めにいく?」

新太郎も、かなり不機嫌そうだ。

「ここは一つ、公正にいこうではないか?」

メガネを拭きながら、中野が提案する。

「公正って...」
「そりゃ、もちろん...」
「よしっ! 行くぞ!! せーのぉ!!」


「「「じゃんけんぽいっ!!!」」」


威勢の良いかけ声が辺り一面に響いて、通り過ぎる人達が皆、振り返る。

なかなか離れようとしない二人と、騒がしい三人組と、成田空港北ウィングは騒然とした雰囲気に包まれていた。

空港の窓の外。今日も広がる蒼い空の下に、銀色の翼を輝かせて、発着陸を繰り返す飛行機の群れ。
この蒼い空は何処までも続いている。何処までだって飛んでいける。

だから...


「「「いー加減、離れろよぉ!!!」」」


結局、勝負がつかなかった新太郎達。
三人揃って、シゲの背中にケリをヒットさせた。

ようやく離れた二人に、喧々囂々と文句を言い始めるが、それは次第に高らかな笑い声に変わる。

いつだってそうだ。こうやって、皆で笑いあってきた。
笑いあって、支えあってやってきた。

これからも、ずっと、これからも...離れたって、ずっと一緒だ。

だから...


「「「「さっさと行けよ! シゲ!! 乗り遅れるぞ!!」」」」


蒼い空に、皆の笑い声とシゲを送り出す声が響き渡る。


――――― SEE YOU AGAIN !!




FIN



☆ ―――――――――― ☆

あとがき

あっ...ようやく終わりました...っつかー、こんなで良いのだろうか...
プロットからかなり外れてしまいました。やたらと長くなるし、京介さんや直人まで出て来ちゃうし...
でもって、思いっきり、皆、偽物だし!?

今回で、「BREAK FREE」は一応、完結致します。
でも、こんなんで良かったのでしょうかね?
何だか、まだ書き足りないような、気がしてます。

また、そのうち、ネタが思いついたら書きたいと思ってます。

ひとまず、これにて「BREAK FREE」から離れて、MAIN の「ホイッスル!」に戻ろうかと思います。
今まで、お付き合い下さいまして、有り難うございました。

感想ありましたら、是非、お聞かせ下さい。
最後まで読んで頂いて、どうも有り難うございました。

☆ ―――――――――― ☆

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