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夏の日差しが和らいで、めっきり秋らしくなった。 空が蒼くて、白い雲がぽっかり浮かんでいて、頬を撫でていく風が気持ちよい。 絶好の散歩日和...のハズだった。 白い雲が、むくむくと真っ黒い雲に変化したと気がついた途端、あたりが急に暗くなった。 突然の雨。さっきまでの天気は何処へ行ったのか? 9月とはいえ、夏の名残の夕立にも似ている。 そういえば今朝の天気予報で、台風が接近しているから天気が変化しやすいって言ってたっけ? 笠井竹巳は、忌々しげに空を見上げながら、そう呟いた。 病院からの帰り道。あまりにも気持ちよかったから、ちょっと遠回りをして、ふらりと公園を歩いていた。 土曜の昼下がりは、小さな子供達が園内を遊び回っていて、なかなか賑やかだったのだが... 突然の雨に、皆一斉に家へと駆け込んでいった。 笠井も駆けだしたのだが、寮まではまだ距離がある。 このままでは走ってもずぶ濡れだ。仕方なく、公園事務所の軒下に避難した。 事務所は留守らしく、窓にはカーテンが締め切られていて、人気がない。 人がいない方が気がラクか? などと考えていると、笠井と同じように誰かが駆け込んできた。 全力で走ってきたのか、肩で息をしている。すると彼は、髪の毛の滴を払い落とすように頭を数回、横に降った 猫みたいだ 彼が飛ばした水滴が笠井にもかかったが、どうせ濡れているからそれほど気にならない。 じっと見ていると、彼が大きく深呼吸して、空を仰いだ。 濡れた前髪が彼の横顔を隠して、笠井からはよく見えないのだが、かなり整った顔立ちの少年に見えた。 ふと、遠くで雷のような音が聞こえた。雨足はまた勢いを増したようだった。 雨宿りをしている笠井と彼の足下に、地面に叩きつけられた雨が跳ね返って、さらに靴を濡らしていく。 おろしたてのスニーカ。 真っ白なスニーカが泥と雨でぐちゃぐちゃになっている。 ついていない... 笠井は大きな溜息を漏らした。 一昨日から、本当についていない。 笠井は右手首の包帯をじっと見つめた。 これくらいのケガ、大した事ではない。 すぐに復帰できるさ、それなのに... これくらいで落ち込む自分も自分なんだけどさ... 笠井がもう一度溜息を吐くと、隣の彼も、小さいながらも同じように溜息を吐いていた。 何気なく彼に視線を移すと、前髪を掻き上げたらしく、さっきはよく見えなかった彼の横顔が、今度ははっきり見えた。 どきん 何故か心臓が跳ね上がった。凄く綺麗な横顔だったから。 けれど、何処かで見覚えのある顔だと思った。いつ? 何処で? 笠井の視線に気が付いたのか、彼も笠井の方に顔を向けてきた。 正面から彼と見つめ合うような格好になって、笠井はようやく思い出した。 「不破大地...!」 「???」 桜上水のGK、不破大地だった。 不破は名前を呼ばれて、きょとんとしている。 そうだ、不破はオレのことを知らない。 多分、知るはずがない。 知っていたとしても、それは武蔵野森のDF、ぐらいなものだろう。 それさえも知っているとは思えない。 けれど、笠井は不破のことはよく知っている。同室の藤代から、ほとんど毎日聞かされているから。 他校生では接点がない藤代だったが、それはもう、しつこいほど不破につきまとっているのだ。 よく不破に怒られないものだと感心していたが、藤代相手では誰も怒れないだろう。 というよりは、怒っても藤代の場合、全く効果がないせいだけど。 おかげで、不破情報は欠かすことなく耳にする。 やれ、今日は何処のゲーセンで遊んだとか、PKの練習で不破に勝ったとか、もんじゃ焼きの上手い店を教えてもらっただとか... よくもまぁ、これだけ情報を入手してくるものだと感心していた。おかげで、藤代の次に不破の詳しいと、笠井は渋沢キャプに睨まれている。 ...実は、三上先輩にも睨まれてるんだけどな...などとは武蔵野森では、口が裂けても言えない笠井だった。 しかし。 不破がこれだけ騒がれるのが、ようやく分かったような気がした。 笠井の目の前にいる不破は...まさに『水も滴るイイ男♪....いや美少年?』だったからだ。 ちょっと目つきは悪いかもしれないけど、今の不破はいつも鋭い眼光が雨のせいか和らいでいて、かなり...艶っぽい。 雨に濡れた髪が顔にかかって、それはもう、藤代が見たら、さすがに理性が保てないだろう、などと心配してしまうくらいだった。 すると。 「武蔵野森の笠井竹己か?」 「えぇっ!?」 不破にフルネームで呼ばれた笠井は、驚いて、雨宿りしていた軒下から飛び出しそうになった。 慌てて不破が、笠井の腕を掴んだ。軒下に引き戻されて、おまけに笠井は不破の腕の中にすっぽりとはまり込むような格好になって... こんなトコ、武蔵野森のメンバーに見つかったら、とてもヤバイです... 不破の腕の中でじたばたしている笠井を、不破はぱっと離した。急に背中が寒くなって、笠井は言いようもない寂しさに襲われる。 そして、笠井は気が付くと、不破の腕をきつく掴んでいた。 「笠井...なのか?」 不破の確認する声に、笠井はぱっと掴んでいた腕を離した。 何やってんだ、自分!? 反則ですよ、神様!! 不破がこんなに綺麗だなんて!! あんまりですぅ!! 武蔵野森は共学だが、寮生活は当然男子のみ。とすると、何を勘違いしたのか、そういった輩がたまにいるワケだ。 笠井はそういった連中に目を付けられることが時折あって、要らぬ苦労に悩まさせられている。 でも、一軍ですから!! 間違っても、格下の連中に言いようにされません!! しかし、自分ではそう思っていても、世の中には無謀な事を計画する連中が性懲りもなくいるものだ。 オレは間違っても『受』ではありません!! などと叫んでみても、まかり通らぬこともある。 ましてや、笠井のことを『可愛い黒猫』などと身の毛もよだつようなことを言う連中には通用しない。 笠井は、それはそれは大変な目に遭うこともしばしばだ。 けれども、その危機をそれとなく救ってくれるのが、幼なじみの藤代であり、何事も(不破の事以外は)公正な渋沢キャプだ。 それに至極稀に、三上も救いの手を差し伸べてくれることもある。だからこそ、彼らにはどことなく頭が上がらない笠井だった。 (もし、不破が武蔵野森に来たら、ものすっご〜く大変だろうなぁ...) 笠井は不破のことを見上げながら、ふと思った。 でも...見上げるって事は、不破ってオレより背が高いんだ...と考えることも忘れていなくて... 不破は笠井のことを、不思議そうに見ている。 勝手に暴れたり、名前を突然呼んだりと、不破から見れば、笠井は挙動不審きわまりない。 じっと見つめてくる不破の瞳に、笠井はまた心臓をばくばくさせている。警鐘が鳴り響いている。 不破がふっと溜息を漏らした。 「右手首...」 「へっ?」 「サッカーで怪我したのか?」 「...」 不破に訊かれて、笠井はますます慌ててしまう。 そうだ、この手首のケガは、練習中に起きたものだった。 紅白戦の最中、相手チームのFWに激突して、咄嗟にフィールドについた右手首は、しっかりと捻挫していた。 これが、原因で...一軍から外されたのだ。 「あ? あぁ、そう...練習中にドジってさ、軽く捻ったんだ。」 右手首を庇うような仕草をして、笠井は視線を宙に浮かせた。たった、これくらいで、オレは一軍から外されて、藤代に... 其処まで思い出して、笠井はぎょっとした。目の前の不破が、黙って笠井の右手首を睨み付けていたから。 「包帯。」 「へっ?」 「濡れてしまったな、良くない。早く別なものに変えなければ。」 「...」 不破に言われて、それ程大したケガじゃないよ、などと言えなくなってしまった。だって、不破の表情は真剣味を増していたから。 じっと見つめてくる、不破の瞳がそらせなくて、笠井はとても困ってしまった。照れくさいと言うか..心配してくれているらしい。 ちょっとウレシイかも...。 夕立に似た雨は、いつしか小降りになってきていた。雲の切れ間から、微かに蒼い空が見え隠れしている。 「雨。」 「へっ?」 「これくらいなら、オレの家まで走れるだろう?」 「...」 「行こう。」 「えっ?」 不破にケガしていない左腕を引っ張られて、笠井はもの凄く動揺する。 走り出した二人には、いつしか雨は止みそうな気配をみせはじめて...気が付けば、笠井は不破の家に入り込んでいた。 玄関先で、ぐしょぐしょに濡れたスニーカーをどうしようかと思案していると、不破は「持ち帰って、洗って乾かせば良いだろう?」と言った。 そして、笠井を風呂場へ連れて行って、「暖まれ」と命令するかのように言う。笠井が戸惑っていると、不破は黙って出ていった。 一人残された笠井は、仕方なく、濡れた服を脱いで、風呂に入った。暖かい湯に冷えきった身体を浸すと、自然とほっとする。 (あっ...けど、着替え、どうしよう...) せっかく風呂で暖まれたのに、ぐしょぐしょで濡れた服を着るのは...などと思案していると、 「着替え、此処に置いておくゾ。」 「ええぇっ!?」 脱衣所から不破に声をかけられて、笠井はがばっと身を起こす。 ドアを開けて覗いてみれば、真新しい着替えとバスタオルがキチンと置かれていた。 不破が用意してくれたものは、Tシャツに、ジャージ、それに下着。 Tシャツなどは、不破のものらしく、奇麗に洗濯されているものだった。 けれど、下着は...新品らしい。かなり、気を遣ってくれたのが分かる。 っていうか...至れり尽くせり...ってカンジ.. 笠井は程よく暖まると、風呂からあがって、用意された着替えを身につけた。 多分、これは不破のサイズのはずなのだが、サッカー選手にしては小柄な自分でも丁度良い。 確か、不破は自分より身長が高いはずなのだが...意外と華奢なのかも... などと、一人でぶつぶつ呟いているうちに、笠井はあっと気がついた。 自分だけさっぱりして、いい気分に浸っていたが...そうだ! 不破も自分と同じように濡れていたではないか!? 慌てて脱衣所を飛び出して、不破を探すのだが、何処にいるのか分からない。 不破の家は、ある種の迷路っぽい作りに思えた。きょろきょろ歩いていると、リビングらしい部屋に入り込んだ。 「上がったのか...笠井?」 「うわっ!?」 後ろから声をかけられて、びくっとした。 振り返れば、其処には、湯気の立ったマグカップを持った不破が立っていた。 「あっ、不破! えっと...風呂と着替え、どうもありがと! それから不破も...」 「あぁ、このままでは風邪をひくからな、オレも入ってくる。」 そう言いながら、手に持っていたマグカップを笠井に差し出した。 笠井は驚きながらもそれを受け取ると、カップの中からいい匂いがしている。 どうやら、ホットココアらしい。甘いものがキライな方ではないから、ちょっと嬉しいような気がした。 「だが、その前に。」 「へっ?」 不破が「こっちへ来い」と手招きをするので、笠井はカップを持ったまま、とてとてと後を着いていった。 導かれるまま、笠井は2階へと階段を上り、まるで宇宙船のような廊下を通り抜けて、真っ黒な扉の部屋の中へと、不破と一緒に入り込んだ。 部屋の中は意外とマトモで、飾り気のない普通の部屋だった。どうやら、ここが不破の部屋らしい。 ベットに、クローゼット、机にイス、パソコン、びっしりと詰まった本棚...必要なものだけが整然と置かれていた。 「右手。」 「へっ?」 「普通の湿布薬で大丈夫か?」 救急箱らしいものを机の上に出して、不破がその中から湿布薬やら包帯やらを取りだしている どうやら、笠井のケガを手当をしようと思ったらしい。笠井は慌てて、持っていたカップを机の上に置くと、 「湿布薬なら病院から貰ってきたのがあるから..」 そう言って、小脇抱えていた自分のセカンドバックから薬袋を取りだした。 自分で貼ろうとしていると、不破がさっとそれを取り上げて手際よく右手首に湿布してくれた。 湿布薬が剥がれないようにと、さらに綺麗な包帯も巻いてくれた。 (手慣れている...っていうか、上手いなぁ...) 不破の真っ白くて細長い指先が動くのを黙って見ながら、笠井は、ふと『GKっぽくない』と思った。 武蔵野森の守護神、渋沢の指は、身体に比例して大きくて太くてごつごつしている。 その手が、意外にも料理が上手であるというのは、武蔵野森サッカー部では有名な話だが、渋沢はそれだけ器用ということだ。 不破もそうなのだろうか? それにしても...華奢な指先だ。 借りた着替えのサイズもさることながら、不破はもしかしたら自分よりも細いのでは? そう、笠井が考察(?)していると、いつの間にか手当は終わったようだ。 「それ、飲んで、テキトーに座っていてくれ。」 不破はそう言うと、自分も風呂に入るために、さっさと部屋を出ていった。 一人、ぽつりと残されて、笠井は仕方なく、カップを手にすると、ベットに座り込んで、一口それを飲んだ。 甘い液体が口一杯に広がって、暖かさが喉から胃袋へと到達すると、笠井は思わずほぅっと息を吐いた。 ずぶ濡れになってツイてない、と先程まで嘆いていた自分とはうってかわって今は、暖かい風呂に入れて、綺麗に洗濯された着替えに袖を通し、右手首の包帯もキチンと巻き直されて...さらに、暖かい飲み物まで貰ってしまって、それはそれは、とてつもなく...ツイている。ここまで至れり尽くせりだと、ちょっと怖いような気もするが、相手は不破である。不審がる必要性は感じられない。となると...笠井は急に眠くなった。 ココアを飲み干して、目をごしごし擦って、笠井は大きな欠伸を一つした。不破はまだ戻ってくる気配がない。 ほんの少しなら...笠井は、カップを机の上に置くと、ごろりと不破のベットに寝転んだ。 気持ちいい... もう一度欠伸をすると、今度は目を閉じた。部屋は防音装置でも付いているのか、とても静かだった。 窓の外、車の走る音が微かに聞こえてくるくらいだ。他には何も聞こえない。 笠井が睡魔に捕らわれたのは、あっという間の出来事であった。 「ん...」 かちゃかちゃという音が、だんだん大きく聞こえてきて、覚醒がゆっくり始まったことが自分でも分かった。 (何の音だろう? それに、えっと...此処はどこだ? 自分の部屋かな?) 笠井が薄目を開けて部屋の中を見渡すと、其処は見覚えない部屋だった。 訝しげに、もう一度首を回してみれば、誰かの背中が視界に飛び込んできた。 「?????」 よく見れば、彼は笠井に背中を向けて、パソコンをいじっているらしい。かちゃかちゃという音は、キーボードを叩く音。 なるほど、と笠井が納得していると、今度は背中を向けていた彼が笠井に振り返った。 「起きたか? 笠井。」 「....だれ...あっ...不破?」 正面から彼の顔を見て、それが不破であることを知り、ようやく今までの経緯を思い出した。 途端に、がばっと起きあがる。身体にはタオルケットが被せられていて、笠井は急に恥ずかしくなった。 ほとんど面識のない不破に、これほどまで図々しくしてしまった自分。 あつかましいにもほどがある。笠井の顔がみるみるうちに真っ赤になった。 不破が「どうしたのか?」と席を立って、笠井に近づいてきた。 笠井は「何でもない、大丈夫だよ!」と懸命答えて、やたらめったら、両手をぶんぶん振り回した。 そして...ぐったりと肩を落とした。 「?????」 不破が不思議そうな顔をしている。 笠井はぽつりと言った。 「オレ...どれくらい、寝てた?」 不破は、「ふむ?」と腕組みして、壁に取り付けられた時計をちらりを見ながら、 「1時間...いや、40、50分程度であろう。」 と答えてくれた。それを聞いて、笠井はますますがっくりと肩を落とす。 そんなに長い時間、ほとんど見ず知らずの不破の部屋で眠りこけていたなんて...渋沢にバレたら、確実に殺される。 三上にいたっては...考えたくない、恐ろしすぎる...。 笠井が黙り込んでしまったので、不破は軽く息を吐くと、閉ざされたカーテンを勢いよく開けた。 多分、眠り込んでいた笠井のためにカーテンを閉じていたのだろう。 外はまだ、かろうじて初秋の夕焼け空だった。夕闇はまだ完全に訪れていなかったのだ。 部屋の中が、夕焼けの色特有のダークオレンジに変化した。 その眩しさに目を細めていると、不破が「ん?」と微かな声をあげるのに気が付いた。 笠井も俯いた顔を上げて不破を見ると、彼は窓の外をじっと見つめていた。 何があるのだろう... 笠井もベットから立ち上がって、窓の外を見つめた。 「あっ...」 思わず笠井は声を上げてしまった。 窓の外。 それほど大きくない窓から見える、空一面に広がる...あれは、虹? 「これほど大きいものは珍しいな...」 不破が呟いた。薄汚れた東京の空に、これほど大きくて綺麗な虹がかかるとは、かなり珍しいことだろう。 笠井だって、しばらく見たこともないような、綺麗な虹だった。 それが夕焼け空に映えて、本当に綺麗だった。 虹って本当は七色以上あるかも...などと、つまらない事を考えながら。 しばらく二人で、その風景を黙って見つめていた。 かちり。 時計の針が進んだ音がした。それから、二、三度、かたかたと時計は動くような音を出した。 どうやら、時報を鳴らしたかったらしいが、スイッチがOFFされているらしく、空回りするような音だった。 笠井が時計をちらりと見ると、針は夕方の6時を指していた。 そろそろ帰らないと... 部屋の中はとても静かで、時計の音と、微かなブーンというパソコンの機械音しか聞こえてこない。 その音を聞きながら、笠井は急に帰ることを躊躇った。 今頃、練習は終わっているだろう。皆が寮に帰ってきているだろう。 そう、藤代だって... 思い出してしまった。 大した出来事じゃなかった。 それでも、自分の気持ちは... 夕焼けが次第に暗さを帯びてくる。 その中、空にかかる大きな虹も、次第に消えていくようだった。 薄れていく虹。夕闇にかき消されていく。 自分もこんな風に...消えていってしまうのだろうか? 「笠井?」 不破が振り向いた。そして、少し驚いた表情をして笠井を見つめた。 笠井は、どうして不破がそんな顔をするのか分からずにいると... 「あっ...」 ようやく笠井は気が付いた。 自分でも分からなかった。 分からないうちに... 自分は泣いていたのだ。 この涙には、笠井自身も驚いた。 自然と、こぼれ落ちた涙。 何故? 笠井はごしごしと、それを手の甲で拭った。 けれども、それは、拭っても拭っても、溢れ零れてきて... とうとう、笠井はしゃくり上げてしまった。 何故、泣くのだろう? 何が悲しくて、泣いているのだろう? 自分で自分が分からなかった。 それも初めて出会った不破の前で。 これほど、みっともないことはない。 けれども、涙を止めようとすれば、するだけ...溢れ落ちてくる涙。 情けない... そうだ、情けなさすぎる!! 藤代に言われた言葉に、これほど動揺しているなんて!! 悪気があって、藤代は言ったワケじゃない。 むしろ、藤代らしい言い方だった。考え方だった。 なのに、自分は... 右手首を怪我して、保健室へ直行すると、すぐに病院へ行くように勧められた。自分としては、それほどひどい怪我には思えなかった。 けれども、保健医の「大事をとって...」の一言で、仕方なく、笠井は練習を抜け出して、病院へと行った。 診察結果は、捻挫と軽いヒビが入っている、といったものだった。これくらい何て事ない...そう思っていたのに、学校に戻れば、その結果を聞いた監督から、しばらくの休養と...二軍への降格を言い渡された。 ショックだった。 これくらいの怪我で、二軍へ降格だなんて!! 無論、今は全国大会も終えたから、とりあえず、めぼしい大会は無い。 そのうち、怪我もなおって、すぐに一軍へ復帰できるはずだ。 それでも、監督から言い渡された言葉は、笠井にとっては、とても残酷なものだった。 ミーティングルームから戻る時、他のチームメイトがこそこそ喋っているのが耳に入った。 辛かった。 とても、辛かった。 けれども、これくらいでくじけたりする自分ではなかった。 それなのに... 寮の部屋に戻れば、風呂に行こうとしている藤代に遭遇した。 そして。 「笠井、二軍落ちだって? いいな〜! ラクできて、さっ!!」 取り立てて意味のない言葉だったと思う、あの藤代のことだから。 二軍落ちだって、ある意味、ゆっくり怪我を治せ、という意味なのかもしれない。 それでも。 自分の中には、そう、素直に思えない部分があった。 頑張ってきたんだ、自分なりに。 武蔵野森の一軍になるには。 本当に頑張ってきたんだ... いや、今だって頑張っているんだ。 才能だとか、運だとか、それだけじゃない。 歯を食いしばって...頑張ってるんだ。 水鳥が優雅に泳ぐように見えても、事実は、水面下で必死に藻掻いているのと同じなんだ。 自分だって、必死に頑張ってきたんだ。 それを...たったこれくらいの怪我で!! 「じゃあ、オレ、風呂に行って来るね〜!!」 脳天気な藤代の声が、笠井のささくれだった感情を逆撫でした。 おまえに...何が分かる!! 才能に恵まれた、おまえなんかに!! 藤代とは小学校に入学した時からの付き合いだった。 サッカーをとおして、付き合ってきた仲だった。 いつも、いつも...羨ましいと思っていた。 彼の才能に。 それは本当に天性のものだったから。 それでも、藤代は憎めなかった。 むしろ、彼の明るさに心惹かれて、励まされることが多かった。 けれど。 光射すところには、必ず影が出来る。 明るさは、暗闇をもたらすこともある。 藤代の笑顔が、時に、笠井の心に、言いしれぬ深い翳りをもたらすこともある。 今だって、そうだ。 たった一言で受けた衝撃。 ラクなもんか! 全然ラクじゃないのに...こんなに苦しいのに!! これくらいで、これくらいで... 自分は捕らわれている。こだわっている。 あれから、一週間。 藤代の目を見ないで過ごしてきた。 それなのに、笠井の態度に、藤代は気が付かなかった。 あのお日様みたいに明るい藤代は、笠井の心の中に巣くい始めた、歪んだ感情に気が付かないのだった。 今まで、涙は出なかった。 不思議と泣けなかった。 それくらい、衝撃が強かったということだろうか? けれども、今の笠井は、不破を前にして、ぼろぼろ泣いている。 不破にしてみれば、突然、笠井が泣き出せば、焦るだろう。 何故、泣き出すのか、理解できないだろう、困るだろう、迷惑だろう。 けれども、不破は何も喋らないで... ぱさり... 泣きじゃくる笠井の頭に、大きなタオルがかけられた。 はっと顔を上げた笠井だったが、タオルが邪魔して、不破がよく見えない。 不破が見えない、ということは、不破からも笠井の泣き顔が見えない、ということだ。 不破は何も言わない。 気配で、不破が窓の外を見ているのがわかる。 笠井の泣き顔をみないようにしているのがわかる。 笠井は、タオルでごしごし、目を擦った。 鼻まで...拭いてしまった。 夕陽はほとんど見えなくなった。 家々の谷間に落ちてしまったようだった。 僅かに残る赤紫の輝きだけが、落日の太陽が、まだそこにいることを物語っていた。 「藤代が...笠井が目を合わしてくれない、と気にしていた。」 笠井は、はっとして顔を上げると、不破の瞳とぶつかった。 初めて見た時のような、鋭い瞳ではなかった。 「どうして...」 「おまえが風呂に入っている時、藤代が電話してきた。」 「...」 「雨で練習が、一時中断したそうだ。いつもだったら、笠井がいるのに、ケガで病院へ行ってるから、つまらない、と。」 「...」 「笠井が自分を避けているみたいだとも、言っていた。だが、あの男は、理由についてはわからないのだと話していた。」 笠井は思わず、(やっぱり...)と胸中で呟いた。 藤代が、笠井の心の中に潜んでいる『魔物』に気がついていたら、とっくに友人では、なくなっている。 それにこの『魔物』は、藤代の底抜けの明るさに、ぽかぽか陽気のような暖かさに惹かれているから、普段は大人しくしている。 そっとしておけば、害はない。けれども一度、マイナスのエネルギーが注ぎ込まれてしまうと、途端にむくむくと頭をもたげて怪しく蠢く。 笠井自身も、どうしようもなくなるのだ。 笠井が軽く溜息を吐くと、不破はさらに喋り続けた。 「『人の気持ちを思いやれ』と、おれは風祭に言われたことがる。オレには、他人に対する配慮が足らないのだと。」 「...」 「この点については、オレと藤代は良い勝負なのだろうな?」 「不破...」 不破も軽く息を吐く。 「けれど、あいつには『無敵の笑顔』がある。」 「えっ?」 「決定的にオレと違うのは、其処だろう。 風祭や渋沢同様、あいつの笑顔は、無敵だ。あの明るさは、どんな闇も照らしてしまう。」 「...」 「だが、明るすぎるのも問題だな...」 「?」 「あれは、バカがつくほど明るすぎる。お陰で、周囲はそれに振り回されて、気が付けば、こっちの方が疲れている。」 「...」 「そして、あいつはそれに気づかないで、『なんで?なんで?なんでぇ〜!?』の連発。余計、疲れるワケだ。」 「...」 「『便所の100ワット』。」 「へっ?」 今度は、不破は大きな溜め息を漏らした。 「風祭がそう呼ばれたことがあるが、この形容詞は、むしろ、風祭よりは藤代の方が合っていると思った。」 「それって...」 「つまり。」 無駄な明るさ 「必要以上の明るさは無駄だ。かえって、目が疲れて、背けてしまいたくなる。そんな時は..。」 「...」 「『うざってんだよぉ、このタコ!』と言って、背中の一つも蹴飛ばしてみたらどうか?」 くすっ... 笠井が笑った。それほど可笑しい事でもなかったが、不破が喋ると妙に可笑しい。 多分、不破なりに笠井を気遣ってくれているのだろう。 どうして、笠井が藤代を避けるのか?、不破は理解していないだろう、いや、知る由もない。 だけど、突然、涙した笠井に、藤代の疑問が裏付けられたのかもしれない。 藤代は自分で気づかないうちに、笠井を追いつめているのだと。 そして、不破は、『人も気持ちを思いやれ』と風祭に言われたことを忠実に守ろうと努力しているのだ。 深海に沈んだ沈没船がゆっくりと引き上げられるように、笠井は次第に、深い水底から浮かび上がってくるような、そんな気分になっていた。 「それって、三上先輩だよ。」 笠井がようやく口を開いた。不破も少しだけ口元を緩めると、話しを続けた。 「おまえもそれくらい、藤代にやってもバチはあたるまい?」 「それは、そうだけど...」 「おまえは、藤代の『親友』であろう?」 「えっ?」 「藤代がそう言っていた。笠井は、自分の一番大切な友達だと。」 「...。」 「おまえにとっても、そうではないのか、笠井。」 「...」 「ほんの少しのすれ違いで、大切なものを失うのは...馬鹿らしいと思う。」 藤代が何気なく言った言葉に、傷ついた自分。 勝手に傷ついて、藤代を憎んでしまった自分。 憎む事で、自分は自分を守ろうとした。 でも、もう良いだろう? 十分だろう? たった、これくらいの心のズレで、大切な友達を失うことなどあるまい。 言葉一つ、間違えたくらいで、全部壊れてしまうような、か弱い絆ではないだろう...おまえと藤代の仲は。 「そうだね...そうだった...オレ、忘れかけてた...」 藤代は、オレの大切な友達。 藤代にとっても、オレは大切な友達。 「これくらいの事に、いつまでもこだわって...オレって馬鹿みたいだ。」 「...疲れただろう?」 「ん?」 「藤代と付き合うと、本当に疲れるだろう。」 「あ?あぁ...ホント、疲れる。」 「おまえはエライと思うゾ。」 「へっ?何で?」 「オレは、藤代を知って、まだ数ヶ月、それも他校生だから逢う機会も滅多にない。それでも、よく疲れるのだ。 おまえは同じ学校で、寮も同室で、かなり長い時間をあいつと共有している。忍耐強いのだな?」 「う〜ん...そう言えば、そうだね、よくそう言われる。」 「大したものだと思うぞ、おまえは。オレにしてみれば、尊敬に値する。」 笠井は今度は大きな声で笑った。 これくらいで、『尊敬』だなんて、随分な言われようだ。 それほど、不破にとって、藤代は五月蝿くて仕方ないのだろう。 でも、その明るさに、不破も惹かれている。笠井も惹かれている。 奇妙な部分で、不破と波長が合って、笠井は、とても...嬉しくなった。 今、泣いたカラスが、もう笑った 幼い頃、よくそう言われて大人達にからかわれた自分。 今も、それほど、変化がないようだ。 人の心など、そういうものなのかもしれない。 どんな深い傷も年月が経てば、いつしか癒される。 癒されない傷など、そう簡単には、お目にかからないのだ。 そりゃ、古傷が痛み出す、なんて事も時にはあるだろうけど。 強ばっていた肩の力が、すっと抜けた。 ものすごく、軽くなった。 後ろばかり向いていた自分。 マイナス方向ばかり向いていた自分。 けれど 「『人生振り向けばそこが前』。」 「何だ、笠井?」 笠井はくすくす笑った。 「それもアリだろうけど、やっぱ、ちゃんと、向きたいからな。」 「???」 「プラス志向ってヤツ。」 「あぁ、そういう意味か、なるほど。どちらを向いても自分にとっては前になる、ということか。 しかし、できればラス方向を向きたい、ということだな?」 「うん、そーいうことかな。」 「了解した。」 不破がこくりと肯いた。 部屋の中はすっかり暗くなって、窓ガラス越しに、月がぽっかり浮かんでいるのが見えた。 「あっ、やば...もうそろ、帰んなきゃ...」 口ではそう言いながら、笠井はふと、(帰りたくないな)と思った。 けれどそれは、先程までとは違った意味合いを持っていた。 『藤代に逢いたくない、だから、帰りたくない』ではなく『此処から離れたくない、だから、帰りたくない』に変化していたのだ。 そう、『此処』から。不破のいる、この部屋から。 藤代が、渋沢が、三上が、どうして他校生の不破をこれほどまで気にかけるのか、ようやく笠井は理解した。 なるほど、そうだったのか...、笠井は得心したのだ。 「そうだな、では...」 不破は窓辺に置かれたいた紙袋を、笠井の目の前に、ぬっと差し出した。 「一応洗濯しておいたが、もう一度、自分で洗った方が良いかもしれないゾ。」 「えっ...ええっ! もしかして、これ、オレの...」 「あ、あぁ、ひどく泥にまみれていたからな。とりあえず、汚れだけでも洗っておいた。」 「...ごめん...その...」 「今、着ているものは返さなくても良いぞ。」 「ええっ! それは、ちょっと悪いよ! 洗濯して返すから!」 「...だったら、上に着ているものだけで良い。」 「...うん、そうする。」 さすがに下着はね、などと笠井が苦笑いしていると、 「雨も止んだな。少し寒いくらいだ。」 「うん。」 「サンダルを貸してやる。それで良いか?」 「ああっ! そうだ! スニーカー!! 今日、おろしたばかりだったんだ!!」 「では、はやく帰って洗った方が良いな。」 「うん、そうする!」 喋りながら、二人は部屋を出て、玄関へと歩いていった ドアを開ければ、もうすっかり陽は落ちて、月だけではなく、気の早い星もちらほら輝き始めている。 「今日はありがとな。」 「あぁ。」 「借りたもの、近いうちに返しにくるよ。」 「別に慌てなくても良いゾ。」 「うん、でもさ、その...。」 「何だ?」 「えっと...その...今日の事なんだけど..。」 「???」 「藤代とか...、他のヤツには内緒にしておいてくれないかな?」 「内緒?」 「うん...ちょっと恥ずかしいから...いいかな?」 「...あぁ、かまわん。了解した。」 笠井がへへっと笑うと、不破は首を軽く傾げた。 「おまえは...」 「ん?」 「いや、何でもない...」 不破が何を言いかけたのか、今度は笠井の方が首を傾げる。 「何? 不破? どうかしたのか?」 不破がじっと笠井の顔を見つめてくる。 睨み合いではないけれど、不破の視線が熱い。 どきん 跳ね上がった心臓。 笠井の心拍数は一気に上がった。 何故だろう? どうしたのだろう? 自分は一体... それにしても、不破は何故、黙っているのだろう? 何を考えているのだろう? 奇妙な心臓の高鳴りは、笠井の頬を紅潮させた。 「あ、あのさ...何?」 もう一度、不破に問いかける。不破は、軽く腕を組むと、「ふむ?」と息を漏らした。 「藤代が言っていたとおりだと思った。」 「へっ!?」 「藤代は、おまえのことをよく話す。そのとおりだと思った。」 「ええっ!? 藤代が? な、何て言ってた!?」 「...藤代に聞け。」 「そんなっ! 此処に来たことは内緒なんだから、聞けるワケないだろ!?」 不破は黙って、腕を組んだままだった。 「なっ! 教えてくれよ! 藤代、オレの事なんて言ったんだ!?」 「聞きたいか?」 「もちろん!!」 興奮したせいで、余計に笠井の頬が紅潮している。 黒い瞳を大きく見開いて、不破の言葉を待っている。 不破が...くすりと笑った。 「『可愛い黒猫』」 「なっ!?」 「だが、笠井が怒るから、藤代は言わないようにしている、と言っていたゾ。」 「...あんのぉ...」 思わず拳を握りしめると、不破がまた微かに笑った。 「本当に仲が良いのだな、おまえ達は。」 「?」 「藤代は、いつもおまえの事をいいヤツだと言っている。 本人がいない所で、おまえを誉めるというのは、本当におまえの事が好きなのだろう。」 本当に大切な友達なのだろう 「羨ましいと思うゾ。」 「不破...」 家の外から、帰宅を急いでいるらしい誰かの足音が聞こえてきた。 自転車を漕ぐ音、さよならの挨拶を交わす声。 外の世界は、夜の静けさを迎えようとしている。 もう、帰らなくては... 「不破。」 「ん?」 「オレも、不破のこと、藤代が言ってたとおりだと思ったんだ。」 「???」 「ホント、藤代の言ってたこと、当たってた!」 「何だと...?」 不破がむっとしたような表情になる。 それを見て、笠井は満足げに笑った。 「おっしえな〜いぃっ!!」 「むっ!」 「藤代に訊いてみれば?」 「...」 「なんてね! それは、この次、教えてあげるよ!」 「この次?」 「うん!これ、返しに来る時に、さっ!」 自分の着ている服を指さしながら、笠井は、また嬉しそうに笑った。 不破は笠井の笑顔を、目を細めて見ている。 「じゃあ...またな! 今日は本当にどうもありがとう!!」 ようやく笠井は玄関のドアに手をかけた。 本当にもう、帰らなければ...藤代がつまんないと駄々をこねているだろうから。 「あぁ、では...気をつけて。」 ドアを閉める時、一瞬だけ不破が寂しそうに見えたのは気のせいだろうか? 笠井は小さな溜息を漏らして、家路へと歩き出した。 途中、不破の家へと振り返れば、二階の窓から不破がこちらを見ていることに気がついた。 笠井は元気良く手を振った。声は出さなかったが、口を大きく動かした。 何と言ったのか? 不破には分からなかったかもしれない。 きょとんとしている。でも、すぐに手を軽く振り返してくれた。 笠井はそれに満足して、また歩き出した。今度は振り返らなかった。 夜の闇が静かに深く降りてくる。 けれど、心の闇にはもう捕らわれない。 闇を取り払ってくれたのは、彼。 そう、彼こそ...『天使』。 笠井は一人でくすくす笑った。他にも沢山ある。藤代が教えてくれた、不破に関するキャラクター考察論。 それはそれは可笑しくなるものばかりだけど、でもあながちウソではない事を、笠井は知ってしまった。 思い出し笑いをようやく止めて、笠井は深呼吸した。 全部教えてあげたら、不破はどんな顔するんだろう? 夜空の星を見上げて笠井は思う。 彼に出会えたこと。 これは、奇跡の始まりなのだと。 FIN ☆ ―――――――――― ☆ あとがき ようやく書けた...設定でバレますが、去年の9月に書き始めて、放置してました。 またしても消化不良...お恥ずかしいデス(滝汗)。 初めて書いた、笠井x不破!!...って、偽笠井と偽不破、心の葛藤を描くには、まだまだ修行不足を痛感。 お題の『HOME』は、B’Zの名曲です。本当に素敵な歌詞です。曲も聞き惚れてしまいます。 ご存じの方は、「また、ぱくったなぁ..」と呆れてしまうかも!(随所に引用してるから...(^^;) でもって、性懲りもなく、歌詞カードを此処に記載してしまう自分。 (→此処をクリック) 聞いたことのない方、是非、おススメします。落ち込んだ時などに聞くと、ホッとする曲です。肩の力が抜けます。 ☆ ―――――――――― ☆ |