夏が来る



真っ青な空に、ぽっかり浮かんだ真っ白い雲。それが瞬く間に、夜の闇のような漆黒の雲に覆われたかと思うと、遠くから微かな雷鳴が聞こえてきた。真夏の湿った空気が、辺りを包み込む。8月になったばかりの、この季節。グランドを後にした渋沢は、一人、この空模様を見上げていた。

今年、某プロサッカーチームに所属した渋沢は、早くも正GKの座を手に入れていた。渋沢の実力なら、当然である。
この世代には、渋沢を超える実力のGKはいない、唯一人を除いては。

怪しくなった空を見上げながら、渋沢は軽く溜息を吐いた。

彼は、サッカーをやめてしまった。

彼の実力ならば、いつの日か自分を追い越すかもしれない、そう思っていた。怯える気持ちよりも、彼が自分に近づいてくる事の方が嬉しかった。いつの日か...自分と肩を並べた彼と、フィールドで闘う日が来る事を、心待ちにしていたのだ。

互いを高めあい、認めあい、さらに共に前進していく。
彼とは、そういった関係でありたかった、けれども...。

頭上に渦巻く暗雲が、辺りに暗闇をもたらすように、この想いは、渋沢の心の奥深く、渦を巻き、漆黒の闇をもたらす。


凄まじいほどの独占欲。


今まで知らなかった、自分の一面に気付かさせられる。これ程まで、彼に囚われていた自分に。






『誕生日おめでとう』

あの日、彼からのメッセージ。たった一言だった、彼らしい簡潔なメッセージ。けれども、それだけで、自分は舞い上がっていた。心を躍らせてしまった。彼が自分の事を覚えていてくれた、彼の中に自分の存在がある、そう思った瞬間、彼に無性に逢いたくなった。

彼の携帯に電話すれば、電源が入っていない、と単調なメッセージが流れた。
小首を傾げながらも、とりあえず、彼にメールを送った。

『覚えていてくれて、ありがとう! 今日、逢えないだろうか?』

彼からの返事を待った。しかし、1時間が経過しても、彼から何も返事が来ない。もう一度、携帯に電話すると、先程と同じメッセージが流れてくる。やむなく、彼の自宅に電話をした。しかし、こちらも、留守電になっていた。彼の家族は、それぞれ仕事を抱えているから、自宅に電話しても出てくることは滅多にない。彼と連絡をとる手段は、彼の携帯に電話するか、もしくは、直接、逢いに行くしかないのだ。しかし...渋沢は、盛大な溜息を吐いた。

突然、連絡をしないで、彼に逢いに行ったことはない。それに、自宅に押しかけては、彼に迷惑だろう...思わず、躊躇してしまった。けれども、彼に逢いたい気持ちが押さえきれずに、とうとう意を決して、彼の自宅へと足を向けていた。玄関先で、呼び鈴を鳴らすべきか否か、迷っていた時だった。彼の家の、とある窓がきぃっと音をたてて開いた。玄関から辛うじて見えるその窓は、彼の部屋の窓だった。もしかして...渋沢は一瞬、心を弾ませた。けれど、背伸びして窓を見上げれば、其処にいたのは、思いがけない男の顔があった。

(あいつ...っ!)

見覚えのある金髪の彼。くわえタバコで、窓の外をぼんやり見ていた。男の肩には、軽く引っかけられた白いシャツ。
ボタンが閉められていない、はだけたシャツから、彼の浅黒い胸元が見え隠れしていた。

「おい」
「ん?」
「オレの部屋で、タバコは吸うな」

男の背後から、声が聞こえた。薄茶色の髪が微かに見えた。(間違い、彼だっ!!)、渋沢が声をあげそうになった、その瞬間。けれども、渋沢の声は、口の中に押し込められてしまった。視界の中に映し出された、衝撃的なシーンに、渋沢は声を上げるどころか、身動き一つ出来なくなった。

あの男が彼に...キスをした。

軽く、互いの口唇が、触れ合うだけのキスだった。触れ合った瞬間、彼は頬を赤らめて、すぐに男から身体を離した。そして瞬く間に、部屋の中へと消えていった。あの男は、再び、タバコをくわえると、満足げな表情で、そっと窓を閉めた。カーテンを引いた。

彼の部屋の窓は、それっきり開くことはなかった。

どれくらい、そうしていただろうか? 渋沢が、彼の家の前でじっとしていたのは。気がつけば、辺りには、夜の闇が忍び寄ってきていた。再び見上げた、彼の部屋の窓。二度と開かれる事は無かった。あの部屋の中で、何が行われているのか?、渋沢の身体が熱く火照り出す、そして、狂おしいほど燃え上がる。

彼が、あの部屋であの男に...そう考えただけで、渋沢は気が狂いそうだった。

こうして手を伸ばせば、届く位置にありながら、決して手を伸ばせない、触れることはできない。その、もどかしさと、彼の部屋にあの男がいるという事実が、渋沢の心をキリキリと締め上げた。ふと聞こえてきた遠雷の音を合図に、渋沢は口唇の片隅をぎりっと噛みしめると、この場からのろのろと歩きだした。これ以上、此処にいることが出来なかった。けれども、その足取りはとても重かった。


彼からのたった一言で舞い上がり、呆気なく打ちのめされた自分が、とても惨めだった。


どうやって戻ってきたのか覚えていないくらい、渋沢にとって衝撃が強かった。自分の部屋の中で、ぼんやりと時間を過ごしていた。せっかくの誕生日だというのに...けれども、もう、そんな事はどうでもよいことだった。ベットに横たわり目を閉じても、眠ることが出来なかった。何度も寝返りをうって...そうしていつしか、翌日の朝を迎えていた。微かな朝日が窓から射し込んでいることに気がついた時だった。

携帯の着信音が、部屋の中に響いた。

この音は...メール?、まさかっ!? 渋沢は身体を起こして、机の上から、放置されていた携帯を取り上げた。相手を確認すれば、紛れもない彼からのメッセージが入っていた。

『返事が遅くなってすまない』

そう記された題名、渋沢は其れを、怖々と開封した。

『佐藤が部屋に来ているから逢えない。後日、日を改めて。』

簡潔なメッセージ、彼らしい。ふと口元を緩めながら、携帯を、再び机の上に戻した。そのまま、ごろりとベットの上に横たわる。カーテンの隙間から入り込んできた朝日が眩しくて、渋沢は目を閉じた。閉ざされた暗闇の中、思い浮かべるのは、愛しい彼の姿。

でも、その彼に、あの男の姿が重なって...

息苦しさに、渋沢は目を開いた。差し込む朝日の中、突如、現実の世界に引き戻される。
彼の部屋に、あの男がいた事実に...、そして、それを伝えてきた彼に...。

「失恋か...っ?」

ふいに口に出してみた台詞に、渋沢は、くくっと喉を鳴らして笑った。


そんな生易しいものではない、この感情は。


そっと見守り続けてきたのに、静かにゆっくりと彼を包み込んで、できるだけ優しく、可能な限り、彼が怯えないように...そう、逃げ出さないように、彼を取り込んで、自分の元へと引きずり込んで、決して、誰にも奪われまいとしていたのに。結果は、これだ。呆気なく、彼を奪い取られてしまった、それも、一番警戒していた、あの男に。

あと少しだったハズだ、あとほんの少し...それなのに...っ!!

部屋の中、窓ガラス越しに、外界の騒音が入り込んでくる。
目覚め始めた世界の気配が、静寂な部屋の中を、慌ただしい日常へと変えていく。

渋沢は、ゆっくりと溜息を漏らした。


もう二度と、手に入れることは出来ないのかと...。



それから数日後、練習が休みだった休日の午後。渋沢は、偶然に街中で、彼に出会った。図書館からの帰りだと言う彼は、一人だった。折しも、にわか雨が降ってきた。足早に歩いていく人混みの中で、彼を見つけたのだった。何処かで雨宿りを...渋沢が口を開きかけた時だった。

「この間は、すまなかった」

彼が素直に、渋沢に謝った。そして、

「何処かで、雨宿りをしないか? その...時間が取れないだろうか?」

と、珍しく、彼の方からそう言った。この間の埋め合わせをしたい、そう考えている様子だった。この申し出に、今までの彼とは、違った印象を受けた。けれど戸惑いながらも、渋沢は軽く頷いて、近くの茶店に、二人は入り込んだ。だが、店に入る直前、彼が、「ちょっと失礼」と言って、徐に携帯を取りだすと、手際よく其れを操りだした。誰かに、メールを送ったようだった。

「渋沢?」

彼の素早い行動を、渋沢は険しい表情で見つめていたらしい。渋沢を見上げてくる彼の瞳が、少し揺らいでいる。

「あ...あぁ、ごめんね、じゃあ、入ろうか?」

いつもの笑顔を彼に見せると、ほっとしたような表情になった。
惚れた欲目か?、本当に可愛いらしい。けれど、彼は、もう...。

店に入って、濡れた身体を手持ちのタオルで軽く拭いて、適当な場所に座り込んだ。すると、彼の方から話し出した。

「誕生日」
「えっ?」
「本当にすまなかった」
「...ううん、こちらこそ、かえって気を遣わせちゃったみたいだね」
「オレの方こそ、いつも渋沢に気を遣わせている。とても感謝しているのだ」

彼はそう言って、微かに微笑んだ。やはり、今までの彼とは違う、印象がとても柔らかい...どうして?
渋沢は、運ばれてきた珈琲を一口啜ると、ゆっくりと口を開いた。

「佐藤くん」
「えっ?」
「彼は、不破くんの部屋に、よく来るのかい?」
「...あぁ、近頃、よく来る」
「そう」

彼は黙り込んで、渋沢と同じように珈琲を一口飲んだ。口唇がカップから離れる時、ほぅっと小さな吐息を漏らした。
テーブルの上に落とされた、彼の視線。何を思いだしているのだろうか? 彼の頬が微かに赤く染まっているように見える。

「渋沢...っ! あの...っ!!」

何を言い出そうしたのだろうか? けれども、彼は言いかけて、ふいに、その口を噤んでしまった。そして、再び、視線をテーブルの上に落とす。濡れた前髪が、彼の瞳を覆い隠して、カップを持つ彼の指先が、微かに震えている。

ずきり...

鈍い痛みが、渋沢の心臓を締め付けた。聞きたくないと思った、これ以上、何も。彼の口から、あの男の事は何も聞きたくない、そう思った。未練がましい、みっともない、何と言われようともかまわない。渋沢は軽く息を漏らした。


キミガスキダ...キミガホシイ...


「不破くん、高校はどう? サッカー、もう一度、やってみないかな?」
「渋沢?」

ぱっと顔を上げる彼に、渋沢は、彼が好きな笑顔で微笑みかけた。彼が、目をぱちくりさせている。

「ねっ? 不破くん、どうかな? ボクと一緒に...」

さらに、彼の顔を覗き込むと、彼の頬が赤く染まる。以前と違う彼、多分、あの男に変えられてしまったから。それでも、諦める気になれない。まだ、勝負はついていない。そうだ、まだ...。

窓の外は雨。しっとりと湿った空気が辺りを包み込んでいる。


ボクハキミヲ、ドウシテモ、アキラメキレナイ...



あれから数年の時を経た。それでも、渋沢の中には、彼がいる。綺麗なままの彼がいる。
理由をこじつけては、強引に逢っていた日々も、互いの忙しさから、自然と疎遠になっていった。
それでも、渋沢は諦めきれなかった。諦めることが出来なかった。

はっきりと彼から、あの男との関係を言われたワケではない。離れる理由を言われたワケではない。

それでも、彼との接点は、まるで自然消滅のような形になっていった。それが、渋沢には耐えられなかった。
彼がサッカーをやめてしまったから。それだけで、渋沢との接点はゼロになってしまったのだから。

繋ぎ止める術の無さに、渋沢は歯痒い思いをした。

そうして、今年も夏を迎えた。彼への想いを残したままの、あの夏が。
燻り続ける、彼への想い。この想いは、何処へ行くのだろうか?
これほどまでに、彼に囚われ続けている自分は、一体、何処へ向かっているのだろうか?


夏特有の湿った空気が、渋沢の身体にまとわりついて離れない。


あの、夏が...また来る。








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シゲ不破の「gold」と同じく数ヶ月間、放置しておいたものですから...収集がつかなくなりました(滝汗)。
けど、シゲが不破の部屋で、窓開けて...の場面は、自分なりに気に入ってるもんですから、ついつい、UPしちゃいました。

「夏が来る」、これは、大好きな大黒魔季さんの歌です。なんと、彼女の誕生日は、不破と同じ日なんですよ!!
これ聞くたびに、今年こそは!!って意気込みますが...ははははは...虚しいなぁ。


date:2002.06.03(Mon)

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