夜の闇に浮かぶ満開の桜。其れは、人の死体から養分を吸い取って、美しく咲くという。
それ故、木の根本には、誰かの死体が埋められているのかもしれないのだと。

科学的根拠など、皆無な話だ。くだらない。それでも...。

あれから一年...今年も、桜が咲き乱れる季節になった。





「では、先に行っている」
「うん、すぐに後から行くから...あっ、じゃあ、これ、部屋のカギ」
「ん?」
「部屋の中に入って待っててよ」
「あ、あぁ、わかった」

渋沢から部屋のカギを受け取って、不破は一人歩き出した。

今宵は、桜が綺麗だった。

昼間の陽気に誘われて、満開になった桜を見ようと、渋沢から電話があったのは、夜の8時を大きく回ってからだった。
一人で夕飯を済ませ、ごろりと寝転んで本を読んでいた時だったから、二つ返事で誘いを受けた。

高校に進学した不破は、家を出て、一人暮らしをしている。渋沢も同じく、寮には入らずに、一人暮らしをしていた。不破は、進学と同時にサッカーをやめてしまった。渋沢に引き止められたが、決心は固かった。渋沢は高校に入ってからも、当然、サッカーを続けている。やはり、この世代のNo.1、GKだ。練習に、試合にと、忙しい渋沢とは、逢える時間が限られていた。だから、いつも週末に限られていたのだ。

それが、今晩の、突然の誘いは、どうしたのだろう?
不破は訝しく思いながらも、朧気にその意味を理解していた。
だから、この誘いを受けたのだ。

二人は、閉店間際のスーパーに立ち寄り、適当に食材を見繕って、渋沢の部屋へと向かった。渋沢の部屋へ行くには、見事な桜並木を通り過ぎなければならない。その入り口に、美味しい洋菓子店があるからと、渋沢が寄り道をした。不破は、二人で寄ることもないだろうと言って、一足先に行くことにしたのだ。荷物を手にぶら下げて、ゆっくりと桜並木の中へと足を踏み込んだ。

不破は一人、黙々と歩いていく。
頭上には、満開の桜。本当に綺麗だ。

ふと立ち止まり、桜を見上げた。

地元の神社に続く此処では、神前ということもあって、夜桜見物で騒ぎ立てる輩がいない。
そのため、満足なライトアップなどされていないが、微かな街灯に照らされて、花は、より一層、妖艶さを増している。

目を細めて、其れを見上げていると、ふいに夜風が吹いてきた。
不破の髪を、桜の木々を、揺らしていく。

「不破」

聞き覚えのある声が、風にのって聞こえてきた。自分を呼んでいる。ゆっくりと、声のする方を振り返れば、其処にいたのは...金色の髪の彼。風に舞い上がる髪を右手で押さえながら、彼は口元を緩める。

「今晩は」

満開の桜の木の下。彼は薄笑いを浮かべている。不破はじっと、彼の姿を見つめた。

「こないな時間に、何処に行くねん?」
「...渋沢の部屋だ」
「さよか...とうとう、旦那も待ちくたびれたってトコかいな?」

彼が、乾いた笑い声をあげた。

春の嵐が近いのだろうか、風が次第に強くなる。その度に、枝を激しく揺らして、花びらが宙を舞う。

「ところで、旦那は?」
「其処のケーキ屋に寄っている」
「はぁっ?」
「食料の買い出しは出来たのだが、甘い物が欲しいからと言って、一人で其処に寄っている」
「...」
「二人で、わざわざ寄ることもないだろうと思って、オレ一人で、先に渋沢の部屋に行くことにしたのだ」

舞い上がる桜の花びらに、目を細めていると、彼が声をあげて笑った。

「相変わらず、面白い旦那やな」
「...」
「不破」
「なんだ」
「旦那といると、楽しいか?」
「なに?」
「旦那のこと...好きか?」
「...」

彼にそう聞かれて、返答に困った。また、彼が笑った。

「ちゃんと答えてくれへんと、オレ、期待してしまうで?」
「...」
「不破...」

彼がゆっくりと近づいてきた。息がかかるほど、接近してきた彼の口唇に、不破は、自分の指先でそっと触れた。
彼の吐息が熱い。そのまま、ゆっくりと指で、彼の口唇を撫でていく。

「不破?」

不破のもう片方の手から、するりと荷物が滑り落ちた。その手を、不破は彼の背中へと回す。彼の口唇をなぞっていた指先も、同じように彼の背中へと回して、不破は彼の身体をしっかりと抱きしめた。暖かい温もりが、不破の身体中に広がっていく。

「何故、おまえの身体は暖かいのだ? これは...夢なのか...」
「不破?」
「たった今、覚悟を決めたばかりだというのに...」

不破は、自分の声が震えているのに気がついた。視界が微かに滲んでいる。
自分は泣いているのだ。あの日、一年前のあの日さえも泣けなかったのに。

「今宵、渋沢がオレを誘うことに、どのような意味があるのか、オレにだって分かっている」
「...」
「渋沢を待たせていたことぐらい、オレにだって分かっている、だから..覚悟を決めたのだ」
「なら、なんで震えてんねん? なんで、泣くんや?」
「...おまえが、オレの前に姿をみせたからだ、何故...今宵に限って...っ!」

不破の両腕が、しっかりと彼の身体を抱きしめる。それと同じくらいの強さで、彼も不破の身体を抱きしめ返してくれた。
その腕の強さに、思わず不破の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。頬を伝い落ちる其れを、彼の口唇が優しく受け止めた。

「ようやく、泣いてくれる気になったんやな...」

彼の肩に、彼の髪に、桜の花びらが静かに舞い降りてくる。
不破は黙ったまま、彼の背中を強く抱きしめた。

あの日も、桜の花が綺麗だった。





一年前。三年に進級する時、佐藤茂樹は、『藤村茂樹』と名前を変えて、京都へと戻っていった。
すでにトレセンで、彼と出会い、父親の元へと引き取られたことを知っていた不破は、特に驚かなかった。

だが彼の転校は、桜上水の中で、しばらく話題になっていた。同じサッカー部だからと、不破は、彼の事を聞きたがる連中の詮索を受けたが、すべて無視した。それは、風祭や水野も同じだった。同じように彼らも、彼の事を口外しなかった。余計な事は、一切、口に出さなかった。気がついていたのだろう、あの二人は。不破と、彼の間にあった出来事を。

トレセンへ向かう数日前、不破は彼と、一夜を共に過ごした。

彼の部屋で...あの時は、梅の花が満開の季節だった。春、未だ浅き夜、朧気な月が宵闇に浮かんで、綺麗だった。窓から差し込む柔らかな月光に、彼の金色の髪は、より艶やかな輝きをおびていた。そして、其れは、月の光を含んで、彼に組み敷かれた自分の上で、ずっと揺れ続けていた。部屋の中、微かな夜風にのって、漂う梅の芳香に、不破は軽い目眩を感じながら、静かに、彼の行為を受け止めていた。

何故、そのような事になったのか、不破自身も、よく覚えていない。
あの夜は、彼が下宿していた寺の庭先で、風流な茶会が催されて、不破は、その手伝いに呼ばれただけだった。
それが、どうして、彼と.....闇の中でも分かる、強い梅の芳香と、朧気な月灯りのせいだったのかもしれない。
彼に、身をまかせてしまったのは。

それから、彼は、何も言わずに、京都へと帰っていった。

トレセンで顔を会わせても、彼とは話をしなかった。目を合わせなかった。けれども、彼が其処にいたことに、不破は動揺した。その時、不破の乱れた気持ちを鎮めてくれたのが、渋沢の存在だった。渋沢の、暖かくて広くて、心地よい腕の中に包み込まれて、不破は安堵した。そして、気がつく。殺意にも似た凍り付くような視線が、不破の背中越しに、渋沢に向けられていることを。その視線に耐えきれず、彼に振り返れば、彼の口唇が微かに動いた。

おまえはオレのもんや...

あの夜も、そうだった。彼は自分の耳元でそう囁いていた、ずっと囁き続けていた、自分の身体を貪りながら。
好きだ、と。オレだけのものだ、と。誰にも渡さない。と。只ひたすら、其れだけを繰り返していた。
其れを聞きながら、不破は黙って目を閉じていた。何も答えなかった。彼の言葉を、彼の行為を、受け止めているだけだった。

桜の蕾がほころび始める頃、彼が転校したと、風祭から連絡があった。
何も言わずに、彼は去っていった。何も答えなかった自分には、それを責めることは出来なかった。
彼を追いかけることなど、考えもしていなかった。これは当然の報いだと、納得していたから。

彼が自分を置いていくことを、あの夜、予感していたから。

数日後、不破は渋沢の部屋にいた。東京でも、桜は満開になっていた。京都の桜は、散り始めたようだ。天気予報が、全国の桜の開花情報を、連日報道していた。其れを聞きながら不破は、渋沢の部屋の窓から見える桜並木を、じっと眺めていた。この桜も、数日のちには、散り始めるだろう、そう思いながら。

不破の傍らには、渋沢がいた。優しく、包み込むような、暖かい笑顔が、不破のそばにあった。
高校に進学して、一人暮らしを始めた渋沢の部屋に、不破は遊びに来ていたのだった。しかし、遊ぶといっても、只、互いの近況を話すだけだった。それでも、渋沢と過ごす時間は、不破の気持ちを和ませた。

穏やかな春の日差しと、満開の桜と、渋沢の笑顔と。

あまりの心地よさに、不破が思わず微睡みかけた時だった。
渋沢の笑顔に包み込まれて、其れに身を委ねてしまいそうになった時だった。


不破の携帯が鳴った。


電話の向こうで、震える風祭の声。

「シゲさんが...」





死んでしまった





次の瞬間、不破は意識を手放していた。


気がついた時、不破は渋沢のベットに寝かされていた。左手を、渋沢が握りしめていた。その温かさに、動けずにじっとしていると、渋沢が、不破の髪を、もう片方の手で撫でながら、ぽつりぽつりと喋りだした。

意識を無くした不破のかわりに、渋沢が風祭から話を聞いたのだ。

京都に戻った彼は、地元中学への転校手続きの帰り道、春の陽気に繰り出したバイクに跳ね飛ばされたのだ、と。
おりしも、桜が散り始めた頃、其れに見とれたバイクの運転手が、彼の姿を確認するのに遅れてしまったのだ。
跳ね飛ばされた彼の身体は、宙を舞い、そのまま、桜の木に激突した。

即死だった。

あっという間の出来事だった。彼自身、死んだことに気がついていないのではないか、というくらい、彼の死は呆気なかった。

「不破くん?」

何も喋らない、その瞳の色さえ変化のない不破に、渋沢は不安げに声をかける。
泣き出すかと思った不破は、無言のまま、繋がれた手を見つめていた。
ぼんやりと、只ひたすら、渋沢に繋がれた自分の手を見つめていた。
その手の甲に、渋沢が軽く口づける。

「大丈夫だよ、ボクがいるから...」

この手の温もりだけが、その時の不破を、此処に繋ぎ止めていた。





不破は、それから数日の間、原因不明の熱を出して寝込んでしまった。その為、彼の葬儀に、出席することは出来なかった。
当日、ベットから見えた窓の外、ぬけるような蒼い空が広がっていた。不破は、熱で潤んだ瞳で、空を見上げた。

ひらり

空気の入れ換えにと、微かに開かれた窓の隙間から、桜の花びらが舞い込んできた。ほとんど葉桜になっていた、不破の家のすぐ脇にある木から、僅かに残ったひとひらが、不破の枕元へと舞い降りてきたのだった。

散るは桜。
彼が好きだった花だ。

不破は、花びらを握りしめて、そっと目を閉じた。そうして、彼の面影を思い出そうとする。
けれども、何故が、よく思い出せない。金色の髪が邪魔をして、彼の顔が思い出せない。前髪から見え隠れしていた、くるくるとよく動く愛嬌のある瞳は思い出せるのに、彼の顔がぼんやりと霞んでいて、その全てがはっきりとしない。

あの夜のせいだ。

薄暗闇の月明かりの下。彼に抱かれた自分。その上で、揺れていた金色の髪。
あの夜の出来事が鮮明すぎて、彼のことが思い出せなくなっていた。

あの夜、自分を抱いていたのは...本当に、彼だったのだろうか?
それさえも、今の自分には分からなくなっていた。

それ程、あの夜は、甘美で切なくて、とても静かだった。


全ては、春の夜の、微睡みの中...夢のような出来事。





あれから、一年。不破は、今までと変わりない日常の生活を送ってきた。
サッカーに、勉強に、そして高校受験に...あっと言う間の、一年を過ごしてきた。

そして、数日前、風祭に連れられて、ようやく京都へと足を踏み入れた。
「一周忌だから...」、風祭にそう促されて、仕方なく、後をついていけば、其処は、満開の桜並木。
京都市内でも、観光の穴場的な其の場所は、柔らかな春の日差しの中、ひっそりとしていた。

「此処だよ」

風祭が指さした、一本の桜の大樹。不破の両目が見開かれる。ぞくりと背筋に何かが走ったような気がしたからだ。不破の様子に、風祭は気がつかないのか、そのまま、手にした献花を、木の根本へとそっと置いた。そして、両手を静かに合わせて、目を瞑った。不破は軽く自分の身体を抱きかかえるような格好をして、風祭のことをじっと見ていた。

「不破くん?」

風祭が顔を上げて、不破のことを見上げた。顔色がよくない事に、ようやく気がついたようだった。

「どうしたの?」
「いや、何でもない」

心配そうな風祭の視線を外して、不破も目を閉じて、両手を合わせた。けれども、すぐに顔を上げて、

「行こう」

そう言って、先に歩き出した。

「不破くん...」

風祭が慌てて、追いかけてくる。

ふいに、風が吹き上げて、木々を揺らす。桜の花びらが、二人の身体に舞い落ちてきた。
鮮やかな桜吹雪の中、不破は歩きながら頭上を見上げた。散りゆく桜の花びらの中で、不破は耳を澄ました。

風の音しか聞こえない。

軽く溜息を漏らし、傍らの風祭に声をかけようとした時だった。
不破の足が止まった。何かの気配を、背中に感じ取ったから。

ゆっくりと振り返った。

其処には...



彼がいた



風が止んだ。
目を見開き、その姿を確認する。



確かに、彼は其処にいた。



舞い散る桜の中で、彼は確かに、其処にいるのだ。
口唇に微かな笑みを浮かべて、あの大きな瞳で、不破をじっと見つめている。

「不破くん!」

風祭が、不破の袖を引っぱって、顔を覗き込んできた。

「どうしたの?」

不安げな風祭の瞳が、不破のことを見上げた。不破は黙って、あの桜の木をじっと見つめていた。

「不破くん?」
「彼処に...」

不破が指をさした。けれども、その時はもう、彼の姿は見えなくなっていた。

「不破くん、あの...」
「何でもない」

不破は、また歩き出した。その後を、風祭もついてくる。不破は黙っていた、何も喋らない。
何か言いたそうに見上げてくる風祭のことを、不破は気がついているはずなのに、黙って歩き続けた。

二人の背中を、風が強く吹き抜けていった。





やはり、囚われていた、あの夜から





泣き出すことも、叫ぶ事も出来ずに





あの夜から...





彼の影は、自分の心を、身体を、犯し続けている






「何故、おまえの身体は暖かいのだ?」
「...」
「何故、触れ合うことが出来るのだ?」
「..」
「何故だ、何故...」
「不破が呼んだから」
「オレが?」

不破は、彼の顔をじっと見つめた。あの夜と同じ、月明かりの下、彼の大きな瞳が、すぅっと細められた。
そして、くくっと喉を鳴らして、笑った。

「素直やないなぁ」
「...」
「オレは、ずっと不破のそばに、いたんやで?」
「なに?」

二人の頭上を風が吹いて、桜の木々がざわめき立つ。

「オレの想いを、ぜ〜んぶ、不破が取り込んでしもうたんや」
「それは、どういうことだ?」

彼は、また、くすくすと笑った。

「あの時、不破が来てくれて、オレのことに気がついてしもうたから、そのまま、ずっと、不破と一緒やった」
「そうか...だから、おまえを近くに感じていたのか」
「あれっ? 科学で実証できんことは、キライとちゃうんか?」
「あぁ、嫌いだ、大嫌いだ」

即答する不破に、彼は声を上げて笑った。その声に、不破は思わず、彼の頬をぎゅっと抓った。

「いたっ! こら、不破...っ!」
「実体のない、おまえが何故、痛みを感じるのだ! おまえは誰だ! おまえは...っ!」

不破の言葉は、最後まで言えなかった。彼の口唇に塞がれてしまったからだ。

「ん...っ!」

吸い上げられて、舌を絡め取られて、不破の身体が、がくがくと震えだした。立っていることが出来なくなった。
不破の背中を抱きかかえながら、彼の腕が、静かに降ろされた。

満開の桜の木の下。

不破の身体は、そっと横たえられた。彼の口唇が離れて、不破は乱れた呼吸を整えた。そして、目を微かに開いた。瞳の中に、夜の闇と、桜の花びらと...彼の金色の髪が、映し出された。微かに夜風が、また吹いてきた。深呼吸を一つした。

「連れて行け」
「え...っ?」

不破が口を開いた。

「迎えに来たのだろう? ならば、連れて行け」
「不破...」

指先をそっと、彼の頬にあてがうと、彼は眉を顰めて、不破を見下ろした。
不破の身体がびくりと震えた。

「何を今更、迷うのだ、おまえはっ! 早く、オレを連れて行けっ!!」
「不破っ!?」
「オレの気が変わらないうちにっ!!」
「せやけどっ!」
「このままでは...っ!!」





このままでは、渋沢に全てを委ねてしまうから...





「不破...」





その前に、オレを連れて行け...おまえのもとに...っ!!





「できひん」
「何故だっ!?」
「だって、オレ...」





もう、そろそろ行かなあかんねん...





彼が口元を歪めた。不破の瞳から、再び、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「苦しかったやろ?」
「...」
「ずっと泣くことができひんで、苦しかったやろ?」
「...」
「せやから、もう...」





自由になってほしいんや...





咄嗟に、不破の腕が、よりきつく、彼の身体を抱きしめた。

「狡いぞ...」
「えっ?」
「ならば何故、今宵に限って、オレの前に姿を見せたっ!?」
「それは...っ!」
「自由になれるはずなどないっ!!」

己の身体に、余すところなくつけられた、彼の所有印を、どうして今更、消すことなど出来ようものかっ!!
今更...忘れることなど...自由になれることなど、出来はしないのに...っ!!

「ごめん...」
「...」
「けど、もう...」
「...嫌だ」
「えっ?」
「嫌だっ...嫌だっ! 嫌だぁっ!!」

激しく頭を左右に振って、幼い子供のような激しい拒絶を繰り返すと、彼が耳元で、そっと囁いた。

「もっと、早く聞きたかったわ、其れ.....出来たら、死んでしまう前に」

不破は、はっとして顔を上げた。彼の寂しげな瞳と、ぶつかった。

「仕方のないことやけど...」
「...」
「もう取り返しが、つかへんことやけど...」

彼がくすりと笑った。

「けど、おおきに...めちゃ、嬉しいわ、最後の最後に、ホンマのことが聞けて...」





ほな、さいなら....





夜風にさらわれるように、彼は闇の中へとかき消されてしまった。
不破の両腕が、支えを無くして、ぱたりと地面へ落ちた。

ひらひらと舞い落ちてくる花びらを、不破は、涙で滲んだ瞳で見つめていた。

今まで、感じていた彼の気配が、消えてしまった。あの日から、感じていた彼の気配。
今宵のように、はっきりと見えなくても、それでも、彼の気配をしっかりと感じ取れていたのに。
まるで、今まで、何事もなかったかのように、消え失せてしまったのだ。

不破は目を閉じて、彼の気配を、夜の闇の中に探した。
けれども、もう二度と、感じ取ることは出来なかった。

不破の頬を、涙が流れ落ちた。

「不破くんっ!?」

駆け寄る足音と声に、不破は目を開けた。視界の中、息を切らして、青ざめた渋沢の顔が見えた。

「どうしたんだいっ! 何があったんだっ! 大丈夫かいっ!?」

桜の木の下、寝転ぶ不破の姿を見つけて、渋沢は不破の身体を抱き起こそうとした。
けれども、その腕を、不破は軽く振り払った。

「不破くん?」

驚く渋沢の肩越しに、不破は、闇の中、舞い降りてくる桜を、涙で潤ませた瞳でじっと見つめていた。

自由になれと、彼は言った。
素直になれと、彼は言った。

そして

「旦那のこと...好きか?」

そう、彼は言った。

「渋沢...」
「なんだい..不破くん?」

振り払われた手を、渋沢はもう一度、ゆっくりと、不破の頬にそっと触れた。
今度は、拒絶されなかった。渋沢の指が、こぼれ落ちてくる涙の滴を、優しく受け止めている。

「あいつは...」
「ん?」





あいつは死んだのだな....おれを残して





死んでしまったんだ





「不破くん...」






そうして、たった今、かれは本当にいなくなってしまった





彼の想いは、夜空へと消えていった...桜の花が舞い散るように





「不破くん」

渋沢の掌が、不破の頬をそっと包み込んだ。
春の夜の、冷たい夜気の中、その温もりに、不破が軽く吐息を漏らした。

「大丈夫」

渋沢の口唇が、そっと不破の口唇に触れてきた。優しく重なった。

「ボクがいるから...ボクは絶対、キミから離れないから...」

不破の瞳から、再び、涙が溢れ零れた。

「だから、大丈夫...ボクがキミを...」





自由にしてあげるから...





不破の身体がぴくりと震えた。微かな反応を示した。
そして、ようやく、不破の瞳が、渋沢を見つめた。

目に見えぬ鎖に縛られていた。渋沢は、其れに気がついていた。
だから、ずっと待っていたのだ。不破が、自分を見てくれるまで。





「渋沢....」





そっと、不破の両腕が、渋沢の背中に回された。





微かな風の音。それと一緒に、誰かの囁き声が聞こえたような気がした。
俗世界の騒音だろうか、それとも...彼の声だろうか...。

何と言っているのか、今の不破には、もう、分からなかった。
分かるのは只、今の自分を支えてくれているのが、渋沢であることだけだ。

遠ざかった彼の温もりに、凍えて震えていた背中を、渋沢が優しく包み込んでくれていた。
この暖かさが、今の不破にとって...。





桜の森の満開の下





不破は確かなものを、ようやく手に入れた









☆ ―――――――――― ☆

あとがき


満開の桜の下
 :
死んだはずのシゲと出会う
 :
回想
 :
そして、シゲはいなくなった
 :
取り残された不破を、渋沢が受け止める


...って、プロットはこれだけ(爆)。一度、書き直して、このようになりました。
『COMPLETE STORIES』/シゲ不破/『春なのに』の続き物っぽくなってますが...要は、自分のネタの使い回し(苦笑)。
書き直す前は、葬儀の場面や、シゲの母親、父親もちょっこっと登場させたりしたのですが、只でさえも野暮ったくなっていたので、全面カット。それでも、事故現場(?)で振り向いた不破の視界の中に、舞い散る桜吹雪の中に佇む、シゲの姿が書きたくて、強引に、京都へ行く場面を追加。でも、冒頭すでに、舞い散る桜の下、シゲと再会(?)する場面がありましたから、必要なかったですね。いや、その...扱ったテーマが難しかったせいもありますが、力不足をめちゃくちゃ感じました。自分なりに激反省。精進して、再チャレンジしたいと思います。

京都の場面は想像です。実地見聞してません(汗)。神社に続く桜並木と洋菓子店、これは地元にあるので、それを、そのままイメージして書きました。この場所は、ホントに綺麗でして、車で通りかかって、見とれて事故しそうになりました...って、自分の経験、そのまま書いてますね(滝汗)。

最後まで、読んで頂いて、有り難うございました。


date:2002.04.13(Sat)


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