今夜の月も綺麗だった。

だが、それ以上に、夏の星座の輝きに、都会の夜空でも、微かであるが見える天の川に...ふっと、シゲは息を漏らした。それと同時に、吐き出される煙。

強化合宿二日目の夜。

こっそり、抜け出して買い出しに行ったまでは、他の連中と一緒に行動していたが、食料だけ手に入れると、シゲは一人、得意の単独行動に出た。他の連中も、いつもの事だと気にも止めなかった。シゲは一人、行きつけのコンビニで、缶ビール一本と煙草を一つ、買い求めると、そのまま学校のプールサイドで休んでいた。

就寝時間までは、まだ時間がある。『小姑』の水野も、まだ捜索には出てこないだろう。

昼間の生温い空気が残る中、シゲの口唇から煙草の煙がゆったりと流れていく。その軌跡をぼんやりと見ながら、シゲは缶ビールの封を切った。振り回した記憶は無いが...飲み口から、ビール特有の泡が流れ出してきて、慌ててシゲは、煙草をコンクリートの上に置くと、零れ落ちてきた雫を口にした。

ごくり...

喉を鳴らして飲み込めば、じりじりと焼けるような感触が、また心地よい。一口、また一口と飲んでいくうちに、煙草は半分以上、灰になってしまった。

「ありゃ、しまった」

独り言を言いながら、今度は煙草を吸い込む。左手に缶ビール、右手に煙草。おまけに、髪は金色ときている。典型的な不良中学生の姿としか言いようがない。髪の色は、どうにか黙認されているが、校内での飲酒と喫煙が学校側にバレれば、自分だけではなく、サッカー部にも迷惑をかけるだろう。

それだけは避けたかったが、習慣とは恐ろしいもの。せめて、合宿中は...と決心していたのに、たった二日目にして挫折。そんな自分を嘲りながら、それでも人目を避けて、プールサイドで一人、夏の夜空を眺めながらの喫煙と酒盛りである。

これは、これで、また気持ちよかった。

水辺の近くにいるせいか、時折、吹いてくる夜風が気持ちよい。その度に、プールの水面が小波だって、映し出された月がゆらゆらと揺れている。なんとも、幻想的な雰囲気だった。

缶ビールを飲み干して、二本目の煙草に火をつけようとした時だった。


ぱしゃ...


水音が聞こえた。

それほど強い風が吹いたとは思えない。シゲは、煙草に火をつけようとした手をとめた。辺りは、しんと静まり返っている。思わず、ふっと息を漏らして、もう一度、煙草に火をつけようとした。


ぱっしゃん...っ!


先程より、強い水音が聞こえた。さすがに、シゲもびくりと体を震わせた。何かいる...そう思った。シゲは、じっとプールを見つめた。水音は、其処から聞こえてきたのだ。何かが、プールの中にいる。ふと、昨晩の高井たちの会話を思い出した。そう...数年前、体育の授業中、プールで溺死した生徒の話を。ふざけあっているうちに、気が付いたら、一人の男子生徒が、水底に沈んでいたのだと。

ざざっ...

プールサイドの脇にある桜の木々たちが、ざわめいた。シゲの背中に、一筋の汗が流れ落ちた。

(おもろいやんけ...)

シゲは自分に言い聞かすように、口唇の端を吊り上げて笑った。寺に住み込んでいる身である、こういった怪談話は耳にすることはあっても、実際に体験したことはない。シゲは興味本位、怖いもの見たさで、ゆっくりとプールサイドに近づいた。四つん這いになりながら、プールの中を覗き込む。

何も見えない。

そのまま、辺りをじっくりと見渡すが、特に変わったものはない。がっかりしつつも、ほっとして、息を吐いた瞬間だった。

プールの水面に写っていた月が、微かに揺れたかと思うと、次の瞬間、その月明かりの下、一人の少年の姿がゆらりと浮かんで見えたのだ。そう、まるで、水中に沈んでいるかのように。その少年の目は、水底からシゲを凝視していた。

水面に写るシゲの姿。その頭上には月、そしてプールの底には、人影。誰かいる、シゲをじっと見つめている...シゲは身動きができなくなった。先程までの面白半分の勢いはどこへやら、シゲは、背筋にぞくりと、虫唾が走るのを感じた。額からも、じっとりと汗が滲んでくる。

まさか...。

水面に映る人影を、目を凝らして見つめる。水の中...ではない、自分の後ろに立っている。シゲは、ごくりと唾を呑み込んだ。誰だ?、それを確認しようと、さらに水面を凝視する。振り返れば、其れが誰であるのか瞬時にわかるのに、あえて其れが出来ないのは、やはり恐怖心ゆえか? 微かな水音と、木々を揺らす風の音。

「おい」
「うわっ!!」

水面に映っていた少年が、口を開いた。それと同時に、シゲの耳に聞こえた無機質な声...聞き覚えがある!、そう思って振り向こうとした瞬間だった。

「佐藤っ!?」


ばっしゃんっ!!


突然、目の前が暗くなった。そして、息苦しいこと、この上ない。何が起きたのか、其れを理解する間もなく、シゲの左腕は強く引っぱられた。

「ぶっはぁっ!!」

光が見えた。そして、呼吸が出来た。

「大丈夫か?」

シゲの視界に映し出されたのは...月を背負って、プールサイドにしゃがみこむ不破大地の姿。
そう...シゲの背後に立っていたのは、幽霊ではない...不破だったのだ。

真夏の夜の、雲一つない夜の空。その中にぽっかり浮かんでいる月を背負って...不破がいた。

「!?」

シゲの左腕が、さらに強く引っぱられて、そのままシゲは、水分を含んで重たくなった自分の身体を、プールサイドに横たえた。呼吸が荒いシゲを見下ろしながら、不破がぽつりと呟いた。

「おい」
「あん?」
「水野を呼んでくるか?」

ぐったりしているシゲを、どうしたものかと考えあぐねての、不破の答えだろう...しかし、水野を呼んでくるなどとはっ! シゲは、がばっと飛び起きて、まるで犬が身体に付着した水滴を振るい落とすかのように、頭を、上体を、振り回した。その度に、シゲの金色の髪が、身体から振り落とされる水滴が、きらきらと月の光で輝いて...。

「綺麗だな」
「へっ?」

いつの間にか、シゲのそばにしゃがみ込んでいる不破。振り飛ばされる水滴が、自分の身体についても、不破は気にする様子もなく、シゲをじっと見つめていた。不破の顔に、身体に、シゲが振り落とした水滴が、あるいはシゲの身体を引き出す時に付着したものなのか、月の光を反射してキラキラと輝きながら、まるで宝石のように、まとわりついていた。

その姿こそ...月の夜に舞い降りた、清らかで聖なる...

「おい」
「へっ!?」

ぼんやりと見とれていたシゲの顔前に、ぬっと、不破が顔を突きだしてきた。思いもかけない急接近に、シゲはどきりと心臓を高鳴らせた。

「本当に大丈夫なのか?、やはり、水野を呼んで...」
「だ、だいじょーぶやてぇ!、これくらい、何でもあらへん!」

不破の突然の出現には、確かに驚かされたが、それもこれも昨晩の高井たちの会話のせいだ。シゲはゆっくり深呼吸して、

「ほんま、ちょっと驚いただけやから」

と、にかっと笑った。すると、不破は首を傾げながら、

「てっきり...」
「へっ?」
「酔って、足を滑らせたのかと思った」

不破が静かに指差す方向には、シゲが先程まで座り込んでいた場所。ビニール袋を下に敷いて、その上に缶ビールがのっかっている。ついでに、その脇に煙草の箱とライター。思わず、しまったっ!と、シゲが顔を顰めると、

「此処は、校舎から離れているとはいえ、学校内には違いない。明らかに、貴様、校則違反を犯しているぞ」
「...」
「これが学校側に知られれば、どうなることか、カンタンに予測ができるはずだが?」
「...」
「やはり、水野に...」
「だから何で、此処にたつぼんが登場すんねんっ!?」
「水野は、サッカー部のキャプテンだ。こういった事態の対処を..」
「捨てればエエやろ!」
「むっ?」
「缶ビールは全部飲んでしもうたから、空き缶やし、煙草は...ちょっち勿体ないけど、証拠隠滅やからしゃーない」
「...」
「買うてきたコンビニのゴミ箱に捨ててくるから、それでカンベンしてくれぇなぁ!!」

シゲはあぐらをかきながらも、ぱんと両手を合わせて、不破に頼み込むような格好をした。不破は、シゲの前に腕を組んでいる。二人の光景は、まるで補導員に叱られている悪ガキそのもの...その頭上の月が、静かに二人を照らしている。

「では、行くか」
「はい?」

不破が立ち上がって、すたすたと歩きだした。きょとんとしているシゲの前で、不破はシゲが散らかした空き缶と煙草を、ビニール袋にいれた。そして、煙草の灰もキレイに袋の中に拾い上げた。拾い上げきれなかった灰が、ゆっくりと風に流されて、其処には何もなくなった。

「証拠隠滅」

不破はそう言って、ビニール袋をシゲに差し出した。シゲは濡れたTシャツを絞りながら、不破に近づいて其れを受け取ると、軽く背伸びをし、「しゃーないなぁ」とぽつりと呟いて、コンビニへと歩き出す。その後ろを不破がついてくる。シゲとしてはウレシイ気もしたが...

「もしかして、信用してへんの?」

くるりと振り向いて、そう言うと、不破は腕を組んだまま、黙っている。だが、その態度からは、「当然であろう?」という声が聞こえてくるようだった。シゲは軽く溜息を漏らすと、頭をがりがり掻きながら、また歩き出した。

コンビニへは、プールから歩いて数分の距離。あっという間に到着して、空き缶と煙草を分別して、ゴミ箱へと放り込んだ。

「これで、エエやろ?」

シゲが言うと、不破はコクリと頷いて、そのままコンビニの中へと入っていった。

「えっ?、不破センセー、ちょ...」

慌ててシゲも入ると、不破は無言のまま、200mlの牛乳パックを三つ、買った。そして、店を後にした。シゲは、何が何だかわからないまま、不破の後を追いかけた。すると、

「飲め」

不破が、牛乳を一つ取り出して、シゲに手渡した。

「なんで...」

驚くばかりのシゲに、「貴様、酒飲みのくせに、これくらい知らないのか?」と、不破も牛乳を一つ取り出しながら、ぎろりと睨んだ。

「酒臭さを消すには、これが一番効果的だ」
「へっ?」
「たかが、缶ビール一本くらいと思っているようだが、アルコールだけではなく、煙草臭さもしっかり、残っているぞ」
「...」

思わず口元を押さえたシゲに、不破は黙ったまま、自分の牛乳パックにストローを差し込んで飲み始めた。仕方なく、シゲも其れにならって、二人は牛乳を飲みながら、合宿先の校舎へと歩いていった。


ぱっちゃん...


途中、通りがかったプールから、また水の音が聞こえた。シゲは、水音がした方を見た。しかし、やはり何も、誰も、其処にはいない。プールの水面に、月がゆらゆらと揺れているだけだった。

「何故...」
「えっ?」

不破が口を開いた。

「プールの中を覗き込んでいたのだ?」

立ち止まって、シゲの顔をマジマジと見つめてくる不破。月に照らされた不破の顔は、意外と彫りの深い顔立ちなのだと、シゲは思った。

「音がしたから」
「音?」
「あぁ、さっきみたい、水の音が聞こえてから、何がおるんかと思ったんや」
「それで、何かいたのか?」
「うーん...」
「何かいたので、プールに飛び込んだのか?」
「飛び込んだわけやのうて、不破が声をかけたから振り向こうとして、体勢崩してプールの中にどっぼんや」
「...そうか」
「急に後ろに立って、声かけられたら、誰かで驚いて振り向くやろが」
「後ろ?」
「そや、オレの真後ろに立ってたやろ?、其れが水面に映って、誰が来たんかと...」
「オレはおまえの後ろに、立ってはいなかったぞ」
「へっ?」

風がざわっと吹いて、プールの水面を揺らす。月の影が崩れる。

「おまえが散らかしていた場所に立ぢr| 「...」
「やはり何か見たのであろう」
「何でそないな事、言うねん!?」
「オレが見たから」
「えっ...」


ばっちゃん!


風が吹いて立てた水音にして、大きかった。咄嗟に二人は、其方の方を見たが、プールの上に風が吹いて、月の影を揺らしているだけだった。

シゲがごくりと唾を呑み込んだ。

「何を見たねん、不破は」
「手」
「はっ?」
「おまえのTシャツを引っぱる手が、プールの中から出てきた」
「...」
「ふざけて、プールに潜っていた誰かが、おまえを引っ張り込んだのだろうと思って、プールサイドに近づけば、おまえ以外には誰もいなかった」
「...」
「普通ならば浮かび上がるはずなのに、おまえの身体は水底にひっぱられているように見えた」
「...」
「何かにひっかっかっているようにも思えたが、様子がおかしかった。おまえが藻掻いて苦しそうだったからな。そこで急いで、おまえを引っ張り上げたのだが...とても重かった」

不破は静かに歩き出した。それを合図にするかのように、また水の跳ねる音がした。思わずシゲは、背筋に寒けをおぼえた。あの時確かに、自分の後ろには、誰かが立っていた。否、もしかしたら、やはり水底にいたのか?、シゲは混乱する頭の中で、はっと気がついた。

「不破」
「なんだ?」
「科学で実証できないことがキライなんやろ?」
「あぁ、キライだ」
「だったら...」

不破は急に立ち止まった。そして、横にいるシゲの顔をじろりと見た。

「この世には、突き詰めていけば、科学で実証できない事もでてくる」
「それって」
「無論、見間違い、見当違いといった、人間の記憶の曖昧さもあるのだ」
「...」
「だが」

不破は、ゆっくりとプールを指差した。今は風が止んでいる。水面に月が映し出されている。

「あの場所で、数年前、一人の人間が死んだことだけは事実だ」
「不破...」

不破はくるりと踵を返すと、すたすたと歩き出した。シゲも慌てて歩き出した。もう...水の音は聞こえなかった。

そのまま黙って歩いていた二人だったが、シゲは飲み終えた牛乳パックを捨てさせてもらおうと、不破が持っているビニール袋に手を伸ばすと、もう一本、牛乳パックが入っていることに気がついた。

「コレ、誰の分?」
「ん?、あぁ、コレか。風祭の分だ」
「...あっそ」
「おまえとオレだけが、これを飲んでいては、水野に勘ぐられるであろう」
「まぁねぇ...」

アルコールの匂いを消すために牛乳を飲んで帰っていけば、水野が怪しむだろうから。しかし今は、アルコールは牛乳を使わなくても、すっかり身体から抜け落ちてしまったようだった。

不破の話を聞いて、シゲの酔いはすっかり醒めてしまったのだから。

静かな帰り道。プールは、もう見えない。それでも、微かな水音が聞こえたような気がした。


真実を知っているのは、二人の頭上に輝く月だけかもしれない。


そして、せっかく不破と二人っきりになれたにも関わらず、シゲが何も出来なかったのは、頭上に輝く月のせいであろうか?
否、そうではない、多分...。



強化合宿第二日目の夜が、ふけていった。






おしまい


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ようやく書けました、二日目の夜、デス(苦笑)。誰もいない夜のプールって、昼間の雰囲気を違って、ちょっと異空間みたいなカンジがしませんか?、そこに、まぁるい月がぽっかり浮かんでいたら...幻想的に書きたかったのですが、やはり力不足でした。不破も一緒に、プールに沈めたら(?)良かったでしょうかねぇ。そしたら、二人とも助かりません...ね(はははは...)。


date:2003.05.01


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