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どんよりとした灰色の雲が空を覆ったかと思うと、瞬く間にぽつりぽつりと滴がこぼれ落ちてきた。急がなければ...傘を持たない渋沢克郎は、自宅への帰り道を急いだが、人気のない路地裏で、とうとう足止めをくってしまった。そろそろ梅雨に入る時期である。この雨も、にわか雨だろう、直に止む。見ず知らずの家の軒下を借りて、渋沢は、身体についた水滴を振り払った。ふと、玄関脇に咲く、見事な紫陽花が目に入った。もう、そんな季節か....そう言えば、自宅にも一株、咲いていたな、そう思い起こしながら、辺りを伺った。軒下を借りた家は、空き家らしい。それっぽい張り紙が、にわか雨に混じって吹き込んでくる風に、ぱたぱたと揺れている。 雨足は緩むことなく、ますます強くなってきた。渋沢は、軽く溜息を吐いて、人気のない路地裏にひっそりと咲く紫陽花を、しばらく見つめていた。そのせいだろう、近くまで人が走ってきていた気配に気付くのに遅れたのは。水溜まりを蹴って、走り込んできた人影に、渋沢はひどく驚いてしまった。 「あっ...」 咄嗟に出た声に、飛び込んできた人影も、渋沢に顔を向けた。 どきっ... 見たところ、13,4歳くらいの少年であろうか、濡れた前髪が額に貼りついていて、その隙間から見え隠れてしている眼光の鋭さに、渋沢は一瞬、心臓がとまるかと思った。まだ、子供なのに...渋沢は、彼の瞳に釘付けになった。暫しの沈黙のあと、彼は髪についている水滴を、頭を左右に振って吹き飛ばした。その仕種は、まるで小動物を思わせた。そして、彼は深呼吸すると、自分のシャツの中を覗き込んだ。其処に、何か隠し持っているらしい。それを、ゆっくりと取りだして、中身が濡れていないことを確認している。取り出された其れは、やや大きめの茶封筒だった。大切な書類がはいっているように見えた。さらに、ズボンのポケットからハンカチを取りだして、丁寧に拭いている。相当、大切なもののようだった。 しかし、雨はやむことなく、風も次第に強く拭いてくる。二人が雨宿りしている軒下にも、雨風が吹き込んできて、足下だけでなく身体に吹き付けてくる。ふいに、彼は着ていたシャツを脱いだ。そのシャツで、封筒をぐるぐる巻きにして濡れないように、しっかりと腕の中に抱え込んだ。吹き付ける風に背を向けて、白いランニングシャツ姿の彼の背中が、とても寒そうに見えた。事実、がたがたと震えている。 「あっ...!」 彼が小さな声を上げた。彼の姿を見かねた渋沢は、咄嗟に彼の身体を自分の胸元に引き込んで、さらに、着ていた上着を彼の肩に掛けてやった。渋沢の腕の中、彼はおどろいたように見上げてきた。そこには、先程のような鋭い眼光の瞳は無かった。只々、驚いて目を見開いている。彼の身体を抱き寄せると、二人の間には、彼のシャツにくるまれたものが、大事そうに守られているかのように見えた、まるで親鳥が雛鳥を庇うかのように。雨は止む気配がなく、渋沢はさらに強く彼の身体を抱きしめてやった。とても華奢な身体だと、渋沢は思った。白い肩、首筋、鎖骨、微かに見え隠れしている、彼の胸の小さな飾り..渋沢は慌てて我に返った。 「とても大切なものみたいだね」 渋沢が彼の耳元に囁いた。彼は微かに頷いて、「6時まで届けなければ、明日の朝に間に合わないからな」と答えた。目をぱちくりする渋沢に、彼は、「新聞の記事だ」と単調に告げた。しかし彼は、すぐにはっとしたような顔をした。 「大した内容の記事ではないぞ。連載モノの拙い原稿だ。法に触れるような内容ではない」 彼の動揺ぶりに、渋沢は苦笑いした。無理もない、渋沢が着ている制服は、誰が見ても警察官としか見えないのだから。もっとも、彼が懸念している特高警察ではない。渋沢の所属する課は、窃盗、詐欺、等々、ごく一般的な事件を取り扱うところである。しかも、今年、配属されたばかりの新米である。実年齢よりも見た目からすれば、数名の部下を持つ上官クラスに見えなくない渋沢であるが...渋沢は、くっと喉を鳴らして笑った。 「君は、新聞社に勤めているのかい?」 「いや、ただの小間使いだ」 「?」 「原稿を取りに行ったり、事件があれば、其処まで荷物持ちをしたり...働かなければ食べていけないからな」 「そう...家族の人は?」 彼は、ぎっと睨み付けた。 「事情聴取か?」 「いや、そんな...ただ、君はとても若いから...」 彼は、ふっと息を漏らすと、一気に喋りだした。 「父は、共産党員をかくまったとして特高に連れて行かれた。父は、そいつが共産党員だと知らなかったにも関わらず、ひどい拷問を受けて、ようやく解放された時には、虫の息だった。そして、その二日後、死んでしまった。母も半年後、働き過ぎで、呆気なく死んでしまった」 彼は一呼吸した。 「一度、犯罪者扱いされてしまうと、世間など冷たいものだ。それに元々、頼る親戚筋も無かったから、こうして、その日暮しをしている」 言葉を無くしている渋沢に、彼はふんと鼻を鳴らした。 「街をうろついてたら、此処の新聞社の男に声をかけられた。そのまま、そいつの部屋に居候しながら、此処で働いている」 「そ、そう...」 「他に聞きたいことはあるか?」 「い、いや、その...」 口籠もる渋沢から顔を背けると、彼はふと、視線を足下の紫陽花に移した。雨は次第に上がりつつあった。空を覆っていた暗雲が、風に流されていく。辺りは、初夏の夕方の明るさを取り戻しかけていた。その最中、紫陽花がさらに色鮮やかさを増したようだった。 (えっ...) 渋沢は、心の中で小さな声をあげた。彼が見つめる視線の先には、紫陽花の葉にとまった、小さなかたつむり。彼が其れを見つめて、微かに微笑んだのだ。初めて見た、彼の笑顔。いや、笑顔というにはあまりにもささやかだった。それでも、先程までの刺々しい彼の表情が緩んだことは事実だった。 少年らしい、あどけない笑顔。 これが、本来の彼なのだろう。 彼の横顔に見とれていた渋沢の胸を、彼が軽く押した。 「助かった、ありがとう」 「えっ?」 雨は、ほとんど止んでいた。 「これくらいの雨なら、走れば間に合う」 そう言って、彼は自分の肩にかけられた渋沢の上着を返した。 「では、これで失礼する」 少年らしくない物言いだった。今までの、彼の生活ぶりが分かるような気がした。たった一人で、大人の中で暮らしてきたのだろう。彼は水溜まりを避けながら、走り出し、そして、いつの間にか、渋沢の視界から消えてしまった。 取り残された渋沢は、彼の背中が見えなくなると、大きな溜息を吐いた。雲の切れ間から、陽が差し込んできて、足下の紫陽花についた水滴が、きらきらと反射していた。 にわか雨のような、突然の出会いだった。 「何があったんだ? 随分と騒がしいけど」 本庁まで事務処理のため出払っていた渋沢が、署内に戻ってみると、内部はどこもかしこも騒然としていた。あまりの様相に驚いて、思わず、廊下を走っていた同期の三上の腕を掴んだ。すると、 「アジトが一つ、見つかったんだよ!」 「なに?」 「ウチの管轄内で、相当大物の共産党員が隠れていた場所が見つかって、踏み込んだってワケだ」 「それで...」 「ほぼ一網打尽だったらしい。今、その取り調べに、オレらもかり出されて、この騒ぎさ」 「...」 「早いトコ、桐原上官のところに行って指示を仰いだほうがいいぜ。とにかく人手が足りない」 「踏み込んだ場所って、何処だったんだ」 「あぁ、どこぞの新聞社らしい」 「えっ?」 「詳しいことは、オレも聞かされてねぇーんだよ、とにかく!」 三上は辺りをちらりと見ながら、渋沢に耳打ちした。 「特高の連中が大勢来てるから、そいつらの機嫌は損ねない方が無難だぜ」 特高...特別高等警察の略称で、戦前の日本で天皇制政府に反対する思想や言論、行動を取り締まることを専門にした秘密警察のことである。 特高警察の創設は1911(明治44)年に警視庁に特別高等警察課として設置されたことにさかのぼる。前年に起きた明治天皇の暗殺を計画したというデッチ上げによって全国の社会主義者など弾圧した大逆事件が契機となったのである。 その後、1924(大正13)年に大阪、京都などにも増設され、さらに28(昭和3)年には全国に配置された。いうまでもなく1925(大正14)年4月22日に体制された(天皇制)に批判的なすべての思想と運動を「犯罪」とする(民主主義死刑法であった)治安維持法の制定にそなえての設置であった。 同法の主たるターゲットは、1922(大正11)年の創設された天皇制と侵略戦争に反対した日本共産党にあったが、特高は、内務省警保局保安課の統括下におかれ、共産党のみならず、いっさいの民主的な思想や運動の破壊に狂奔した。そのやり方は、拷問やスパイによる弾圧など野蛮極まりないものであった。 たとえば日本共産党員やその支持者を逮捕すると残虐な拷問をおこない、党を裏切ってスパイになること(転向)を強要したり、それでも転向しない者は、小林多喜二のように裁判にかけられることなく警察の留置場における拷問で謀殺してしまうのもしばしばであった。また、日本共産党にスパイをもぐり込ませ、そのスパイに銀行強盗をやらせて日本共産党のしわざと宣伝し、弾圧の格好の餌にするなど、卑劣な謀略を常とう手段としていた。 このように民主主義とは全く相いれない組織であり、現代の日本では信じられない光景が繰り広げられていた時代であった。 渋沢は、ごったがえす廊下を通りながら、どうにか桐原上官の元へと向かった。初老の彼は、いささか興奮気味で、渋沢に留置所にいる一人の少年を解放するように命じた。特高の残虐な拷問は、女、子供、老人も関係なかった。その中で、最後まで、その少年は自分が共産党員であることを認めなかったらしい。まだ、年端もいかない少年であることと、大人数を一斉に検挙したため、手が回らないことが理由だろう、彼を解放するというのは。異例な早さだと思いながら、渋沢は留置所へ足を踏み入れた途端、それが決してそうではないこと痛感した。 彼の痛めつけられ方は、今まで、渋沢が見たこともないほどのものだった。頭から、口から、血が流れ落ちている。全身は殴られ蹴られ、踏みつけられてずたぼろにされていた。よく見れば、右手の数本の指先から爪が剥がされて、血がこびりついていた。渋沢は、思わず口唇を噛みしめた。これ程の拷問を見たことはない。気がつけば、他にも同じように痛めつけられた人間が、そこかしこに転がっている。 冷たいコンクリートの床にぐったりと横たわる彼の身体を抱き起こして、渋沢はその顔を覗き込んだ。そして、見覚えのある彼の顔に驚愕した。苦しげに目を閉じた彼の顔は、明らかに、あの雨の日に出会った彼だった。渋沢の身体の中に、再び、言いしれぬ怒りにも似た感情が吹き上げた。黙ったまま、渋沢は彼の身体を背負うと、そのまま留意所を後にした。次から次へと、取り調べを受けて傷ついた人間たちが運び込まれてくる。その中を、渋沢は黙々と彼を背負って、出ていこうとした。 「おいっ! 渋沢! そいつ、放り出したら、こっち手伝ってくれっ! おい! 聞こえんのかよ! 渋沢っ!」 三上の叫ぶ声は、渋沢の耳に届かなかった。渋沢は、ごったがえす署内の廊下を、かき分けながら歩いていった。その途中、桐原上官の部屋の前に差し掛かった時だった。他の騒音は聞こえないのに、何故か、部屋の中から聞こえてきた桐原の声だけが渋沢の耳に入った。思わず立ち止まってしまった。 「...そうだ、母さんには謝っておいてくれないか、竜也...あぁ、事態の収集がつくまでは...せっかくの母さんの誕生日なんだが...竜也、宜しく頼むよ...それから...」 途切れ途切れに聞こえてくる桐原上官の声に、電話の相手が、愛息の竜也であることに気がついた。彼には、一度だけ逢った事がある。母親似の秀麗な少年だった、上官ご自慢の息子だった。年の頃は...そこまで考えて、渋沢はふいに眉を顰めた。 今、自分の背中に抱え込んでいる彼と、同じくらいの歳だった。 あまりの境遇の違いに、渋沢は口唇を噛みしめた。渋沢の背中でぐったりと身動き一つしない彼。苦しげな彼の呼吸音を聞きながら、渋沢は再び歩き出した。そのまま、騒々しい警察署を後にした。 勤務中に、しかもこれほどの大事件の最中、自宅へ勝手に戻るなど、後でどれほどの処罰を受けるか...渋沢も分かっていたが、彼をこのまま放っておけなかった。 渋沢は親元を離れ、こじんまりした一軒家に住んでいた。元は、祖父母の家であったが、今ではその祖父母は他界して、渋沢一人で住んでいた。誰に遠慮する事はなかった、彼を此処に連れてくるには。 とりあえず、床を延べて彼を寝かすと、湯を沸かし、彼の服を着替えさせながら、傷ついた身体を丁寧に拭いてやった。真っ白い陶磁器のような素肌につけられた夥しい傷跡を、優しく労るように拭いてやった。綺麗な包帯も巻いてやった。一通り、彼の手当が済んで、渋沢が立ち上がろうとした時だった。ようやく、彼が目を覚ました。うつろな瞳。焦点がずれているように見える。 「此処は...?」 彼が口を開いた。渋沢は彼の顔を覗き込みながら、「オレの家だよ、もう怖がらなくてもいいからね」と、出来るだけ優しく告げた。彼はゆっくりと首を回して、窓の外をみた。からりと開け放たれた窓からは、紫陽花が咲いているのが見えた。彼が、再び、渋沢の顔を見上げた。 「あの時の...」 渋沢は、こくりと頷いた。彼が自分のことを覚えてくれていたのが、嬉しかった。そっと彼の頬に手を差し伸べた。 「しばらく、此処にいるといい」 頬を撫でて、その細い顎を捕らえる。彼に瞳を覗き込んで、 「今から、もう一度、署に戻るよ。ゆっくり、何も考えないで眠るといいよ」 そう彼に告げた。彼の瞳が、ほんの少しだけ揺らいだような気がした。けれども、それで安心したのか、彼は瞳をゆっくりと閉じて、瞬く間に穏やかな寝息を立て始めた。それを聞いた渋沢は安堵して、彼を起こさないように部屋から出ていった。木漏れ日が差し込む部屋の中、横たわる彼はとても綺麗だった。 署に戻れば、当然のように上官から大目玉を食らったが、それでも、事態がまだ収集できてなかったので、すぐに仕事に取りかかった。事件をかぎつけたマスコミやら何やらで、ますます多忙極まる署内が、ようやく落ち着いたのは、一昼夜たってからだった。心身ともに疲れ果てながらも、彼の事が気がかりで仕方なかった渋沢は、解散命令もそこそこに、家へと舞い戻っていった。 飯の支度をしてこなかったから、さぞかし腹をすかせているだろう、渋沢はそう思って、息せき切って、家の中へ飛び込んだが、彼はまだ眠り込んでいた。安らかな寝顔に、渋沢はほっとして、彼の枕元に座り込んだ。出かけたまま、窓が開け放たれていた。夜露に濡れた紫陽花が、彼の寝顔に色鮮やかさを添えているかのようだった。思わず、彼の口唇にそっと人差し指を伸ばす。微かな吐息が指先にかかり、そのまま静かに口唇を撫でた。 何を考えている? 渋沢は、はっとして指先を彼から離した。初めて出会った時からそうだった、自分は一体...戸惑う渋沢に勘付いたかのように、彼がぱっと目を開けた。一瞬、言葉を無くした渋沢に、彼がゆっくりと口を開いた。 「終わったのか?」 「えっ?」 「特高の連中は引き上げたのか?」 「いや、まだ...」 「左右十は?」 「えっ?」 「松下左右十だ」 「あ、あぁ、彼は...」 「今回、検挙した党員の中で、かなりの大物なのだろう」 「君、知ってたのか?」 「オレを拾ってくれたのはあいつだからな」 「...」 「もう一度、オレを警察に連れていくか?」 「いや、君は知らずに彼らの手伝いをさせられていた。君は無関係だ」 「...何故、オレを庇う?」 もう一度、言葉をなくす渋沢に、彼はくすりと口元を緩めた。そして、右手の掌を、渋沢の頬へと伸ばした。そのまま渋沢の後頭部へと掌を滑らせて、ぐいっと渋沢を自分へと近付けた。驚く渋沢に、さらに彼は、左手で、自分の浴衣の前襟を掴むと、その白い胸元を、渋沢の目の前にさらけ出した。真っ白い素肌には、昨夜の拷問の痕が生々しく残っているが、それがかえって、艶めかしさを際だたせている。渋沢は思わず、ごくりと唾を呑み込んだ。 「欲しいのだろう?」 彼が挑発するかのように、渋沢の瞳を覗き込んだ。 「オレにはこれくらいしか、おまえに返せるものがない」 「...」 「それとも、男の身体には興味はないか?」 彼がくすりと笑った。そして、ゆっくりと上半身を起きあがらせると、自らの口唇を渋沢の其れに近付けながら、 「ならば、教えてやる。悪くはないぞ」 そう言って、彼は渋沢に口づけた。瞬時に、渋沢の身体が硬直した。彼の舌先が、渋沢の口腔内に侵入してきて、渋沢の其れに絡みつく。さらに、渋沢の右手を引っぱって、自分の浴衣の中に滑り込ませた。彼の滑らかな素肌が、掌に吸い付いてくる。渋沢の頭の中が真っ白く、スパークした。彼の口から漏れ聞こえてくる吐息と喘ぎ声が、渋沢をより煽り立てる。彼に引き込まれるままに、布団の上に彼を押し倒すような格好になった。はだけた浴衣の裾から、すらりと伸びた彼の足が、渋沢の腰に絡みつく。軽い目眩を感じながら、渋沢は彼に導かれるまま、その身体を押し開こうとした。その時だった。 渋沢の目の中に、一筋の光が飛び込んできた。開け放たれた窓から見えていた、紫陽花の夜露が、朝日に照らされて輝いたのだ。その輝きに、渋沢は失いかけていた自我を取り戻した。 「駄目だ...こんなことしちゃいけない」 「何故? やはり、興味がないのか?」 「違う! 君はこんなことをしちゃいけないんだっ!」 「...」 「君は...君は...っ!」 渋沢の頬に涙が流れ落ちた。何故、自分が泣くのだろうか?、渋沢は自分でも分からなかった。彼の境遇を哀れんだのだろうか?、否、そうではない。只々、悲しかった。こんな時代に生きぬかねばらなぬ、自分が、彼が悲しすぎた。 溢れる涙を隠そうともしない渋沢に、彼は微かに笑って、その背中を静かに抱きしめた。優しく、まるで渋沢をあやすように。彼だって分かっているのだ、自分たちが生きなければならない、この時代がどれほど過酷なものであるのかを。 抱きしめあう二人の姿は、天に祈りを捧げる敬虔な信者のような姿だった。 数日間、二人は共に暮らした。彼の傷が癒えるまで...できれば、そのまま一緒に暮らすことを渋沢は提案したが、彼は首を縦に振らなかった。彼が出ていく日の朝も、夜明けに降ったにわか雨が、道路に水たまりを作っていた。紫陽花が、これが最後と言わんばかりに艶やかな色合いを、水たまりに映し出していた。 「では、世話になった」 彼は、軽く礼を言った。見送る渋沢は、拳を握りしめ、今一度、彼を引き止めようとした。だが、彼は、決して頷くことはしなかった。無言のまま、踵を返し、立ち去ろうとする彼の背中に、渋沢は思わず大きな声をかけた。 「名前を...っ!」 「ん?」 彼が振り向いた。渋沢は、今更ながら、気がついたのだ。この数日間、彼と暮らしながら、彼の名前を聞いていなかった事に。彼も、くすりと笑った。 「...聞いても、仕方あるまい」 彼はそう言うと、再び歩き出した。そして、もう二度と振り返らなかった。彼の姿が見えなくなったあとも、渋沢は暫く見送り続けていた。彼が戻ってきてくれないかと...けれど、それは決して叶わぬ願いであることを、渋沢は知っていた。 もう二度と、彼に逢うことはないだろう。 その事実が、渋沢の胸を締め付けた。溜息を漏らし、ふと視線を落とすと、其処には、紫陽花の葉に乗っかったかたつむりが、むっくりと動き出そうとしていた。 時代は、着実に動き出している。それは何処へ向かって、何を目指して動き出そうとしているのか...。 それでも、願うことは、只ひとつ。 彼の行く末に、一つでも多くの幸せがあることを...渋沢は天に向かって祈りをこめた。 空は何処まで、何処までも、蒼く広がっていた。 ☆ ―――――――――― ☆ ぷちぷち様へ、『時代渋不破祭り』に送りつけた駄文です。 暗いっすね....どこが、渋不破なんだか、当初の予定から大幅に改定して、結果がこれです。 『特高』について、ちょっちヒモを解いてみたら、激動の暗い日本を垣間見てしまって、突発的に書き殴ってしまいました。 いささか不適切な文面があるかもしれませんが、すべては勉強不足と力量の無さ、切にお許し下さいませ。 (だったら、送りつけるなよ!って、カンジですね....滝汗) これに懲りず、今後とも、お付き合い頂けたら幸いです。受け取っていただけたら、さらに幸せ! タイトルの『時代』は、中島みゆきから拝借しました。 ♪めぐるめぐるよ 時代はめぐる〜、♪まわるまわるよ 時代はまわる〜、って、佐藤の目が回っております(苦笑)。 さらに、今頃、気がつきました。どこにも、不破大地の名前が出ていないことに! こんなんで....わかってもらえるのでしょうか(滝汗)。 おまけに、大昔、放映されていた朝ドラみたいな...(『君の名は』でしたっけ? 忘れました(苦笑)) date:2002.06.02(Sun) ☆ ―――――――――― ☆ |