桜の森の満開の下




暖かい日だ。この陽気では、今日一日で桜は満開になるだろう。そのせいか、奥森医院では、近頃、花粉症の患者が増えていた。おかげで、午前の診察が終わったのは、1時をとっくに過ぎてしまっていた。

慌ただしい午前の診察を終えて、昼食の準備をしながら、奥森かずいは、窓から差し込む日差しに眼を細める。居間のソファの上では、コヤタがおもちゃを盛大に広げて遊んでいた。

「かずい、お腹すいたぁ」
「はい、もうちょっと待ってくださいね。もうすぐコヤタの好きなカレーが出来ますから。」

かずいは、手際良く料理を作りながらも、テーブルの上の資料に目を通していた。一通り読んだ後、鞄に資料を詰め込んだ。

「かずい、どこか出かけるの?」

めざとく気がついたコヤタが聞いてきた。

「ええ、今日は、午後、診察をお休みして、門田先輩のところへ行く用事があるのです。」

コヤタが硬直する。その気配を、かずいは素早く感じとって、

「直接、先輩の勤める病院を尋ねますし、先輩はとても忙しくて、そう...コヤタには恐い人ですよ。コヤタが一緒に行ってもツマライですよ。」

コヤタはじ〜っと、かずいを見ている。困ったな...、かずいはあきらめてため息をついた。

「...一緒に行きますか?」



遅い昼食を済ませて、ようやく門田の勤務する病院に、二人で出かけた。
門田の勤務する病院は、某医学大学付属の大病院である。最寄りの駅から歩いて10分とかからない。途中、桜並木が見事な公園がある。この陽気で、慌てた花見の幹事らしき数人の人が、シートを抱えて、座席を取りに走っていた。そんな光景を見ながら、桜の森の中を、かずいとコヤタは、門田の勤める病院に向かって歩いていた。

「すっごい桜だねぇ...」

コヤタが、桜の木々を見上げながら、何やらうれしそうに話し掛けてきた。

「そうですねぇ...ここの桜は見事ですね。」
「春の花は、桜に限るよね!」

(おや、どこでそんなことを覚えたのでしょうか、この子は...)

かずいが、コヤタの生意気そうな言葉に、思わず目を細めた。その時だった。ふと、近くの桜の木の下に、男が一人佇んでいるのが目に入った。

( ...?)

花見の客ではなさそうだ。男は、桜の木を見上げていた。その姿は、何かを祈るようにも見えた。
かずいの視線に気が付いたのか、男がゆっくりと振り返った。

年の頃は、二十五歳前後だろうか。顔が青白い。血の気のない顔...、だが、やや長めの前髪の間から見える漆黒の潤んだ大きな瞳と、赤味をおびた唇が、かずいの目に異様に焼き付いた。ぎくりとした。この世のものとは思えない...。

「かっ、かずい...」

コヤタがかずいの背中に張りついた。男の異様な気配に、コヤタも気が付いたようだった。男の視線は、かずい達を見ているようで、見ていない。定まらない視線宙に漂わせ、男はゆっくりと、歩きはじめた。そして、人混みの中に消えていった。

「かっかずい! 今の...今の何!?」

かずいは、男の背中が見えなくなるまで見送っていた。あれは、一体...。

「かずいってばぁ! あれ、絶対、桜の木に血を吸われちゃった人だよ、きっと...」

コヤタは、かずいの腕をガシガシとつかんで揺さぶった。

「桜の木って、人の死体から養分吸ってキレイに咲くんだって...あの人、養分吸い取られちゃったんだよぉ! 血を吸い取られちゃったんだよぉ! 早くここから離れなきゃ!!」

確かに...、血の気のない表情だった。生きている人の顔つきではなかった。だが...あれは...。
かずいは、男の瞳の中に何か引っかかるものを感じながら、コヤタに促されるまま、その場をあとにした。



病院の受付に、門田への来訪の伝言を頼んだ。しばらくして、エレベータから、忙しそうに白衣を着た一人の医師が降りてきた。

「よう、待たせたな!」
門田先輩、お久しぶりです」

門田は、かずいと、医大時代に同じ研究室に在籍していた先輩である。

「あいかわらわず、大きいなぁ、オマエは。」

門田は決して背が低いほうではない。かずいが大きすぎるのだ。門田は、短め髪をきっちりと撫で付けていて、誰から見ても好印象を与える。彼の切れ長の目が、ふと緩んだ.

「ちょ、ちょっと、待っててくれ」

門田は、受付の方に振り返った。

「今日、『朝香志郎』って人物が、私を尋ねてこなかったかな?」

受付の女性は、「ちょっと待ってください」と、パソコンのキーボードを叩いて、外来で受け付けた患者の氏名を検索すると、

「...いらしていないようですが...」
「...そうか、もし診察時間外でも訪ねて来たら、私の方に通してくれないか?」
「わかりました。『あさか、しろう』さんですね?」
「あぁ、そうだ...」

門田は、頼む、と念を押してから、かずいの方に向き直った。

「...あいかわらず、お忙しいそうですね。」

かずいが、ねぎらうように門田に声をかけると、門田は、

「オマエもだろ?個人病院だって、大変だろ?わざわざ来てもらって、すまないな。」

そういって、かずいとコヤタを、門田の私室へと案内してくれた。

「...オマエ、まだ、あの『力』使っているのか?」
「えっ? ええ...」
「...そうか...」

門田の方から、突然、かずいの『力』のことを聞いてきたので、かずいは少し驚いた。今日は、門田とOB会の打ち合せに来ただけなのだが、門田は、何か別なことを言い出したいような、そんな雰囲気だった。

「...他にも、どなたか会う約束があるのですか?」

だったら、早く用件を済ませなければ...、かずいは、そう思って門田に話を切り出したのだが、

「いや、約束といっても、こっちが一方的に来い、と言っただけで...、そう、多分、来ないな、あいつは...」

門田の表情が、少しだけ曇った。悩み事を抱えている、そういった表情だ。そして、それを、かずいに打ち明けたい、けれど話を切り出すきっかけがない、門田は思案顔だ。その時、電話の呼び出し音が鳴った。門田がマイクのスイッチを押すと、緊急を告げる声が、部屋に響いた。

「門田先生! 至急、306号室までお越しください! 患者の容体が急変しました! 指示をお願いします!」

ちっ!と、門田は軽く舌打ちをすると、

「わかった、すぐ行く!」

返事をして、かずいの方を振り返った。

「先輩、またあとで来ます。」

事情を察して、かずいがそう言うと、門田は、

「すまないな。そうしてくれ。今度の非番の日にでも、俺の方からオマエのとこに行くから。」

門田は慌ただしく、部屋から出ていった。かずいは、びっくりしているコヤタに、

「今日は、帰りましょう」

苦笑いをしながら、そう言って、病院をあとにした。二人は、来るとき通った桜並木の公園に差し掛かった。先刻より、花見の客が増えているようだ。人の波と反対方向に歩きながら、かずいは、ぼんやりと『彼』のこと思い返した。あの瞳...、何故こんなにも気にかかるのか?かずい自身も不思議だった。コヤタが、かずいの手を引っ張った。

「早く、帰ろ。ここの桜、絶対ヘンだよ。」

かずいが黙り込んでしまったので、コヤタは心配したようだ。かずいが、桜の木に血を吸い取られてしまうのではないかと、コヤタは思ったのだろう。かずいは、少し微笑みながら、コヤタとともに、家路へと向かった。




数日後、めずらしく訪れた患者が少なかったせいか、いつもより早く、午後の診察が終了した。
奥森医院には、看護婦どころか、受付もいない。かずい一人で、診察も何もかも行っている。今日は診察が早く終えたので、待合室の片づけをしていた。その時...、ドアの外に人の気配を感じた。

「...?」

誰かいる..、患者だろうか?、かずいは、ドアをそっと開けてみた。すると、そこには、一人の男が立っていた。丁度、立ち去ろうとしていたのか、踵を返したところだった。

あの...、どうしました?」

男の後姿に問い掛けた。ゆっくりと、男はこちらに振りかえった。

(あっ...!?)

この前の『彼』だ!、あの桜の下で出会ったときと同じだった。彼には、人の心を捕らえて放さぬ、異様な雰囲気があった。
v
「...終わったのでは...?」

彼がしゃべったので、かずいは少し驚いた。生きているとは思えないほど、青白い顔。何とも、不可思議な...。

「あっ...、ええっと、今日はいつもより早く診察が終わってしまったので..。」

診察は、午後6時までである。現時点で、時計は、5時55分をさしている。

「でも時間外ではないですし...、どうぞ。」

彼が、少しだけ微笑んだ。かずいは、どきりとした。純粋に、奇麗だと思ってしまったからだ。かずいは、一度脱いだ白衣を身につけ、診察室に入る。すでに、彼は腰掛けていた。真新しいカルテを出して、ボールペンをカチリとノックする。

「お名前は?」
「朝香志郎(あさかしろう)、といいます。」

朝香志郎...、聞き覚えのある名前。確か、門田のところで...。

「...ここで、記憶を消してもらえるって、聞いてきました。」
「あっ...ええ、その事でしたら...」
「本当に!?どんなことでも、ですかっ!?」

彼が突然、大きな声をだしたので、意外な感じがした。それまで、生気のない顔していたのに...、彼の切羽詰まったような表情を、黙って見つめていた。

「本当に...」
「ずいぶん思いつめていらっしゃるようですが、何かあったんですか?」

彼の肩が、小刻みに震えだした。両腕で自分の体を抱きかかえるようにして、うつむいてしまった。
そして、小さな声だが、はっきりと彼は答えた。

「...1年前、両親を殺してしまいした...」
「!?」
「でも、警察は母が父を殺して、無理心中を図ったのだと...、そう処理してしまいました。」

彼は、そう告げると、静かに顔をあげた。

「当時、父が経営していた会社が倒産に追い込まれていたんです。母が無理心中を図ったのは、そのせいだと...。でも、違うんです!本当は違うんです!私が...!!」
彼は激しく頭を振った。かずいは黙って、彼を見つめていた。彼の告白に、静かに耳を傾けていた。

「...二人が死んで、父の会社のこととか、後始末に追われて、今日まで生きてしまいました。でも、それも、ようやく終わったから、もう...どうでもいいと、そう思っていた。なのに、『あの人』に出会ってしまって、こんな今の自分を知られてしまって...もう...死のうと...、もう生きていなくていいんだと、苦しまなくていいんだと...。なのに...、なのに、よりにもよって『あの人』に助けられてしまった!!」

血を吐くような、彼の告白は続いた。
診察室に差し込んできた西日が、彼の顔を照らして...、まるで、血の涙を流しているように見えた。

「死ぬこともできなら、いっそ気が狂ってしまえばいいと...。気が狂えないならば、もう...!!」


――― 壊してくれ!!―――


彼の叫び声が、胸をしめつける。今日まで、生きつづけた彼の苦しみが、よく分かる。だが...。
その時、呼び鈴が鳴った。

「オーイ!奥森、いるかぁ!!」
聞き覚えのある声...、かずいは、はっと顔をあげ、診察室のドアを見た。

「オーイ!ごめんくださーい!...っと、コヤタくんだっけ? 奥森は? あれっ? 逃げちまった...、ええっと、こっちかな?」

ガチリと、診察室のドアが開いた。ドアから顔を覗かせた人物は、門田だった。

「ああ、ここにいたのか...。あっと!悪い!仕事中だったか!?」

彼がゆっくりと、門田の方に振り返った。すると、彼の身体は瞬く間に硬直した。

「...門田...先輩...」

門田も目を見開き、彼の顔を凝視した。

「志郎...!」

やはり、知り合いだったか。彼の名前を聞いたとき、門田のことを思い出していたが、彼からの思いも寄らぬ告白に、門田のことは、かずいの頭の中からすっかり消えていたのだ。

「...どうして...」

門田が彼に近付いた。その瞬間、彼はドアの向かって走り出した。しかし、ドアに近づくには、門田の横を通りすぎなければならない。だから...、彼は、あっけなく、門田に捕らえられてしまった。

「志郎! 何故逃げるんだ!?」

彼は足掻いた。門田に捕らえられた腕を解こうと、必死に足掻き続けた。

「志郎! 志郎!?」

志郎が門田を振りほどこうと激しく暴れるので、とうとう、門田は、志郎を抱きかかえるように、壁に押さえつけた。

「志郎!!どうして...!?」

志郎の華奢な身体は、すっぽりと門田の腕の中に抱き込まれてしまった。志郎は、勘念したのか、暴れることをやめた。ぐったりとしてしまった志郎の身体を、門田はしっかりと抱きかかえた。

志郎のうつろに開いた眼から、涙が流れ落ちた。

「...なんで...、いつも、こんなときに...、なんで...」

門田は、はっとして、志郎の顔を覗き込んだ。

「志郎...、まさか、ここに来たのは...、記憶を...!?」

その時、診察室のドアがガチャリと開いた。ドアの隙間から、コヤタが顔を覗かせた。

「...ねぇ...、かずい...、どーしたの?何かあったの?...うわぁ!?」

診察室から大きな物音がしたので、コヤタは心配になって来たらしい。だが、ドアが開いた瞬間、それを合図にしたかのように、志郎が門田の腕を振りほどいて、診察室から飛び出していった。コヤタは、志郎に突き飛ばされて、尻餅をついてしまった。

「あっ!?コヤタ!大丈夫ですか?」

かずいがコヤタに手を貸そうとした途端、今度は、門田がかずいを押しのけて、診察室から飛び出した。

「志郎!!」

志郎は振り向かずに、医院のドアからも飛び出して行った。門田も、かずい達には目もくれずに、志郎のあとを追いかけていった。取り残された、かずいとコヤタは...。

「ねっねぇ、あれ、なに? 何だったの?いまの??」

...かずいは答えられない。かずいも、今の出来事は何だったのか、理解できなかった。
あの門田先輩が...、いつも冷静で落ち着いている門田先輩が、あんなに取り乱したのは初めてだ。
それに...、両親を殺した??
門田と志郎の関わり合いが、どのようなものなのか? あの二人は一体...??
かずいは、何やら胸騒ぎがして、二人が出ていったドアの外を、じっと見つめていた。




門田と志郎が飛び出していてから、数時間が経過した。かずいはコヤタと夕食を済ませ、後片付けをしていた。ふと、ソファを見ると、コヤタが居眠りを始めていた。

「コヤタ、寝るんだったら、自分のベットで寝てください。そこでは、風邪をひきますよ」
「ふはぁぁ...」

コヤタは盛大にあくびをして、目をごしごしこすりながら、ソファからふらふらと立ち上がった

「ん...、もう寝る...、お休みなさい...」
「はい、お休みなさい。眠くても、歯磨きしてから寝ましょうね」

コヤタは、ふらふらと2階の自分の部屋にもぐりこんだようだった。かずいは、コヤタがつけっぱなしにしていったテレビを消して、今度はソファの周りの後片付けを始めた。その時、電話が鳴った。

「もしもし、奥森です。」
「夜分遅くすみません。神奈川県警の望月と申します。ちょっと、お聞きしたいことがあるのですが...。」

――― 警察??

突然の電話に、かずいはどきりとした。

「え〜っと、『朝香志郎』という人物をご存知でしょうか?」
「えっ?」

先程から気にかかっていた彼の名前を問われて、かずいは受話器を握り締めた。

「ご存知ありませんか?」

知っているもなにも...。しかし、かずいは落ち着いて、答えを返した。

「今日の午後、、診察に来た方ですが...。」
ああ、そうですか。それで...。いえ、なに、彼の上着のポケットの中に、奥森医院の電話番号が書いてあるメモが入っていたので...。実は、今、彼は病院にいまして、家族の方か親しい方に迎えに来て頂きたいのですが、どなたか連絡つきませんか?」

病院?何故、そんなところに?門田はどうしたのか?彼を追いかけていったはずだが...。

「そうですか。心当たりがありますので、連絡します。どちらの病院まで,..」

かずいは病院名と場所を控えると、すぐに門田の携帯電話に連絡を入れた。門田は自宅に戻っていた。かずいからの連絡を聞き、門田はそこへ向かうと即答した。かずいも、無関心ではいられない。門田とともに病院へ向かうことにした。




連絡を受けた病院には、かずいの方が門田より先に到着した。夜間のため、人気の少ないロビーに、電話をかけてきた望月と名乗る私服の警察官がいた。

「先程、お電話を頂いた奥森です。」
「ああ、先生が来てくださるとは。お忙しいところ、すみませんね。」

望月は、初老らしい、人の良さそうな男であった。志郎は、夜間診察室の簡易ベットに身体を横たえていた。眠っているようだった。

「何しろ、何も荷物を持っていなくてねぇ。財布の中に免許証があったけど、その住所には、もう住んでいないようなので...、本人もこんな状態だし、困っていたんですよ。」

志郎は、全く動かなかった。相変わらず生気のない顔である。しかし、よくみると顔中殴られた跡がある。それに、彼の着衣がかなり乱れていることに気がついた。

「最初は、ただのよっぱらいかと思っていました。道端で倒れていて、何を聞いてもうつろな顔してました。ところが、よくみると、顔中に殴られたような跡があって、真っ青だし...、あわてて病院に連れてきました。」

「彼は、どうしたんですか?」

望月は、ちょっと渋い表情になった。少しの間、望月が思案していた時、門田が駆けつけてきた。息をはずませながら、ベットに横たわる志郎を見つけ、すぐに駆け寄った。

「志郎...!」

望月は、突然の、門田の登場に驚いた。

「あっあなたは?」

門田は返事をしない。志郎の肩にそっと手をかけ、顔を覗きこんでいる。望月は、かずいの方に振り返って答えを要求したが、かずいも答えようがない。門田が、志郎と知り合いであることは確かであるが、どういった関係なのか、全く聞かされていない。二人の様子を、黙ってみているうちに、志郎が微かに動いた。意識が戻ってきているようだ。

「彼は、睡眠薬を飲まされたようですね。」

望月が、ぼそりと話を始めた。

「言うこと聞かなければ、クスリを飲ませて、無抵抗にして...、彼は男ですが、同じ男から、性的な暴力を受けたようですな。」
「!?」

門田とかずい、二人同じに望月を見たので、望月は、かえって驚いて、困った顔をした。

「こういったことは、近頃、結構ありまして...。彼の場合は....商売人でしょ?まぁ、詳しいことは後日聞きますから...。」

門田もかずいも、返す言葉を失った。志郎が、そんなことをしていたとは...。だが、門田は唇を震わせ、握り締めた拳を震わせていた。何か知っているようだった。望月は、深いため息をつきながら、話を続けた。

「可哀相に...。あんな事件さえ起こらなければ、彼は普通な生活を続けられたのにねぇ...。」

―――事件?―――

かずいは、「両親を殺した」という、志郎の告白を思い出した。

「知っているのですか!?」

門田が、始めて望月に対して、口をきいた。

「えっ?あぁ、あの事件は、私が担当したんですよ。」

望月は、さらに続けた。志郎の様子を伺いながら、声音をさらに落としながら、話を続けた。

「彼の母親が父親を刺し殺して、自分も喉を掻き切って自殺したんですよ。たまたま、巡回中の警察官が現場を目撃しまして...、庭の桜の木の下に、血まみれの父親が倒れていたそうで、その側に、手に果物ナイフを持った母親と、彼女にすがりついてた彼がいたそうです。母親が、彼に『ごめんね...ごめんね...』って言いながら、その場で、自分の喉を刺したそうです。」

当時、志郎の父親が経営する会社が、バブル崩壊の煽りをうけて、倒産寸前だった。志郎の両親は、金策に苦労していたらしい。事件は、無理心中として片づけられた。

「ところが、何故か彼は、両親を殺したのは、自分だと言い張ったんですよ。」

しかし、目撃者の証言、現場検証の結果、明らかに、父親を刺し殺したのは、母親であり、その母親は、巡回中の警察官に自殺するところを目撃されているのだから、志郎の言っていることには、全く信憑性が無い。病院に収容された志郎は、検査結果の末、精神錯乱状態であると診断され、しばらく入院を余儀なくされた。無理も無い。両親の夥しい返り血をあびて、志郎の精神は混乱を極めていた。志郎の治療には数ヶ月を要したと、望月は言った。

では...、かずいは、ふと疑問に思った。両親を殺したと告白した志郎の瞳は、正気を無くした人ではなかった。確かなものだった。彼は、一体...?ふと、かずいは、志郎の左手首の傷に気が付いた。比較的、最近の傷のようにみえた。生々しい傷だった。この傷は...そう、多分、自殺未遂だ。『あの人』に助けられた、というのは、もしや門田のことでは?

その時、志郎が、完全に目を覚ましたようだ。

「志郎...、俺だ、分かるか?」
「かどた...せんぱい..?」

一瞬、志郎は門田に微笑みかけるのと思われた。だが、志郎は、何かを思い出したかのように目を閉じ、門田から静かに顔をそむけた。

「...目を覚ましたのであれば...、家に帰ってもらうようなんだけどねぇ。」

望月は、彼の住所知ってる?と門田に聞いてきた。門田はゆっくりと首を振って、志郎は自分の部屋に連れて帰ると静かに告げた。




かずいは、とりあえずタクシーを呼んだ。到着するまで、、3人は夜間診察出入口のイスに腰掛けていた。門田は、志郎をしっかりと抱え込んで、決して離そうとしなかった。志郎は、時折身体を震わせていた。桜の咲く季節とはいえ、夜は未だ肌寒かった。門田は、そんな志郎をさらにきつく抱きしめた。微かに、門田の囁き声が聞こえた。

「さっき見失わなければ...」

門田は志郎を追いかけて奥森医院を飛び出したが、志郎を見失ったのだろう。見失わなければ、志郎はこんなことにはならなかった...、門田は、自責の念に捕らわれているようだった。




門田は、一ヶ月前、志郎と思わぬ場所で再会していた。同僚の結婚式の帰り道、気の合った数人と、比較的大きなビルの地下にあるバーに入った。初め入った店で、偶然、そこで、バーテンをしていた志郎を見つけた。志郎は、別な客を相手にしていたので、その時、門田に気が付かなかった。店には、4,5人のホステスがいたが、門田の目には全く入らない。志郎を気にする門田に、マスターらしき男が、いやらしく小声で門田に囁いた。

「彼はねぇ、お金さえだせば、女でも男でもOKなんですよ。」
「!?」

驚く門田に、男はさらに囁いた。

「大分、気に入られたようだから、彼に取り次いでもいいですよ。」

咄嗟に、門田は、男に金を渡した。男は、にやにやしてながら金を受け取ると、志郎の側に擦り寄っていった。数回、志郎と男の間で、やりとりがあった後、男が門田の元に戻ってきた。右手で、OKのサインをだしながら。その間、志郎は門田の方を見なかった。連れの同僚達も、幸いに、志郎のことも門田の行動も気が付かなかった。

男は、門田にホテルのマッチを渡した。そこで待っているように、と。門田は、自分の飲み代を同僚に渡すと、慌ただしく店を出ていった。男が指定したホテルは、店から歩いて数分のところにあった。ホテルのカウンターでは、すでに話がついているらしく、部屋の鍵を渡された。門田は、いかにもラブホテルらしい、派手な装飾の部屋で、志郎が来るのを待った。
しばらしくて、志郎が部屋に入ってきた。門田は、志郎に背を向けて、ベットに腰掛けていた。

「...初めてですよね...?」

門田の背中に、志郎が声をかけてきた。門田は答えない。答えることが出来ない。

「...シャワー、浴びてきますね。」

志郎は手慣れたように、シャワー室に入ろうとした。
途端、門田は振り返り、志郎の腕を掴んだ。そのまま、志郎を床に押し倒した。

「何するっ..!?」

驚く志郎は、さらに相手が門田であることに気づき、息を呑んだ。

「門田先輩!?」

門田は声が出なかった。志郎には、聞きたいことが山ほどある。
あの事件後、志郎はしばらく入院を余儀なくされていた。一時的な精神錯乱状態とはいえ、入院中、門田は何度も志郎を見舞ったが、志郎は門田に何も話してはくれなかった。数ヶ月後、とりあえず病状が良くなったので、志郎は退院したが、門田の前には姿を見せなかった。勤務していた病院も辞めてしまった。しばらくは、両親が残した会社や家の残務処理に追われていたようだったが、その後、全く消息が掴めなかったのだ。

「志郎...どうして...」

――― どうして、何も言わずに、俺から去っていたのだ!?

門田の表情は痛々しかった。何も言わずに去れたうえに、再会がこんなところだなんて!!

「...どうして...こんな..」

志郎は、何も喋らない。ただ、唇を震わせ、脅えているようにだった。

「...探したんだぞ...ずっと探したんだ...それが、こんなところにいるなんて...!」

咄嗟に、志郎は、門田の腕から逃れようともがき始めた。門田の顔を直視できない。志郎が、何をしにここに来たのか、門田に知られてしまったからだ。門田は、そんな志郎をさらに強く押さえつけた。

「何やってんだ!おまえは!?」

門田に押さえつけられた志郎の目から、涙が溢れ出てきた。門田に知られてしまった、今の自分を。よりにもよって一番知られたくない人に知られてしまった。志郎は、黙って涙を流し続けていた。

「...志郎...」

何を言えばいいのか、門田にも分からなかった。押さえつけていた手を緩め、志郎をそっと抱きしめた。
泣きじゃくる志郎の背中をやさしく擦りながら、門田は志郎の耳元に囁いた。

「俺のところへ来い。志郎、俺のところへ...」

戻ってこい...そう言いかけた時、おとなしくしていた志郎が、突然、門田を突き放し、部屋から飛び出そうとした。
寸前で、門田が志郎の腕を捕まえた。

「志郎!?」
「放っといてください!俺に構わないで!!」

志郎の鋭い拒絶反応に門田が一瞬怯んだその隙に、志郎は門田の手を振り解くと、部屋から走り去っていった。




それから...門田は、ほとんど毎日、志郎のいる店に張り込んだ。志郎が馬鹿なことをしないか、見張っていたのだ。
志郎に繋ぎをつけた男が、

「しつこいねぇ、だんな。気持ちはわかるけど、ふれたんでしょ?」

と、ややあきれながら話し掛けてきたが、門田には聞こえていない。門田は、志郎に自分の部屋の電話番号や、携帯の番号を教えた。門田が、現在勤める病院も教えた。だが、志郎から一切何も連絡は無かった。志郎は、門田をひたすら無視し続けた。そんなある日、志郎が店を休んだ。門田は、妙な胸騒ぎを感じ、店のホステスの一人に志郎の住所を聞いた。

「彼だったら、そこの表通りの豪勢なマンションに住んでいるわよ。もっとも、彼のものじゃないけどね。」

どういうことだ...?、門田が不可解な顔をすると、

「あら、知らないの?彼、この店のオーナーに囲われてんのよ。そのくせ、ここに来てお客を取るもんだから、ばれる度に『お仕置き』」されちゃってさぁ...、でも、オーナーも手放したくないらしくて、結局、彼のすきにさせているのよねぇ。」

門田は愕然とした。自分がどんなに頑張っても、結局、部屋に戻れば、彼は自分が一番恐れていることをしているのだった。

「お店休むことも、そんなに珍しくないのよ。大体『お仕置き』されたあとって、かなり辛いみたいだからね。ここのオーナーって、かなりハード系みたい...やだ、本当に知らなかったの?」

門田の肩が小刻みに震えているのを見て、このホステスは驚いたようだった。彼女は、門田のことを気の毒に思ったのか、丁寧に志郎の住所を教えてくれた。教えられた住所の場所に行くと、確かにそこは豪勢なマンションだった。しかし、幸いセキュリティがうるさくなかったので、門田は志郎の部屋の前まで難無く辿り着けた。呼び鈴を鳴らそうとして、一瞬、門田は躊躇った。もし、あのホステスが言うようなことであれば、門田は、志郎のことをまた傷つけてしまう。

志郎が門田を無視するのは、今の自分を門田に見せたくないからだ。門田にだって、それぐらい分かる。だが...、門田は思い切って、呼び鈴を鳴らした。何度も鳴らした。しかし、志郎の返事はない。門田の胸騒ぎは次第に激しくなった。とうとう、門田は、ドアのノブを回した。意外にも、ドアに鍵はかかっていなかった。部屋に入ると、そこは、確かに高価な感じのするものだった。バーテンの志郎には、到底不似合いな部屋だった。

「志郎...居るのか...志郎...?」

門田は声をかけたが、返事はない。留守なのか...しかし...。その時、門田は、ある臭いに気が付いた。

(これは...まさか...!!)

門田は嗅覚を頼りに、そこまで辿り着いた。
辿り着いたところには...、志郎が居た。床を自分の血で汚しながら...。

「志郎!!」

門田の感じた臭いは、血の臭いだった。夥しい血の海に、志郎は横たわっていた。
彼の血は、彼の左手首から流れて出ていた。

「志郎!しっかりしろ!!志郎ぅ!!」

門田は志郎を抱き起こした。これは自殺だ。なんてことだ!自分が追いつめた。そう、門田は直感した。だが、彼の息は...まだある! 咄嗟に、彼の切られた左手首を止血し、病院へ運んだ。応急処置と発見が早かったおかげで、志郎は何とか一命を取りとめた。志郎の意識が戻ったとき、側にいた門田と目が合った瞬間、志郎は自分が門田に助けられたことを理解した。志郎の口から発せられた言葉は、悲痛だった。

「...どうして、助けたんですか...どうして死なせてくれなかったんですか...あなたも俺に生きろって言うんですか、これ以上、生きろって...」

「志郎、俺は...」

志郎の鳴咽が、病室に微かに響いた。誰が志郎に生きろと告げたのか、門田には分からなかった。志郎は何も言わない。門田に背を向け、決して振り向いてはくれなかった。

それから、二週間が過ぎた。志郎は退院し、またあの部屋に戻っていった。門田は止めることができなかった。
悔しくて...何も志郎にしてやれない自分が悔しくて、口惜しくて、それでも志郎と離れることが出来なくて、強烈なジレンマに苦しめられながら、門田は志郎から目が離せなかった。



...そして、ついに、こんなことになってしまった。

一陣の風が、桜の木を揺らした。満開の桜の花びらが、風に煽られ、ひらひらと舞い下りてきた。
夜間診察の出入り口は、この病院の裏手にある。表玄関を違って質素だが、出入り口のすぐ側に、数本、見事な桜の木があった。満開の桜は、昼間の陽気と吹きだした風で、散り始めようとしていた。
ぼんやりとしていた志郎が、まるで、桜の花びらに誘われるかのように、突然、門田の腕を振りほどいて、ドアの外にでていってしまった。

「志郎...!?」

門田とかずいは、慌てて志郎のあとを追いかけた。
ゆっくりと舞い散る桜の花びらの中、志郎は何かに吸い込まれるかのように、桜の木にむかって歩き出した。

「志郎!?」

門田は志郎の腕をつかんだ。志郎の動きが一瞬止まった。だが、志郎は、門田を見ていない。

「...母さん...」

志郎が、つぶやいた。幻想的に舞い散る桜の花びらが、志郎に1年前の惨劇を思い出させたのだろうか。

「志郎...」

門田の呼びかけに、志郎は初めて門田を振り仰いで見た。

「父さんと母さんを殺したのは、僕なんだ...」
「志郎、あれは...」

あれは、志郎が殺したのではない。彼は、また精神錯乱を起こしているのか?

「僕が追いつめた...追いつめてしまった...母さんを...」

志郎は、ゆっくりと語り始めた。そう、1年前のあの惨劇を。




志郎は一人っ子だった。そのせいか、両親は、とても志郎を可愛がった。傍から見ても、仲の良い家族だった。
志郎の父親は、日本各地に数十ヶ所の支店を持つ、大手の運送会社を経営していた、やり手の実業家だった。経済的に恵まれた家庭で育った志郎は、父親の事業を継がず、門田やかずいと同じ大学に進学した。だが、医者ではなく臨床検査技師の勉強をし、資格取得後、門田の勤務する病院に就職した。

そこで、志郎は門田と出会った。
大学在籍中は、学科も年齢も違うため出会うことがなかった二人だが、同じ病院に勤務する大先輩として、志郎は門田と急速に親しくなっていった。門田も、医者と技師では立場がかなり異なるが、志郎のことを大変可愛がった。

志郎には、周囲の人間を和ませる不思議な力があった。志郎の整った顔立ちも、やや華奢ながら均整のとれた青年らしい風貌が、より一層、彼の魅力を引き立たせた。門田も、そんな志郎に引かれていたのだろう。仕事の合間や終業時には必ず、門田は志郎と一緒だった。志郎の傍らが、門田の心落ち着く場所になっていた。
何もかも順調だった。順調に時が流れていた。

だが、バブルの崩壊で、志郎の父親が経営する会社が行き詰まり、この幸せな状況にも陰りが見え始めていた。あれほど仲睦まじかった父と母の間に、諍いが生じ始めた。状況が悪化するにつれ、口論のもつれから、次第に父は母に暴力を振るうようになった。志郎には、信じられない光景だった。あんなに優しかった父が、母を殴りつけていた。志郎は、荒れ狂う父を必死に止めた。父の豹変は、異常とも思えた。母の実家が車で10分ぐらいと近かったので、志郎はすぐに母を実家に送り届けた。このままでは、母の身が危ういと感じたからだ。

惨劇は、その夜起きた。

母がいなくなったことに父が気付くと、今度は志郎を殴り付けた。父は脅えていたのだ。歯車が順調だった時は、優しく頼り甲斐のある父だったが、一度歯車が狂い出すと、実は脆くて弱々しい人だったのだ。自分の非力さを認めたくないために、自分より力の弱いものに暴力を振るうことで、自分の砕けそうな精神を保っていたのだった。だが、志郎とて男である。最初は黙って、父の暴力に従っていたが、次第に激しさが増したため、身の危険を感じ、志郎はついに父に逆らった。父に手をあげることは決してしまいと思っていた志郎だったが、父の狂気ぶりに、限界を感じたのだった。志郎に殴りかえされた父は、呆然と床にへたりこんでしまった。

「...父さん、もう終わりにしましょう...もう一度、やり直しましょう...!」

父は呆然としていた。視線が定まっていなかった。父を揺さ振りながら、志郎は懸命に父を説得し始めた。

「...父さん!しっかりして下さい!こんなことで負けては駄目です。こんなことで、負けるような父さんではないはずです。母さんと一緒にやり直しましょう。もう一度、三人でやり直しましょう。ねっ、父さん!」

だが、父はふらふらと立ち上がり、庭に出られる一番大きな窓に、覚束ない足取りで歩いていった。そこからは、庭が良く見えた。志郎の家には、一本の見事な桜の木があった。満開に咲く桜が、その窓からよく見えた。

「父さん!」
「...おまえまで、私に逆らうのか...皆そうやって私に楯突こうとするのか...」
「...!父さん、何を...!!」

父がゆっくりと、志郎に振り返った。父の眼は...正気を逸していた。

(この人は...まさか...もう...)

満開に咲き誇る桜を背にして、父がゆっくりと志郎に向かって歩き出してきた。志郎は、言いようのない恐怖に捕らえられた。桜の花と父の狂気の瞳が、志郎をその場に縛り付けた。金縛りにあったように動けなくなった志郎を、父は床に押し倒し、押さえつけた。

(殴られる!)

咄嗟に志郎は、そう思った。だが、父の行動は違っていた。父は、突然、志郎のシャツを引き裂いたのだった。

「!!」

志郎は、何が起こったのか理解できなかった。父は、静かに志郎に圧し掛かってきた。

「...志郎...私はおまえが可愛くて仕方なかった。大事に育ててきたんだ。それなのに...」
「......」

父は志郎の滑らかな胸に、唇を這わせてきた。突然の父親の行為に、志郎は困惑した。何が起きているのか、すぐに理解できなかった。だが、次第にその行為の意味が分かると、志郎は父親を制止しようと必死に抵抗した。しかし、体格では志郎より父親のほうが勝っていた。敵わなかった。身体を押さえつけられ自由を奪われた。迫りくる恐怖に、志郎は絶叫した。だが、その叫び声は、父親の口で塞がれた。飲み込まれた。そして、ついに、激しい痛みが、志郎を貫いた。気を失いそうなほどの痛みで、志郎は絶叫を繰り返していたが、全て父親の口中に飲み込まれてしまった。組み敷かれ、揺さぶられつづけながら、志郎は涙を流していた。何故、こんなことが起きてしまったのか...。志郎は、涙で掠れる視界の中に、父親の正気ではない瞳を見た。何故、父がこんなことを...。志郎は痛みのあまり気を失っていった。薄れていく意識の中で、志郎は桜の花びらが舞い散る光景を見ていた。




志郎が気がついた時、父の姿は無かった。あれは...夢だったのか?起き上がろうとして、志郎の身体が痛みで悲鳴をあげた。夢ではない! 引き裂かれ、剥ぎ取られた衣服と、異臭を放つおびただしい液体にまみれた自分の身体が、夢でなく現実のものであると告げていた。志郎は、よろよろと床に散らばった衣服を集め、身に纏った。庭に出られる窓が、開け放たれていた。満開の桜の木の下に、父の後ろ姿を見つけた。

(あの人は...もう...狂っている...)

父の後ろ姿を見つめ、志郎は声もだせずに鳴咽した。どうすればいい!?もう父を助けられないのか?志郎の脳裏に、門田の顔が浮かんできた。門田は内科医であるが、彼に相談すれば、父を正気に戻せるかもしれない。だが...門田にこのおぞましい出来事を知られてしまう!門田だけではない、母にも...。志郎は愕然とした。

(誰にも知られたくない!こんなこと...、門田先輩にも、母さんにも!)

志郎は傷ついた身体を庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。その時、床に光るものを見つけた。果物ナイフだった。どうしてそこにあったのかわからないが、先刻、父と争った時に、滅茶苦茶になった部屋の中に落ちていた。志郎はそれを手に取った。ゆっくりと庭の桜の木に向かって、歩き出した。

(この人を楽にしてあげよう...自分も一緒に...)

志郎は、ゆっくりと桜の木の下に立つ父に近づいていった。満開の桜は、花びらの重さに耐え兼ねたように、徐々に花びらを散らせ始めていた。緩やかな花びらの舞う中、志郎は再び父と向き合った。

「...父さん...」

志郎の右手に、鈍い光を放つナイフが握り締められていた。
父は...無表情だった。志郎も、手に握り締められたナイフさえも、見えていないようだった。
志郎がナイフを両手に持ち替えようとした瞬間、志郎は、突風がナイフを奪い去ったように感じた。
舞い上がる桜の花びら...。志郎は、目の前にある光景を、すぐには理解できなかった。

それは、母が父に覆い被さっている姿だった。母が、父の身体から離れたその瞬間に、あたり一面に血飛沫が飛び散った。母の手には、先程まで志郎が握っていたナイフが握り締められていた。

「..か、母さん...!?」

ナイフを志郎の手から奪ったのは、突風ではない。母であった。母が志郎の手からナイフを奪い取り、そのまま父を刺したのだった。力なく崩れ落ちる父の身体に、再び母はナイフを突き刺した。一回、二回...。

「母さん!!」

母を止めようと、志郎は地面を蹴ったが、すでに間に合わなかった。志郎にも、父の返り血が降り掛かった。それでも母を父から引き離した。父は、満開の桜の木の下、血塗れになって動かなくなっていた。

「...ごめんね、志郎...ごめんなさいね...」

母の震える声が聞こえた。母の目からは、大粒の涙が溢れ出していた。だが、その目は志郎を見てはいない。ただ、動かぬ血塗れの骸を見つめていた。

「この人は、私がいなければ駄目なの...私が側に居てあげなければ、やっぱり駄目なのよね...。志郎、ごめんね、あなたにまで辛い思いをさせてしまって...ごめんね...ごめんね...」

「...」

志郎は声を出すことが出来なかった。母が、どれほど父を愛しているか、痛いほどわかったからだ。

「...ごめんね..志郎...ごめんね...ごめんね...ごめんなさい...あなた...」

母が手のしたナイフを、ゆっくりと自分の首に刺し向けた。志郎は、息を呑んだ。

「母さん!!」

志郎は絶叫し、母を止めようとしたが、間に合わなかった。喉を突いた母の身体が、血飛沫をあげながら、ゆっくりと倒れた。志郎は、父の血と、母の血を、全身に浴びてしまった。


――― 満開の桜。血塗れの父と母の骸。頭上には、冴え冴えとした蒼い月。


志郎は、最愛の両親の血にまみれながら、我を失っていた。
桜の花びらが、ゆらゆらと舞い散る中、志郎には、もう何も見えていなかった。




「母さんは、何もかも....全ての...悪者になって死んでいったんだ。」

病院の裏手の、満開に咲く桜の木の下で、志郎は、今まで溜めていた胸のうちを、全て曝け出した。
門田も、かずいも、声がでない。言うべき言葉は、何も出てこなかった。志郎は、桜の木を見上げながら、

「母さんがいなければ、僕が父さんを刺していた...僕の罪も、父さんのことも、母さんが庇ってくれた...。
母さんは一人で、全ての罪を背負って死んでったんだ...。」

志郎の目から、涙が溢れ出す。

「...僕が...父さんと母さんを殺したんだ...殺してしまったんだ...」

崩れ落ちる志郎の身体を、門田が支えた。門田は、しっかりと志郎の身体を抱きしめた。門田の肩が、小刻みに震え出した。門田は、血が滲むほど、唇を噛み締めていた。

「...母さんは、、自分を犠牲にして、僕を助けたんだ、多分、きっと、そうなんだ...僕に生きろって...どんなに苦しくても生きろって...でも僕はもう...」

志郎は、かずいに振り返った。

「...記憶を消すだけじゃ駄目なんだ。僕は...死ぬことが許されていない...だから...壊して...僕を壊して...おねが...」

「駄目だ!志郎!!」

門田が、志郎の言葉を遮った。門田は、もう聞きたくないというように、激しく首を振った。

「志郎...そんなこと言わないでくれ...俺じゃ駄目なのか、おまえを支えられないのか...俺じゃ...俺じゃ駄目なのか!!」

志郎には、門田の声が耳に入っていない。ひたすら、かずいを見つめていた。門田は、耐え切れなくなって、志郎の首すじに顔を埋めながら、絞り出すような声で呟いた。

「...愛してる...」

かずいは、静かに二人に近づいた。風が強くなってきたのか、桜の花びらは、雨のように舞い散ってきた。

「...門田先輩がどれほどあなたを大切に想っているのか、お分かりですね?」
「...」
「お母様がどれほど、あなたに生きてほしいのか、それも分かっているのですね...それでも、あなたは生きることを放棄してしまうのですか?...あなたには...まだやらなければならないことがあります...」
「...?」
「...あなた自身が幸せになるということです。」

「奥森...」

桜の花びらは、散ることを止めない。なのに、ここだけ時間が止まっているように感じられた。

「...幸せになってほしいと、あなたのお母様は、そう思っていますよ、きっと。あなたは、幸せにならなければなりません。一人で苦しんで、誰にも言えなかった過去を、ここに...埋めてしまいませんか?」


――――― この桜の木の下に...。


志郎の目がみるみる潤んできた。母は許してくれるだろうか...自分が罪を忘れて生きてしまうことを...。

「...あなたのお母様は、決して怒りませんよ...生きて...幸せになってください...」

かずいの右手が、志郎の額に触れた。
やわらかな光が、志郎を包み...志郎は、門田に身を預けるように、静かに眠りについた。




数ヶ月後、門田が奥森医院を訪ねてきた。

「この間は、すまなかったな...。」
「いえ、先輩こそ...、今日は大丈夫なんですか?」
「夜勤明けだよ。近頃、思うように休みがとれなくてね。明日も午後から行かなきゃならない...。」

門田の端正に整った顔立ちが、やや疲れた表情になった。夜勤明けは通常、午前中には開放されるはずであるが、それにもかかわらず、奥森医院を訪れたのは、午後4時をまわっていた。門田は、かずいからコーヒーを受け取りながら、

「...志郎と一緒に暮らすことに決めたよ。」
「先輩...」
「おまえのおかげで、あいつはすっかり、昔の志郎に戻ったよ。来週末には退院するんだ。」

あれから、志郎は一週間眠り続けた。目を覚ました時、志郎の記憶は、あの惨劇も、その後の彼がどのような生活を送っていたのかも、全て...忘れていた。

「感謝してる、おまえには。昔、おまえの力を否定したことがあったが、おまえのやっていることは間違っているとは思えないよ。むしろ、正しいかも..な...」
「...」
「あいつの笑顔が戻ったのが、何よりも嬉しい。...あいつを幸せにしてやりたいと思う...」
「あっ...」

つまり、それはその...、かずいは言葉に詰まった。門田もかずいの視線から、目をそらした。
いささか、門田の頬が、紅潮しているように見えた。何やら、気まずい沈黙が、部屋の中に漂った。

「...オマエは、あのコヤタって子供を引き取って育ててるし...オマエなら、俺の気持ち分かってくれるかな...って思っているのだが...」

誤解です!そーいうわけではありません!!声にならぬ反論を、かずいは、心中叫んだ...しかし...。
多分、今の門田には何を言っても聞いてはくれないだろう。かずいは、やや脱力した、深いため息を一つした。




――――― 窓の外、桜の花はすでに散り、新緑の若葉が目に眩しかった。






date:2001.02.13

☆ ―――――――――― ☆

戻る