月の綺麗な夜だった。
空を見上げながら、ふと、僕はそんなことを考える。
黒い夜空に輝く金色の月、何をするでもなく、僕はそれを見上げる。僕は何もいわない、ただ高層マンションのバルコニーに寄りかかり、ただ月を見上げる。
月が綺麗な夜だった。
とつぜん、僕の背後に気配が一つ、生まれる。昼間だったら、他の場所であったら、とっさに振り向き、何らかの対応をするはずだけれども、だけれども、今は夜だった。だから僕は何もしなかった。僕の背後に現れた人物をよく知っているから。
「綺麗な、月ね」
「そうだね、アスカ」
振り返りもせずに、僕は彼女の名前を呼んだ。
「振り返るぐらいしてよ、いつも、そうやって背を向けてばかり」
不満そうな声で彼女がそう言うのを聞きながら、僕は瞳からあふれ出そうになる涙を堪えながら、ただ、月を見上げる。
知っているから、僕は。
こういう時は、いつも、無性に自分の力が恨めしくなる。壊したくなるから。僕にとってはひび割れ、ツギハギだらけのこの世界を。僕の力を持ってすれば、壊れやすい、この世界を。
僕の声が、僕の指が、君に届かないこの世界を。
「こんな顔、見られたくないんだ」
何とか自分の感情を押さえ込みながら、僕は背後にいる彼女に向かい言う。
「そう」
僕は待ち続けている。
世界で、ただ一人の彼女を。月明かりに照らされながら。ずっと、ずっと。
彼女が来ない事を半ば理解しながら、僕は待ち続ける。彼女を。
物思いにふけっていた僕の背中に、ふわり、と、柔らかく、暖かい感触が広がる。それは背後にいた、アスカが僕の背中に抱きついてきたから。
「寂しくない」
僕の背中に顔をうずめているために、くぐもった声でアスカが聞いてくる。アスカは知っているから僕が、果てのない約束をかなえるために、永遠の時の中彷徨う事を。
対する僕は、月を見上げながら、一つ、ため息をつくと答える。
「寂しくない、って言ったら、嘘になるかな、でも、大丈夫だよ、こう見えても友人は多いんだよ」
いって、僕は小さく笑った。
僕の背後にいるアスカもつられて小さく笑ったみたいだった。
「進歩したじゃない、ずいぶんと、友達のいない寂しいシンちゃんから」
「無駄に歳は重ねてないよ、あれから何年経ったと思ってるんだい、歳を重ねれば重ねるほど知己は増えていくんだよ」
言って、自分で少し悲しくなった。彼女と別れたあの日が、遠い過去のものになりつつある事に気がついて。気がつかぬうちに、つうっと、一筋の涙が僕の頬を滑り落ちる。
「泣いてるの」
くぐもったままのアスカの声が問いを発するけれど、僕は声を出すことができずただ首を縦に振ることしかできなかった。声を出せば、出したその瞬間に、嗚咽が漏れることを知っていたから。そんな姿を、他ならぬアスカには見せたくなかった。
僕らの出会いは、最良のものとは言えなかった。どちらかといえば、悪い部類に入っただろう。お互いの印象は最悪で、訳もなく互いに反目をおぼえたものだった。だけれども、いつしか君の存在は、君の声は、君の瞳は、君の心は、無機質だった僕の心を君の色に染め上げていった。
君の声は、君の存在は、どんなに僕の心を暖かなもので満たしていっただろう。それは、とても色鮮やかで、美しかった。
でも、こんな言葉は、もはや彼女の元には届かない。
だから僕は涙する。だから僕は世界を壊したくなる。君の指先にすら触れられないなら、こんな世界、僕にとっては意味がないから。
だから僕は、一人、月明かりの下、佇むのだ、このあまりにも危険な衝動を押さえ込むために。
どれくらいの時間が経っただろうか、ずいぶんと月が西に傾いてから、僕は振り返り、背後にいたアスカを抱きしめる。
僕と同様に、あの終わり無き夏の日々と変わらない姿の、アスカを。
「苦しいよ」
僕の腕にかき抱かれたアスカが漏らす小さな声に、僕はその腕の力を和らげた。
「どうしたの、急に」
僕は答えない。答えたくなかった。真実を知るが故に。
無言のまま、僕はアスカを抱きしめる。この一刻が、とても大切なことを知るが故に。
「朝が、近いから」
「そう、気がついてたの、ばかシンジにしては上出来じゃない」
言って、アスカは泣き笑いの表情で、僕の顔を見上げた。
そう、僕は知っている。朝になれば君の全ては消えうせて、どこかに言ってしまうことを。
これは一瞬の会合である事を。いや、会合ですらない。おそらく、これは、目の前にいる彼女は。僕はその考えを、一時的に振り払う。
そのまま、僕は堕ちて、目を閉じた。一瞬の会合を、この胸に刻み付けるために。
空にかかる満月の、金色の光に照らされながら、僕は全てを忘れ、彼女を抱きしめ続ける。
朝が来ない事を、信じて・・・・・
ずっと、君だけを抱きしめていたい、だけれども僕もアスカも知っているから。朝がくれば、目の前にいるアスカは消えうせて、どこかに行ってしまうことを知っているから。
だから、この一夜だけでも、僕は彼女を感じていたかった。
目の前にいるアスカが、自分の力の暴走が生み出した幻であると知りながらも。
そして、やがて日が昇り。夜の夢が終わり、また、朝と現実がやってくる。
夢は現実の続きであり、現実は夢の終わりである故に。
朝日と共に夢の時間は終わり、茜色の髪の少女は、涙を流しながら微笑み消えていった。
それはあまりにも哀しく、美しい光景であった。
時は西暦2037年。
一人の少女の死より、20年の時が過ぎた時の事であった。
後書き
某同人ゲーの、イメージアルバム収録の同名の曲より印象を受けての一本です。
短い作品でしたけれどもいかがでしたでしょうか。
時は西暦2037年、アスカの死より20年経った日。行き場の無い思いがシンジの力を少し暴走させ、月明かりの下、彼の願望を多分に含んだ幻を生み出す。それはあまりに強い、彼のカテゴリーアラエルの能力の暴走。そして、見たのは夢、彼の望みが完全に具現化した夢。そして、その強大な力ゆえに、少年はそれが夢である事に気がつく。
そんな、お話です。これは。
少しでも、楽しんでいただけたのなら、僕はうれしいです。
それでは、次の作品でお会いしましょう。
参考
月光(7th Moon) Little Moon
敬称略