プロローグ
降りしきる雨の音が、ただ、彼の耳に響く。
彼は何をするでもなく、瞳を閉じ、何かを考え込んでいた。
特に急ぎの仕事が無い場合、彼はいつもこうしている。彼はこの時間が好きなのだ。降りしきる雨の音を聞いていると。一時の間だけれども、彼は忘れていられる。いろいろなことを。たった一つの、ある事を除いては。この趣味を、友人の女性に言うと、暗い、と一言で切り捨てられてしまった。彼女、曰く、もう少し休日は有効に使え、との事だった。
それでも、彼はこの習慣を止められなかった。
そんな時の事だった、めったに鳴らされないこの部屋のチャイムが鳴らされたのは。
来客の予定など無いはずだった、いぶかしげな顔をして彼はベッドから立ち上がり、玄関に向け歩き出した。宅配便か何かかもしれない。仕事の依頼は時としてそういった形を取って届けられることもあるから。
プシュ
エアの抜けるそんな音共に、扉が開く。
扉の向こうにいたのは、黒髪の豊満な身体をした女性だった。
彼女は手をあげ、一言、言った。
「はぁい」
と。
眠る、眠る。
何もかも忘れ、眠る、眠る。
夢を見ることすら忘れ、全てを忘却し彼は眠り続ける。
声が聞こえた。
はっきりとは聞き取れないような小さな声だったけれども、確かに声が聞こえた。
「……きよ」
誰かの声が耳に聞こえた。
良く知っている誰かの声のような気がしたが、頭の中に靄がかかったように思い出せない。
次に浮かんだのは、青。
空のように、蒼い蒼いマリンブルーの瞳。
そして、微笑み。
そして……
ピピピピピピピピ
無粋な電子音が、彼を眠りの園から追い出した。
目を開けば見慣れた天井が広がっていた。
そのままのろのろと体を起こし、大きく欠伸をする。
「夢…か」
きょろきょろと回りを見回しながら、彼は小さく呟く。
しばらく、ぼうっとしていた彼だったが、ちらりと時計を見て、時刻が遅刻寸前な事に気が付き彼は慌てて自分の部屋を駆け出した。
彼、碇シンジの何時もどおりの一日の始まりだった。
「シンちゃん、なんか疲れ切った顔してるね」
机につっぷしているシンジの顔を覗き込みながら、綾波レイは言った。
自分の顔を覗き込んでくる、幼なじみの顔を少しだけ見上げると、シンジは搾り出すように言う。
「いや、ね、家から学校まで全力疾走で走ってきたからさ」
「珍しいわね、シンちゃんが寝坊するなんて」
小学校三年生の時出逢いの以来、八年あまり共に過ごしてきた幼なじみだ、彼女はよくシンジの事を知っている。当然の事ながら、シンジの方も彼女の事を良く知っているのだが。
「夢を、見たからかな……」
「夢?」
思わず漏らしたシンジの呟きにレイは反応する。
「うん、ちょっとね」
レイが更にシンジにその事を問おうとした時、教室の扉が開き、担任教師である、葛城ミサトが教室にやってきたので、彼女の質問は発される事はなかった。
「1600年に成立した、東インド会社は、希望岬から東はマゼラン海峡に至るまでイギリスの植民地全域の貿易、植民に関する独占権を……」
世界史の講師が何時もどおり平板な口調で教科書を棒読みしていく。
欠伸をかみ殺しながら、途中までは何とか聞いていたシンジだったが、襲い来る睡魔には勝てずゆっくりと、眠りの海に沈んでいった。
蒼い蒼い空
ふわりと風が舞う。
二人の出逢いの日を象徴するかのように。
彼女の瞳のように、青く澄んだ空の色が印象的だった。
『忘れちゃ駄目よ、約束なんだからね』
声が聞こえる。
懐かしい声が、忘れちゃいけないはずの声が。
そう、約束したのだから。
そこまで考えてシンジは、はたと疑問に思った。
約束、と言う言葉に、考える物が有ったのだ。
いつ、何を彼は約束したのだろうか。
考える、考える。
夢の中だとわかっているけれども。
考える。
何かとても大切な約束のような気がしたから。
そう、とても、とても大切な、約束……
忘れてはいけないとても大切な約束。
「シンちゃん、シンちゃん」
今度僕を夢の世界から引きずり出したのは、綾波のそんな声だった。
「もう、速くしないと、お昼終っちゃうよ」
彼女の顔をぼうっと見つめながら、シンジはそんな彼女の声を聞いていた。
別に何か思う事があるわけではない。
ただ、この場の空気を楽しんでいるだけ。
「約束……か……」
彼のそんな小さな呟きが聞こえたのか、彼女が微かに怪訝な顔をするのがわかる。
「なんか、約束したっけ、シンちゃん」
「いや、何でもないよ」
何故か、レイの顔を見ていると、今まで考えていた事が霧散していった。
なんでも無い、そう、そういって彼は首を横に振ると、昼食のお弁当を食べる事に集中した。
赤い瞳は、満足そうにただ、その光景を見つめていた。
……………………
闇の中で、きらり、と光が零れた。
蜂蜜色の輝き。
暗い闇を駆逐するような、綺麗な蜂蜜色の煌き。
蒼い光。
空よりも海よりも、深い深い蒼。
蒼い、蒼い輝き。
これは、何?
かしゃん
そんなカメラのシャッターを切る様な音とともに場面が暗転する。
彼は巨人を見上げていた。
紫色の、巨人。
今、彼のいる場所は、巨人のためにあつらえたような巨大な格納庫。
「僕は……」
自分が身に纏った見慣れない服、まるでダイバースーツのようなそれを見つめながら彼は辺りをきょろきょろと見回した。
そして、もう一度、紫色の巨人を見上げた。
「………初号機?」
おかしな、感覚だった。
はじめてなのにはじめてじゃない。
彼はこれを知らないはずなのに、これを知っていた。
至極当然の事として。
かしゃん
再度、そんな音が響くと、場面は反転した。
風が吹き抜けた。
海の香がする、潮風が。
ドクン
心臓が高鳴った。
これからあるであろう、出逢いを予感するように。
そして、声が………
PiPiPiPiPiPiPi
けたたましい、目覚ましベルの音が、再度彼を夢から引き上げた。
ゆっくりと体を起こし、辺りをきょろきょろと見回す。
何時もの彼の部屋。
何時もの光景、でも何処かに違和感を感じた。
なんとか頭からその違和感を振り払うと、彼は、シンジは学校に行くべくベッドから下りた。
「眠り続けなさい、ずっと、ずっと」
闇の中響く声。
「ここにはあなたの望む物がある、つらい思いはもうしなくても良いのよ」
それは誘惑。蛇は禁断の木の実をもぎ取り、彼に差し出している。
この木の実を食せば、ずっと、彼は幸せのうちにいられる。
綺麗な曲を奏でるオルゴールのような世界に。
何時もの日常、何時もの風景。
ずっと見慣れてきたこの景色。
でも、彼は思う何かが足りない、と。
以前ならそんな疑問を考えた事はなかった。当たり前の日常を当たり前のように享受してきた。
朝起きて、両親と共に朝食を摂り学校に行く。
学校には最近だんだん綺麗になってきた幼なじみがいて、そして、たくさんの友人がいる。
ずっと、ずっと続くのだと思っていた。
こんな風に穏やかな日々が。
でも、あの夢を見るようになってから、彼は当たり前に疑いを持つようになった。
ありきたりの幸せに……
その日も、僕は夢を見た。
「・・・・ジ、この・・・・きなさいって・・・・・カ、アタシを・・・・・・ないで」
声が、そんな声が耳に響いた。
僕はこの声の主を知っている。
忘れちゃいけない、大切な人の声。
でも、どうしてもその名前と、顔が思い出せない。
今一歩の所でどうしても。
「誰なの、僕を呼ぶのは、ねぇ、答えてよ」
僕の呼び掛けに答えるかのように、一瞬、白い光が視界を覆ったかと思うと。
目の前に一人の少女が立っていた。
白滋のように白い肌、茜色の綺麗な髪は腰まで伸びていた。そして、僕を見つめる瞳は深い海の色のような蒼い色。
「このあたしを忘れるなんて、後でおしおきだからね」
言葉と共に少女は僕に向かい手を差し出す。
僕はその手を握ろうと、そっと手を伸ばす。彼女の手に触れることができれば、全てを思い出せる。そんな妙な確信を抱いて。
その時だった。風が吹いた。血の香りのする風が。
血の香りに驚き振り返ればそこにあったのは幼馴染の少女の顔。蒼銀の髪をした少女がいた。その赤い瞳はいつもの様に暖かい温もりをでは無く、赤い血を彼に連想させる。
「レイ・・・・・・?」
「その手に触れれば、もう帰れなくなる、この温もりにも、平穏な日々にも」
いつもの躍動感あふれる物ではなく、無機質な声。
何故だろう、何故だかわからないけれど、シンジはこのレイの声が本当の彼女の口調だったような気がしてきた。
「帰るの、永遠の孤独が持つ、あの世界へ」
一瞬、少女へ延びかけていたシンジの手が止まる。レイの顔がとたんに嬉しそうな顔に変わる。彼女はそれを、自分の声によって生まれた躊躇だと理解したのだ。
だけれども、それは彼女の誤解だった。
「約束、したからね」
レイのほうを振り返り、シンジは言うと、迷わず、差し伸べられた少女の手を取った。
光が、弾けた。
海の音が聞こえる。
空は青く、澄み渡り、風の香りは海の気配を含みとても心地よい。
それは"虹の橋"の上での二人の出会いを祝福するように。
振り向けば、そこに彼女がいた。
カシャン
紫色の鬼神を彼は見上げていた。
それは福音の名を持つ者。
二人の出会いを運命付け、そして、その運命を狂わせた人の作りし機械仕掛けの神。
「エヴェンゲリオン」
その小さな呟きに答えるように、鬼神の瞳が一度鳴動した。
カシャン
炎が巻き起こる。
銀河を包み込むほど大きな、禍々しい炎が。
「ふふふふ、あなたは人間じゃないのよ」
炎の中から響く少女の声、彼はその声の主を知っている。
「エリカ」
彼女の名を呼ぶその声に答えるかのように、炎は凝縮し、その姿を少女の物へと変える。
そして、彼女は艶然とした笑みを浮かべ言った。
「そして、この戦争はゲーム、私と、あなたで楽しむための」
声と共に炎が再度巻き起こり、彼に向け、殺到してきた。
カシャン
「ねえ、また逢えるかな」
消え行く温もりの中、響く声を彼は良く覚えている。
「いえ、絶対、逢いに行くから待っててね」
それが約束。
待ち続けること、信じ続けること。
それがあの時、彼女と交わした、たった一つの約束。
「待っててね、きっと逢いに行くからまた、蒼い空の下、虹の橋を越えて」
頬を撫ぜる手はやさしく、そして暖かく、彼女の命が消えうせ様としている事を彼は信じられなかった。
「ね、約束、よ・・・・・・・・」
その約束を信じて。
唯一つだけ、心に留め、彼は生きてきた。
永劫とも言えるほど、長い時間を。
光の中、彼は見た。
千年近い、刻を、思い出を、戦いの記憶を、そして約束を。
全てを思い出した彼は、自分の意思で、閉じていた瞳を見開いた。
瞬間、鋭い光の刃が繰り出された。
瞳を見開いたシンジはそれを、紙一重でかわした。
今まで見ていたのは、長い夢。
目の前にいる黒髪の女性が自分に見せていた、長い夢。
そして、ここはと、ある惑星にある彼の部屋。
外から響いてくる音は、外で降る雨の音。
全てが、一本の線に繋がった。
「夢から、覚めるなんて!!」
驚きを隠せない女の声。
「アラエルの能力者か、ルーシアが気がついて干渉してくれなかったら、危なかった」
そう、女が使ったのはカテゴリーアラエルの能力の応用とでも言うべきもの。
夢使い、そう呼ばれる力の使い方だ。眠った相手の夢に侵入することだけではなく、起きている相手に、強制的に、自らが望む夢を見せることができる能力。そして見せる夢によっては夢の中から二度と戻ってこられなくこともできる恐るべき能力だった。
狼狽を隠せない様子の女性は、後ろから近づいてくる、もう一つの影には気がつかなかった。それが彼女の直接の敗因となった。
カチャリ、そういう、無機質な音と共に拳銃の安全装置がはずされ、銃口が女性の後頭部に突きつけられた。銃を突きつけているのは、二十代前半くらいの栗色の髪の女性だった。油断ならぬ顔のまま彼女は女性に対し言う。
「手をあげてもらえる、あと、少しでも力を使おうとしたら、引鉄を引きますから」
声の主は言いながら、女性に対し、逆の腕で持ったAセンサーを見せる。
「っつ」
あまりの悔しさに、唇をかみ締め打ちひしがれる、黒髪の女性。勝利はすぐ目の前にあったのに、彼女はそれを取り逃がしてしまったのだから。
「助かったよ、ルーシア、君が干渉してくれなかったら永遠に夢の中をさまよう所だったよ」
そう言ってシンジはルーシア、と彼が呼んだ栗色の髪の女性に対し微笑み言う。その表情は目の前に武器を持った敵がいるのには似つかわしくないほど、のんびりとしたものだった。
「昔から、シンはこの手の攻撃には弱いですからね」
「そうだね、こればかりはどうにも、ね」
「たまたま、私が来ていたから事なきを得ましたけど、今度から気をつけてくださいね」
やれやれ、そういった感じで、ルーシアはため息をつく。
「とりあえず、この人には眠ってもらいますね」
言って、ルーシアはその手に力を少し集めると女性の後頭部に向け打ち込んだ。小さな、あっという声と共に女性は倒れ、そのまま意識を失った。
「あなたに関する記憶と、敵意は完全に奪っておきますから、あとはカリンにでも連絡をして事を丸く治めて置いてください」
ルーシアは共通の友人の名前を出しながら、もっとも穏便と思われる解決法を提案する。別に異をはさむような内容でもなかったので、シンジは首を縦に振り、彼女の意見に賛同する。
「それが終わったら、お茶にしましょう、いい紅茶の葉っぱ手に入ったんですよ」
そう言って、ルシアは微笑んだ。
その微笑に、無くしてしまった遠い過去が思い出されて、シンジの胸に小さな痛みが走る。
何気なく外を見れば、雨はやんでいくところだった。やみつつある雨を見つめながらシンジは小さく呟いたのだった。
「忘れや、しないから」
と・・・・・・・・
これは、シンジがアスカ・ルシアを名乗る少女に出会う、二十数年前の出来事である。
あとがき
久方ぶりの、外伝、書下ろしです。
時代は、一部よりさかのぼり二十年ほど前、最後にちらりと名前が出てくるカリンとは、第一部から登場している、連邦情報局副長官カリン・D・バークライトその人のこと。そしてルーシアはシンジの友人のカテゴリーアラエル、ちなみに本編に登場する、アスカ・ルシアとの関係はまだ内緒です(笑)
以前の作風にあわせようかと、意識して書いてみたんですけどいまいち上手くいきませんでした、この辺まだまだ、自分の力不足を痛感します。
さて、この作品に最後まで付き合ってくれたあなたに、感謝しながら今回は筆をおきたいと思います。それでは、また、次の作品で・・・・・