「……ねえねえ、知ってる。
 七夕に知り合った恋人って、絶対にうまく行くんだって」

 後ろから聞こえて来た、高校生ぐらいの女の子の声に、飲みかけていたアイスコ
ーヒーを下ろした。特に意識して聞いていたわけでもないが、その言葉だけが、な
ぜか意識に飛込んできたのだ。
 振向くと、真っ黒な顔に奇妙なメイクを施した"コギャル"と呼ばれる女子高生の
グループがアイスコーヒーを啜りながらわいわい騒いでいるところだった。
 コギャル、とか言われていて、自分には全く理解できない存在だと思っていた女
子高生。
 それだけに、昔ながらの言葉が以外だった。外見は大きく変っていても、案外変
わっていないことに気がつく。恋する乙女は未だに健在、といったところか。

「七夕の恋人か……」と、言葉が無意識のうちに口をついてでる。

 乙姫と彦星が、自分たちの分も幸せになってほしいと望んでいるのだろうか。
なんとも、ロマンティックな響き。自分も、そんな……

 ふっとわれに返り、そんなことを考える自分の姿に、思わず苦笑した。

「七夕の恋人」

 恋人、と呼べる存在のいない彼には、全く関係のない一言。
 そのはずだった……



      結婚 想曲

        〜季節外れの七夕〜




(1)

 その日も、残暑の厳しい日だった。
 八月も、もう終わりに近い。
 学生達は、残り少なくなった夏期休暇と残った宿題の量を見比べて、顔を思いっ
きり青ざめさせている。なかには、既にあきらめている奴もいるだろう。毎年、今
年こそは前半に切り上げて……などという計画は、必ず失敗する運命にある。何事
も、計算通りに上手くいくことは無い。

 もっとも、そんなことは社会人にとってはあまり関係ない。2,3の真理と呼べ
る事柄を以外、所詮学生の青臭い戯言にすぎない。それに、大半以上の会社では、
お盆をすぎるとすぐに平日となる。9月に連休を期待するくらいが関の山、といっ
たところだ。

 陽一は、机の端に置かれたレシートを取り上げ、財布を出した。
 店に入ってから三〇分近くもたっている。クーラーの程よく効いた、心地よい空
間を去るには忍びないが、いい加減、会社に戻らなければならない。
 陽一は、レジで夏目漱石を出しつり銭をもらった。

 ジー

 どこからともなくアブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。
 コンクリートの谷間の中で、本来自然を感じさせるはずの声は、なぜか作り物め
いて聞こえる。
 アスファルトからの、むっとするほどの熱量を浴びながら思った。

 まだ、当分暑い日が続くな。


 キーン コーン カーン コーン

 終業時間を知らせる鐘の音が聞こえた。
 陽一は、それにあわせて、席でうーんとのびをうつ。
 帰社してから、ずっとパソコンの前で仕事をしていたため、肩や腰がこったのか、
少し重い感じがあった。喫茶店でのロスタイムを取戻す必要があるという意識が働
いたせいもあるだろう。

「岸田先輩。今日、忘れてませんよね」
 突然、背後から声がかかった。
 声の主は、後輩の一人。今年入った新入社員で、坂元と言うまだ学生気分が抜け
きっていない感じの男だった。そして陽一は、この男の教育係、と言うことになっ
ている。
「……何だっけ」
 なんとも間の抜けた陽一の台詞に、坂元はあきれたようだ。
「今日の飲み会ですよ。ほら、今度合コンするって……」
「ああ、あのことか。もちろん、完璧に……忘れてた」
「……やっぱり」
 思った通りだと、うんうんと頭を動かして逆に納得している。
「また今度に……」
 陽一は、片手拝みをしながら頭を軽く下げる。月曜の昼一で必要な書類が、まだ
完成していないのだ。土日の休日出勤は避けたいから、できれば今日中に片付けて
おきたい。
 だが、今日の坂元は、何時になく強気であった。
「ダメです。今度という今度は、絶対参加してもらいますからね」
 妙に迫力のある坂本の言葉に、陽一は反射的に首を縦に振っていた。


 場所は、会社から比較的近い、チェーン店の居酒屋だった。
 実際のところ、彼は学生時代から、こういった雰囲気は苦手だった。
 別に、この手の店の雰囲気が、ではない。確かに、騒々しいのは好きではないが、
肩肘張らずに楽しめる分、そんなに悪くは無いと思っている。

 陽一は『合コン』と言う雰囲気が苦手だった。

 中学から男子校で、大学も工学部。サークルは、ワンゲルで、丁度その当時には
女の子が一人もいなかった。
 兄弟は、弟が一人で、女っけは全く無し。
 その為、と言うわけでもないだろうが、陽一は女性が苦手だった。というより、
どういう風に対応して良いのかわからない、と言った方が良いかもしれない。
 女性の前に出ると、意味も無く緊張して、結局何も話さないでいるのが彼の常で
ある。

「何、堅くなってんですか。女の子と手さえ繋いだことのない中坊でもあるまいし」
 そんな、柄にもなく緊張しきっている陽一を見て、坂元はからかった。


 予約してあったからだろう。何も注文せずとも、直ぐに料理とアルコールが運ば
れてきた。まずはお約束の、ビールと烏龍茶。
 席は、男女向き合うようにセッティングされている。いきなり横並びというのも
変な話なので、ごく順当な配置と言って良い。陽一は、取り敢えず端の方に座った。
新入社員の坂元がセッティングしただけあって、相手の方もまだ大学か短大を卒業
したて、と言った感じの女性ばかりである。こちらも、大半以上――というより、
陽一以外のメンツ――はまだ入社して間もない連中ばかりである。
 そんな中に、一人だけ20代後半〜30歳位と思われる女性が混じっていた。
 普通なら、特に目立つところのない女(ひと)であろうが、この場では少し浮いた
感じがするのは仕方ないことかもしれない。彼女自身からは、積極的に参加してい
る感じがしないことから、陽一と同様な理由で参加したのだろう。多分、彼女の方
でも、彼を同様の理由で参加しているのだと判断したようだ。陽一に向かって、苦
笑して見せた。
 その笑顔は、陽一に彼女への親しみを覚えさせた。


 必然か、偶然か。
 彼女は、陽一の前の席になった。
 集っている他の連中と年が離れているせいか、自然と二人での会話が多くなる。

 彼女は、白河華子です、と名乗った。
 陽一も、名前を名乗り、どうして良いのかわからず、取り敢ず名刺の交換を行っ
た。華子は、笑って自分の名刺を渡した。
 ただ、二人の応対があまりに業務的だった為か、隣の席の坂元が下を向いて笑い
をこらえている。
 陽一は、そんな坂元を軽く睨んだ。
 華子の方も、隣の女性を軽く睨んでいたのだが、互いに相手のそんなことには気
づきもしない。

 彼女――華子は、年相応に落ち着いた、どちらかと言うと普通の女性と言う、あ
る意味当り障りのない表現が、逆にぴったり合う女性だった。嫌みでも、特徴がな
いからでもなく、その表現こそ、彼女に一番似合う言葉。
 その一方で、無邪気で幼い感じさえ受ける、かわいらしい笑顔をしている。
 陽一は、素直にそう思った。


 陽一にとって、飲み会はあっという間に終わった気がする。

「それじゃあ、ここまでとして、次ぎ、2次会行きまぁす」
 坂元が立ち上がって、そういった。ちょっと酔っているのか、語尾が多少怪し
くなっている。
「当然、次はカラオケ屋でぇす」
 きせずして起る拍手。
「白河さん、どうされます」
 華子の後輩らしい、ちょっと幼い顔立ちの女の子が、華子に尋ねた。
「ごめんなさい。私はちょっと遠慮するわ」
「じゃあ、岸田さん。白河先輩を送ってあげてくださいよ」
 彼女は陽一の方に振向くと、華子の方を指さしながら話しかけてくる。陽一
は、いきなり振られて何と返事をしたものかと泡を食っている。
「えっ、別に一人で・・・・」
 アルコールのせいか、顔を真っ赤にした華子がうつむきながらそういった。
「良いじゃないですか。別に、駅まで位送ってもらえば」
「そうそう。まさか、タクシーがいるような距離じゃあないですし」
「いくら、岸田先輩でも、まさか何も出来ないでしょう」
「えっ、岸田さんて、送り狼だったんだ」
 皆、口々に色んな事を言う。
「でも、岸田さんにご迷惑じゃぁ・・・・」
 華子は、陽一の方をむいて、そういった。
「あっ、僕は・・・・」
「大丈夫ですよ。岸田先輩、明日会社に出なきゃいけないんで、早めに上げるって
言ってましたから。そうですよね、先輩」
 坂元の言葉に、陽一は何も言えなかった。
 結局、その場の成行きで、陽一が華子を駅まで送っていくことになった。
 陽一は、自分の酔いを何故か自覚した。


 駅までは、大して距離があるわけで無い。
『少しでも、長く話していたい』
 そう、思いながら歩いていると、あっと言う間に駅が見えるところに来た。
 喫茶店にでも誘おう、と思っても、言葉が上滑りして出てこない。
「よろしければ、コーヒーでもご一緒しませんか」
 何度も心の中で練習した言葉。しかし、それは陽一の口から出たものでなかっ
た。
「喜んで」
 真っ赤な顔を更に赤らめ、かすれてうわずった声で陽一は何とか返事をする。だ
が、自分が緊張していることにさえ気付かないでいた。


 深夜営業の喫茶店は、彼が思っていたものよりもずっと健全なものだった。そし
て、以外と人がいることに驚いた。
 あいている席を見つけると、陽一は華子に席を勧め、自分も腰を下ろす。
「アイスコーヒーで良いですか。」
「ええ。」
 陽一は水とおしぼりを持ってきてくれたウエートレスに、冷コー二つ、と頼ん
だ。オーダーを受けた、黒っぽいジャケットのウエートレスは、オーダーを書込む
と、軽く頭を下げてカウンターの方へ向かう。


 何を話そうか。
 一瞬の躊躇の後、陽一は水に口を付けてから、思いつくままに話しかけた。華子
の方も、まだ酔いが抜けないのか、赤い顔をしたまま、楽しそうに陽一に話しかけ
てくる。
 陽一には、会話を途切れさせることが、何故か異常に恐ろしく感じられた。

「・・・・。そういえば、こないだとんでもない事を頼まれましたよ。」
「どんな、です。」
「いやぁ、お盆休みの事なんですけどね。学生時分の友人がやって来て、いきなり、女
の子の写真を置くんですよ。
で、見合い写真、って言うんですよ」
「まあ」
 照明のせいだろうか。華子の顔に、一瞬影が落ちる。
「尤も、ボクとじゃなくて、弟とどうか、って話だったんですけどね」
 ウエートレスが、汗をかいたグラスに入ったアイスコーヒーを持ってきた。
 やはり、照明のせいだったのであろう。華子の顔は、少し赤みが差している他
は、最初あったときと同様の素敵な顔だ。と華子を盗見るようにしながらコーヒー
を受取る。

 二人は、期せずして同時に口に運ぶ。よく冷えたコーヒーは、一口で酔いが醒め
るほど濃くて、うまかった。
 しばらく、二人の間に流れる沈黙……

 その沈黙を破ったのは、華子の方であった。
「やっぱり、親御さんは心配なんでしょうね」
「街と違って、田舎の方ではまだ、結婚が女性の唯一の幸せ、と考えてるところが
ありますね」
 陽一は、この間来た友人の事を思い出しながら話した。
「そうですね。でも、田舎だけじゃなくて、この辺でもそう考えてる人は大勢いま
すよ」
「……そうかも知れませんね。ボクは幸いにして、その手のお節介さんの知り合い
はいませんけど」
「私の方は、結構来るんですよ。叔母が心配して」
「えっ、そんなこと無いでしょう。まだまだ若いですし、こんな素敵何だから」
 自分が言ったことに、過剰に反応して顔を赤らめる陽一。華子も、その言葉に顔
を赤らめた。
「あ、ありがとうございます。お世辞とわかってても、うれしいですよ」
「そ、そんなことありませんよ」
「いえ、もう会社ではお局扱いですよ。
 で、何度か、お見合いもしたんですけど、どうもしっくりこなくて。」
「やっぱり、いきなりだと難しいですね」
「ええ。それでも、真面目な人なら良いんですが……」
「やっぱり、変わった人もいますか」
「変わってる、ぐらいなら良いですけど……
 って、こんな話をしてもしょうがないですね」
 華子は、思わず苦笑した。
 そして、腕時計を覗く。
「もう、こんな時間。
 ごめんなさい。電車が・・・・」
「あ、いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。すっかり引き留めてしまって」
 陽一は、伝票を持って立ち上がった。
「あっ、私が誘ったんですから、払いますよ」
「いえ、遠慮なさらなくても良いですよ。コーヒー代ぐらいありますから」
 陽一は、レジに向かう。
「それより、電車は大丈夫ですか」
「いけない」
 華子は、頭をぺこりと下げ、言った。
「今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。
 あっ、駅まで、送りますよ」
 陽一は、釣り銭をもらいながらそういった。
「ありがとうございます。でも、もう直ぐそこですから」
 そういって、華子はお辞儀をした。
 あわてて、陽一も頭を下げる。
 華子は、途中、もう一度頭を下げると、駅の中に消えていった。
 陽一は、彼女の姿が見えなくなるまでずっと立っていた。


 この時何を話したのか思いだそうとして、陽一は驚いた。
 殆ど覚えていない。
 くだらない話題を、適当に並べていただけの気がする。
 いくつかの、馬鹿話を並べ立てた気がする。
 普段なら、どんなに酔っぱらっていても、もっと意識はしっかりしている。
 だが、この時の記憶は極めて限られていた。

 ただ、何時もと比べて、飲む量がぐっと少なかったことだけは覚えている。

                            (2)

 月曜日。
 陽一は、一枚の名刺をもてあそびながら、どこか落ち着かない風だった。
 何を思ったか、時折、はぁ、とため息をつく。
「岸田先輩」
 坂元が、後ろから呼びかけてきた。
「わっ。な、なんだい、突然」
「突然、じゃないでしょうに。さっきから何回も呼んでるのに全くしらん振りで。
一体どうしたんですか、名刺なんて眺めて」
「べ、別に……」
 あわてて名刺を名刺入れにしまう陽一を見て、坂元は笑った。
「成る程。白河さんでしたっけ、先週合った女の人に電話をしようかどうか迷って
るんですね」
「そんなこと……」
「……あるんでしょう。完全に」
「……うん」
 陽一は、力無く肯いた。
「かければいいじゃないですか。電話」
「でも、いきなり会社にかけるのもまずいじゃないか。彼女だって、きっと迷惑す
るよ」
「そりゃまあ、いきなり会社にはまずいかもしれないですね。
でも、だったら、昨日なり一昨日なりに、家の方にかければ済んでたことでしょう」
「……電話番号、聞くのを忘れた」
「はぁ……」
 全く、何やってんだ、と言った感じで坂元はため息をつく。
「でも、教えてくれなかったって事は、ひょっとして嫌われたんだろうか……」
 陽一は、なにを思ったか、突然狼狽えだした。
「全く、いい年こいて何いってんだか。脈がなかったら、一緒に喫茶店なんか入り
ませんよ。変な気を回す暇だけはあるんですから」
 坂元は、妙に初(うぶ)な陽一に、苦笑を押さえつつそういった。全く、これだか
ら、やれやれ、と肩をすくめる。
 今の陽一には、何故坂元が喫茶店に寄ったことを知っているのか疑問に思うよう
な心のゆとりは全く無かった。どこか縋るような眼差しで坂元を見つめている。
「何なら、それとなく電話番号を教えてもらいましょうか」
「出来るのか」
 と、いきなり陽一は坂元のシャツをぐっとつかんだ。
「そ、そんなに興奮しないでくださいよ」
「わ、悪い」
 坂元の首を絞めるような体勢になっていることにようやく気づいた陽一は、あわ
ててシャツから手を離す。
 坂元は、「全く、現金なんだから……」とぶつぶつ言いながら、一度ネクタイを
緩めて首筋を解放してやる。
「あそこの会社には、知り合いがいるんです。ちょっと頼めば、簡単に教えてくれ
ますよ」
 任せておいて下さい、と言って坂元は自分の胸をどんとたたいた。


「白川さん、何ぼんやりしてんですか」
 華子の後輩、後河が、ぼんやりとディスプレイを眺めながら、ボールペンをもて
あそんでいる華子に、後ろから声をかけた。
「昨日は、どうでした」
「えぇと。途中でお茶して、それから帰った」
「それだけですか」
 以外、といった感じで、後河は聞返す。
「ん、何期待してんのよ。まだ何も無いに決まってるでしょ」
 後河は、ふぅん、と軽く返事を返しながら思った。まだ何も無い、わけですね。
「でも、電話番号ぐらい、聞いたんでしょ。それとも、教えたんですか」
「それが……聞くの忘れちゃって……」
「もう、いい歳して、何やってんです」
 後河は、全くなにやってんだか、といった感じで肩をすくめた。
「いい歳、だけ余計よ」
 少しだけ、ムッとした声で華子は答えた。そして、ぼそりと呟く。
「……いいの。もう、焦らないことにしたから」
 その言葉は、自分に言聞かせているようでもあった。
 後河は、そんな華子をただじっと見つめていた。


「教えてもらいましたよ。」
 坂元は、またも落ち着きを無くして、動物園の熊のように落着きなくうろうろし
ているいる陽一に声をかけた。
「ちょっと待ってくれ。」
 そういって陽一は、旧式の電子手帳を慌てて取り出す。そして、坂元の言った番
号を何度も念を押しながら、入力していく。
 坂本のあきれた顔など、陽一の視界に入っていない。
 ただ、手帳に並んだ番号だけを凝視していた。


 会社の帰り道。
 信号が変わるやいなや飛び出し、階段を一足飛びに駆け上がる陽一の姿がそこに
あった。まるで、大好きなテレビマンガを見るために急いで学校から帰る子供のよ
うに、完全に周囲のことが見えなくなっている。電車にとび乗ったところで、ふっ
と我に返る。
 まるで、初デートに舞い上がってる中坊じゃないか。


 近くの乗客は、にたにた笑をしたり、突然苦笑したりする陽一を、薄気味悪そう
に眺めていた。


 何といって、切り出そう。
 陽一は、電話を前に悩んでいた。結局、こういったことは、いかに場数を踏んで
いるかが決め手になる。はっきりいって、陽一にはその経験が極めて少ない。むし
ろ、正確に言うと、皆無ではない、と言うだけに過ぎない。
 頭の中で、いろいろとシミュレーションしてみるが、入力されているデータが少
なすぎるために、結局答えが出ない。
 まだ、早すぎるよ、と自分自身に言い訳してみるが、もう8時。陽一は、意を決
して番号を押した。


 華子は、自分から電話しようかどうか迷っていた。
 母親や叔母達から言われると反発はするものの、自分がいわゆる適齢期を過ぎよ
うとしていることに気づいてはいる。あせる気持ちがないといえばうそになる。

 ……だが……

 いろいろな考えが、頭の中を駆け回る。
 恐る恐る、受話器を取ろうと手を伸ばした……

           ・

           ・

           ・

         プルルルル

 悪いことをしていた訳では無いにもかかわらず、いきなり鳴出した電話の着信音に、
華子の左手は沸騰したヤカンに触れたかのように大きく跳ね上がった。
 ……電話は、父親からで、今夜も遅くなる、というものであった。不景気のため、
地方会社の東京営業所所長である彼女の父親は、少しでも仕事を確保するために必
死の営業活動を行っている。そのためか、最近では、逆に帰りの遅い日が多い。
「うん。わかった。体に気をつけてね」
 彼女は、受話器をゆっくりと戻した。
 何か複雑な心境だった。


      ツー、ツー、ツー、ツー

 呼び出し音は、話し中のものだった。
 せっかく思い切って電話したのに残念だったと、そっと受話器を置く。
 しかし、陽一は何故かほっとした感情を無意識下で抱いていた。
 あと、30分ほどしたらかけなおす事にしよう。


          ・

           ・

           ・

         プルルルル

 受話器を取ったのは、華子でなかった。
「華ちゃん、岸田さん、って方から」
 階下からの母親の声。
「はぁい」
 華子は、あわてて自分の部屋のコードレスフォンを取った。
「もしもし、お電話変わりました」
「あ、あの、・・・・。突然すいません。ぼ、ボク、岸田ですけど・・・・」
「あっ、金曜日はどうもすいませんでした」
「い、いえ。こちらこそ」
 妙に緊張して、陽一は芦屋雁ノ助演じるところの山下清の如き言葉づかいになっ
ていた。
 喉が異様に乾いてしかたない。陽一は、無意識に唇をなめた。
「・・・・あ、えっと、あの、それで、ですね。今度の土曜日、お暇ですか」
「えっ、あ、はい。会社も休みですし、ちょうどあいてます」
「よ、良かったら、映画にいきませんか。ちょうど、券をもらったんですよ」
「ええ。喜んで。久しく行ってなかったんで、楽しみです」
「じゃあ、ええと、待ち合わせ場所は」
「映画館の前じゃ、だめですか」
「もちろんかまいませんよ。じゃあ、11時ぐらいでどうですか」
「いいですね。じゃあ、今度の日曜日、楽しみに待ってます」
「いえ、どうも、失礼します」
 陽一は、受話器を置くと、近くのタオルを取って、額の汗を拭(ぬぐ)う。10分
にも満たない短い会話だったが、全身から汗が吹き出していた。
 もっとも、陽一の心はすでに週末へ飛んでいた。

                                     (3)

 初デート、と言っても大したことは何もない。映画館の前で合うと、時間調整もか
ねて近くの小洒落た店で昼食。まだやっていたハリウッド製怪獣映画を見終わると、
喫茶店で他愛のないお喋りを珈琲を飲みながら交わし、それで別れた。
 いきなり、大人の関係になるわけで無し、まあ、こんなモノだろうと双方とも納得
している。ただ、今度の金曜日に夕食を一緒にする約束が、大いなる第一歩。


 そんな、普通の交際が始まって、次第に親密になり、大人の関係、へと移行してい
くのに、さほど時間はかからなかった。ほぼ毎週、食事をしたり、どこかに遊びに行っ
たりする。既に華子は陽一の部屋の鍵を持っていた。
 気がつくと、そんな恋人同士に二人はなっていた。


 きっかけは、何だったんだろう。

 既に、そんな事はどうでもよいこと。

 多分、かなり些細なことだった。

 今となっては、気まずい思いだけ。

 途中から理由などどうでも良くなっていた。

 ただ、言葉が止まらない。

 売言葉に買言葉。

 思ってもいない事も、はずみでついついいってしまう。

 遂には、互いに退くに退けなくなっていた。


 陽一は、今日になって何度目かの大きなため息をついた。
「岸田先輩」
 坂元が、後ろから呼びかけてきた。
「わぁお、な、なんだい。突然」
「突然、じゃないでしょうに。さっきから何回も呼んでるのに全くしらん振りで。
 一体どうしたんです」
「べ、別に・・・・」
「何が、別に、ですか。全く。どうせ、彼女と喧嘩でもしたんでしょう」
「そっ、そんなことは・・・・」
「あるんでしょ。相変わらず、嘘が下手ですね」
 顔を真っ赤にして否定する陽一に、何でもお見通しだぞ、と言った風な表情を浮か
べて、坂元は言った。
「・・・・。彼女とけんかした」
「はあ。やっぱり。
 しかし、たかだか喧嘩したぐらいで、地球の終わりでも来たような顔をしないで下
さいよ。ボクなんか、しょっちゅうしてますよ」
「……一緒にしないでくれ。俺に取っちゃあ、世界の終わりみたいなもんだ。完全に
嫌われたよなぁ。
 はぁ」
 陽一は、しょんぼりと肩をおとした。
「謝ればいいじゃないですか」
「そんなこと言ったってな……」
「向こうだって、誠心誠意謝ればきっと少しはわかってくれますよ」
「そうかな」
「そうです。そんなもんです」
「そんなもんかな。でも、それでダメなら……」
「その時は、諦めなさいよ。女なんて、いくらでもいるんだから」
「いや。華子さんは違う!! そんな、そこらの女と一緒にしないでくれ」
「だったら、なおさらじゃないですか。善は急げと言いますから、今日にでも謝っちゃ
いましょうよ。何なら、僕が白河さんの会社に電話してあげましょうか」
「……いや。俺の問題だ。今晩自分でする」
 坂元は、やはりどこか思い詰めた様な陽一から離れると、小さくため息をついた。
「全く……」


「白河さん、どうしたんですか」
 後河は、妙にピリピリしている華子に勇気を出して声をかけた。
「何よ」
「いえ、ただ今日はやけに機嫌が悪そうだったんで……」
「私はいつも、不愛想で突っ慳貪で怒った顔をしてますよ」
「……全く、いい歳して何いじけてんですか」
「どうせ私は、いい歳した行き遅れのお局様ですよ。ほっといてちょうだい」
「……ふられたんですか」
「そうよ。ふられたみたいなもんよ。いえ、こっちからふってやる。そうよ、こっち
からふったのよ。」
「……喧嘩したんですね」
 後河は、納得して一人で肯いた。
 華子は、一瞬顔の筋肉を引きつらせたが、その言葉に軽く肯き、小さく言った。
「……わかってるわよ」
「えっ」
 後河は、華子がなにを言っているのか判らず聞返した。
「わかってる、て言ったの。でも、でもダメなのよ……」
「……」
「……ごめん。ちょっと、お化粧なおしてくる」
 そういって、その場から離れていく華子を見ながら呟いた。
「全く……」


 そういえば、携帯電話を買った理由(わけ)は、いつでも電話できるように、だった
な。唐突にそんなことを思い出しながら、番号をコールした。

                          プルルルル

「……」
「……」
 電話をはさんで、何も言えずにいる二人。互いに相手が誰かわかっている。ただ、
話せなかった。二人とも、言葉がでてこない。
 やっと意思を振り絞って言葉を出す。
「……。ちょっといいかな」
「……。うん」
「あえる?」
「……ええ」
「じゃあ、いつもの喫茶店で」
「ええ。すぐに行きます」
 華子は携帯のHOLDのボタンを押した。急いで身仕度を整えて、大急ぎで外に
出る。少し肌寒い。ジャケットを羽織ったほうがいいなと感じる。
 そのとき初めて、もう秋が更けていることに気づいた。


(4)

 いつもの喫茶店。
 陽一は、いつものように珈琲を啜っていた。
 すでに、4杯目の珈琲だ。電話をかけるまでに、すでにこの店で三杯の飲んでいる。
混沌(カオス)状態の精神は、祝福された黒い液体を何杯飲んでも落ち着いてくれそう
にない。
 陽一は、無意識のうちに呼鈴(ベル)の鳴る度ごとに、扉へと視線を走らせる。

                                    カラン

 呼鈴の音とともに、華子が入ってきた。
 だが、なぜかいつものように呼びかけられない。
「……こんばんは」
「……よく来てくれました」
 変に堅苦しいあいさつをしてしまう二人。店長(マスター)が、おしぼりと水を持っ
てくる。
「えぇと、なんにする」
 既に、顔なじみとなったマスターが、二人に声をかける。いつもより、ずっと快活
な感じをだそうとしている声。二人は、自分の殻にこもったまま、注文をした。
「ロシアンティー、一つ。お願いします」
「あっ、珈琲もう一杯。ブレンドで」
「はい。ロシアンティーとブレンドね」
 立去るときの店長は、なぜか意地の悪い笑みを浮かべていた。

「あの……」
「あのぅ……」
 モジモジしていた二人は、ちょうど同じタイミングで声をかけた。
「あっ、あのお先にどうぞ」
 華子にそういわれた陽一は、思い切って話しだした。
「ごめん。こないだのこと、あやまっておこうと思って。
 あんなこといったけど、本心じゃないんだ」
「……」
「別に、悪気があったわけじゃないんだ。そのことだけは言っておきたくて」
「……」
「……ちょっと、甘えてたのかもしれない。でも、初めてなんだ。気の許せる女性に
出会ったのは。それで、浮かれて、自分のことしか見えなくなってた」
「……」
「とにかく、ごめん」
 陽一は、堰を切ったように一気に話した。溜まっていたものを出したような開放感
を一方では感じていた。言うべきことは言った。自分の気持は伝えた。そんな充実感
にも似た気持。
「……莫迦」
 華子の反応は、意外なものだった。泣き出したりも怒ったりもせず、ただ、ぽつり
とそういった。実に淡々とした反応。
「ごめん。そうかもしれない」
「そうよ。あなたは、莫迦よ。
 ……そして、私は、もっと莫迦よ」
「……」
「二人して、大莫迦者。相手がどう思ってるかもわからない、唐変木。自分のことばっ
かり考えてる、利己主義者。
 二人とも、駆け引きも何も知らない、お子様、なのね」
「そんなこと……」
「いいの。わかってる。結局、下手くそなのね。すべてに対して」
「……」
「結局、こんなことに年齢は関係ないのね。いくつになっても、下手な人は下手なま
ま。一生それは変らない。そして、そのまま年をとっていく」
 激しているようで、意外に冷静な口調で話す華子。陽一は突然何か表現の出来ない
感情に襲われた。その感情のまま、普段の臆病さを感じさせない断定的な口調で話し
出す。いや、言葉が口からあふれるのを止められずにいた。
「・・・・下手くそでいいじゃないか」
「えっ」
 華子は、驚いて陽一を見つめた。
「莫迦だっていいじゃないか。唐変木でも、利己主義者だっていいじゃないか。欠点
の無い天使を好きになったわけじゃない。僕が好きなのは、君なんだ。こんなばかげ
たとで君を失うなんて、絶対にいやだ。そんな事は、認めない。認めるもんか」
 信じられないことに、こんなくさい台詞が自然と口をつく。
「……いいの。私なんかで。わがままで、融通が利かなくて、おこりんぼで……」
「謙遜は最大の自惚れなり、って言葉を知ってるかい。僕には、『私があなたに一番
ふさわしいの。』と言ってるようにしか聞えない」
「でも、私はあなたより三つ年上だし……」
「姉さん女房は金のワラジをはいてでも探せ、って言うぐらいだよ。年上がなんだっ
て言うんだよ」
 てっきり、別れ話に進むと思っていただけに、華子は展開についていけないでいる。
と言って、嫌なわけでは、もちろんない。ただ、ついていけないだけ。そう、このま
ま『はい』と言えば……だが、華子の頭には、自分の想定していた、別れの物語
(ストーリー)しか無かった。
 華子は、混乱したまま小さくつぶやいた。
「でも……」

「はい。ロシアンティーとブレンドね。」
 店長が、明らかにタイミングを見はからって飲物を持ってきた。
 そして、何気ないふうに尋ねる。
「そういえば、二人が初めて会ったのは、八月二八日だったよね」
「あれ、そうですけど、そんなこと言いましたっけ」
 店長は、慣れた手つきで二人の前にカップを並べる。そして、問いかけをあえて無
視して、おどけた感じで話しだす。
「知ってる。七夕に出会ったカップルは、絶対うまくいくんだよ」
「あ、聞いたことあります。でも、僕らが出会ったのは・・・・」
「平成十年の八月二八日」
 カップを並びおえた店長は、意地悪な笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「旧暦の七月七日。つまり本当の七夕様」
「あっ」
「えっ」
「おめでとう。二人とも、絶対うまくいくよ」
 顔を見合わせている二人に、店長は祝福の言葉を投げかける。
 その言葉にはっとして、二人は店長の方を向く。
 そこには、店長の、変らぬ優しい笑みがあった。

                                     Fin
皆様、いかがお過しで御座いましょうか。備前屋で御座います。

亭主様の御好意に甘えさせて頂き、手前の愚作を掲載して頂ける事となり、望外の喜びで御座います。

時の翼亭にご来場の皆様には、愚作では御座いますが、できれば温かい目で見守っていたでければ、と存じつかまつります。

尚、誹謗・中傷・その他については、覚悟を決めて送ってください

ご意見・ご感想については、ありがたく拝見させていただきます。

それでは、お目汚し失礼いたします。



 どうも、J−wingです。
 星の数ほど人が居れば、星の数ほど出逢いがある。
 某映画からの言葉ですが、僕はこの言葉が好きです。
 七夕の日にあった一組の男女の出逢い、ほんの小さな星達の出逢いかもしれないけれども。
 それでも、この出逢いは当人達にとっては大きな物。
 貴方はこの出逢いをどう思われますか?
 貴方の感想を、文字代え送ってさし上げると、筆者の方は喜ぶかもしれません。
 それでは・・・・・・