前には佛国匿名氏の著『支那現勢論』を訳して世に公にす、人をして世界に於ける支那の形勢を通観せしめんと欲してなり。今復た佛国デジャルダン氏の著『国際支那』を訳して梓に上す、人をして国際に於ける支那の地位を概見せしめんと欲してなり。
蓋し支那の帝国たる列強の利害と世界の治乱との繁るところ、列強の間に立ち、支那の境に接するもの、之が形勢を詳にせざる可けんや。但だ形勢論より之を言へば、佛人は佛国の為にし、英人は英国の為にし、獨人は獨国の為にし、露人は露国の為にし、米や墺や伊や白や、亦各其国の為にす、更に進みて同盟を約すれば、三国の為といひ、両国の為といひ、再たび上りて大陸を封すれば、欧洲の為といひ、米洲の為といふ、大小強弱変利を征して国際の上には道義あらざるやを疑はしむ。
国際には道義なく、強国之を制すや否や。支那は元無事列強之を乱るや否や。生民の社会に立ち、国際の圏内に在るもの、亦之が原理を講ぜざる可けんや。是に於て、乎吾人は他の一面より必らず佛英獨露の為といはず必らず米墺伊白の為といはず必ず合従連衡の為といはず必ず欧州米陸の為
といはざる、純理論より之を観察するの要あるを認む。
デジャルダン氏は国際法学家なり、国際の権利と義務とに就きては、国の大小強弱を論ぜず、平等にして均一なる可きを主張する者なり、此主見より三個の疑問を掲げ、国際社会に対し支那は如何に地位を取得し来りたる歎、国際道義に対し支那は如何に通法を遵守しつつある歎、国際条約に対し支那は如何に義務を履行しつつある嘆を詳細に観察し、国際法の制裁を巳む可からざるを論断す、論理明快、是に国際法学家の立言たるに背かず。
抑々支那の今日の地位に至りたる、並列強干渉の或程度までを至当ならしむるものは、支那自ら之を招きしのみ、謂ふ処の自ら作せる○なるのみ、而して其の此に至りし所以を溯求すれば、大本は国際の上に道義を認めざるの謬見に職由せり。蓋し彼の意に以謂へらく、国際に所するには政略
あるのみ、通報遵守するに足らず、義務履行するに足らずと、是を以って開国六十年、其史蹟を回顧すれば、只だ欺瞞を残暴あるのみ、信を天下に失ひ、禍を四境に惹かざらんと欲すと雖も得んや。顧ふに国際の上に処する、時ありて乎政略欠く可からず、権謀も可なり、術数も亦可なり、然れども国際社会の成立する、国際道義の之が基礎を為すものあり、能く此基礎上に立ちて、而る後ち政略始めて言ふ可きのみ。之を聞く、デジャルダン氏の本書を著すや、栗野公使に語りて曰く、余は殊に重きを日本帝国に置けりと、今其の然る所以のものは如何と顧みれば、亦我国の夙に国際道義を認めたるに由りてなり。
国際の社会に在りて、日本の以って進み、支那の以て退きたる、大本は実に此に在り、而も今に至り支那は固より論ずる無く、我日本は一分にも、尚ほ国際なるものは基礎よりして権謀術数を容る可きものなるやの謬見を懐く者これ無しとせず、国に禍するものは主として此謬見に在り、余が本書を訳するの微意、実に此に在り、善く読む者自ら黙契する所あらん。
アルチュール・デジャルダン氏は佛国の人なり、一八三五年ボーヴェイに生る、一九五七年法学士及文学士の学位を得、ナポレオン三世の朝検事の職を奉し、一八七五年大審院上席検事に上り、一八八二年学資会院に入り、法政学部長たり、又兼ねて万国国際法教会の副会長たりき、今一九〇一年一月病みて没す、享年六十七。
氏は佛国第一流の国際法学者家にして又商法及海上法の大家なり、殊に仲裁裁判の法理に明なるを以て、名声内外に馳せ益々外国より諾問を受けたり。就中一八九八年或事件に関し英白両国間に紛議を生するや、両国政府は此事件を挙げて氏の仲裁に委ねたり、堂々たる両国の間に立ち、個人にして仲裁に任したるは、蓋し氏を以て○矢と為す。
氏は居常独立にして公正なる意見を抱き、殊に日本に対して好意を有せり。往年有賀博士が巴里にありて日清戦役国際法論を公にするや、氏は以て稀有の良書と為し、自ら進みて之を学士会員に報告せり。次ぎて富井博士が本野博士と同府に於て我新法典佛訳の挙あるや、氏は亦之を見て最も貴重す可き事業と為し、国が学理の範囲に於ても亦長足の進歩を為し、他の斬新にして真確なる学説を採るに於て、寧ろ或は欧州○国の右に出づるものを欽べばなり。
氏の碩学にして且つ我日本の地位を紹介するに績労ある斯くの如きを以て、栗野公使は本国に報告する所あり、我政府も亦其学と績とを認め、叙勲の奏請中に在りと聞きしが、未だ之を見るに至らずして、氏は早く斯世を辞したり、憾む可き哉。
氏は夙に『商法及海上法』九巻の著あり、其学に関する一大名著として、天下に行はる。又『米西戦争と国際法』、『英阿戦争と国際法』其他海牙万国平和会議に関する論説等、国際法学者として公にする所の良著少なからず、今訳出する所は『支那と国際法』と題し、一九〇〇年一二月一日及十五日の『ルーヴェデ・ヅゥー・モンド』に連掲せしもの、読む者氏が如何に其学に忠実なりしかを微するを得ん。
例言
本著原題して『支那と国際法』といふ、今称呼に便せんが為に『国際支那』と名く、国際に於ける支那を論断せしものなればなり。
書中戴する所の名家の諸説及一切の事実の下には、引用せし書目を掲げ一々出所を注したるも、今之を省略せり、此著を読む者予め著者の手に任して筆を下さりしことを思ふ可し。
著者は此編を草したる後ち、幾ばくならずして物故せり、蓋し是れ絶筆なり、之に対してチョウチュウの情に任へず。