「こんなところにいたのか。」
気がつけば、準の頭上で、夏の白樺が風に揺られていた。どうやら、そのまま木陰で
昼寝してしまったらしい。せっかく人がいい気持ちだったのに、一八は無遠慮に顔を
のぞきこんできた。
「そんなデカい腹で、どこ行ってたんだよ。丘から転げ落ちて流産、なんてことになったら
おまえ死ぬぞ。」
「縁起でもないこと言わないでよ、バカバカしい。」
「フン。」
いつのころだろう、そうやってすねるところがかわいいと思えるようになったのは。
それは、心に余裕ができたせいなのか、それとも・・
「ったく、いつもながらかわいくないな。たまに帰ってきた時ぐらい愛想良くしたらどうだ。」
一八は、ドンッと、隣に腰掛けた。
そして、準の華奢な体では隠しようもないほどに膨らんだお腹を見て、なんともいえない
複雑な表情をした。子供が出来た、と、告げた時と同じ顔だ。
その時の、彼の顔はよく覚えている。
今と同じ、ばつの悪そうな顔で、押し黙って、後ろを向いてしまった。
むしろ李の方が「おい、どうするんだ!? に、認知するのか?」 と、おかしいぐらいに
あわてていていた。
「それで・・おまえはどうしたいんだ? 俺に、何を期待しているんだ?」
「私はあなたに、あなたは父親になりました、って教えたかっただけです。」
準は首を横に振った。
「なら、ここにいろ。」
「好きにします。」
「そうね、自由ね。」
「何か言ったか?」
抱えきれない不安。あの時も今も、一八から感じられるのは、ただそれだけ。
自分と三島平八との関係を、自分と自分の子供に重ね、いつか自分も平八のように
なるのか、と嫌悪し、畏怖している。
笑ってはいけなかった。卑屈な笑みは殴られるだけ。
泣いてはいけなかった。涙は父の嘲笑をかうだけ。
結局のところ、彼は、己が脅威となるすべての敵を凌駕する他なかった。
それが準には、無性に哀れで、悲しくて。
どんなことをしたって、過ぎた時が戻るわけではないのだが。
じゃあ、こうなるかもしれないことがわかっていて、どうしてあなたは私を求めたの?
いや、聞くまい。これから先は、男には窺い知れぬ世界だ。
その時だって、生むか、生まないか、選択は出来た。出て行くことも準の勝手だった。
だが、準を押しとどめたもの、それは・・
「ねえ、一八。一つだけ、約束して欲しいの。」
「なんだ。おまえがそんなふうなこというなんて、珍しいな。」
「・・子供のことよ。この子はあと2ヶ月もたたないうちに産まれてくる。
もし、あなたが、平八があなたにしたようなことをこの子にもしたら、私はあなたを絶対に
許さない。この子を連れて、出て行きます。もしかしたら、あなたを殺してしまうかも
しれない。」
突然の強い風に、白樺の葉が、バサバサバサ・・と、さざめきあった。
「・・・・なんだと・・・・どういう意味だ。」
怒り? 一八は準を睨みつけるような目で見た。だがその目にすら、準はいつも、
怯えのようなものを見た。いつも、いつも。
「それだけのことを、平八はあなたにしたのよ!あなたをそんなに傷つけて!」
一八の顔に、驚きが走った。こんな風に言われたのは、たぶん始めてだろう。
唯一の支えだった母は死に、この人は、どれだけの屈辱の日々を送ってきたことか。
あなたの痛みを想う人がいる。伝えたいことは、いつだってそれだけ。
あなたが弱かったのが悪いんじゃない。だから、罪悪感の檻の中に自分を閉じ込めて、
それにいらだって、人をもうこれ以上傷つけないで欲しい。
あなたのなかの強さも弱さも、私は全部、認めるから。
そう、どんなことをしたって、過ぎた時が戻るわけではないのだが。
「・・それで・・どうしておまえはここに残った?」
長い沈黙の後、やっと一八が口を開いた。いつの間にか、影が長く伸び始めている。
「・・あなたを信じています。」
「信じる、か。」
それをさも裏切ってやる、とでもいうように、一八は準の身体に手を回し唇をとらえ・・
ようとしたが、いかんせん、腹がでかすぎた。
「・・赤ちゃん、嫉妬しているみたね。」
「チッ。」
一八は本当にくやしそうだった。
「早く産んじまえ。何をするにしても邪魔だ。」
「・・無理だってば、バカ。 ・・ククク。」
「ケッ、帰るぞ。」
いつのころだろう、その後ろ姿と、振り返った時の横顔がたまらなく好きになったのは。
それがいつだったかは、もう思い出せないけれど。
あなたを信じています。
あなたを想う気持ちは、ただ、それだけ。
準はうつむいて、少し、笑った。
海外出張などで、一人寝の夜が多いせいか、隣に誰か寝ていたら無性に
おちつかないものだ。隣では準が、一八に背を向けるようなかたちで安らかな寝息を
立てている。
月の光が窓からさしこみ、それが彼女の髪をいっそうつややかに魅せている。
一八は、このまますぐに後ろから抱きしめてやりたい気持ちになったが、今そんなこと
をしたら、顔に肘鉄が飛んでくるのはまちがいないので、彼女の髪をすこしなでて、
小声で悪態をつくことにした。
「おい・・俺を自由にできるのは世界で私だけ、なんて思ってたら、それは大間違い
なんだぞ。俺は・・」
「誰かを自由にするなんて。」
準は起きていた。
「誰にも出来ないよ。自分で、自由にならなきゃ。でも、あなたを不幸にできるのは・・」
重そうに寝返りを打つと、準は一八を見てニヤッ、と笑った。
「世界で私だけかもね。」
そう、たとえ過ぎた時が戻らなくとも。
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