「力をつくし
心をつくし
想いをつくして
私はあなたを愛したいのです」
「数学の宿題、わからないので、みて、いただけませんか。」
私が意を決して彼の部屋をノックすると、彼は遠視用の眼鏡をかけて
机に座っていた。テキストが開いているところをみると、彼も勉強中
だったらしい。
「あ、あの。私、明日、数学の授業があるんです。それで、
日本の友達から聞いたんだけど、仁って、成績がいいんだよね?
それで、ちょっと教えていただきたいんですが、いい、ですか。」
「いいよ。で、どこがわかんないんだ?」
「・・・・・とにかく、全部。」
教科書のわからない部分に、私はいつも赤ペンでチェックしておくのだが、
私がおそるおそる差し出したページは、見るのも恥ずかしいぐらいに朱に
染まっていた。
彼は、教科書を見ると、しばらく口に手をあてて、うーん、と唸っていた。
たぶん・・こんな問題もわかんないのか、とか、
このバカにどうやって教えよう、とか、
思っていたに違いない。
「隣に座って。そこに椅子あるから。」
「はい。」
彼は、ノートに図形を書いて説明してくれたが、彼の説明はいわゆる
「頭のいい人にありがち」な難解なものだった。自分の努力不足、といえば
それまでなのだろうが、理解できない言葉だけが、耳から耳へ通り抜けて
いった。
ただ、好感を持てたのは、私が「よくわからない」といっても、彼は一切、
「どうして」と、たずねなかったことだ。
彼はまた、うーん、とシャーペンを指で回しながら考え込んで、今度は少し噛み砕いて、
もう一度説明してくれた。私も少し、わかったような気がした。
「ありがとうございます。あとは、自分でやってみます。」
「ああ、がんばれよ。・・そうだ。シャオユウ、だっけ。 コーヒーでも飲むか?」
「え? ええ、いただきます。あ、コーヒー、私がいれます。」
勉強をみてもらった上に、コーヒーまでいただくのは、さすがに気がひけた。
私はコーヒーミルに二人分の豆をいれて、豆を挽いた。
彼はまた、机に向かってテキストを読んでいた。
彼ぐらいの歳の男の部屋に、16歳の女の子が来たら、普通、気のきいた会話の
ひとつぐらいしようとするだろうに。
勉強を見終わると、彼は、私にまるで興味がないようだった。
「どうぞ。」
「ああ、ありがと。」
いれたてのコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。私はカップに口をつけ、
上目使いで彼を見た。
「…シャオはもう少し、がんばったほうがいいかもなあ。このまえのテスト、何点だった?」
私の視線に気付いたのか、彼は横を向いたまま、唐突に聞いてきた。
「あまり、よくない、です。」
あまり、どころか。
「大学編入とか、推薦とか狙ってるなら、中間テストでも良い点数とっておくことに
こしたことないよ。」
「…はい。」
「まずは…まあ、とにかく問題の数をこなすこと。わからない問題があったら、
いつでも聞きに来ていいから。」
「ほんとに? お願いします!」
私は、パッと顔を紅潮させた。
彼にとっては、迷惑な話だっただろう。
だが、日本に来て日の浅い私は、素直にそれを喜んだ。あの、陰険な
数学教師の顔を考えただけで、私はウンザリしていたから。
とにかくその日から、私は彼の部屋によく足を運んだ。
勉強をみてもらうため、ということもあったが、本を借りに、とか、
お菓子をもっていく、とかということもあった。
私は、彼と話がしたかったのだ。
「大会に優勝して、遊園地を、つくってもらうんです。」
私を凝視した、彼の顔が忘れられない。
彼は、自分が大会に参加する目的をあえて話そうとはしなかったが、
君のような女の子が大会に参加するのは感心しない、というようなことを
言った。もちろん私は、思いっきり反論した。
彼の勉強を邪魔しないために、お菓子をつまんでそのまま部屋を出る日もあった。
テキストをめくる彼の横顔をじっと見ながら、舌の上の甘さを洗い流すように、
コーヒーをいただいた。
私が、ただの子供だったと気づいたのは、それからすぐのことだった。
主を失った部屋の荷物を整理することに、私は別段反対しなかった。
反対する理由がない。
机も、椅子も、彼が使っていたテキストも、次々と梱包され、業者が運び出していった。
彼の痕跡を消すように、きれいに掃除して、床にニスまで塗っていった。
すべてが終わった後、私は、空っぽになった彼の部屋に入り、窓の外の冷たい夕日と
ずっと向こうの山を見た。
彼と暮らした数ヶ月は何だったのか。
その問いだけが、頭をもたげていた。
あまりに突然のことに、胸が痛くて。
寝付けない日が、何日も続いた。
数学のテキストをめくるたび、まだそこに彼がいるような感覚にとらわれて、
彼とのつながりを求めるように、問題を解いていった。
そしてわからない問題がでるたびに…彼のことを思い出した。
それから2年。
仁を追い、財閥の真の姿を知るために参加した大会で、
最後にたどりついた三島の最高機密研究所。
戦いの渦中に、私は、いる。
「この2年、アンタは何をしていたの?」
口元に微笑をたたえながら、眼鏡の奥の彼女の瞳は、決して笑っていなかった。
「彼を…ずっと待っていたんだと思う。」
「それだけ?」
「生きてることすら知らなかった。」
あのメールがすべてを変えた。
差出人はわからなかったけれども、言葉の一つ一つに、彼を感じた。
「彼に会いたい。真実が知りたいのよ。」
「…なぜ?」
私は、ハッとした。
「アンタは2年間もミシマの家にいた。真実はいつもそばにあったのに、
アンタが認めようとしなかっただけ。」
戦いましょう、という彼女の言葉に救われて。
靄のかかる闇に向かい踵を返した、彼女のあとを追いかける。
大丈夫よ。
私は自分自身にいいきかせた。
自らの愚かさを悔やみながら
それでも私は、あなたを求めて歩き出す。
…あなたのことばかり想う。
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