あ じ さ い
〜紫陽花〜


たしか初夏のころのことだ。
あの日は、夕立が白く降っていた。
道場の周りの紫陽花が、雨を慈しむように、いくつもいくつも揺れていた。
そして、私と一八は、道場の畳の、むせかえるような青い匂いの中で、
吐く息も荒く仰向けになって倒れていた。
足に大きなアザをつくった私と、
頬が腫れあがり、唇の端から血が筋をつくって流れている一八と。
「義兄さん、今、薬を持ってきますから。」
今考えても、平八の稽古は、度を越していたように思う。
私は夕立の中を走り、紫陽花の通りを抜けて、母屋から救急箱をもって
来た。
 綿にアルコールを含ませて、一八を自分の膝を枕にして寝かせ、血を
拭った。傷にしみたのか、一八は、ツッ、と、苦々しげに舌打ちした。
「しみましたか。」
「・・オイ、お前。お前はこういう風に、親父に膝枕して、耳の掃除までするん
だってな。」
一八は、歯列を少しだけ覗かせ、私を見上げ、笑った。
その言葉には、あきらかに侮蔑がこもっていた。
コイツはいつも、オレと親父の機嫌を損なわぬように心を砕き、
手なずけるために優しく接し、
いつか三島の家をのっとるために、道化を演じているのだろう。
彼は、私のことを、そう考えていたに違いない。
「何を仰るんですか。第一、お義父様には、邸内に何人も愛妾が・・」
そう言いかけて、私は後悔した。
「親父の女かよ・・」
平八は、本妻、つまり一八の母親の死後、堰を切ったように女を
囲い始めたと聞いている。ほとんど顔も覚えていないが、邸内の別の棟には、
常時数人の愛妾がいた。
 母親はすでに亡くなっているとはいえ、実の息子にしてみれば、女を次々と
囲う父親というのは許せないだろう。そのへんは、私も一八に同情していた。
 後になって知ったのだが、驚くことに、平八は、本妻だったはずの三島一美とも、
正式な結婚はしていなかったそうだ。
理由はわからない。
「じゃあ、お前とあの愛妾達と、どう違うんだ。え?」
「そんな・・」
私はとまどった。
「・・まあ、いい。」
カッ、と、道場の外に、稲光が走った。
空を引き裂くような音が、後に続いた。
「なあ、李。俺も、親父のように愛妾というものをもつと思うか?」
窓から吹きこむ、雨混じりの暖かい風が妙に気持ち良かったことと、
自分の膝枕で寝ている男を、すぐに殺してやりたいぐらい憎んだことを、
私は、よく覚えている。

それから十数年たった。

なぜ、今、そんなことを思い出したのか。
今年もまた、うっとおしい程の梅雨のなか、紫陽花だけが天の恵みに
潤っていた。
「入ります。」
私は、一八の寝室のドアをノックした。
「李か。入れ。」
「やめて。 お願い、少し待って。」
部屋の中から準の声がしたが、今回は急を要するだけに、私は中へ
入っていった。
「どうした?」
部屋は、折りからの雨のせいで、昼間だというのに薄暗かった。
ベッドの上で、一八は準の身体に手を回したまま、そのやわらかな膝枕に
顔をうずめていた。 準が、金色の耳かきを手にして、頬を紅潮させる。
黒いレースからのぞく素足を、ベッドの先にたらしたまま。
「休暇中申し訳ありません。ニューヨークの市場がまた荒れています。
おそらく、有価証券の時価評価導入に伴う混乱かと思われますが・・」
「そうか。・・すぐ行く。」
「ヘリの手配ができています。」
ごめんなさいね、と、準がいった。
恥ずかしいと、思ったでしょ。
 「・・失礼します。」 

 準が、うらやましい。
 彼女は、正式な結婚はしていないけれども、一八の「妻」だ。
 主従関係ではなく、夫を愛し、妻として尊重され・・
 大輪の華のように、誇り高く、生きている。

 私は、いったいいつ、卑屈であることに慣れてしまったのだろう。
 三島の家に来た時か、それともあの寒村にいた頃、銀髪を理由に皆から疎んじられ、
必死になってまわりに媚を売った時なのか。
 私は、いったいいつ、誇りを失ってしまったのだろう。

 あの日の夕立のように、突然、富と権力と幸運が、私の上に降ってきたがゆえに。
 雨がなければ、生きてはゆけぬ紫陽花のように。
 夏の日差しのなかで、枯れ果ててしまうように。


 雨足が強い。

 私は、屋上のヘリポートで一八を待った。
 2本目のタバコを吸い終わった時、一八が数名の部下とともに現れた。
 そのあとに、準と、黄色いかっぱを羽織った子供たちが続いた。
 子供達は、口々に
 お父さん、しばらくお仕事お休みだっていってたのに・・
とか、
 お父さん、早く帰ってきてね。
と言った。
「すごい雨ねえ。ヘリまで傘さしてあげるわ、一八。
あ、李君、傘は・・」
 私は、いいんです、すぐそこですから、と、コートの襟を深くかぶって
雨の中を飛び出した。
 「ああ、本当に雨が強い。」
 私は、灰色の空を見上げた。
 雨を、慈しむように。

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