バチェラレット


わたしは
女の体を纏った
血の泉

果てしない
情欲の海に注ぐ
紅い河



「中絶するにも、彼氏のサインと判子が必要ですよ。」
 有給をとって病院に行った帰り、準は、駅前のコーヒーショップに立ち寄った。
ガラス越しに見える4月の空も、悠悠と流れていく雲さえも、今日は妙に空々しい。
コーヒーの熱い香りが、少しの間、準に現実を忘れさせてくれた。
 窓の向こうでは、恋の季節を迎えた2羽のすずめが、パタパタ、パタパタ、じゃれあっていた。
 仲がいいのね。
 準は思った。
「どうしますか?」
 コーヒーが空になるにつれ、彼女の心に医者の言葉がよみがえってきた。
 産むか、産まないか。
 今、答えろというのか。
 不安で、どうしたらいいのかわからなくて、心がざわめいた。
 準は顔をあげ、まぶしいまでの春の空を見た。


 冬の夜。
 窓は夜の冷気と暖気に曇り、赤々と燃える暖炉の薪が、折れて弾けた。
 男の膝を枕にして、準はソファの上でまどろんでいた。
 この男は、つい先日まで私の敵だったはずだ。
 準は、ぼんやりと考えた。
 ふいに体ごと抱え上げられ、準は目を見開いた。
 全身に金縛りがかかったかのように、体が動かない。
 そのままベッドに身を委ねられ、準は、見上げるような形で、男を睨め付けた。
「一目惚れだった…」
 準の耳元で、低くかすれた声が囁いた。
「哀れな女だ。W・W・W・Cの中にも、おまえを疎んじていた連中がいた。当然だな。
おまえは、やりすぎた。財閥に睨まれでもしたら、組織の運営にも支障がでる…」
 男は、準が軽く呻いたのを聞き逃さなかった。
「見事に、裏切られたな。 …何も心配はいらない。 大事にする。」
 その言葉に、準は身じろいだ。
冷たい言葉を吐き捨てたかと思うと、恋人に語りかけるように熱っぽく囁く男…。
「何だ…」
「あなたは、私をどうしようというの…?」
 三島一八を倒す。そう決心したときから、覚悟はできていたはずだった。
倒せなかったときは、自分が死ぬ時だ、と。
「言ったはずだ、大事にすると… おまえは、俺の女に…妻になるのだ。」
言うなり、男はゆっくりと、彼女の胸元に顔を埋めた。
「妻…」
 準は、ククッ、と笑った。
「それは残念ね… 私は… わたしは… あなたを倒したいのよ。」
「そうか…」
 まるで地獄の業火のような、男の胸の傷が押し当てられ、準の白い胸は沸き立った。
「財閥にも… 平八の味方が大勢いる… たとえ私が倒れても、誰かが必ずあなたを
倒すわ…」
「知っている…」
 身体の芯が、熱い。準は、男の胸に大きく広がった醜い傷跡を見て、男の憎しみの深さを
知った。
「知ってて、なぜ? 新婚早々、未亡人にでもするつもり…?」
「一つは、俺が平八を倒すからだ。」
「…………。」
「もう一つは、俺が死んでも誰も悲しまないからだ。」
 刹那、一八は準から顔を背けた。自分の感情を、見透かされまいとするように。
「悲しんで… 欲しいわけ…?」
「違う… 俺は、おまえに惹かれた。俺を倒すといいながら、おまえの目は悲しみに満ち満ちている。
俺は明日、おまえの望み通り奴と戦う… だから、おまえにすべてをくれてやる。」
 男は、準の髪に指を指し入れた。
 
 ――――クッ。

 呻いたのは、一八だった。男の頬に一筋、朱が走り、そこから涙のように血があふれた。
準の指の間から、ガラス片のようなものが覗いていた。準は一八を突き飛ばし、
隠しもっていた暗器を薙いだのである。精いっぱいの、抵抗のつもりだった。
「そうだ、その目だ… 奴が死のうが、俺が死のうが、世界は何も変わりはしない。
俺を、殺してみろ… 俺を憎め… 風間…準… 」


 気がつけば、羽田行きの長距離バスの中だった。
「夢…?」
 最後の東京は、雨だった。バスの窓が、梅雨空に曇っている。準は、外が見えるように
手で窓をそっと拭った。
 退職の手続は思ったよりも順調にすすんだ。実家の母が、なんと言ってくるのか心配
だったが、母は電話口の向こうで一言、「帰ってきなさい」とだけ言った。
 バスの外の風景が、めまぐるしく変わる。
「産むつもりです。」と告げた時の、医者のさげすんだような顔が忘れられない。
日々変化する自分の体に、始めて聞いた胎児のエコーに、準は、自分の人生が変わりつつ
あるのを感じていた。

 あの時、私は彼を求めた。
 あの時、私の人生が鮮やかの色付いた。

 憎めという、その呟きが、なぜか、とても悲しくて、愛しくて… 
 自分がこの男を求めているのだとわかった時、準は静かに一八を引き寄せ、唇を重ねていた。 
 皮肉にも、準は、男を失うことによってはじめて、想うという感情を、慈しむことの哀しみを、
手に入れることができたのだった。誰かを想うという、こんなにも豊かな感情を。
 あの人は、誰かに待っていて欲しかったのだろうか。
 準は思う。
 だが、それはあまりにも都合のよい解釈だ。自分は、彼を倒すことを望んでいたのだから。
 贖罪かもしれない。それでも準は、報われぬままに男を想った。

 あの朝、あなたは私の元を去って…
 そして、いつかの夜に戻ってくる

 忘れないで 私の名を呼ぶのよ
 私の名を忘れたら、あなたは彷徨ってしまうから

 ふと準は、初めて生理を迎えた頃を思い出した。あの時は、どろどろとした血が気持ち悪くて、
気分が悪くて、生理痛にも苛立ったし、なんで女の子だけがこんな目にあうの、と本気で思っていた。
不思議なことに、同じ気持ちが、この感情の奥底に流れている。
…子供じみてるな、と思った。


 屋久島に戻って、数ヶ月がすぎた。
 その日、準は、予定日まではまだ日があるから、と言って買い物に出かけた。
 季節はもう秋だが、今日は大分日差しが強い。
 帰り際、おそらく自分のことだろう、大声で噂話をまくしたてているおばさん連中がいた。
 自分にわざと聞こえるように話しているのだから、仕方がない。


 ―――痛ッ。

 その時、腹に鈍い痛みが走った。まさか、と思ったが、痛みはどんどん大きくなるようだ。
 準は立っていられなくなって、傍にあった電信柱によりかかった。
 だが、ああ、産まれるんだ、と思うと、なぜか笑みがこぼれてきた。

 痛い―――。

 準は痛みを堪えようと、拳をギュッと握り締めた。
 握り返す手はそこにはなく、準の手には自分の爪痕が、くっきりと残った。



 水の中で囁くように
 あの夜、互いの秘密を聞き取った

 あの朝、あなたは私の元を去って…
 そして、いつかの夜に戻ってくる

 あなたによく似た、この子が産まれて
 血の流れがあなたを導いてくれるわ
 忘れないで 私の名を呼ぶのよ
 私の名を忘れたら、あなたは彷徨ってしまうから


 愛することが、痛かった。


 
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