アメリカ、アリゾナ州。ミシェ−ル達の集落は海抜三千メ−トルという高地にあった。
季節は春。だが春といっても高原の気温は節操なく氷点下を割る。
冬の凛とした寒さとはまた違った、どんよりとした寒さが体にしみるようだ。
遠くの山が雪をかぶって青白く輝いている。山裾の林もまだ黒く冷たく、
太陽の弱々しい光だけが暖かい。見渡す限り人一人いない荒野に、パカポコと馬の足音だけが響いていた。
手綱を握るジュリアの手も心なしか震えていた。
兎の毛と革で出来た手袋をしていても風が隙間には入り込んでくるのだ。
馬の背中には、ジュリアが町で買い付けた食料品がくくりつけてあった。
馬がときどきブヒヒン、と重そうに鳴く。そのたびごとにジュリアは馬の尻を鞭で打った。
「母さん、ただいま。」
「おかえり。」
家ではミシェ−ルが料理をつくって待っていた。もう日はとっぷり暮れている。
冷たく丸い月の下、雪混じりの風が吹き、ジュリアの髪は粉を吹いたように白くなっていた。
ジュリアがミシェ−ルと出会ってから、早いものでもう一三年がたつ。
ミシェ−ルは始め、自分がジュリアを養女にするなんて考えてもいなかった。
だがジュリアが親に捨てられたことを知り、この子が施設にいき里親を転々とする運命を思った時
ミシェ−ルの心は決まった。自分が義父に育てられたように、この子を育てようとと決心したのだ。
女手一つでジュリアの面倒をみるのは並大抵の苦労ではなかった。
だがミシェ−ルは今でも独身である。それはミシェ−ル自身はこの土地を愛していたが、
実父が中国人で土地の者からは異端視されていたこと、子供がいたことが大きな原因と思われるが、
結婚の事を聞かれるといつもミシェ−ルは笑って言った。
結婚しようにもいい人がいなかったのよ、と。
ミシェ−ルはジュリアを家族同様に愛し育てた。牛を飼い、狩りを教えた。
ジュリアも、この地を守るためには強くあるべきと考え、自分の技を教え徹底的に鍛えあげた。
ジュリアはそれによく応えた。
天賦の才にめぐまれたのか、ジュリアはミシェールの技をまたたくまに吸収していった。
のみならず、芸術、勉学にも卓越した才能をみせた。わずか一二才で大学に入学し、
博士号までとって帰ってきた。大学在学中に考古学に興味をもったらしく、
ジュリアは今でも家の仕事の合間に研究を続けていた。
この子は親に捨てられてつらい思いをした分、良い精霊が力を与えたんだわ。
ミシェ−ルはそう思っていた。
「話があるんだけど。」
夕食後に、ミシェ−ルがポツリと言った。暖炉の火がちろちろ燃えている。
ジュリアは火の傍でライフルの手入れをしていた。もうすぐ狩りの季節がやってくるのだ。
「何? 母さん。」
ミシェ−ルはポケットから何やら紙切れを取り出した。紙片をうけとって、ジュリアは険しい顔をした。
キング・オブ・アイアンフィスト・ト−ナメントの招待状・・?
「ミシマがまた開くんだってさ。アタシはシ−ド選手だって。まったく19年もたって何考えてんだか。」
ミシェ−ルは呆れたように笑った。
アイアンフィスト・ト−ナメント。
世界経済を半世紀近くにもわたって牛耳る三島財閥が、過去二回にわたって行なった
伝説の格闘技大会だ。今や世界一の格闘家といわれるポ−ル・フェニックス、
プロレスの神キングなど数々の名高い格闘家達が死闘を繰り広げ、
そしてミシェ−ルもこの強豪たちを相手に立派に戦った。
「まさか母さん、また出場する気じゃないでしょうね?」
ジュリアは怪訝な顔をした。
ジュリアは知らなかったが、ミシェ−ルはその昔とある理由でミシマを憎悪していたらしい。
そしてジュリアも、ミシマとは少なからず因縁があった。
話は四年前にさかのぼる。
ここアリゾナの山奥にかなりの規模の遺跡が発見され話題になった。
発見といっても、ミシェ−ル達の部族が秘密裏に守っていたものである。
だが州が入り、国が入り、部族の者達は結局、遺跡の発掘を許可せざるをえなかった。
しかし・・。
予想もしなかった大事件が起きた。遺跡の地下から未曾有の量の天然ウランが採掘されたのだ。
同時に遺跡自体も高濃度の放射能で汚染されていたのである。
そして何も知らずに遺跡に入ったもの数十名が被爆し死亡した。
その死亡した者達はすべて、この発掘事業に積極的にかかわっていた三島財閥の手の者だった。
国はすぐにこの地域一帯を封鎖、部族にも危険ということで退去勧告が出されたが、
それに対して部族は頑なに拒んだ。
国からということもあって部族は先祖伝来の土地を追い出されると覚悟したが、
国の方でも人種問題がからんでくるとやっかいだと思ったのだろう、幸いなことに強くはいってこなかった。
だがジュリアは知っていた。遺跡で死亡した者達は被爆が原因で死んだのではない。
その遺跡は他でもない、幼い日、自分が捨てられたあの遺跡だからである。
そして国が嘘の公表までして隠しておきたいものについてもジュリアは薄々気付いていた。
あの悪霊・・。
影に取り殺されたのに違いない。
知らない人間が聞いたら何を寝ぼけたことを、と言うだろう。
ミシェ−ルですら信じていないふしがあった。ジュリアが影のことを何度言っても、
ジュリアが遺跡で見たのは悪い夢だったのだと思っていた。
夢ならどんなに良かったことか!
子供の頃ほどではないが、影は今でもときどきジュリアの枕元に浮かび上がってくる。
そしてジュリアを見て嘲ら笑うのだ。
「失せろ!!」
影を見るたびジュリアは叫んだ。恐怖と憎悪で気が狂いそうになった。
これは幻なのだと自分に言い聞かせたこともあった。
けれども最近集落でもおかしな噂が持ち上がっていた。
あの世界有数の格闘家失踪事件は、実はオ−ガの仕業ではないかと。
「ミシマを憎んでるわけじゃないよ。でも、ミシマに会いに日本へ行く。」
ミシェ−ルはジュリアの肩をポンとたたいた。
「オ−ガの事を聞きにね。」
ジュリアはびっくりした。
「母さん・・。母さんは、そんなもの夢だと思っているんじゃなかったの!?」
「最初はね。でもアタシだって信じられない事が時に現実になる事ぐらい知ってるよ。」
ミシェ−ルは胸から細かい細工が施された金色のペンダントを取り出してみせた。
ペンダントは暖炉の火に照らされて、燃えるように輝いた。ジュリアはまぶしそうに目を細めた。
「ジュリア、アンタにもアタシとミシマの関係を話すときがきたようだね・・。」
いつになくミシェ−ルは真剣な表情だった。
部屋のなかの暖かな空気のなかに緊張感が漂った。ジュリアはごくっと唾を飲んだ。
「アタシの本当の父さんが中国人だって事は知ってるね。
父さんは実はミシマの部下だったのさ。あの財宝を狙って・・
今となっちゃあウランを狙ってたんだろうけど・・部族に送り込まれてきたんだ。
でも母さんに出会ってアタシが生まれて・・父さんは逆にアタシ達と部族を守るために戦って、
そしてミシマに殺された。財宝の手がかりであるこのペンダントを残してね。」
「・・!! そんな!」
言い表わしがたい屈辱感がジュリアを襲った。
奴等は遺跡を荒らしただけではなかったのか・・!
「アタシは父さんの仇を取るために第一回目の大会に出場した。結局、仇はとれなかったけどね。
だけど話はこれで終わらなかった。その後ミシマの・・ヘイハチ・ミシマの息子が
また財宝を狙ってペンダントと引き換えに母さんを誘拐した。
アタシは母さんを追って第二回目の大会に出た。」
「ひどい・・なんて奴等だ!」
ジュリアは声を荒げた。
「母さん、どうして今までそんな大事なこと話してくれなかったの? 四年前に知っていれば・・。」
「むやみに教えたらアンタが何をやらかすかわかったもんじゃなかったからね。
それにね、アンタに人を憎むって気持ちを伝えたくなかったんだよ。
今度のことがなきゃ、一生黙ってるつもりだった。」
「・・・。」
「二回目の大会の最後がどうなったのか知ってるかい?
決勝まで勝ち進んだヘイハチ・ミシマは、財閥の覇権を取り戻すために自分の息子を・・
カズヤを殺したんだ。そりゃもちろん、カズヤは死んでも仕方がないような大悪党だったよ。
でも父親に殺されたと聞いたとき、アタシはなぜか心が痛んだんだ。」
ジュリアは母の目にフッと悲しみのようなものが宿ったことに気がついた。
「大会に出場していた人にジュン・カザマって人がいてね、その人がアタシに教えてくれたよ。
人を憎むことほどつらいことはない、憎しみは他人を傷つけ自分も傷つけると・・。
おかしな人だったなあ。カズヤを助けるとかいって・・。
でもね、カズヤを見てヘイハチを見てそしてジュンを見て、アタシは仇打ちをやめたんだ。」
ミシェ−ルはため息をついた。長い時間を一気に吐き出したような、深く、静かなため息だった。
「さてそれでオ−ガだ。集落の人達は皆このペンダントとオ−ガに何らかの関わりがあると噂している。
このペンダントは父さんの形見だけど、どういうものなのかはアタシも知らないし、
アタシの昔馴染みの格闘家達がつぎつぎ行方不明になっていることも確かだしね。
もう仇打ちするつもりはないけど、ミシマのジジイに事情を聞くだけ聞いてくるよ。」
「母さん、アタシも行く。」
床にライフルを叩きつけて、ジュリアは立ち上がった。
「だめだよ。アンタまで家をあけたら、だれが牛の面倒みるの?」
「けど母さん、事情を聞きに行くったって:まさか大会に出場する気?!」
「それしか方法はないでしょ。決勝まで勝ち進めば必ずミシマはでてくるから。」
ミシェ−ルが言いだしたらてこでも聞かないことは、ジュリアもよく知っていた。
「勝つ自信あるの? 母さん・・。」
「大丈夫、アタシは負けないよ。何があってもね。ま、いざとなったらミシマのジジイの家に
乗り込んで、ジジイをしめあげてやるよ。」
ミシェ−ルはペンダントを見つめながら、力強く笑って答えた。
どこからともなく雷の唸る声がした。しばらく間があって、
だだっ広い荒野に火花を散らせた金切り声が響いた。春を告げる春雷ではない。
冬はまだ、荒野にとどまっていた。
それから二週間がたった。ミシェ−ルは日本に向かい、着いたという国際電話が一本あった。
しかしそれからまったく連絡がない。ミシェ−ルの事は信じていたが、さすがにジュリアは心配になってきた。
「もしアタシに万が一のことがあれば・・。」
ミシェ−ルも出掛ける時に気になる言葉を残していた。
「もしジュリアが日本にくるような事があれば・・その時は、日本にいるジュン・カザマを訪ねなさい。
きっと息子のジンと・・カズヤとジュンの間に出来た息子と一緒に力になってくれるはずよ。」
大丈夫、母さんは強い。万が一のことなんてあるわけない。
ジュリアは自分に言い聞かせた。
夜。牛の餌やりが終わった後、いつものようにジュリアは火のそばで春の狩りの準備をしていた。
だが今年はいつもの年よりも冬が長い。今日も昼から雪がちらついていた。
外が吹雪いてきた。寒さを作る精霊たちが最後の踊りを踊っているのだろう。
春が来る前はよく大吹雪になる。
この雪が溶けて渡り鳥たちが北の空へ飛んでいくと、すばらしい春が待っている。
春になれば冬の間隠れていた動物たちがのそのそとはいでてきて子供を生み、
ジュリア達は獲物を狩るのだ。そして自分たちのために命を捧げてくれた獲物の死をうやうやしくあわれみ
感謝の捧げものをした。すべては部族がはるか昔から行なってきたことだった。
しかしジュリアは、この吹雪が春の前触れではないような気がした。風で窓が軋んでいる。
幼い頃は、あの影が窓を突き破って入ってくるのではないのかと気が気ではなかった。
火のまわり以外の空気がやけに凍てついている。まきの燃える匂いも、
暖炉であぶっている干し肉の焼ける匂いも、寒さのなかに消えていくようだった。
ジュリアは突然、ハッとしてドアの方をふりむいた。火を背にした形になって、自分の影が自分の前でにゅっとのびた。
ジュリアは自分の影を見つめた。自分の影に、なにもないところから赤い目が浮かび上がるのが見えた。
ジュリアはぞっと身震いした。
影はにやっとジュリアに笑いかけた。
「来い。」
ジュリアは悲鳴をあげた。赤い目は悲鳴とともに消えていった。
ジュリアは赤い目を追ってドアを蹴破るように外へ出た。
天から地から、風にのって雪がジュリアに叩きつけてきた。
まともに目をあけていられない。耳は寒さでひきちぎれそうだ。
吹雪はジュリアの行く手を阻むかのように、そしてジュリアを挑発しているようにも思えた。
「来い。」
風が影の声を運んできた。
「クウゥゥゥ・・!」
ジュリアは風に、なにもない宙に拳を固め拳打を放った。そして吹雪の先を、じっと見据えた。
翌朝。昨日の吹雪はうそのように止み、少しずつ力を取り戻しつつある太陽が明るく顔を出した。
ジュリアはわずかばかりの荷物を馬の背に乗せた。馬はブルル、と鼻をならした。
日本へ行く。
ジュリアの決意は固かった。影が・・オ−ガが呼んでいるのだ。
オ−ガ。伝説の邪神。
強者の魂を求めて闇をさまよい歩く化物と伝説は伝えている。
十三年前、喰い損ねたジュリアに「影」という形でとり憑き、四年前の遺跡の発掘の時何かのはずみで
外に解き放たれた。
「影」の実体が甦ったのだ。
そして強者の魂をむさぼり始めた。
ジュリアは今まで、オ−ガがいつ自分を喰べにくるのか、ずっと不安だった。
だがいつも隣には母がいたから、安心していられた。母さんは誰にも負けない。
そう信じていた。
しかし影が来いというからには、母のまわりに大きな災厄が起こりつつあるのだろう。
行かなければならない。狡猾な影、そして人間・・三島平八から母さんを守らなければならない。
ジュリアは、ミシェールが日本へ向かった日の朝を、静かに思い出した。
「ジュリア、もう一度言うけどアンタは来ちゃダメだよ。
アンタはアタシと同じくらいがんこな子だから、心配でさ・・。」
ミシェールは微笑むとジュリアをぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ、ジュリア。できるだけ早く帰ってくるから。」
ミシェールはジュリアにいいきかせるように言った。
「ジュリア・・でも、何かあったら・・。もしアタシに万が一のことがあれば・・。
でも、アタシがどうにかなっても、アンタのそばに、
大きな力を授けてくれるものがついているから大丈夫だね。アタシにはわかるよ。
私達の先祖が霊力と呼んでいた、目に見えない偉大な力を与えてくれるものが、
アンタのそばにいることがね。」
ジュリアは少し驚いたようにミシェールの顔を見た。
何かを言いかけたが言葉にならず、もう一度、母を強く抱きしめたのだった。
それが母を見た最後だった。
「・・行ってきます。」
ジュリアは人のいなくなった自分の家に向かって、別れの挨拶をした。
ジュリアを乗せた馬が、長い道程を歩きだした。
雪は今日の気温が高いせいか、がぼがぼと水を含んでいる音がした。
この雪なら瞬く間に解けるだろう。
日本へ。
母のように招待状があるわけではなく、金もない。だが正規のル−トではなくとも、
行く方法はいくらでもある。問題は日本へ着いてからだ。
オ−ガ。平八。そして大会。
ジュリアの心のなかで、最良と最悪の未来の予想図が、まるで映画のフィルムのように映し出された。
「母さん・・。」
ジュリアはつぶやいた。その横を、なまあたたかい風が通り抜けていった。
雪を溶かす新しい春の風だった。
ジュリア18才の春。災厄との戦いが始まった。
次へ
|