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遠く。
遠くに、届いてくる線路を鳴らす電車の響き。
灰色に鈍るオレンジの空、ゆったりと浸してゆく夜の闇。その蒼さ。
煙ぶるビルの谷間に沈んでゆく夕日を、その昏さをぼんやりと見詰めて思う。
‥‥夜が、くる。
一日の終わり、繰り返す日常の終焉に。
当たり前のように。
なんの、ためらいもなく。
「‥‥‥――」
ほつり、と点る気の早い街路灯に、緩くため息をこぼして。
彼は、ゆっくりと目を閉ざした。
強張る肩の力を抜いて、もう一度深く呼吸をしてみる。
ひとつ、ふたつ。
そうして初めて、いつの間にか籠っていた指の力に気付いて。
彼は、再びちいさく吐息をついた。苦く、僅かに嘲笑いを含んで。
「‥‥慣れないもんだなあ‥‥」
誰もいない、ひとりの部屋の中。
白くなった指先を見下ろしながら、無理矢理に言葉を紡いでみる。
誰も聞くものはいない、だけど自分を支えておくために。
‥‥繰り返してゆく、昔通りの日常。
働いているあいだ。皆と話しているあいだ。体を動かしているあいだは、忘れていられるけれど。
‥‥だけど。
ふいに、訪れるこんな瞬間に。
沸き上がってくる、衝動。
夜の闇に落ち込むような。
衝動。
引き裂くような痛みを、胸の裏側に残すほどの。
絶望。恐怖。
――狂気。
「――!!」
きつく、唇に歯を立てて。
彼は立ち上がる。椅子を跳ね倒すほどの勢いで。
ペンダントライトのスイッチを引き、忍び寄っていた闇を部屋の中から追い払う。
途端に闇に沈む窓硝子、地平線のビル街を暗く橙に隈どる夕日。
思わず手を当てた自分の顔は、今、どんな表情をしているのだろう?
「‥‥‥マジ、なれねえなあ‥‥‥」
全く。
そう、苦い笑いを浮かべて彼は小さく吐息をこぼす。
震える指先を無理に押さえて、頬から手を引き剥がして。
振り返る窓硝子の脇、彼は畳まれたカーテンを手にする。窓の向こう、ひたひたとよせる夜の闇を隠すために。
だけど。
「‥‥‥‥」
浮かぶ、無数のビルの群れ。
幾つもの明かり。その狭間に、沈む闇。暗く、深く。
引き寄せられるように、彼はクーラーの冷気に冷やされた窓硝子に額を当てた。
その、ひやりとした滑らかさに。
ゆっくりと、目を伏せて。
かんかんかん、と古びた鉄製の階段を鳴らすブーツ。
その、小気味良いリズムがドアの前で止まる。がちゃがちゃ、と幾つもの金属の触れあう響き、そして続く錠の回る重い音。
「ただいま、にいさん」
良いにおい。おなか、空いちゃった。
玄関の戸が開く音に重なって、耳に馴れた妹の声がする。
履き古したブーツを無造作に脱ぎながら、自分を探す妹の視線が。
自分を見付けて、不意に笑みを刻んだ。その、瞬間に。
彼も微笑む。無理矢理にでなく、ごく自然に‥‥当たり前に。
そう出来るようになるまでに、いったいどのくらいの時間がかかったろう?
「おかえり。随分早かったな」
「そうかな。‥‥普通じゃない?」
まっすぐ帰ってきてるもの。
そう、帽子を脱いで椅子の背にかけながら、妹はちょん、と首を傾けた。
幼い頃から変わらないその仕種に、彼は少しだけほっとする。理由は判らないまま。
「ま、料理は冷めないで済むけどな‥‥食うだろう?」
「もちろん!おなか空いたもの」
リュックを降ろすそのままに、すぐに自分を手伝って食事の準備を始める妹のヘイゼルの瞳。
浮かんだ、自然な笑みを。それとなく目で確かめて、彼はコンロの火を止める。
当たり前の光景。
昔通りの日常。
ふたりきりで暮らしているから、お互いに早く帰れた者が夕飯の用意をする。
作ってもらったら、片付けは自分の番。
洗濯、掃除は交代。生活費も、半分づつ。
ふたりきりだから、なるべく一緒の時間は大切にしてきた。お互いの時間も、尊重しながら。
平和だった日常。取り戻したかった生活。
「‥‥どうしたの?にいさん」
席についた妹が、同じように腰を降ろした自分の顔を覗き込んできて。
訊ねてくるのに、彼はちょいと笑みを刻んでみる。
「いや?とっとと食おう」
冷めるぞ。
そう、自らも箸を取りながら彼は言葉を作る。この時間を、ふいにしないために。
そうだねと、言葉を返す妹も、本当は判っているのだろうけれど。
「ねえ、にいさん」
「‥‥なんだ?」
「今日さあ、帰り道でね」
煮物の山を崩しながら、今日あったことを話題にする妹。
学校での友人との会話。捨てられた仔猫がいたこと、それを連れていった子どもの話。
ちょっと夕風が涼しくなったこと、陽の落ちるのが早くなって、なんだか時間を損してるみたい、そんな他愛ない会話のひとつひとつが。
自分にとって、どれだけ大切なものか。昔以上に、今は判っている。
だから。
「‥‥聞いてる?にいさん」
「なんだ、突然」
「だって、ずっと笑ってるんだもの。そんなにおかしいのかなって考えるじゃないか」
「いや、わるいわるい。単に楽しいだけなんだがなあ」
「‥‥にいさん、ヘン」
「‥‥そうか?」
ちりちりと、首筋に残る感触を無理に意識の外に追い出して、彼は笑いを刻む。
一瞬、言葉の淀む妹、緩く噛み締めた色の薄い唇。
ほんの僅かに引き寄せられた眉根を、すぐにほどいて妹は箸を延ばして。
年頃の女性らしくなく、旺盛な食欲を自分に見せる。自分への笑顔の代わりに。
「しかし、良く食うなあ。‥‥太るぞ」
「身体使ってるもん!ひどいよ、にいさんてば」
箸を握りしめ、真剣そのものの顔で怒る妹に。
彼は声を上げて笑う。ごく、自然に。
上目遣いで自分を睨み付ける妹の、幾つになっても変わらないその仕種。
悪かった、と言う自分に、やや頬を膨らませながらも食事を続けるあたりはさすがと言うか。
――この、妹がいてくれたから。
自分はこうしていられる。もし、今。
側に誰もいてくれなかったら、自分はどうなっていただろう?
「‥‥そういや、お前」
「‥‥なんだよ」
「怒るなよ。――いや、お前彼氏とかいるのか?」
やたら帰ってくるの早いし。
唐突な自分の言葉に、一瞬さすがの彼女も話が掴めなかったらしい。
きょん、と目を開く妹の、止まった箸がなんだかひどく笑えて。
「‥‥なんのハナシよ?」
「いやあ‥‥いい年頃の娘が、寄り道もしないでまっすぐ家に帰ってくるだろう?そろそろ、色気のあるハナシのひとつもあっていいもんじゃないかとだなあ‥‥」
「――‥‥に・い・さ・ん」
なんでそんなハナシになるのよ、と言いたげな妹の目。
怒るよ?と、取り敢えずは宣言してくれるのは、まだちょっとは彼女に余裕のある証拠だけど。
「――ごめんなさい」
「――よし」
暫くの沈黙の後、素直に頭を下げた自分に。
妹はうなずく。産まれた順はあるけれど、やはり自分はこの妹に頭が上がらないな、と彼はしみじみ考えてみたりして。
ゆったりと続けられる、健啖家の妹との夕餉。
音量のやや下げられたTV、暖かな色合いの電灯の明かり。
時折、遠くに届いてくる自動車の排気音、誰かの足音。
「――ねえ、にいさん?」
「なんだ?」
ごちそうさま、と。
箸を置く、その一瞬ののちに。
妹はゆっくりと視線を上げた。揺れる前髪のその奥に見える、深く落ち着いたヘイゼルの色合い。
「‥‥あんまり、さ。いろいろと無茶、しないで――ね」
お願いだからさ。
そう、小さく口にした妹に。
――彼は、言葉を返し損ねて。
ただ、笑みを浮かべた。
ゆるく。‥‥僅かに。
知っていた。
自分の内にある衝動。
狂気。破壊への渇望。
真紅にペイントされた肌は、別にダレかにそうされた訳じゃない。
ただ。
――ただ。
妹の暮らし、仲間たちとの会話。
道場に通い、身体を鍛えること、動かすことの喜びにも。
偽りはない。それも真実。
平和であることへの祈り、いつまでもこの毎日が続いてくれることが、自分にとって最上の幸せ。
だけど。
だけど。
時間が来て、睡眠を取るために自室に戻る。
ついてこようとした妹を、やんわりと言葉で追い返して。
おやすみと、戸を閉めた自分を、妹はどう感じたろう。
一瞬、寂しげな――不安げな綾を宿した妹の瞳が。
胸の裏側にほつり、と引っ掛かっているのを感じて。
彼は、ゆっくりと目を閉ざした。ぎりぎりまで内装を減らした、ある意味殺風景な部屋の中、パイプ製のベッドの上に腰を降ろして。
‥‥解っていた。妹の不安の、その正体は――だけど。
思い出してしまう、ざらりとした記憶に彼はきり、と歯を噛み締める。
トンファーに感じた、肉を打つ重い感触。
睨み付けてくる視線の心地よさ。
一瞬の攻防の果て、自分の技が相手を地面に這いつくばらせたことに、背筋が震える。
果てのない、意味のナイ怒り――砕けてゆくことへの憧れ。
あの頃を思い出すたび、指先が震え出すのを止められない。
ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開く、その向こうに覗く闇の深遠。
街灯の明かり、窓から零れる光も、自分の目には入らない。むしろ。
その狭間にある闇を。
より、いっそう引き立てるだけで。
「――‥‥‥」
零す、声にならない小さな吐息を。
飲み込むように、彼は額を寄せる。外の熱気を孕んで、温く滑らかな硝子の窓へ。
訪れてくる夜の闇に、呼ばれるように。
fin.
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