【第一話】『動き出す刻達(じかん)』

 瞼を開けようが閉じようが変わらない漆黒の闇の中、うっすらと 浮かび上がる男の姿があった。 男は壁にもたれ掛かり地ベタに直に座っている。
 男は動かないが、腹のあたりで何やら蠢(うごめ)く黒い塊みたいな物が次第に激しく、前後運動を繰り返していた。
 黒い塊には、獣の顎(あぎと)があり鋭い牙は男の腸(はらわた)を引きずり出し貪り食らっていた。
 黒い塊の容姿は、目、鼻、耳らしき物は一切無く、大型肉食獣なみの顎だけの頭だった。 頭の下の首は蛇の様に長く胴体は見えないが、その方向に色白の少年が立っていた。

 少年の歳の頃は17、18で顔立ちは整っており、まるで若い女性と見間違えるぐらいの美少年であった。
 その浮き出るかの様な妖艶な白い肌の顔の瞳は、何処か虚ろで焦点が合っていなかった。

 徐々に瞳に獣の姿が映ってきた。 少年はフッと我に返り、座っている男の事を頭の中で認識し始め、獣の存在を認めたが反応は無かった。
 獣の顎は、男の腸を貪るのを止め少年の方に血が滴る、その顎をゆっくりと向け牙を剥き出しにし、奇怪な唸り声をあげた。


 少年の恐怖心が氷が溶ける様に蘇り、漆黒の暗闇に少年の悲鳴が轟いていった。



 その出来事から一夜明けた午前、東京都のH市の駅に近い繁華街に昨夜の少年は歩いていた。 いや、正確には生気を失ったかの様にさまよっていた。

 少年の肩を後ろから二回ほど軽く叩く手があった。
「チョット、いいかな?」手の主が少年に声を掛ける。
 少年は気怠そうに振り向くとそこには二人組の警官がいた。 声を掛けた警官の相方の警官は、少年の顔を頻(しき)りにチラチラ見ながら無線で連絡を取っている。 明らかに警官は、少年を知っている様子だった。

「高校生かな? こんな時間に学校は、どうしたの?」優しそうに話掛けているが、目は少年を威嚇していた。 少年は怯む気配も無く無言で警官を見ていた。 あまりの無反応に腹を立てた警官が、強い口調で「名前は? 住所は?」と問い質した。

 少年は、まだ虚ろな目をして「名前・・・マサキ・・・」
 やっとの思いで喋っている様子だった。
「まさき? 名字か?名前か?」先程とは違う荒々しい口調で警官は質問を続ける。
 マサキは、「わからない・・」暫(しばら)く考え
「思い出せない・・」やっと正気な目に戻り、頭を手で押さえ しゃがみ込んだ。
 マサキは、過去の記憶がなかった。 しかし、昨夜の出来事は覚えていた。 その場面を徐々に思い出していった。 警官は、マサキを囲むように前後の位置に移動し
「おい! 大丈夫か!」手を差し伸べ声を掛けた。

 突然、脳裏に獣のアギトが ハッキリと蘇ったマサキは
「うわぁぁぁぁぁぁ!」と奇声をあげ、差し伸ばされた手を払い除けて、警官を突き飛ばし走り出した。 もう一人の警官が慌ててマサキの後を追う。 倒された警官が
「保護要請があった、長南 眞樹(おさなん まさき)を取り逃がしました。」と沈痛な面持ちで無線をしていた。


 その後ろでは、電気屋のテレビが昨夜の男の事を報道していた。


「・・・・万城目研究所の職員、木林 邦夫さん(38)が・・・・・野犬に襲われ死亡しました。・・付近の警戒・・・・」

アナウンサーの無表情な顔が画面に写っていた。



 マサキは、ビルの谷間の細い裏路地に逃げ込んでいた。 まだ息は整ってなく肩で息をしていたが、自分の過去を思い出そうと試みていた。 昨夜の事と自分がマサキである事以外は、今一つハッキリしない。
 記憶の全体に霞が掛かり、ぼやけていて思い出そうとすると頭が痛くなる。


「おーい、いたぞ」先程の警官らしい声がした。 マサキは慌てて声のした逆方向に走り出した。
 いま走っている道よりも更に細い路地が右にあったが、曲がりにくそうなので真っ直ぐ進んだ。

 その時、先程の細い路地の暗闇から突然長い腕が伸びてきてマサキの襟首を鷲掴みにして、暗闇の方へ凄い力で引き込み、マサキを背後から抱きかかえた。
 マサキは、訳が判らず叫ぼうとしたが口を手で覆われた
「黙ってな!ワリイようにはしねえよ。」暗闇の中に潜む男は、ブッキラボウに言い放った。
 マサキは体を強ばらせていたが、男の声を聞いたら何故か安堵を感じ全身の力を抜いた。

 暫くするとマサキが行こうとした方向から警官が走って来て通り過ぎた。
 男は、マサキの口から手を放して
「抜け道が無い小路で片方から声を掛けて、追い込みを掛けるか、警察のよく使う手だな。 逆方向からも来たって事は大人数って訳だな。」マサキの背後から渋めの低い声だが、明らかに警察に詳しい口ぶりのセリフが聞こえた。

 声の主は、マサキを抱き抱えた男からだった。 男はマサキの体を放してやった。 マサキは振り返り、男を睨みつけた。
男はマサキよりも長身で差は、10センチぐらいあった。 マサキは175センチで決して低い方では無いが、男は更に高かった。 長身の割には大男特有のゴツゴツした感じでは無くスラッとした痩せ型の体型だが、それとは対象的に発達した上半身をした男だった。
 顔は面長で目が垂れたニヤケ顔だが優しそうな二枚目である。

 マサキは男に文句を言ってやろうと喋ろうとしたが、男はマサキの腕を掴み
「ま、立ち話なんだから、コッチに来いや。 じきに追っ手も来るしな。」マサキは、言葉を飲み込んで男の言う通りにする事にした。

 男とマサキが奥に進もうとした時、ふっとマサキが来た道の方を見たら、先程の警官がいた。 警官はまだ、コチラに気が付いていない。

 警官がマサキ達の方向に振り向いた瞬間、警官の顔目掛けて白い物が凄いスピードで飛んでいき、ぶつかった。 堪らず警官はしゃがみ込んだ。

 男は、すぐ側にあるビルの非常口のドアノブに手を掛け
「何やってる、いくぞ」と言って、扉を開け男とマサキはビルの中に入って、男は内側から扉のカギを掛けた。


 マサキは確かに見た、警官の顔にぶつかったのは巨大な白いトンボみたいな物だったのを。



 先程のビルの4階の廊下を男とマサキは歩いていた。 廊下の片側には、扉が複数ある、どうやら雑居ビルの様だった。

 マサキは前を歩く男の事を考えていた。
男は何故、『自分を助けたのか』『どうして彼処に居たのか』の二つの疑問だった。
 だが、答は出ない。 答が出るとしたら、今 自分が見ている大きな背中の主が語るのを待つしかないと考え、この場で聞こうかと迷っていた。

『この人は自分の味方なのか?』
 この疑問がマサキの口を重くしていた。 だが、自分に記憶が無い以上助けてくれたコノ男に身を委ねるのも悪くないとも、考えていた。

 男が、ある扉の前で止まった。 扉には【柳泉 神武プライベート・ガード事務所】と書かれていた。 マサキが不思議そうに扉を見ていると
「リュウセン シンブって読むんだ。 俺の事務所だよ。 遠慮しないで入りな。」男が扉を開け、マサキを部屋の中に入れた。

 部屋は、こじんまりとした探偵事務所を思わせた。 左奥で、キーボードを打ち込む女性がマサキ達に気が付き、こちらに歩み寄ってきて
「窓を見て突然出て行ったと思ったら、こんなにカワイイお嬢さんを連れ込んてくるなんて先生、やりますわね。」
 窓からからはマサキが職務質問をされていた場所が見える。 どうやら、警官から逃げるマサキを見つけて彼処で待ち伏せしていたらしい。

 女性の言葉に一瞬、マサキは自分の事を言われているのに気が付かずポカンとしていた。 男は、腹を抱えて苦しそうに笑いながら「涼子さん、この子 男だよ。」
 マサキは、やっと気が付き涼子と呼ばれた女性を睨み付けた。 涼子は、そんな事を気にも止めず
「あらあら、怒った顔もキュートですわ。」涼子は満面の笑みをマサキに送った。 男は、更に笑い転げた。


 その様子を見て、マサキは自分のこれからの運命を案じていた。

『大丈夫か? オレ?』



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