俺は最後に振り返った。

 目の前にキッチン。その向かいにユニットバスのドア。その向こうに、六畳程度の部屋。ふすまを挟んで同じぐらいの部屋がもう一つ。ベランダからは向かいの家と青空が覗く。
 自分では、広さに比べて、物の少ない部屋だと思っていたが、ダンボールに詰めてみると意外と色々な物があった。

 どうでもいい物から大切なものまで、全部ひっくるめてトラックに詰め込んだ。後は俺が部屋を出れば、俺がここにいた痕跡は、模様替えのときに家具をぶつけて傷ついた壁紙ぐらいなものだ。

 それすらもすぐに消えてしまうだろうが。

 それでもこの部屋は俺の記憶を抱えていて、いつか俺が部屋の近くを通りがかった時にでも、今の、今までの、この部屋ですごした記憶を俺にだけ分けてくれるんじゃないかと思う。

 空っぽの部屋を見ていて、今更引越しを実感した。
 色々な事があったな。……本当に、色々と……。

 ……。
 記憶を返してもらうにはまだ早すぎる。

 これは、俺に子供でもできて、そいつに昔話を、笑い話として、人生の先輩として、話してやれる時がきたら、返してくれればいい。

「よし。行くか」
 声に出して後ろ髪を断ち切る。

 玄関から出て、閉める前にもう一度部屋を確かめる。

 何も無い部屋。でも、確かに何かの残った部屋。

 それを見て、玄関を閉めた。



 部屋は静かになった。



 空はとても青くて、陽は暑かった。