夢の名残り


此の世の名残り、夜も名残り
死にに行く身を譬ふれば
あだしが原の道の霜
一足づつに消えて行く

「ホウィ」
「コウリャ」
あちらこちらで船頭達の掛け声がかかる。道なりにてっぺんだけ顔を出した、
瓦斯灯に沿っていくつもの船が進んで行く。今夜は満月。
その明るさに引き寄せられるようにいつもより出ている船の数も多いようだ。
「わぁ…」
と歓声をあげた少年は船から身を乗り出して水中を眺める。
れんが造りの道。同じくれんが造りのビルの、かつて華やかであったであろう
ショウウインドウ。そして今なお明かりを灯し続ける瓦斯灯。
いつもより明るい分、夜目とはいえそんなものが薄ぼんやりとした瓦斯灯の光で見て取れた。

水に沈んだ都『東亰』。
車も馬車も人力も無用の長物と化したこの街ではそれでもなお、人々は棲んでいる。
「夜なのにけっこう明るいんだねぇ」
先ほどの少年が傍らに座している書生風の青年に尋ねる。
「そうですね、今夜は満月ですし」
「それにいつもより船も多い気がする」
煕が興奮した様子であたりを見回す。すれちがう船に手を振り天来の愛嬌を振りまく。
お守役の平河はそんな人なつこい煕をみるたびに、彼の兄、輔の怜悧な美貌を思い出す。
あれから1年が過ぎた。
鷹司は輔が継ぎ、お家騒動は以前相続人であった上2人の死亡で幕を閉じた。
直は事故死。常は病死、と。
『なりますか、人形に…』
桜散る闇のなかで響いた声は今でも鮮明に記憶に残っている。
すべての哀しい事件の幕引きの合図だった、一言。
憐憫のこもった、しかし聞きなれた声。
幾度となく、言葉をかわした声。
あの事件の結末は、全くの他人であった平河にも今もなお重くのしかかっているのだ。

「平河さん、みてみて。あすこ、あんなに船が集まってる」
煕が指さした先、水路を少し離れたところに幾艘かの船が留まっていた。
船上人はなにやら見物している様子で、一様に同じ船を見やっている。
「なんだろう、こんな往来で…。船頭さん、すまないがあそこによってみてはくれないか」
「ヘイ」
煕の好奇心に誘われるように、船をよせるとなにやら芝居がかった声が聞こえてくる。
船上の見せ物は東亰でしか見られぬ珍し物であるが宵闇の中とはさらにさらに珍しい。
「…れば、あ…ち…原の道の霜、1足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ」
船が近付くにつれ闇と見えたものの中にぼんやりと白いものが浮かび上がってくる。
源太と娘。そして闇にうごめく人形遣い。
平河は船のヘリを思わず掴む。
「あれ数ふれば暁の、七つの時が六つなりて、残る一つが今生の
鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり」
ドキリとした。1人の人形遣いが2つの人形を動かしている。
その人形の動きたるや、通常の3人でもここまでと思われるほど。
「こは情けなき身の果てぞや。ああ、嘆かじ」
さらにその源太と娘の美しさに目を奪われ、その動かぬ表情になにやら
人形らしからぬ色が見て取れる。
「流涕焦がるる心意気、理せめてあはれなれ」
題目は「曾根崎心中」
場面はすでに徳兵衛とお初の最期に移ったようだ。
「誰が告ぐるとは曾根崎の森の下風音にきこえ、取伝え、
貴賤群集の回向の種、未来成仏疑ひなき、恋の手本となりにけり…」

拍手とともにため息まじりの歓声と総評が飛び交う。平河はそれを聞いて我にかえった。
「それでは皆さま、こよいはこれにて幕切れと…」
見物人の興奮さめやらぬうちに人形遣いが楽しげに言いおくと
平河が声をかける間もなく、その船はスイと闇の中にまぎれていった。
残るは頼りない瓦斯灯の明かり。
曾根崎の名残りただよう中で平河は娘の人形がふいとこちらをこちらを向いた気がした。
そして人形遣いのくつくつと笑う声とを。

(あれは万造君ではない。化け物だ…。常さんを傀儡にするためだけに…)
深い深い闇をただみつめる。
(…常さんは自ら望んでいた。良かったのか…悪かったのか…)

ふと重みを感じると、すでに煕は寝入ってしまっていた。

闇は人のモノではなく、闇の生き物のモノとなってしまった、東亰。
今はただ満月が静かにたたずむ。
主上の間へ