『なにもない猫』

ひげのない猫がいました。
片耳のない猫がいました。
尻尾のない猫がいました。
そして、なにもない猫がいました。
「ひげがないといろいろ大変なんだぞ」
ひげのない猫が言いました。
「ぼくだって音が聞きにくくて苦労してるんだよ」
片耳のない猫も負けずに言いました。
「尻尾がないとバランスがすっごく取りにくいんだ」
尻尾のない猫も自分の大変さをアピールします。
3匹の猫はお互いに愚痴を言い合っていました。
その場にいたなにもない猫はそっとつぶやきました。
「君たちはそれでも猫ってわかるからいいじゃないか。ぼくにはなんにもないんだぞ」
でも、なにもない猫にはなにもなかったので、3匹の猫たちは彼の存在に気付きませんでした。
なにもない猫はほっとため息をつきました。
しかしなにもなかったので、そのため息は生まれる前に消えてしまいました。
「誰かぼくに気付いてくれる人はいないかなあ。ぼくは、ぼくがここにいるって事を誰かに知ってほしい」
なにもない猫はそうつぶやいて、また、ほっとため息をつきました。



さて、いきなりなにもない猫ですと言われてもみなさんはピンとこないと思いますので、ここでなにもない猫について少し説明をしておきましょう。
なにもない猫は文字通りなにもない猫です。
なにもない猫には、ひげも、耳も、尻尾もないうえになにもなかったので、この町になにもない猫がいる事を知っている人間は誰もいませんでした。
それどころか世界中の全ての生き物の中にさえ、なにもない猫の事をひげの先っちょほどでも知っているものは誰もいないのです。
なにもない猫はなにもないので、自分がオスなのかメスなのかわかりません。
子猫なのか年寄り猫なのかもわかりませんし、さらには本当に猫なのかそれとも別のなんだかよくわからないものなのかすら、わかりませんでした。
だから自分がいつからこの世界にいるのか、なんのためにいるのかも、ぜんぜんまったくわかりませんでした。
ただ、長い長い間、なにもない猫は自分を見つけてくれる生き物を探し続けていました(おもに人間がターゲットです。なぜって、人間には好奇心旺盛なのがごろごろいるからです。特に人間の子供となると、もうそんなとこ見てもしょうがないだろって言うような所でも無理矢理もぐりこんでいって引っ繰り返してみたりするのです。人間って面白いですね)
自分の事を知ってもらう、それだけがなにもない猫がこの世界にいる意味(難しい言葉で言うと存在意義というやつです)を知るための唯一の方法だったのです。



今日も一日、町をさんざん歩き回りましたが、なにもない猫に気付いてくれる人はいませんでした。
季節は冬、なにもない猫の嫌いな季節です。
なぜって、みんな外では遊ばず家に閉じこもってしまうからです。
今はもうすぐ来るクリスマスに向けて賑わいを見せていますが、それでも他の季節に比べて出歩く人はあまり多くありません。
そしてクリスマスを過ぎるとますます寒くなって、なんだか静かな感じになってしまうのです。
それに人だけでなく虫もいなくなってしまいますし、他の生き物たちもあまり見かけなくなります。
それに、これが最大の理由ですが、雪が降ります。
なにもない猫は雪が嫌いです。
雪はすべてを真っ白に覆ってしまうので、なにもない猫は自分が本当にそこにいるのかどうかわからなくなってしまうのです。
なにもない猫は真っ暗なところの次に雪が嫌いでした。
ちなみに真っ暗なところが嫌いな理由も雪と同じです。
さて、がっかり気味のなにもない猫はうなだれて自分の住処に帰ってきました。
なにもない猫はもちろん飼い猫ではありません。
なにもない猫が勝手に住みついているだけです。
なにもない猫が住みついている家には、30代ごろの女の人(この家の主人です。なにもない猫は勝手に住んでいはしますが、ちゃんと主人に敬意をはらっています)と小学生の男の子(これが例の好奇心ではちきれそうな奴です)が住んでいますが、主人の方はものすごい働き者で朝一番に家を出て、帰ってくるのはいつも夜中なのでほとんど家にいません。
それはもう、男の子が可哀想なくらいです。
なにもない猫はその男の子のことが好きだったので、何とかしてあげたいなあと常々考えていました。
もっとも、なにもないので考えるだけでしたが。
まあ、それは置いといて、男の子の方はと言いますと、朝、小学校(例の好奇心を少しでも少なくして立派な人間にしてくれるところです。でも、ほんとにそれが立派なのかどうかはなにもない猫にはよくわかりません)に向かって飛び出して行き、三時のおやつを食べに家に帰ってきて、またすぐに飛び出ていきます。
何しに行くかって、もちろん例の好奇心です。
がんばって減らしているみたいですが、何もない猫が冷静に判断した結果、増えていく量の方が多いという結論にたっしました。
そのうち破裂するのではとなにもない猫は心配しています。
そんな訳で、その家に二人がいる時間はわずかなものでした。
だからなにもない猫にとっては非常に住み心地のいい家でした。
なぜって人がたくさんいる家だと、家の人達はなにもない猫に気付かないので、踏んづけられたり、時には上から布団を敷かれてしまうといった事もあるのです。
なにもない猫はなにもないので平気ですが、やっぱり気持ちのいいものではありません。
それにこれが一番大きなところなんですが、大勢の中にいるととても寂しいのです。
だって、回りが楽しそうにしているのに自分だけ蚊帳の外なんですよ。
少しだけ想像してみてください。
ねっ、さみしいでしょ。
でも、独りでいるのはもっと寂しい事なので今の家は丁度いい感じでした。
前になにもない猫が住んでいた家は4人家族でそれはそれは騒がしい・・・もとい、賑やかな家でした。
まあ、確かに楽しくはあったのですが、ふと感じる寂しさがなにもない猫にはひどく辛いものでした。
こっちの家に移ってきてからは、そんな思いをする事はありませんでしたし、それにとってもいい事があるのです。
この家の男の子はとってもねぼすけなので、毎朝、近所の女の子が起こしに来てくれるのですが、彼女にはなにもない猫のことが少しだけわかるみたいなんです。
毎朝、廊下で待っているなにもない猫の方を見て首をかしげてくれるのです。
今のところその女の子だけが、なにもない猫にとってのたった一つの希望でした。



自分の部屋に帰ってきたなにもない猫は、カーテンの隙間からお月さまに話しかけます。
「今日も一日、いろいろがんばったけどやっぱり誰も気付いてくれませんでした。
ねえ、お月さま。ぼくは何のために生まれてきたのかなあ。誰もぼくを知らないんだよ。
このまま誰の記憶にも残らないで死んじゃうんだとしたら、ぼくは生まれてこなかったのと
おんなじじゃないかな?。お月さま、お願いします。尻尾の先っぽだけでも前足の爪の一つ
だけでもいいんです。ぼくがここにいたっていう証しを下さい。お願いです、お月さま。
・・・ぼく、寂しいんです」
なにもない猫はお月さまの見える夜は、毎晩このようにお月さまに向かってお祈りをするのです。
「はあー」
そして深いため息を一つ。
「あの子、明日こそはぼくに気付いてくれるといいな」
そうつぶやいてなにもない猫は、その家の男の子の布団にもぐりこみました。
なにもない猫はいつもそうして寝るのです。
一人で寝るといつのまにか消えてしまいそうで、それが怖くてなにもない猫は今日も布団にもぐりこみます。
「あれっ?」
その時、なにもない猫はなんともいえない奇妙な違和感を感じました。
なぜか、その布団の中に誰もいないような気がしたのです。
その布団の中では男の子がぐっすりと眠っています。
でも、ほんの一瞬でしたが確かにそこには誰もいなかったのです。
なにもない猫は不思議な感覚にとらわれたまま眠りにつきました。



ちゅんちゅん、ちゅんちゅん。
朝です。鳥の鳴き声とともになにもない猫は目を覚ましました。
隣りではその家の男の子が幸せそうに眠っています。
「うーん。あと3ミリバール寝かせてくれぇ」
なにか寝言を言ってますが、いつもの事なのでなにもない猫は気にしません。
そんな事よりも、もうすぐ女の子が来るのです。
なにもない猫はなんとか存在感をだそうとがんばります。
なにもない猫は毎朝、女の子が来るまでいろいろと作戦を練っているのです。
難しい言葉で言うと創意工夫ってやつです。
ピンポーン。
なにもない猫はぴくりと耳を動かしました。
女の子が来たのです。
もちろんなにもない猫には耳もありませんが、それはそれ。気持ちの問題というやつです。
ピンポーン。
もう一度ピンポンが鳴りました。
いよいよ女の子が来ます。
「おじゃましまーす」
ガチャッ
バタン
女の子が玄関から入ってきました。
トントントントン
気持ちのいいリズムに乗って階段をのぼってきます。
なにもない猫は男の子の部屋の前で気をはりつめました。
「こうへー、朝だよー」
ついに女の子が階段をのぼりおえました。
ピキーン
なにもない猫は全身に込めた力を女の子に向かって放ちました。
「あれ?」
やったーっ。
やりました。
今までは首をかしげるだけだったのに、ついに声を出させる事に成功したのです。
もしかしたら!。
なにもない猫はさらに力を込めました。
でも残念ながら、女の子は首をかしげただけでした。
何事もなかったかのように男の子の部屋に入っていきます。
ガチャッ
カシャァー
「こうへ―っ、おはよーっ」
なにもない猫はがっかりしましたが、それでも今朝は声を出させる事に成功したのです。
毎朝続ければいつかはなにもない猫の存在に気付いてくれる事でしょう。
今晩、お月さまにお礼を言おうとなにもない猫は思いました。



その夜のことです。
なにもない猫はお月さまにお礼を言い終え、眠りにつこうとしました。
今日はため息をつく必要もありません。
男の子の布団にもぐりこもうとしてなにもない猫はふと、昨日の夜の事を思い出しました。
なにもない猫は布団にもぐりこむのを止め、男の子の顔をよーく眺めました。
ちょうどお月さまが雲に隠れて、あたりがすーっと暗くなった時でした。
ふっと、その男の子が消えたのです。
なにもない猫は仰天しました。
しかし、布団はふくらみが残ったままですし、確かに男の子の呼吸に合わせて上下しています。
さわって確かめようとしましたが、なにもない猫にはなにもなかったのでさわる事もできませんでした。
しばらくの間、男の子は消えたままでした。
やがて雲が去り、お月さまの光がカーテンの隙間からすっと差し込んで来ました。
それに併せるようにその男の子は元に戻り、何事もなかったかのように幸せそうに眠っていました。
「もしかしたらぼくの所為じゃないだろうか」
なにもない猫は不安になりました。
「いつもぼくが一緒に寝てたから、この男の子にもなにもないのが移っちゃったんじゃないかなあ」
どう考えてもそれ以外の理由は見つかりませんでした。
でも、この家を出ていったらもう女の子に会う事ができません。
だって、女の子は大の猫好きで家には4匹も猫がいるのです。
しかも、まだまだ増えそうな気配が濃厚なのです。
そんな中では女の子がなにもない猫に気付いてくれるはずありません。
この家からはまだ出ていかないけど、もう一緒に寝るのは止めようとなにもない猫は誓いました。



その夜、なにもない猫は廊下の片隅で寂しく眠りにつきました。
そして、夢を見ました。
夢の中でなにもない猫は、あの女の子と一緒にお月さまを見ていました。
それはとっても大きなまんまるのお月さまでした。
「お月さま、とってもきれいだね」
そう言って女の子は、なにもない猫の背中を優しく抱いてくれました。
女の子の身体は温かくて優しくて、なんだか懐かしい匂いがしました。
それは夢・・・
優しい女の子の温もりも、懐かしい匂いもすべて夢でした。
夢の中でだけは、なにもない猫も普通の猫だったのです。



次の日、あの女の子は男の子を起こしに来ませんでした。
その次の日も女の子は来ませんでした。
その家の男の子もずっとつらそうな顔をしています。
「ぼくの所為だ。ぼくがあの男の子になにもないのを移したからあの子は来なくなっちゃったんだ」
なにもない猫はとても悲しい気持ちになりました。
「ぼくは何かを残すどころか、逆に大切なものを壊しちゃったんだ。
こんな事ならぼくなんか最初からいない方がよかった。
お月さま、ぼくはどうして生まれてきちゃったんですか」
なにもない猫は泣きました。
いない方がよかったんだ。
なにもない猫がこの世界にいる意味はがらがらと崩れ落ちていきました。
だってあの男の子がやっと手に入れた大切な宝物をなにもない猫が壊してしまったのです。
自分の宝物をずっとずっと探していて、その大切さを誰よりも、痛い程よく知っているはずの自分が、他の人の宝物を壊してしまったのです。
なにもない猫は泣いて泣いて、泣いて、泣いて、泣きました。
しかし、なにもなかったので涙がこぼれる事はありませんでした。
なにもない猫はもう男の子に絶対に近付かないようにしようと決心しました。
本当は男の子のそばにいてなぐさめてあげたかったのですが、なにもなかったのでそれもできなかったのです。
でも、心配で、本当に心配だから遠くから見守ろうと、なにもできないけど、ただ見守ろうとなにもない猫は思いました。
なんべんもなんべんも謝りながら、なにもない猫は男の子の家を出ていきました。



それからなにもない猫はずっと男の子を見守っていました。
しかし、なにもない猫が離れても男の子のなにもないのは日に日に重くなっていきました。



最初の日

男の子が学校であの女の子に文句を言っています。
女の子はなんで忘れてたのかな?、と首をかしげました。



二日目

女の子はまた首をかしげました。
学校の教室ではあの女の子以外、男の子に話しかけるクラスメイトがいなくなりました。



三日目

先生が男の子を問い詰めています。
男の子は学校を飛び出して、公園の片隅で泣きました。
女の子が後を追いかけてきて男の子をなぐさめていました。



四日目

男の子は家に閉じこもったままです。
女の子が何回もピンポンを鳴らしていました。



五日目

女の子は来ませんでした。



六日目

男の子は家から出てきませんでした。



七日目、クリスマスイブです。

夜、男の子がつまずきながら家から出てきました。
男の子が外に出るとドアがビシッと閉まりました。
男の子は何度もドアを叩いて叩いて叩き続けました。
しばらくして、なにかを怒鳴りつける声が、なにもない猫のところまで聞こえてきました。
ドアを叩いていた男の子の身体がビクッとなって固まりました。
男の子は駆け出しました。
そして、家からだいぶ離れた所で男の子は立ち止まりました。
電信柱の明かりが男の子を照らしています。
男の子はその明かりをじっと見上げていました。
そして、少し泣きました。
気が付くとなにもない猫は男の子に向かって走っていました。
だって、その男の子はなにもない猫だったんです。
もう男の子にはなにもないのです。
なにもない猫が以前住んでいた家には、どこにでもいる仲のいい家族がいました。
お父さんとお母さんと妹と男の子がそこにはいました。
だけど、男の子が大好きだった頼りになるお父さんがいなくなって、
怖いけど本当はとても優しいお母さんがいなくなって、
泣き虫だけど、でもほんとはお父さんみたいに強く、お母さんみたいに優しい心を持った、
男の子の一番大事な妹がいなくなって・・・
それをなにもない猫は見ていました。
別の町に引っ越して、最初は泣いてばかりいたけど、それを乗り越えて明るく振る舞う男の子を見ていました。
毎日、友達と駆けずり回りくたくたになるまで遊んで、帰り道で沈む夕日を少し寂しそうに見る男の子を見ていました。
女の子をいじめる男の子を、そして、女の子をなぐさめる男の子の優しい目を見ていました。
それが、男の子が妹に向けていた優しい眼差しである事をなにもない猫は知っています。
満面の笑みの中にある悲しい陰りを見ていました。
それが、なぜなのかなにもない猫には痛いほどわかっていました。
そして、すべてを失っていく男の子を見ていました。
今の男の子は、なにもなくって、誰も知っているものがいなくって、なにもない猫とおんなじだったのです。
男の子がだんだん薄れていくのがなにもない猫には感じとれました。
もう長くないことがなにもない猫にはわかったのです。
だから最後だけは、わがままと言われてもいい。
自分勝手だと言われてもいい。
思いあがりでも、偽善でも、エゴでもなんでもいいから、男の子の傍らにいてあげたいと思ったのです。
だって、なにもない猫はその男の子が大好きだったのです。
だから、最後の一瞬まで自分の事がわからなくてもいいから、一緒にいたかったのです。



なにもない猫は男の子の足にすりよりました。



男の子はなにもない猫に気付きません。



なにもない猫は男の子に向かって鳴きました。



男の子はなにもない猫に気付きません。



なにもない猫は全身に力を込めて、男の子に放ちました。



男の子はなにもない猫に気付きません。



やがて、男の子は商店街の方に歩き出しました。
きっと、少しでも賑やかなところに行きたいと思ったのでしょう。
だって、今日はクリスマスイブなんです。
みんなが聖なる夜を祝って、商店街もイルミネーションが輝いています。
男の子はほんの少しでいいからその雰囲気に触れたいと思ったのでしょう。
なにもない猫は寄り添うように男の子について行きました。



クリスマスイブ、なにもない猫はその日をなんだかよくわからないけど特別な日だと思っています。
特別な日には特別な事が起きてもいいのではないでしょうか。
なにもない猫は男の子が元に戻るように祈りました。
自分の事をお月さまに祈る時の、何倍も何倍も強く祈りました。
でも、だめでした。
男の子に気付く人は誰もいません。
男の子は行く当てもなくぽつりぽつりと歩いていきます。
やがて、なにもない猫の嫌いな雪が降り出しました。
どこかで歓声があがります。
クリスマスイブに雪が降るのは珍しいそうです。
特別な日に降る雪はその夜をさらに特別なものにしてくれるんだと、なにもない猫は聞いていました。
だけど、悲しそうに空を見上げる男の子には誰一人、気付くものはいません。
やがて、雪が小降りになった頃です。
なにもない猫は突然、はっと顔を上げました。
そして前方から歩いてくる親子をじっと見つめました。
あの女の子です。
きっと家族でクリスマスイブを祝っていたのでしょう。
お父さんやお母さんと一緒に男の子の方に歩いてきます。
神様がくれた奇跡だとなにもない猫は思いました。
しばらくして男の子も女の子に気付きました。
なにもない猫は祈りました。
「お月さま、ぼくはもう永遠に誰にも知られないまま生き続けてもかまいません。
だから、この男の子だけは幸せにしてあげてください。
この子はもう、充分すぎるほど辛い思いをしました。
だから、だからもうこれ以上、この子に悲しい思いをさせないでください。
だって、このままじゃ可哀想すぎるよ。
ぼくはどうなってもかまいません。
どうか、この男の子を幸せにしてあげてください」
なにもない猫は、たった一度だけでいいから奇跡が起きるように祈りました。
本当に祈りました。
強く強く強く祈りました。



でも、女の子は・・・



まるでそこにはなにもないかのように、男の子の横を通りすぎていきました。



男の子はうつむくと、ただじっと薄っすら雪の積もった地面を見つめていました。



なにもない猫は・・・



絶望しました。



ぽた、ぽた、ぽた



なにもない猫の上に雨が降ります。



聖なる夜に



降りしきり雪の中で



なにもない猫の上には、雨が降っていました。



ぽた、ぽた、ぽた



ぽた、ぽた、ぽた



男の子は泣いていました。



顔をぐしゃぐしゃにして、声もなく泣いていました。



なにもない猫はその泣き顔を見上げる事しかできませんでした。



なにもない猫にはなにもなかったので、ただ見上げる以外なにもできなかったのです。



そして、その男の子は



・ ・・消えました。



なにもない猫はその場にじっとうずくまりました。



男の子が最後にこの世界に残した、涙の跡を守りたかったのです。



男の子が、その場所にいたという証しを・・・



でも、なにもない猫にはなにもなかったので、守る事はできませんでした。



それは降るしきる雪の中にあっというまに消えていきました。



なにもない猫は雪が嫌いです。
雪が大嫌いです。
なぜって、雪はすべてを覆い尽くしてしまうからです。
まるで最初からそこにはなにもなかったかのように・・・
だから雪が嫌いです。



やがて雪は止み、空には大きな満月が顔をだしました。
なにもない猫はお月さまに問いかけました。
「お月さま、ぼくは絶望しました。
どうしてあの男の子は消えなければならなかったんですか。
ぼくの・・・所為なのでしょうか。
ぼくの所為だとするなら、ぼくはこんなことのために生まれてきたんですか。
ぼくはただ、誰かにぼくの事を知ってほしかっただけなんです。
この世界にぼくがいるって知ってほしかっただけなんです。
それがいけなかったんですか?。
それがそんなにいけない事だったんですか?。
それなら・・・ぼくに、罰を与えればよかったじゃないですか。
あの男の子はなにも悪くないんです。
悲しい事がいっぱいあって、それでもあの小さな身体で、ずっとずっと耐えてきたんですよ。
ぼくはそれを知っています。
ぼくはあの子に罪がない事を知っています。
あの子の優しさを知っています。
あの子の悲しみを知っています。
あの子の悲しい事があってもそれを乗り越える強さを知っています。
でも、あの子はこの世界から消えてしまいました。
やっと日常を取り戻して、大切な友達や家族や愛する人を探しだした時に、
あの子はこの世界に否定されて、忘れられて、消えてしまいました。
それは正しいんですか。
それがこの世界なんですか。
そんな世界ならぼくは・・・もう、ここにいたくないです。
お月さま、この世界は正しいんですか。
それとも、間違っているんですか。
お月さま、お月さまぁ、どうか答えてください」
しかし、お月さまは優しい光をふりまくだけで何も答えてはくれませんでした。
なにもない猫はそれきり黙り込むと、もう二度とその場所から動きませんでした。





なにもない猫はまだそこにいました。
ちょうちょが飛んで来たり、他の猫達が喧嘩をしたり恋をしたりしましたが、
なにもない猫に気付くものはいませんでした。





雨がしばらく続き、その後はさんさんと暑い陽射しがなにもない猫を照らしました。
子供達は走りまわり、一度しか訪れないその瞬間を思いきり楽しんでいました。
なにもない猫に気付くものは誰もいませんでした。





あたりは一面紅葉で染まりました。
なにもない猫の上には落ち葉が降り積もりました。
いろんな人がなにもない猫の上を通りすぎましたが、誰も、誰もなにもない猫には気付きませんでした。





雪が降りました。
雪は別け隔てなくすべてのものの上に降り積ります。
なにもない猫の上にも雪は積もりました。
辺りは一面、真っ白に染まり、まるでそこにはなにもないかのようでした。
なにもない猫に気付くものはいませんでした。



そして、春

なにもない猫は消えました。
一年かけてゆっくりと消えていった意識の最後のひとかけらが、
ついにふっと消えてしまったのです。
そしてその場所には、本当になにもなくなってしまいました。










真っ暗でした。
辺りは一面の闇に覆われていて、何も見えませんでした。
その真ん中で一人の男の子が泣いていました。
悲しい事がいっぱいありました。
辛い事がありました。
楽しい事も、おかしな事も、心があったかくなる事もありましたが、でも、悲しい、哀しい、かなしい事がいっぱいいっぱい、本当にたくさんありました。
悲しい事を越えても、哀しい事があって、それを越えても、またかなしい事があって、このままずっと回転木馬のように、悲しい事がぐるぐると回っていきそうで、それが悲しくて、その男の子は泣いていました。
ずっと泣いていました。
ずっと、ずっと泣いていました。










「君、泣いているの?」
突然、声をかけられてその男の子はびっくりしました。
辺りをぐるりと見回すと男の子のすぐ横に、いつのまにか一人の女の子が腰を下ろしていたのです。
真っ暗なはずなのに、男の子はその女の子をはっきりと見ることができました。
その女の子は男の子がよく知っている女の子に似ていましたが、どこか違った感じがしました。
「どうして泣いているの?」
その女の子は男の子に話しかけました。
「君はなにも悪くないんだよ。ほんとだよ」
そう言って女の子はすっと立ち上がりました。
「あっ・・・」
男の子は思わず声を出すと、女の子の方に手をのばしました。
その女の子がそのままどこかへ行ってしまうかもしれない。
そう思ったのです。
「本当に、なにも悪くないんだよ・・・」
女の子は男の子の前に立つと、真摯な瞳で彼を見つめました。
「わたしはずっと見てたから・・・だから、君が悪くない事を知ってるよ」
女の子の言葉には不思議な説得力があって、男の子の心は少しだけ軽くなりました。
「これからはわたしがずっとずっと一緒だから・・・」
女の子は一生懸命、男の子に想いを伝えようと、すわり込んでいる男の子をのぞき込むように語りかけました。

「だから、もう泣かないで」

「ずっと一緒にいるって約束するから・・・」

そう言って女の子は、自分を見上げている男の子の口に、ちょんと自分の口をあてました。
その瞬間、真っ暗な世界が少しだけ明るくなりました。
「もう、寂しくなんかないよね」
男の子は女の子の問いかけに、長い間、ぎゅっとむすんでいた口をほんの少し和らげて、こくりとうなずきました。
その口元はほんのわずかでしたが、確かに微笑んでいました。
その微笑みを見て女の子もにっこりと笑いました。
女の子は男の子の後ろに回ると、彼の背中をやさしく抱きしめました。
「君の身体、あったかいね」
冷え切った男の子の身体を抱いて女の子はそうつぶやきました。
女の子の温もりが背中越しに伝わってきて、男の子の身体は少しずつでしたけど、あたたかくなっていきました。
「ほら、おっきなお月さま」
男の子はその言葉につられて空を見ました。
そこには本当に大きなまんまるのお月さまが、男の子と女の子だけの、このなにもない世界を優しく照らしていました。
「ここにはなにもなかったけど、でも今はお月さまがあるよ」
女の子は男の子の背中を抱いたままそう言いました。

「ね、これからいろいろ創っていこうよ」

「かなしいことのない世界を二人で創っていこうよ」

「ここが、君とわたしのネバーランドだよ」

女の子の言葉をじっと聞いていた男の子は、ぐしぐしぐし、とびしょびしょの顔を服でぬぐって振り向きました。
そして今度ははっきりとした笑顔を女の子に見せてうなずきました。
それはどこか悲しい笑顔でしたが、それでも女の子はとても、とっても嬉しくて、思わず男の子のほほをペロッと舐めてしまいました。
男の子は少し驚いていましたが、今度は照れくさそうに笑いました。
その顔からは先程の笑顔よりほんの少しだけ悲しみが薄れていました。
「お月さま、とってもきれいだね」
女の子は男の子の背中を抱いたまま、そう言いました。
男の子と女の子は、それから長い間じっとそのままでお月さまを見つめていました。
お月さまはやわらかい光で、その二人をいつまでもいつまでもやさしく包んでいました。


<作品解説>

なにもない猫の話、いかがだったでしょうか?
このSSは当初、私が以前タクティクスSS掲示板に投稿した『9匹目の猫』の
ちょっとした修正の予定でした。
しかし、どうしても納得できない部分があり、大幅な書き直しが入ってまったくの
別物になってしまいました。
でも根底に流れるものは同じであるつもりです。
私の目標は、このSSの元となった作品の作者である、別役実さんのやさしく哀しいおはなしです。
このSSを読んでほんの少しでも、やさしく哀しいと感じてもらえたなら、私は幸せです。
さて、この話にでてくるなにもない猫は別役実さんの童話集の中の主人公の一人です。
なにもないという設定の不思議さにONEと通じるものを感じたので、いつか彼が
主人公のONESSを書きたいと考えていました。
一度目は不完全なものになってしまいましたが、今度のSSでは自分なりに、なにもない猫を
うまく描けたと思っています。
最後まで付き合ってくださったみなさん、どうもありがとうございました。
そして、このSSを発表する場を与えてくれた雀バル雀さん、本当にありがとうございました。
さまざまな感謝を込めて、このSSを雀バル雀さんとポニ子に贈ります。



*参考資料

三一書房刊 別役実著『星の街のものがたり』収録作品『なにもない猫』



はにゃまろ:interweb@blk.mmtr.or.jp


解説:『優しさと哀しさと』

私ははにゃまろさんのSSの大ファンです。
『お・か・し戦記』を初めとする童話調の作品や、『永遠紀行』などのストレートな作品まで、彼の持つ『独特の個性』にものすごく惹かれ、そして憧れる。
このSS『なにもない猫』はその最たるものだと考えているのですが、いかがでしょうか?


世界というのはとてつもなく残酷で、とてつもなく優しい。
簡単に人を傷つけるクセに、時々信じられないほど慈しんでくれる。
こんな気まぐれな世界に対して、我々はなにも文句を言えない。

生んでくれたから
育んでくれたから
恐ろしいから
愛おしいから
憎いから
好きだから

優しさゆえに『自分の価値』を手に入れた「なにもない猫」。

残酷なくせに…世界は優しい。

この哀しくも優しい『奇跡』。あなたはどう思いました?



はにゃまろさんのような作品が書くたくて…

『しあわせな猫』や『大切なもの』、そして『ヒロイン』など、彼からどれほどの影響を受けたことか…。
今回ムリを言って収録させてもらったのは、なにより彼のSSを誇りたかったからです(^^)

最後に、別役実さんの童話のほうも是非読んでみてください。

1999.7/24の熱帯夜に なにもないSS作家より(大笑)

感想くださいねーっ!(はにゃまろさん宛です)

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