マブイ落とし
マブイの夢を見た。
そのマブイは、暗闇で変則的に色調を変えながら、ぼんやりと光っていた。
何時の間にかその舞台に立っていた僕は、目の焦点をマブイに落とす。
僕は暗闇で息を殺してマブイを眺めていた。
近寄れない神聖さが、その球体にはあった。
おぼろげな輪郭からはサイクロンのようなものが迸っていて、誰をも寄付けない厳粛さが潜んでいた。
僕はそれに触れたくて、穴があくほど眺めているのだが、それの所為で近寄れない。
だが暫くすると、少しその雰囲気が崩れて球体がぼんやりとしてきた。
僕は少し近くへ寄る。 マブイは動かない。
もっと近寄る。 マブイはゆっくりと回転を始めた。
ぐるり、ぐるり。
僕の眼にはもうマブイしか見えない。
腕を伸ばした。 と突然ずるりと妙な音がして、僕は半身から崩れていく。
マブイは回転しながら高い高い所へ上がっていって、僕の所からてらてらと小さく点滅したのが見えた。
先程のサイクロンのようなものは大きくなってマブイの周囲に飛び散り、
だがその火の粉は僕の所まで降りて来ない。
紅い花火が暗闇に映えた。
やがてひときわ大きく光ると、マブイは消えた。
起きると、雨が降っていた。
秋雨前線の影響で毎日飽きもせずに降っている。
こう雨ばかりだと外に出る気もしやしないから、僕は1日部屋に居る事にした。
窓から眺めると、無数の雨粒が地面にしみていく。
一粒一粒に、いろんな感情がこもっていた。
怒り、悲しみ、寂しさ、愛しさ。
全部全部、流れて行ってもうここには、ない。
例えば、青い空を眺める。
「空」に決った形なんか無くて、僕等が勝手にそれを空と呼んでいるだけ。
昔の人は、どうしてこれを「空」と呼んだのだろう。
どうして「sky」じゃなくて、「空」だったのだろう。
考えると、なんでだろうか泣けてきた。
泣けてきた所に、ぼんやりと女の子が見えた。
「ILOVEYOU」を待っている女の子だ。
瞳が、ずうっと上空の青い空を溜めて、キラキラと眩しい。
硝子玉がキラキラするみたく。
僕は口の端を上げて、挨拶をした。
「やあ」
女の子は動かずに僕を見つめていた。
鮮やかな赤い袖なしワンピースに、サンダル。つばのある白い帽子を被っていた。
「元気?」
僕は窓にもたれて呟く。
手に萎れた向日葵を持って、女の子はぎこちなく微笑んだ。
そうして、その向日葵を僕に渡すと、彼女は門へ走って消えた。
僕のコレクションがまた増えた。
僕はそれを大事に戸棚に隠すと、女の子が迷子にならないように、祈った。
どうか迷子になりませんように、どうかなみだあめであの子を包んであげてください。
温かく、優しすぎる雨で。
涙の出る瞬間は、ヒトは何を考えているのだろう。
僕は、涙の出る瞬間に何を考えているのだろう。
涙が出る事が、嘔吐したり放尿したりする事と同じだと考えるのは、あまりに稚拙で滑稽だけれど、
僕は実はそう思っていたりする。
厳密に言えば、体液の1つだし。
それに、僕は事ある毎に泣いている気がするから。
死んだ人の魂に触れた瞬間、僕は柔らかい鈍痛を含んだ悲しみに覆い包まれて、
酷く欝蒼とした気分になる。それでいて、魂は何処か妙に明るい光にまみれている。
僕は、それはきっと魂が永遠の理を悟ったからだと思う。
「生まれる」ことと「死ぬ」事の重要性と、不思議について。
「摂理」なんて言葉で片付けちゃいけない、それはもっと重たいはずだから。
最近、急に人が薄く感じる。
道行く人、友達、郵便配達のペーパーボーイ、CDのジャケットに写る人。
どれも皆同じ様なしくみで出来ていて、同じ様に呼吸していて、
同じ様にたまに空が青い事に感動したり、同じ様に本気で人を愛したり、
同じ様に悲しんで、泣いたりして、同じ様に美しく笑ったりしている。
皆同じ様にそういう風に「人生」っていう大きなハイウェイを駆け足、競歩、ゆっくり、震えながら進んでいるのに。
なのに僕には、そこいらにいるのが、そんな人達の仮面をかぶったオバケのように見えてならない。
今日もマブイに会った。
最初は分からなかったんだけど、窓際でぼんやりしていたら、
おばあちゃんが其処にいた。
「良い天気ですね」
と僕が言うと、その品の良いおばあちゃんは頬の皺が垂れそうなくらいに微笑んで見せた。
僕は、昔々にハグしてもらった僕の祖母を思い出した。
大きくて、葱と、洗剤の混ざった匂いがして、それでもあったかい手。
「おばあちゃん」
僕はそのおばあちゃんに少なからず親近感を覚えて、彼女に微笑みかけた。
彼女は少し所在無さ気に笑い返すと、僕に綺麗なレースのハンカチをくれた。
「有り難う、おばあちゃん」
にっこりとおばあちゃんは笑うと、僕をきゅっとハグして、持っていた薄いグレーのパラソルをさすと、
錆びれた門柱から出ていった。
ハンカチは、白粉の匂いがして、僕はやっぱり少し悲しくて泣いた。
僕はまた今日も古びた家に住んでいる。
僕はまだ性懲りもせずにカビと同棲している。
何が正解で、何が間違ってるのかを判断するのには、僕には大儀すぎる。
だから、僕はまだ性懲りもなくマブイと生き、マブイに魅せられて、マブイばかり見て呼吸している。
ああ、誰か笑ってくださいこんな後ろ向きに大疾走の僕を。
ああ、せめて笑ってください。
笑ってくれる人がいないより、ずっとずっと素敵だから。
ねえ、空を見て。
すごくきれい。
−了−