世界の果て
嘘みたいにきれいな映像は
手のひらの中の砂みたいに
こぼれていくから。
サラサラとまるで、
何事もなかったように。
world's end.
彼は私の茶色い瞳が好きに違いなく、
私は彼の黒い綺麗な髪の毛が好きに違いなかった。
少年から青年へ変化しようとしている蛹は、
長い手足で抱きしめる誰かを探している。
その所在無さ気な腕や足に触れてみたいと一瞬思うけれど、
こちらを見るその眼が邪魔をする。
不安定で不器用な彼は、まるで世界の果てに立っているかのように
絶望的な瞳をしている。カラスの羽のような黒い眼は、光に透かすと
瞬間、パッと赤茶に光る。キュッと収縮する黒目は赤茶と程よいコントラストをなし、
長い睫はそれを覆うかのように伏せられる。
「何見てるの?」
彼が言った。
「別に、何にも」
自然に隠そうとしている左手を引っ張る。
「いたい」
「隠したりすると、余計に変だよ」
顔を顰める彼の左手を撫でる。
象の皮みたいになった脈の近くが、かわいそうなくらい赤くなっていた。
「だって目立つし」
「気にしなかったら誰も気にしないよ」
「そうとは思うけど」
っていうかいつもそう思ってるんだけど、無理ぽい。
ぼそりと呟く彼がいとおしくてたまらない。
大丈夫、っては言えないんだけど。
「でも愛してる」
これは本当。今は本当。
「いつになく正直者だね」
彼が笑った。
背の高い彼を抱きしめると、私がすっぽり埋まってしまう。
あやす様に私を左右に少し揺らして、彼は私の瞼にキスをする。
「かがんで」
彼の綺麗な黒い髪の毛が近くまで降りてくると、
私の唇は吸い寄せられるように彼の髪へ落ちる。
髪の毛の一つ一つにキスするように。
余すところ無く私のキスであなたの体を埋めてしまいたい。
私があなたの中に埋まってしまうように。
ガラス玉みたいな茶色い眼。
昔は嫌いだった茶色い眼。
鏡を覗き込んでみると、栗色の瞳が優しく淀んでいた。
この眼は私の一部。
この眼は大嫌いな私。
いつまでそう思っていたのだろう。
この眼は私の一部。
この眼は彼の大好きな眼。
いつからそう思っているのだろう。
もう忘れてしまった。
およそ自分の国籍らしくない茶色い眼は昔異様に大きくて、
日の光にあたると猫みたいに黄色く変色した。
本当に嫌いだった。
彼を見るまで。
「きれいな目だね」
思わず振り返ってしまった。
その暖かくて、オブラートで包んだような優しい声で。
「え」
ろくに返事も返せずにいると、彼はごめんなさい、と続けた。
「あんまり綺麗な目だったから、つい」
すみません、と謝る。綺麗な黒い髪がサラサラと下にこぼれる。
「綺麗な黒ですね」
「え」
今度は彼だった。
「あんまり綺麗な髪だったから、つい」
すみません、というと彼が微笑んだ。
「ありがとう」
雪は降らないけれどそれなりに寒くて、風は刺すように私達を貫いていく。
12月ってこんな寒さか、とぼんやり思いながらコートの裾を自分の方に引き寄せる。
バス停に立つこと20分。とち狂ったかバスは定刻に到着しない。
「来ませんねバス」
「うん…来ないね」
「ストですかね」
「さあ、どうだろう」
すっと笑う彼の唇が毒々しいほどに赤くて、この世のものじゃないみたいだった。
「白雪姫」
思わず口をついて出た言葉。
彼が眼を丸くして私を見た。
「いや…あの、白雪姫みたいって」
「僕が?」
ふっと白い吐息が口からもれて、彼が笑った。
「初めて言われた」
「赤い唇に白い肌、真っ黒な髪の毛」
ほら、白雪姫じゃないですか。
「…ほんとだ。もしかしたら前世は白雪姫だったかもね」
眼が三日月型に曲がる。
「良かったですね、綺麗で」
「継母よりはマシだよね」
頭に描いたのはディズニーの眼をひんむいた魔女で。
あの眼が私に似ている気がして、
あまり笑えなかった。
「でも王子様探さなくちゃ」
このまま死んじゃう。
ふいに彼の目が遠くを見る。
「でもこのままでもいいかな」
なんてね、と誤魔化すように付け足す。
何て言ってあげたら良いのか、さっぱり分からなかった。
頭の中が真っ黒くなって、クルクルと白い渦と小さな塵が回っているのが見えた。
そしてきっと本能から出た言の葉が、私の口から漏れる。
「私でもなれますかね」
なんて、とこちらも誤魔化すように付け足してみると、
彼は驚いたようにこちらをみた。
「女だけど…あなたも男だから問題は無いんですが」
「うん、性別的には問題無いんだけどさ、ってかあんまり性別は関係ないんだけど」
「他にどこか問題がありますか」
「一番重要な部分をスキップしてると思わない?」
「何でしょう」
「僕らの気持ちとかさ」
そういうの。
「そういうの、おまけじゃ駄目ですか」
グリコについてるやつみたいな。
「君はそれで良いの?」
「ええ多分」
「僕はそれじゃ満足しない」
グリコのおまけ位じゃね。
「あなたは」
とんでもないエゴイストですね、と言いたかった。
「僕は?」
まるでこの世の終わりまで見てきたように冷たく硬い瞳が、
こちらに叫んだ。
その言葉はタブーだと、怯えるように叫んでいた。
「なんでもないです」
遠くにバスが来るのが見えた。
この人は、危険だと感じた。
「バスが来ましたね」
「うん、ストじゃなかったね」
合計25分遅れのバスは、悪びれた様子すら見せずにスムーズに
バス停に入ってきた。
「畜生」
と呟くと、彼が笑った。
今ごろ暖かい家でお茶でも啜ってテレビを見て、
夕飯の献立でも考えているはずなのに。
「畜生」
隣に座った彼の肩に頭をもたせて、もう一度呟いた。
彼については良く知らない。
見た目としては私より確実に若い。
中身は見た目より随分年をとっているけれど。
過去の話や家族の話はしようとしないので、敢えて聞く事もなかった。
時たま一心不乱に体を傷つける彼を見ることがある。
その時の眼は、彼の眼は。
黒目がぼんやりと宙を見やり、冷たい睫が半分ほどふせられている。
えらく動物的だと思いながらも美しいと感じる。
そのあとようやく、ああ止めなくてはと理性が動くのだ。
絶対にどうかしてると思いながら血で塗れた床から彼を救出して、
ソファに寝かせて、口付けて抱きしめてあげる。
そうすると、乱れていた呼吸は少しずつ落ち着いて、あの真っ赤な唇が
緩やかに言葉を紡ぐのだ。
「ごめん」
包帯を巻いてあげて一応の処置がすんだら、血まみれの床を布巾で綺麗にしてから、
暖かい紅茶を淹れる。
ぼんやりと他の事を考えてでもできるほどに、その動作は習慣化していた。
ギシリ、と床がきしむ音がする。
築何年なのかすらも分からない、この古いアパートは何もしなくても軋む。
気にせずにいると、突然暖かな人肌が頬を掠めた。
「ごめん」
彼だった。
「何が?」
「迷惑かけて、ごめん」
「いいよ、全然」
彼の腕を弄びながら呟く。
「ありがと」
彼の額が私の後頭部にぶつかる。
「なかないで」
「ないてない」
「なきそう」
声が聞こえる。
首筋に這う唇の感触に頭が麻痺していく。
彼の黒い綺麗な髪が私の髪の一部になる。
床がしなやかに軋んだ。
声が聞こえる。
私を愛していると、声が聞こえる。
誰の声だかわからない。
オブラートで包んだ優しい声。
神様の声だと思った。
身体の奥に奥に、暖かく入り混じる、言葉。
「愛している」
この恍惚。
こぼれて、消えてしまいそうで泣けた。
「君が泣いてる」
ふっと息を荒げながら彼が笑った。
「ごめん」
「謝らないでよ」
悲しくなるから。
彼の言った言葉が、お腹の辺りにしこりになって残った。
冷たい床におはようと挨拶を告げて、彼の腕の中で身じろぎする。
すると彼の腕はするりと私から解かれる。
まるで何処に行っても咎めないとでも言いたげに。
「この腕を解かないで」
思わず漏れた、たまらなく悲しくなる瞬間。
「何処にも行かないから」
私は。
「何処にも行けないから」
あなたを残して。
「何処にも行かないで」
例えそれが世界の果てでも。
あなたの眼が見た世界の果てでも。
むくりと起きあがると、そこには淹れっぱなしの紅茶があった。
すっかり冷め切って不味くなったそれは、
夕刻の陽を浴びて鈍く光っていた。
シンクにその琥珀を全部流してしまうと、また床に座り込んだ。
ふと彼に眼を移すと、まだ夢を見ているようだった。
「黒い髪白い肌赤い唇」
さあ起きて、姫。
瞼に口付けると、ふっと光を宿して眼球が現れる。
「おはよう、姫」
「やあ…おはよう王子様」
逆なのにね、と笑う。
「気分は?」
「だるい」
「紅茶、淹れたら飲む?」
「勿論」
立ち上がってまた紅茶を淹れなおそうとすると、
彼の腕が私を甘く引っ張る。
「ねえ」
「ん」
「なめてよ」
と腕を差し出す。
先に巻いてあげた包帯は既に取れかかっており、
傷口が見え隠れしていた。
「あなたは」
とんでもないエゴイストだわ。音にはせずに呟く。
彼の目が一瞬割れるように叫んだが、すぐに元に戻った。
包帯を全部はずしてあげると、空気に触れた傷口が少し赤く滲んだ。
「痛むよ」
「平気」
段々と赤みを増すそこに舌を当てると、彼の身体が小さく震えた。
錆っぽい鉄の味がして、こくんとそれを飲む。
暖かい血が気管支を通りぬけていった。
艶っぽく顔を赤らめて彼がそれを見届ける。
傷の一つ一つを丁寧に舐め取ってあげると、柔らかくうめいた。
いとおしい。
これは、出口の無い愛しさ。
彼と私の間にある真っ暗いトンネルの中で、前に進む事も恐ろしくて。
かと言って後ろに引き返す事も、既に出来ない。
仕方が無いので、私たちはまたそこに立ちすくんで、変わらない愛の行為を繰り返すのだ。
それが私たちの関係と言えるんじゃないかと。
ぼんやりと、頭の隅で思った。
人間、いつかは死ぬんだ。
走り書きされたそれは、冷蔵庫に貼り付けてあった。
なんてことは無い、買い物メモみたいに。
それを見つけて、泣きそうだった。
「頭が痛い」
「だいじょうぶ?」
彼が後ろで尋ねる。
「ねえ、あなたが書いたの?」
「ううん、僕じゃない」
「あなたでしょ?」
「僕じゃないよ」
「あなたしかいないじゃない」
「僕じゃないって!」
「じゃあ誰」
「…君だよ」
世界の果てを見た、その眼がけぶった。
「私じゃない」
「君だよ」
これを書いたのは君だ、ともう一度呟く彼は、
何かをとても我慢している時の子供のようだった。
「覚えてないの?」
彼が聞く。
「書いたって言われれば書いた気がする」
でも言われなかったら、きっと書いてない、私。
「じゃあ僕が言うよ……これを書いたのは君だ」
「そう、じゃあ私が書いたんだ」
きっと。
「死ぬ気?」
彼が呟いた。
部屋の静寂にエコーして、私の頭に響いた。
「さあ」
「……もし死ぬんなら」
僕に言ってからにしてよ。
「悲しくなるから?」
お腹のしこりが、寄生虫のようにぐるぐると蠢いている。
「うん」
「…あなたには言わない」
カラカラに乾いた口から掠れた声がする。
「あなたにだけは、絶対言わない」
「言ってよ」
黒い髪がゆれた。光を刺して、道を切り開く、黒。
彼の腕の中で、悲しみの無い世界に行きたいと、ふと思った。
どうして、彼の「悲しくなるから」という言葉が嫌だったのかは、分からない。
感情を丸出しに出来る彼がとてつもなく羨ましかったのかもしれない。
それとも、もしかすると私の本能はこの言葉が、彼の最後の呼吸と共に吐かれる事を嗅ぎ取っていたのかもしれない。
彼は死んだ。
死とは一文字で大きな意味を持つ言葉である。
その言葉は、人の人生の最終的な「終わり」であり、
この混沌とした地面や大気からの
離別でもある。
それは大きな喜びを持つものであり、また更に揺るぎ無い悲しみを与えるものである。
一般的に良い言葉とは見なされないそれは、私と彼の暗黙の逃げ道であり、誰がそれに先に辿り着くかは、
もうその頃互角の勝負であろうと思われていた。
(ねえ私も仲間に入れてよ)
人として生きることをとっくに放棄していた私たちに、神様は地上で生きる権利を残してはくれなかった。
(
問題はないんじゃないかな)
魂の無い蠢く動物達は、暗い暗いトンネルの中で、二匹で息絶えようとした。
(あなたには言わない台詞、言ったほうが良いのかしら)
ただ最後のラストスパートで、彼が長距離の選手顔負けのスピードで、テープを切ったのだ。
(ごめん、僕のが先だ)
ゴールテープを切る瞬間は、どんな人の顔も美しい。
彼にいつもしてやってるように、きつくきつく抱きしめて口付けると、ポタリと彼の顔に涙が落ちた。
「泣かないでよ」
「…かなしくなるから」
世界の果てすら見てきた彼の眼が、静かに伏せられた。
そうやって血に塗れて今私は彼を抱きしめて座り込んでいて、
そろそろ彼と同じように二位でテープを切ろうとしている。
彼の黒い髪を梳いて、ふと思った。
彼が悲しみの無い世界へ行けますように。
‐fin‐
スウェーデンで何書いてるの私って感じ。久々なのにすみません。
別にヴィヴィアンが好きって訳でもないんですが…。
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