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それは、いまだかつてない衝撃であった。 そもそも、だ。 四年もの間行方知れずであった、つまりは生死すら定かでなく、どちらかといえばとうに死んでいるものとばかり思っていた長兄が生きて、しかも五体満足であるということすら、信じがたいことだったというのに。 それを告げたのが父本人でなければ、きっと信じなかっただろう。 事実、今でも半信半疑だ。 それでも我が目で見るまで信じられぬと主張したにはそれなりの理由も打算もあるが、予定通りに事を運び、いざ兄の姿を目にしてみると。 その衝撃は大きかった。 事前に予想していたよりも、遥かに。 「…あ、あれが……あのっ………」 あの、兄か? そう思ったきり、次の行動がとれない。 堂々と姿をさらすと兄にばれてしまうので建物の影からこっそり覗いているのだが、壁にすがりつかなくては立っていられもしない有様だ。 壁に爪を立てて体を支えつつ、とりあえず深呼吸。 意を決して顔を上げ、再びこそこそとうかがってみると、一体なにがあったのか、兄は声を荒げて白い髪の青年(あれがおそらくアレフ・コールソンだ)を殴り倒していた。 「…あ…ああっ…!」 膝がくだけそうになった。 あの、兄が。 人を、殴った…! しかも自らの手で!! 精神にのしかかる衝撃に目の前が真っ白になったような気さえする。 記憶の中の兄は、決して怒鳴ったり大声を出したりしなかった。ましてや手をあげるなど。 ただ凍りつくような視線で相手を見遣り、後ほど徹底的な報復を行う、というのが怒りの表現方法であったはずだ。もっとも、感情表現に乏しい兄が怒りを露わにしている姿など、片手の指が余るほどしか憶えていないが。 いや、そもそも。 あれは本当に本物の兄なのか、という消えらやぬ疑問が胸中を占めた。萎えかけた気力を振り絞って体勢を立て直し、もう一度観察してみることにした。 確かに容姿には在りし日の面影が残っているようだが、なにぶんにも遠目なので(かつての兄は恐ろしく勘の鋭い人だったので、本来ならばこの距離でも気付かれる恐れがある)よくわからない。 艶やかだった黒髪は染めてでもいるのか無粋に赤茶けてしまっている。 だいたいにして身長約六尺は大きすぎはしないか。自分も故郷では長身の部類だが、それでも五尺七寸。最後に見た兄は五尺に届かなかった(そう、あの頃の兄は華奢で小柄で儚なげな、美少年というよりは美少女であった)。 そして言動にいたってはあの通り(と思って見てみると白い髪の青年はすでに復活していた。恐ろしい回復力だ)昔の兄とは似ても似つかない。 …父の思い違いではないだろうか。 実際に探し出したのは父本人ではなく父の部下である。ならば人違いということもあるはずだ。 全くの別人だといわれた方が納得がいく。それほど、今のあの青年と記憶の中の兄とはかけ離れている。 だが、父はジョートショップという店で世話になっている人物が失踪した息子だと確信しているようだった。あの父がそんな思い違いをするだろうか。するわけがない。自分たちに長兄の生存を告げたということは、何らかの証拠なり確証なりがあるはずだ。 となるとやはり、ちょっかいを出している白い髪の青年の手をびしばし払いながら肩を怒らせてずかずかと大股で歩いている(以前の兄はもっと静かに品よく歩いていた)あれが兄なのだろう。凄まじく信じがたいが。 と。 「!」 突然兄(と思われる人物)が振り向いた。 とっさに隠れたが、真っ直ぐに視線がこちらに向かっているのがわかる。 …気付かれたか?! まずい。 今ここで気付かれるのは、非常にまずい。 あれが人違いならいい。だが、本物の兄なら。 考えるだに恐ろしいことになりそうな気がする。いやまて、我らが長兄はその必要がなければ割合寛大な人となりであった。実害を及ぼしたわけではなし、特に咎められることもない、かもしれない。 いやきっとないだろう。そのはずだ。庭木を選定中の庭師が誤って兄の目の前に鋏を吹っ飛ばしたことがあったが、(さすがにその瞬間は目を見開いて立ちすくんでいた)兄は庭師に害意がないとわかれば「以後気をつけるように」の一言ですませてしまい、別段咎めはしなかった。だからきっと大丈夫だ。おそらくは。 「………」 でもやっぱり怖かったので、これで引き上げることにした。 少し冷静になってみようと思う。 目にした光景があまりにあまりだったので、いささか思考に乱調をきたしているようだ。 宿に戻って気分を落ち着ける。こんなに動揺している状態では兄には会えない。様子を見た限りでは今はそんなことはなさそうだが、昔は父親の次に警戒が必要な存在だった。 息を吸い、吐く。腹の上で指を組んで軽く目を閉じる。脳裏に一つの名前を思い起こす。 竜劉尉、字は劉伯。それが長兄の名。比肩する者なき竜家の長子にして跡取り。過去形ではない。行方知れずの竜劉伯は今でもたった一人の跡継ぎ候補だ。 彼はある日忽然と姿を消した。十五になって間もない頃のことだ。長兄は梁から竜へ改姓し(それは正式に一族の一員として認められたということだ)、婚約の段取りが整ったばかりだった。文机には簡素な書き置きが一つあった。 『さがさないでください』 もちろん捜索は行われた。 竜家といえばそちらの世界では知らぬ者のない大家である。大陸の東半分を束ねる組織力は、けれどこの件に関しては役に立たなかった。 竜劉伯は見つからなかった。 風に散らされる霞の如く、その行方は杳として知れなかった。 そうなるともちろん人々は「可哀相だけれど竜劉伯は死んだに違いない」と思い始める。当然だ。竜劉伯は確かに優秀ではあったが、所詮は深窓育ち、世間に突然飛び出しても生きていけるとは誰も思わなかった。また、竜家の長子というものはそれでなくてもいろいろと恨みをかう。敵対勢力が護衛もつけずにふらふらしている竜劉伯を見逃すとは考えにくい。第一、大陸の西半分を掌握する敵対組織に拐かされたというのが最も可能性が高い。その場合はもちろん竜劉伯は殺されているだろう。そちらからは何も音沙汰がなかったのだから。 しかし竜劉伯は、実に四年もの長きにわたって、自らの存在を知らしめることなく生き延びていた。 あの細かな網の目をくぐった兄も兄だが、それを捜し出した父の手腕も並ではない、と思う。 何といっても竜家の頭首が断言したのだから、あの青年は兄の竜劉伯に違いないはずだ。 それならば、何故兄は戻ってこなかったのだろうか。 行方をくらます前、生母を亡くして後、長兄に何やら屈託があったことは知っていたが、それと何か関係があるのだろうか。 あの変貌ぶりを見る限りではそのあたりに原因があると見たほうがいいのだろうが…。 「どうもわからないな」 目を開けて呟く。指を解いて代わりに腕を組む。 三男である自分が跡目を継ぐにあたっての最大の障害は、序列もさることながら、何よりも血筋と才に恵まれた長兄であったから、彼が失踪したというその事実自体は歓迎すべきことだ。 だが腑に落ちないことが多すぎる。 長兄の生母は北部に勢力を誇る梁家の娘である。やれ閉月羞花だ仙姿玉質だといわれ、讃辞そのままのまごうかたなき三国一の佳人であったが、心身共に虚弱で、一人息子の政治的な後ろ盾にはなれなかった。そのうえ政略結婚で嫁してきた彼女は、竜家頭首の寵愛を得られなかった。さらに兄は母親の実家とは折り合いがあまり良くなかった。 こと相続争いにおいて母親の存在は大きい。長兄は母を欠いてなお、次期竜家当主の最有力候補と見なされていたのだ。 竜家では慣習的に男子は母親の姓を名乗る(子供は普通は男女を問わず父親の姓を名乗る)。竜姓を名乗れるのはそれにふさわしいと判断された(つまりは相続権を持たせてもいいと思われた)者と、他家に嫁する女子である(大陸東部では女性は婚姻しても姓を変えない)。 彼は十五歳で竜姓を得た。梁家の娘を母に持つこと、長子であること、それに自らの才覚だけで竜を名乗ることができた人だ。 そんな人がどうしてこんな竜家の勢力圏外の街で堅気のような暮らしをしているのか。 納得がいかない。何か裏があるのかと勘ぐってしまうのは当然の用心というものだろう。なにしろ相手は臥竜鳳雛と名高いあの竜劉伯だ。慎重に過ぎて困るということはない。 実をいえば一日でも早く帰りたい。長兄が姿を消したあと、跡目問題は次兄と自分とに的が絞られた感がある。自分が家を空けた分、次兄に有利な方向に事態が動いているかもしれない。 そういった危険を冒しても長兄を迎えに行くことには価値があると思ったからここにいるわけだが、それならばいつまでもこそこそしているわけにはいかない。用件は早々に済ませなくては。 ということで夕方近く、兄が帰るあたりを見計らってジョートショップを訪ねた。 たとえ竜姓を持つにしても今は善良かつ無力な一般市民とそう変わらないはずだ、と気合いを入れてから扉を開ける。 からりと鐘が鳴った。 たいして広くもない店内にいたのは主人のアリサ・アスティアと謎の生物(としか思えない)テディ。予想に反して兄はいなかった。おかしい。もう帰っている頃なのに。 「まあ、いらっしゃいませ」 穏やかに主人が微笑む。 対一般人用の棘のない笑みを浮かべてこちらも挨拶をし、さっそく本題に入った。 「はじめまして。私は来劉叔と申します。こちらに李劉尉という方がいると伺って参りました」 竜劉伯はこの地では李劉尉と名乗っているらしい。兄のことだからまったく違った偽名を使っているかと思ったが、意に反して本名をそのまま使っていた。確かに字でなければそれほど呼ばれることもない。李姓なのはさすがに本姓は避けたかったからだろう。 「リィさんならまだ帰ってないっスよ」 卓の上にちょこんと座る謎の生物が喋った。なかなか不思議な光景である。 「多分もうすぐ帰って来るっス」 「そうでしたか。こちらで待たせていただいても?」 「ええ、かまいませんわ」 「ありがとうございます」 親切な女性だ。なるほど、見も知らぬ人間を住まわせるだけのことはある。勧められるまま椅子に腰掛け、なにか飲み物をという好意に甘えて紅茶を煎れてもらう。 礼を言い、香り高い琥珀の液体を一口味わったところで店の扉が開いた。 兄かと思ったが違った。 入ってきたのはあの白い髪のアレフ・コールソンだった。 こちらに気付いて(客だと思ったのだろう)軽く会釈をしたきたので、同じように会釈を返す。 「いらっしゃい、アレフクン」 「あれ、アリサさん、リィまだですか?」 「まだっスよ」 と、何をするつもりなのか、ちょこちょこと移動中の謎の生物が答える。なんとなく視線で後を追うと、器用に卓から下りてみかん箱の上によじ登っている。そこに陣取ったところを見ると、みかん箱の上が彼(多分)の定位置なのかもしれない。 そうかと残念そうに呟きながらも、夕食を一緒にどうかという主人の言葉に、嬉しそうに頷いている白い髪の青年に、時機を見計らって声をかける。 「失礼、アレフ・コールソン氏ではありませんか?」 「へ? あ、はい」 突然声をかけられて驚いたのか、いささか間の抜けた反応が返ってきた。 主人(とせっかく登ったみかん箱から下りてきた謎の生物)が盆を持って奧へと移動するのを視界の端に確認しながら、せいぜい友好的な笑みを浮かべてみせた。 現竜家頭首の長子梁劉尉を次期頭首として知らしめた一件がある。 当時長兄は十四歳、緑なす黒髪に翡翠の羽のような眉、明なる眸と貝のような歯、抜けるような白い肌、花に喩えるならば水仙といったところ。母親の美貌をそっくりそのまま受け継いでいたわけだが、そのおかげで見た目からは性別を判断しづらかった(有り体にいってしまうと女にしか見えなかった)。あれが兄でなければ口説き落としてモノにするのに、と冗談混じりに(つまりは幾分本気で)思っていたくらいだ。 もっとも、そう考えていたのは自分だけではなかったらしく、あの頃には長兄の男色嫌いは有名になっていた。といって女好きかというとそうでもなく。長兄に迫った相手は男女問わずただ一人の例外もなく、すげなく追い返されていた。 ところが、何処にでも愚か者というのはいるもので、よりにもよってその兄に手を出した男がいた。しかもかなり強引に。 鄭という家の当主であったその男の行方は今ではもうわからない。思いあまって首をくくったとか路地裏でのたれ死んでいたとか河川に白く膨らんで浮いていたとか町外れの変死体が鄭本人だとか、芳しからぬ噂のいくつかは耳にしている。そして事実は多分、そのうちのどれかなのだろう。 長兄と鄭との間に何があったのか、正確なところはわからない。所用があるからと鄭の屋敷に呼び出された長兄が、主人の寝室から服装を乱したまま足音も荒く出て来た、という鄭家使用人の言葉(「梁様の背後に炎の揺らめく様が見えるようでございました…あれ程恐ろしいものを見ましたのは生まれて初めてでございます」と付け加えたという)を使え聞いたに留まる。 その日のうちに鄭家の郊外の屋敷が三軒ほど焼き討ちに合い、一両日中には主な活動拠点と資金源が破壊されあるいは乗っ取られ、鄭家勢力内の末端構成員及び血縁者以外の幹部の大量引き抜きが行われた。それに加え、鄭家は武器や薬物の商いを行っていたのだが、取引相手達がこぞって取引の中止を通達してきた。 十日もすると鄭家は見る影もなくなった。その時点ではまだ本宅にかなりの物資と金銭があったはず(この業界での当然の用心である)だが、それが使われた形跡はない。一説には鄭家当主の甥が洗いざらい持ち出して竜家に寝返る際の手土産としたのだとか。 結果、半月も経たないうちに、鄭家はものの見事に叩き潰されたわけである。 長兄は物的証拠を残すような真似はしなかった。ただごくわずか、もしやと思わせる状況証拠を放っておいた。もちろん意図的に、決まっている。 恐ろしいのはそのときの長兄には参謀役がいなかった(教師兼任の者がいたのだが意見の相違からくびにしたばかりだった)ことだ。いくら頭が回るとはいえ長兄は十四歳、にも関わらず家一つを滅亡の憂き目にあわせたのである。 当時鄭家は竜家の取引相手の一つであった。その鄭家を一存で潰したというのに、長兄にはなんの咎もなかった。それだけで父が梁劉尉に目をかけている事実が分かるというもの。あれほどの暴挙が許されるほど、長兄は特別視されていた。 そして問題は目の前のこの男である。 脱がされかけただけで完膚無きまでに、徹底した報復を行う(鄭家当主本人は長兄が退出したあと、顎にひびを入れられ、肋骨を三本ほどへし折られた状態で発見された。誰の仕業かは定かではない…)長兄にやたらべたべたしているこの男、アレフ・コールソン。 何故未だに五体満足で生きているのか、甚だ疑問である。 そもそも長兄は少々神経質で潔癖性な嫌いがあった。不用意に触ると猫が毛を逆立てるような反応を返してきたものだ。 それが、何故。 おそらくこのあたりの風習に合わせているのだろうが、だとしても随分と我慢強くなったものではないか。 なんだろうという目つきでこちらを見ている青年に、慇懃に笑って椅子を勧めた。 「立ち話もなんでしょう、お掛けになっては如何です?」 「あ、どうも…」 「どういたしまして。私の椅子ではありませんが」 穏やかに付け加えた一言に気分を害したことが、目の表情の変化から見て取れた。正直いって、底の浅い男だと思う。間違っても長兄に相応しくはない。 「私は…」 続柄を明かすことを逡巡したのは、それがこの先長兄との関係にどう響いてくるか予想がつかなかったからだ。 一度言葉を切り、言い直す。 「私は李劉尉とは見知った間柄です。あなたは彼と随分親しいと聞き及んでいますが…」 今度の逡巡は、この先の質問をどう言えばいいのか、まったく考えていなかったと気付いたからだった。 どう言うべきか。出来れば婉曲に尋ねたい。が、核心をついた言い方しか思い浮かばない。…し、仕方ない。まったく、どうして男にこんな質問をしなくてはならないのだろう。長兄もどうせなら妙齢の美女とでも(誤解されるような)関係を持てばよかろうに。なんだってこんな男を相手にするのだ。他人事ながら不愉快である(質問するからにはあながち無関係でもない)。 「単刀直入にお訊きしましょう。一体どういうご関係ですか?」 「は?!」 …唐突すぎたか。「か、関係って…」と言ったきり、白い髪の青年は二の句が継げずにいる。そんな顔をしてはせっかくの男前が台無しではないかな、などと意地悪く考える。わざとらしく目の前で手を振ってやると、相手ははっとして乗り出していた上半身を引いた。 「失礼、呆然となさっていたようでしたので」 紅茶で喉を湿し、器に落とした視線を改めて前方に向ける。 「質問に…」 「アリサさん、今帰りましたっ!」 答えてくれと言いかけた、その瞬間に当の本人が元気よく帰ってこようとは。 さすがに予想だにしなかった。 長兄(とおぼしき人物)は店内を見渡して軽く首を傾けた。 「なんだ、アレフだけかよ。アリサさんは?」 「台所だよ。お茶煎れてくれてる」 「そっか」 幾分安心したように椅子ごと体を向ける白い髪の青年と、特に身構えた様子もなく会話をする長兄(らしき青年)。 こうして間近で見てもそこらにごろごろしている堅気である。 やはり別人ではと思いながらも、長兄(少なりとも年長者は年長者)が立っているのに自分が座っているのは礼儀に反するので椅子から立ちあがる。 その拍子に長兄(多分)と目があった。(…あ…)長い前髪の向こうで、黒っぽい目がわずかに細くなった。茶色い前髪が邪魔だが、長兄の瞳もあんな色合いをしていた。 底無しの淵のように黒々とした瞳だ。成長して多少骨っぽくはなったものの、基本的な造形は変わっていない。肌も昔のように抜けるようとまではいかないが、男としては色素が薄い。相変わらずの美貌である。 こちらがかつての記憶を呼び覚ましつつ観察している一方、長兄(とよく似た青年)は白い髪の青年に「こいつ誰? 客?」などと尋ねている。せっかく耳元に唇を寄せて囁いても自分に聞こえていたら意味がないと思うのだが。いやそれよりも本当に自分が客だったらこれは結構失礼なのでは。 「お帰りなさい、リィクン」 さらに奧から主人も出てきた。後をついてきているだろうと思った謎の生物はいない。 「ただいま帰りました」 「ちょうどよかったわ。リィクンにお客様なの」 「俺に?」 ちょっと驚いたように目を開く。だが、その声にはやっぱりといった響きがごくわずかだが含まれていた。それは微量であったから、主人や白い髪の青年は気付かなかったろう。機微に聡い育ちをしている自分だから聞き取れた。 やはりこの人は長兄その人かもしれない。 「リィクンも飲むかしら? 教会からお茶の葉をお裾分けしていただいたの」 「あ、いえ、今さくら亭でコーヒー飲んできたからいいです」 「まあ、そうなの? それじゃ、お店のほうお願いしてもいいかしら」 「まかせて下さい」 でもこんなに笑顔を振りまいている。別人だろうか。 主人が再び奧へ姿を消すと、白い髪の青年の脇に立っていた長兄(かもしれない人)は体ごと向き直った。 「お待たせしました。御用向きは?」 俗に営業用と言われる(のであろう)笑顔の相手に対し、心理的に戦闘態勢を整える。向かい合って立つとあちらの方が視線の位置が高かった。見下ろされると随分勝手が違う。昔の長兄は小さかったのに、と思っているせいだ。 「お久しゅうございます、大兄」 故郷の言葉が通じたとみえる。すっと笑みが消えた。瞳からも柔らかみが消えて、探るような色を帯びる。 「憶えておいででしょうか」 「誰だっけ?」 即答は疑問文だった。 くじけそうになる心根をなんとか支えて名乗る。 「来劉叔にございます」 「らいぃ?」 思いっきり不審そうに眉を寄せられてしまった。感情表現がかなり豊かになったようだ。 けれど、次に発せられた声は何とも無感動に響くものだった。 「…、来劉葉か」 「如何にも」 そうだった。長兄が家を出たときはまだ来劉葉を名乗っていたのだった。 向かい合う目が「まだ来姓なのか」と言っているようだ。 …確かに、この人は長兄だ。あんなふうに何の感慨もなく人の名を呼ぶのは、後にも先にもあの人しかしらない。父でももう少し感情の交じった声で呼ぶ。 「で? 何の用だ?」 横柄に腕を組んで長兄が尋ねる。互いに身元が割れても西方言語を使う気でいるようだ。この白い髪の青年を気遣ってのことだろうか。 「父上から書を預かって参りました」 懐から取り出した封筒を胡散くさげな目つきで受け取る長兄。くるりと裏返し、封印を見てさすがに顔色を変えた。こちらが予想したように青ざめたわけではなく、ただ単純に驚いただけのようではあったが。 「…これ」 「大兄にと」 用心している手つきで封を破り、中から一枚の紙を取り出す。 ここからは何が書いてあるのか見えないが、さっと文面に目を走らせた長兄から表情が抜け落ちたのは見えた。 感情の浮かばない美貌は、作りが整っているだけに冷たく感じる。そういう顔をしていると、改めて、やはりこれが兄なのだと思えた。 紙面に目を落としたままの長兄の唇の端が震えた。 これは…、まさか。 不吉な観測に、目を見開いてしまう。 …怒っている…? これは非常にまずい。最終的に怒りの矛先は手紙を書いた父に向くだろうが、とりあえず今ここにいるのは自分である。かつての長兄ならいざしらず、これだけ様変わりしてしまった今の兄が八つ当たりをしないとも限らない。八つ当たりとはいっても、今の長兄に出来ることはせいぜい殴るくらいだろうが、家に戻り、以前の力を取り戻したりしたら。その時は…。ああ、考えたくもない。 と、長兄が口を開いた。 「後から行く」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 つまり今すぐは行けないから宿で待っていろと言うことか。理解したと同時に長兄が視線を向けないまま片手を振った。 退出を命じているのだと知って、 「それでは、お待ちしております」 遠慮なく店を出た。 扉をくぐって往来に出た後、思わず息を吐き出したのは致し方ないことだと思う。 言われたとおりに宿で待っていると、夜も更けてから長兄はやって来た。 驚いたことに肩に担いだ鞄一つで荷物は全てだという。 「さて、それじゃそろそろいくか」 「承知いたしました」 「あ、ところで」 ぽんと肩に手を置かれ、振り向くと何やらにこやかに微笑んでいる長兄、竜劉伯。嫌な笑い方である。 「この俺の機嫌損ねといてただですむなんて思ってないよな?」 こんな直接的な脅しをかけてくるとは、一体どれほどこの人は変わってしまったのだろうか。 と思いつつ、それでもやっぱり怖いものは怖くて、この瞬間、来劉叔は長兄の送えに来たことを深く深く後悔したのだった。 |
リィが育った環境の異常っぷりが少しでもわかっていただけたでしょうか。 ていうか、腹違いとはいえ実の兄にあんなこと思うなよ来(当時のリィは気付いてなかったけど) 実は引っ越しの際に名前のストックを紛失(紙メモはなくす法則を見事実践)したというのは内緒の話です。 …こんなオリジナルくさいうえに長ったらしい話を読んで下さった方、どうもありがとうございました…。 次はアレフ視点だー。 |