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考えたこともなかった。 影も形も、何一つ残さずに、目の前から消えていなくなるなんて。 いつものように朝一番でジョートショップに顔を出したアレフは疑問に思った。 「ひょっとして機嫌悪くないか?」 言われたリィは肩をすくめた。 「別に?」 と言うわりにぴりぴりしてないか? 昨日の心中云々の会話が尾を引いてるのだろうか。それにしては夜は普通だったし…。なら夢見が悪かったとか? そう言うとリィはうーんと考え込んで「近いかもな」と答えた。 「その『かも』ってのはなんなんだ?」 「んー…。夢じゃねぇんだけどな、なんとなく嫌な予感がする」 そこで苛立ったようなため息をはさんで、 「やな感じだ」 夕方頃、ジョートショップに顔を出した。 残念ながらリィはおらず、代わりに客らしい男が一人いた。店の外に立っていた黒服はこいつの連れだろうか。 「いらっしゃい、アレフクン」 「あれ、アリサさん、リィまだですか?」 「まだっスよ」 「そうか…」 そろそろ帰ってるはずなのだが。 さくら亭に寄ると言っていたから、そこで誰かに捕まっているのかもしれない。 アリサが夕食に誘ってくれたので喜んでご一緒させてもらうことにした。アリサの料理は文句のつけようがないし、何より、リィもそれまでには帰ってくるだろう。そう思いながら頷く。 「失礼、アレフ・コールソン氏ではありませんか?」 「へ? あ、はい」 いきなり声をかけられてびっくりした。 見れば、客らしい男がこちらを向いて軽く笑んでいる。愛想笑いなのか何なのか、よくわからない笑顔だ。喧嘩を売ろうというわけではなさそうだが、なんとなく気に入らない。 年の頃は自分と同じくらいか一つ二つ上だろう。黒い髪に黒い目をしている。自分ほどではないが顔はいい。背丈はさほど高くない。顔立ちと発音から東の方から来たのだろうと見当をつける。 東。リィの故郷がある方角だ。 「立ち話もなんでしょう、お掛けになっては如何です?」 その物言いは人に命じることに慣れた風があった。 「あ、どうも…」 客に椅子を勧められるというのも妙なものだと思っていると、 「どういたしまして。私の椅子ではありませんが」 と当の客がこんなことを言った。考えを見透かされたようなセリフもそうだが、澄まし顔も気に入らない。 何の用か知らないがさっさと済ませてもらいたい、と考えていたアレフは、次のセリフを聞いて危うく声を上げるところだった。 「私は李劉尉とは見知った間柄です」 なに?! 思わず目を見開いて相手を観察してしまう。 見覚えはない。ということは、少なくとも自分とは記憶に残るような会い方をしていない。ということは、この男は、本人が知られたがらないリィの過去を知ってるのか?! 少しばかり思考が先走っているアレフである。 「あなたは彼と随分親しいと聞き及んでいますが…」 どこで聞き及んだのかしらないがその通りである。アレフとしてはもっと親しくなりたいところだが、リィが嫌がるのでしょうがない。 でもなあ、もう少しガードが緩くても…。 「単刀直入にお訊きしましょう。一体どういうご関係ですか?」 ………。 「は?!」 …なんだって? 関係? 「か、関係って…」 関係って関係ってそりゃかなうことなら胸張って堂々と「いい仲です」とか「恋人です」とか言いたいですがでもだけどそんなこと言ったらリィは怒るだろうなあ眉つり上げてこう「誰が誰の恋人だ?!」とか怒鳴るだろうけど多分その前に殴られるか蹴られるかするよなきっとああなんかとてもリアルに想像できるな怒った顔も綺麗なんだよなそういや最近ますます腕力が増してきて連撃がさらに痛くなってきたけどそのわりには腕細いんじゃないかって今大事なのはそうでなく! はっと我に返ると、視界の中で動いていた何かが引っ込んだ。 「失礼、呆然となさっていたようでしたので」 目の前で振られていた指が優雅にカップを持ち上げる。紅茶を一口飲んで視線をあげる。どうでもいいが、この男は何故こんなに落ち着いているのだろうか。理不尽な気がする。 「質問に…」 ばたん、と言葉を遮るドアの開音。 「アリサさん、今帰りましたっ!」 やけに威勢良くリィが帰ってきた。 「なんだ、アレフだけかよ。アリサさんは?」 妙な男と二人きりという、大変好ましくない状況から逃れられたことにほっとして、アレフはがたがたと椅子を鳴らして歩み寄るリィの方へ向きを変える。 「台所だよ。お茶煎れてくれてる」 「そっか」 男が静かに席を立った。リィがそちらに顔を向ける。しばし観察しあう二人。 ややあってリィが視線を外し、身を屈めてアレフの耳元で囁いた。 「…こいつ誰? 客?」 さあな、と同じように囁き返したところで、アリサが奧から出てきた。 アリサから店番を頼まれたリィは いつものように請け負って、営業用の顔で再び男の方に向き治った。 「お待たせしました。御用向きは?」 慇懃な笑みを浮かべた男がゆっくりと口を開く。 「■■■■■■■■■■、■■」 商売の常套文句に返されたのは聞き覚えのない言語だった。 咄嗟に見上げたリィの表情はわからない。彼はすぐ横に立っている。椅子に座っているアレフからは角度が悪くて表情が見えない。 だから、気のせいかもしれない。 膜が剥がれるように、リィの雰囲気が、硬く冷たく変化したように感じたのは。 「■■■■■■■■■■■」 男がまた何かを言う。 「誰だっけ?」 すぱっとリィは聞き返している。 その声は普段の通りで、アレフはやっぱりさっきのは気のせいだったのだと思った。 すぐに応えたところからすると、男が喋っているのはリィの耳に馴染んだ言葉なのだろう。ひょっとすると故郷の言葉なのかもしれない。 リィのセリフと態度から察するに、さっき言っていたのは挨拶で、会いに来たのはいいけど忘れられている、というところか。ちょっといい気味である。 「■■■■■■■■■」 「らいぃ?」 おかしなことを言われたらしくリィが頓狂な声を出す。眉を寄せて何かを思い出すような表情をする。 短く息を吐いて、リィは真っ直ぐに男を見る。 「…、■■■■」 アレフは驚いて再度リィを見上げた。今の言葉が発せられたは、胡乱な男からではなく、リィの唇からだ。 それは暖かくもなければ冷たくもない。かといって旧知の仲に向けられるものでもなく、見知らぬ初見の相手に対するものでもない。さりとて感情が押し隠されている気配もない。風が木を揺する音ですら、もう少し何か感じるものがあるだろう。 それほど感情のない口調であった。 「■■■■」 「で? 何の用だ?」 「■■■■■■■■■■■■■■■」 男は封筒を渡し、受け取ったリィは驚いた表情になった。ぱっと顔を上げて男を凝視する。 「…これ」 「■■■■」 この場で読むよう促されたのだろうか、用心しつつリィは封を切る。中から取り出した紙は一枚きりで、見上げると黒いインクが縦に連なっているのが透けて見えた。 よくない知らせかと思った。リィがすっと無表情になったからだ。 微かに唇の端を動かしたのは、怯えだとか恐れだとか、そんなもののような気がする。 視線が動いて紙面を何度か往復する。 「■■■■■」 舌で唇を湿しておいて、リィが静かに東の言を紡いだ。 虚をつかれたような男に対し、手紙から目を離さずに片手を動かして追い払う仕草をする。 「■■■■、■■■■■■■■■」 男は丁寧に礼をして出ていった。一体何者で、何をしに来たのか。まさか郵便配達だったのか? リィはまだ顔を上げない。じっと俯いている。 「おい…」 やはりよくない知らせだったのか。心配になって声をかけてみたが、返事はない。 「リィ?」 椅子から立ち上がってそっと肩に手を伸ばした途端、ばりっ!と凄まじい音を立ててやおらリィが手紙を引き裂いた。アレフは反射的に手を引っ込めた。 リィは真っ二つに引きちぎった文を封筒ごとぐしゃぐしゃに握りつぶして床に叩きつけ、げしげしと踏んづけた。ご丁寧に靴の踵で踏みにじったりもしている。 思わずうかがった横顔は紛れもない怒りの形相である。 ぎらぎらと目を光らせて「…あのくそ親父…っ!」とぼそりとリィが呟き、それでアレフはようやくリィの靴底で見るも無惨な姿と化した手紙が彼の父親からだったのだと知った。 アレフはようやく憤懣冷めやらぬ様子のリィに声をかける勇気を奮い起こした。 「リィ」 「あ?」 ぱっとリィがアレフを見た。 途端にばつが悪そうな顔になって、 「なんだよ」 とことさら不機嫌そうな声音で呟く。 「手紙、なんて書いてあったんだ?」 元々沸点の低いリィだが、大して長くもなさそうだった手紙のどこに腹を立てたのだろう。 「…別に」 リィは視線を逸らした。たった今まで体重をかけていた手紙を拾う仕草で誤魔化していたが、観察眼には多少自信のある自分には行動の意図が透けて見える。例によって故郷のことは言いたくないのだろう。 この街に来る以前のこと、特に子供の頃のことを言いたがらないのはいつものことだし、たとえ教えてくれるにしても当たり障りのない無難なことだけだから、今回もそれほど期待しているわけではなかった。 それでもやはり、こういうのは少し寂しい。 ひょっとしてまだ信用されていないのかと思うと、寂しいの上に悲しくなった。 食事中のリィは沈みがちだった。 おかげであの男について聞くタイミングをつかめずにいる。 もくもくと食事を終えて食後のお茶をすするリィはどう見てもへこんでいる。 「リィさん一体どうしたんっスか?」 などとテディに心配されては終わりである。 リィもそう思ったのか、困ったような苦笑をこぼした。 「別になんでもねぇけど」 「なんでもないことあるかよ」 つい口を出してしまった。びっくりしたようにリィがこちらを見る。 「言いたいことがあるなら言えよな」 食事中ずっと、リィは何かを言おうとしては迷って、結局開けた口に料理を押し込んで黙ってしまう、ということを繰り返していた。 「アレフさんってときどき鋭いっスよね」 「ときどきは余計だ」 感心したようなテディの首根っこを掴んで宙づりにしてやった。「なにするんスか〜!」と抗議しながらじたばた抵抗するテディ。アリサはそれを見ても穏やかに微笑んでいるばかりである。 そのまま掛け合い漫才に発展していくテディとの会話に、ようやくリィも笑ってくれた。 やがて漫才に一応のオチがついたところでリィが表情を改めた。 「あの…、アリサさん」 まだ躊躇いがちにではあったが、リィは先を続ける。 「急な話で申し訳ないんですけど」 確かに急な話だ。これまでリィの家族から手紙が来たこともなければ、逆にリィが手紙を出している様子もなかった。 「…どうしてもだめなのか?」 「俺だって行きたくて行くわけじゃねぇよ」 ベッドに腰掛けて膝に頬杖をつきながら聞くと、鞄に荷物を詰め込みながらリィが答える。 「けどしょうがねぇだろ。親父が戻ってこいってんだから」 荷造りをするリィはいかにも嫌そうで、親子関係はあまり良くなかったのだろうかと思う。 『家から手紙が来たんです。帰ってこいという内容でした』 本当に、急な話だ。 冤罪だのシャドウだのがようやく片づいて落ち着いたところだというのに。 ちなみにあの手紙はかろうじて原型をとどめた状態にまで踏みつぶされたのち、律儀なリィの手によってくずかごに捨てられている。 『あの、だから、俺…、帰らなきゃならなくなりました』 「…やだなー」 少ない着替えを丁寧にたたみながらリィがぼやく。 「戻りたくねーなー」 「そんなに嫌なら帰るなよ」 「そういうわけにゃいかねぇんだよ」 『すみません、ここにいつ戻れるかはわからないんです』 「…いつこっちに帰ってくるかもわかんねえのに」 憮然として呟く。 眺める視線の先では、リィが少ない荷物をゆっくりと鞄に詰めている。 そんなに嫌なら帰らなければいい、と再度思う。 あんな紙の一切れに唯々諾々と従って何処とも知れない場所に行くのか。 リィにとっては懐かしい故郷なのかもしれないが、自分にとっては想像することすら困難なほど、砂漠を越えたむこうの土地は遠い。 「片道でどれくらいかかるんだ?」 「んー…、どれくらいだろうな。あっちこっちうろうろしてたからな。真っ直ぐここに来たわけじゃねぇんだ。だからわかんねえけど、多分、馬で二月と少しってとこだと思う」 そんなに遠いところにいくのに、名残を惜しむ素振りさえない。…まあ、普段の言動が言動なだけに無い物ねだりという感は否めないが。 『すみません、アリサさん』 食後の会話を思いだし、目を閉じてアレフは溜め息をつく。アリサには謝るのに、こっちには一言もない。 「あいつとどういう関係なんだ?」 目を閉じたまま尋ねる。渋々でも手を止めずに支度していくリィの気配。 「あ? あいつって?」 「今日来た奴」 「…あー」 支度している音がやんで、アレフは目を開ける。リィは手を止めて天井を見上げていた。何かに迷っているように見える。そうだとしたらもちろん、答えるべきか考えているのだろう。 「弟」 やがて簡潔な答えが返ってきた。 「似てねー」 「だ、ろうな」 アレフの感想に一つ頷いて、リィは作業を再開する。 「ライってんだ。何か聞かれたか?」 「どういう関係かってさ。やけに真剣だったぜ」 「誰と誰がだよ。まさか俺とお前?」 「その通り」 はー…、とリィは疲れたような呆れたような溜め息をついて、やれやれというように首を振った。 それが伝染したようにアレフもまた溜め息をついた。リィの返答が事実だとしたら、なんて似てない兄弟だろう、と思いながら。 「なんだよ? さっきからうっとうしい」 眉をしかめてリィが振り返る。 「…ほんとに帰るのか?」 次にいつ会えるかわからないようなところになんか行くな。 「しつこいぞ、アレフ。しょうがないってさっきから言ってんだろーが」 「嫌なら帰らなきゃいいだろ」 アレフはもう一度言う。 「帰るなよ」 傍にいてくれるんじゃないのか。一人で遠くへ行くのか。 「だ・か・ら、そうはいかねえんだって言ってんだろ?!」 リィが苛立って声を荒げる。 「なんでだよ、今までずっと連絡なんかしてなかったのに、なんでいきなり帰るんだ?」 いらいらしているならアレフもそうだ。ベッドから立ち上がり、睨むリィに強く視線を返す。 「親父がそう書いてきたからだよ!」 もしこのときに冷静だったら、リィがいつにも増してカリカリしていることに気付いただろう。だが実際には、急な話の運びにアレフも落ち着いていられなかった。 「帰りたくないって手紙でも書けよ。それでいいだろ」 その一言がリィの癇に触ったらしい。 目つきがさらに険しさを増した。 「なにも知らないくせに適当なこと言うな!!」 思えばこれはリィの本音ではなかったのだろう。つい心にもないことを、というやつだったに違いない。頭ではわかっていたのに。 「俺にわかるかよ!! お前がなにも言わないのに!!」 わかっていたのに、怒鳴り返してしまった。 …アレフは後々、怒鳴ってしまったこのセリフをひどく後悔することになる。 すっとリィが表情を変えた。 昼間に垣間見えた、冷たく乾燥した気配。 「邪魔だから出てけ」 視線を逸らして吐き捨てる。 「ふざけるな!」 変に静かな声にますます頭に血が上って、リィに詰め寄った。 「だいたい、なんなんだよ、リィ!」 頭の隅に押し込めていたことがこぼれて叫びになる。 「リィ、ほんとは、俺のこと、どう思って…!」 「出てけ」 何処までも平静な声音に、ついにぷっつりと何かが切れた。 激情に流されるまま胸倉を掴んで、けれど黒い瞳は無感動にこちらを見返してくる。 力を入れると、手の中で服の生地がぎゅっと鳴った。 「…リィ…!」 どうして。 どうしてなにも話してくれない。 そんなに頼りにならないか。 それとも信用できないのか。 いつもそうだ。肝心なことはなにも言わない、話さない。 ナンパのことだってそうだ。 やめろとは言う、いいかげんにしろとも言う、時折は忠告じみたことさえ口にするくせに、本気でやめさせようとはしない。 もしリィが本当にやめろと言ったなら、ナンパなんていつでもやめるつもりでいるのに。 傍にいてくれるならそれで充分だと。 そう思っているのは、俺だけなのか? 「…リィ…」 好きだといったその口で女の子に声をかけても、嫌な顔一つしない。 わざと目の前を女の子と腕を組んで歩いたときは「また違う子か?」と呆れ果てた顔をされただけだ。 嫉妬してほしいわけじゃない。それでも、もっと違った反応があってもいいはずだ。 明確な気持ちを聞かせてもらえたのはただの一度きり。 しかもその時リィは風邪で熱を出していた。 不安になるのは、俺だけか。 本当に。 どう思ってる? 「リィ」 「出ていけ」 「…!」 宣告は無情だった。 カッとしてアレフはリィを突き飛ばす。 そのまま身を翻して部屋を出て行く背中に、落ち着き払った声がかかる。 「アレフ」 止めるつもりのなかった足が止まったのは、やはり惚れた弱みだろうか。 けれど声は冷たくその背中を切り裂いた。 「鍵、アリサさんに返しておいてくれ」 「リィ…!」 咄嗟に振り向いたアレフの目の前で、ばたりと音を立てて扉が閉じた。拒絶以外の何者でもない意志表示。わかりやすいだけに衝撃は大きい。 鍵とはリィが誕生日にアレフにプレゼントとして渡したもののことだ。鍵束に入れていなかったそれは、まだアレフの手元にある。 が、元々はアスティア宅の部屋の鍵である。たとえて言うなら店子が出ていくなら鍵は大家に返すべきだという、そういうことなのだが。 頭ではわかっていても、それはアレフには決別の言葉に聞こえた。 「…っ!」 明けて翌日。 昨夜は頭に血が上っていたせいで、ろくな挨拶もせずに帰ってしまったことをアリサにわびようとジョートショップにやってきたアレフは、リィが昨夜のうちにエンフィールドを発ったことを聞かされた。 そうしてリィはエンフィールドから姿を消した。 影も形も残さずに。 こんなことは、…考えたこともなかった………。 0/2<< >>2/2 |