アリス
立派な毛並みの灰色狼がいました。
巣の場所を忘れてしまって、独りで森の中を歩いています。
けれどいくら捜しても巣は見つからないし、たくさんいた仲間も誰一人見当たらないし、おまけに歩いているうちに自分がどこにいるのかわからなくなって、実のところ途方に暮れていました。
それでも他にどうしようもないので、灰色狼は広い広い森の中をあてどもなく歩いていました。
灰色狼には大事な人がいます。
その人は寂しがりやの灰色狼のそばにいてくれる人でした。
灰色狼はその人のことが大好きだったので、この前、思い切ってこれからもずっと一緒にいてくれるようにお願いしてみました。
その人はちょっとびっくりしてから(灰色狼が急にそんなことを言ったせいです。普通はびっくりします)頷いてくれました。
だから灰色狼はどうしても帰りたかったのです。
きっと今頃、その人は帰ってこない灰色狼を心配しているでしょう。
灰色狼は若くて立派な雄です。
狩りに行かないわけにはいきません。
さっさと獲物を捕まえて、早くその人のところに帰るつもりだったのに。
獲物を捕まえるどころか帰り道がわからなくなってしまうなんて、一人前の狼が情けないことこの上ありません。
しかも大事な人に心配をかけてしまうなんて、ちょっと救いがたいくらいです。
灰色狼がはあ…とため息をついたときでした。
「新入りかぁ」
いきなり、頭の上から声が聞こえてきました。
しょんぼりと垂らしていた耳もしっぽも反射的にピンと立ち上げて、灰色狼は頭の上を見上げます。
太く張り出した木の枝の上に、山猫が寝そべっていました。
ちょっと見たことがないような綺麗な山猫です。
灰色狼はびっくりしてまじまじと山猫を見上げました。
山猫はひょいと枝から飛び降りると、灰色狼にちょっと笑いかけました。
つられて灰色狼も笑顔を返しました。
それからはっと気がついて、灰色狼は山猫に、自分はどうやら道に迷ってしまったらしい、ついてはこの近くに狼の巣はないかと訊ねました。
山猫は気の毒そうな顔をして首を振りました。
見るからに意気消沈した灰色狼に、山猫はそういう意味ではないと言いました。
「ここがどこか知ってるか?」
言われて灰色狼は周りを見回してみました。
どこにでもよくある森の風景です。
ありふれた風景ではあるのですが、改めて観察してみると、ありふれすぎているような気もします。少なくとも、故郷の森にはこんなに無個性な場所はなかったように思います。
いつの間にこんな場所に来てしまったのかと灰色狼はびっくりしました。道に迷うにもほどがあります。
うろたえる灰色狼に、山猫はさらに気の毒そうな顔になりました。
おろおろしている灰色狼の肩になだめるように手をおいて、山猫がここは世界の行き止まりだと教えてくれました。
一体どういう意味かと灰色狼が訊ねると、山猫は首を振って知らないと答えました。
「俺も人からそう聞いただけだから」
ただ、と山猫は続けます。ここにいると、いろいろなことをどんどん忘れていくのだと。
「そうやって何もかも忘れた奴は、いつのまにかいなくなる。憶えてるうちはこの森からは出られない」
山猫の真っ黒な目が怒りか憤りかのためにきらきら光っています。
「憶えてるうちは出られない。全部忘れてしまえば、森から出られる」
そもそも灰色狼は方向音痴ではありません。むしろ方向感覚は鋭いくらいです。
なのに道に迷ったのは、そういうわけだったのです。
腑に落ちると同時に灰色狼は大いに焦りました。何しろ故郷の森には大事な人が待っているのです。
大急ぎで帰らなくてはいけないのに、忘れるまで出られない?
それは困ると灰色狼が訴えると、山猫はまたちょっとだけ笑いました。
「うん。俺も忘れる前に帰りたい。他にもそういう奴らがいる。みんなでどうすればいいか考えてる」
こっち、と言って、山猫は灰色狼の手をひっぱって歩き出しました。
「名前は?」
灰色狼が思い出せないと答えると、山猫はじゃあ俺がつけてやるよと言いました。
「アレフっての。どうだ?」
寂しがりやの狼の名前だと山猫は言いました。
「憶えてるのか?」
灰色狼が訊ねると、山猫は困った顔になって灰色狼を振り返りました。
「全然。そういう名前の、狼を知ってるって事だけは憶えてるんだ」
憶えてないけど、心配なんだ。そいつ、でかい図体して独りに弱いから。
「へえ…俺はそういうことも憶えてないな」
大事な人がどんな人だったのか思いだそうとしながら灰色狼が呟きました。
あんなに大事に想っていたのに、灰色狼にはもうそのことすら思い出せません。
大事な人がいたことは憶えています。でもそれだけなのです。
よくよく想い出そうとすれば、故郷の森の景色もひどくぼんやりしています。
灰色狼は気付かないうちに随分たくさんのことを忘れているようでした。
そんなことを灰色狼が話すと、山猫はひょっとして俺より長くこの森にいるんじゃないかと言いました。
森の中をうろうろしているうちに、そのことを忘れてしまう人もいるのだそうです。
「どうもお前より俺のほうがいろいろ憶えてるみたいだな」
相変わらず灰色狼の手をひきながら山猫が言いました。
そうなのかもしれないと思いながら、灰色狼は前を歩く山猫に訊ねます。
「名前は?」
リィ、と山猫が短く答えました。
それからちょっと悲しそうに、でもこの名前をつけてくれた人はもういないのだと付け足しました。
「そういうふうにな、みんないなくなるんだ」
「…そうか」
「ああ」
山猫は今度は振り返らずにざくざく進んでいきます。
ひょっとしたらと灰色狼は思いました。
ひょっとしたら、灰色狼の大事な人はこんな人だったかもしれません。
寂しいときにそばにいて、手を握ってくれるような。
灰色狼と山猫がいました。
山猫は灰色狼の手を引いて、灰色狼は山猫に手を引かれて、くらい森の奥深くを歩いています。
手を離さないようにしっかりと握って、灰色狼と山猫は歩いていきます。
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