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ああ、これは夢だ、と思った。
かつて在り、今はない、過ぎ去った幸福の断片だ。
いつかの時、どこかの場所。まだ彼が傍らにいて、日々を過ごしていたころ。
見覚えのあるような景色の中、耳に馴染んだ朗らかな声で彼が笑っている。のびやかに息をしている。苦もなく通りを抜け、指の長い手で扉を押し開けるとドアベルの柔らかな音色がする。彼は時折こちらを振り向く。その度に色の深い瞳に映っている自分の顔を見ることができた。
毎日のように顔を合わせ、あれこれと語り合い、四六時中とまではいかなくとも一緒にいた。たいていは手の届く程度の距離だったけれど、時々はそれよりも遠く、世界のずっと向こうにいることもあり、稀には息のかかるような距離にいることもあった。
どこにでも転がっているありふれた幸福だった。ささやかで取るに足りない、あまりに日常的で、同じ時が続くことを疑いもしないような。
けれどそれゆえに容易に破壊されうるのだということを忘れていた。
夢の中の微笑む君、その笑顔の愛しさと悲しさ。
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「‥‥‥」
目が覚めて、アレフは体を起こした。
眠気はすでにない。視線を転じれば窓の外はまだ暗い。カーテンを開けてガラス越しに見上げた空は、しかし予想に反して東の端が明るくなりかかっていた。
鍵を外し窓枠を押し開けると、季節外れの冷たい空気がどっと入ってきた。夜明け間近とはいえ今は春だが、昨日から冷え込んでいるのだ。時節が逆戻りしているらしい。
吐く息が白い。
頭の芯に沁み入るような朝だ。
窓から覗く路地には人気がなく、動くものもない。
起き抜けで乱れているであろう髪の毛を手櫛でざっと撫でつけ、アレフは黙って窓辺に佇む。
リィがこの街から姿を消したのは去年の春、それからもう一年が過ぎる。使者が来たのは春の浅い頃、今は春の盛りを過ぎているのに、それでもまだ彼は帰らない。それどころか便りの一つもなく、風の噂にも聞かず、その行方は杳として知れない。まるで影の国にでも行ってしまったかのようだった。
帰ると言ったものなら生まれ育ちの場所に戻ったろうと思っても、果たして彼が真実帰郷したかどうかは疑わしい。
それでもなお帰るという言葉を信じても、彼の郷里について地名を特定するどころか土地柄すら挙げられないのでは、探そうにも探せない。リィは自らの過去に関することには誠実でなかった。訊かれて答えた言葉に嘘はないかもしれないが、事実を正確に理解できるように表現してはいなかっただろう。
後を追っていけばよかったのだと気が付いたときには時間が経ちすぎていて、不可能ではないが非常に困難だと予想がついて諦めた。
諦めて、そしてアレフはまた昔のように戻ってしまった。
ぽっかりと空いた時間と淋しさを埋めるために異性に声をかける日々。公共の場所に穴を掘ってまで手放した鍵束はまた手元に戻ってきた。
別に埋めたものを掘り起こしたわけではない。ただアレフが鍵を蒐集していることはよく知られていて、見た目は普段通りに振る舞っていても親しい人に突然去られて落ち込んでいるらしい彼を慰めようと、優しく気前のいい女性達がくれたのだ。リィがいるなら返しもしたがいないならば断る理由もなく、その重みが慰めになることを知っているアレフはありがたく鍵を受け取った。
リィを知らなかった頃との違いは、ジョートショップの仕事を時折手伝うようになったことくらいだ。行方知れずが連絡する所といったらここ以外には思いつかなかったし、店には時々男手が必要だったからだ。腕力が要るだけならアリサに懸想しているアルベルトでも充分だが、個人的に奴の邪魔をしたかったという狭量な理由もある。なにより、あんな別れ方をしたせいで縁を切られたかもしれないリィが自分に連絡をくれるとは思えなかったが、アリサになら間違いなく消息を知らせるだろうと思ったのだ。
リィはアリサに恩義を感じていたし、尊敬していて、懐いてもいた。そんな相手に不義理を働くような性格ではないと知っていたから、確実にリィに繋がっているジョートショップと疎遠になりたくなかった。
そのことを思う度、自分とリィとのつながりの不確かさにアレフは痛みを覚える。
まったく、あんな別れ方をするべきではなかった。あんなことを言うべきではなかったのだと、今更のようにアレフは思う。
あの日、東から男がやってきてリィを連れ去ってしまった日に、かつてない深刻な諍いをしたことがずっと気になっている。
そもそも自分たちは親しかったが性格は著しく異なっていた。生まれも育ちも趣味も主義主張も色合いもまったく違っていて、よくよく考えてみればこれで仲が良いというほうが不思議なくらいだ。だから些細な衝突や意見の相違はよくあることで、それはいちいち思い悩むような事柄ではない。
いつもがそうだったから、あの日の根の残る諍いが気にかかる。
ひょっとしたらそのせいで帰ってこないのかとアレフは考えてしまう。
もちろんそんなはずはないとわかっているが、それでもそう考えてしまうのは、あのまま喧嘩別れしてしまったせいだ。リィは拒絶し、自分は突き放した。それまでの、単純な、いっそ微笑ましいくらいにくだらない、幾度となく繰り返された小さな諍いとは、決定的に違う。仲良くやっているときでも仲違いしている最中でも通じていたものがぶつりと断絶し、それぞれの心情が互いから離反した。それでもまだ、顔を見て嫌みでも皮肉でも何でもいいから言葉を交わして、それから別れていれば話は違ったのだろう。
あの後すぐにリィはこの街を発ち、アレフは途切れたものを修復することも廃棄することもできずにいる。
今思えばあの時のリィは妙にいらいらしていたようだった。父親や弟だという男に対して良い感情を持っていないように見えた。故郷のこと、子供の頃のこと、エンフィールドに来る前のことを尋ねると、あからさまに答えたくないような素振りをみせた。ならば過去に何かがあり、それが原因で生まれ故郷を離れたのではないかという予測はすぐにつく。その何かはリィにとって耐え難いもので、だから新しい場所で生きようとしたのなら、以前の場所に戻ることはきっと苦痛だったはずだ。なのに自分はひどい態度をとった。そうでなくとも、あれは好きだの何だのと掻き口説いた相手が旅立つときにとる態度ではなかった。
だからアレフは愚にもつかないことを何度も考える。リィが帰らないのはあんな別れ方をしたせいではないのかと。
それに、それ以外に彼が帰らない理由が思いつかない。
皆はリィが連絡も寄越さず帰りもしないのには、したくともできない理由があるのだと考えている。誰もが口にはしないことだが、例えば命を落とすとかその寸前までいって帰ってきたが無事に済まなかったとか、そういうどうしようもない深刻な理由だと。
だがアレフはそれはないだろうと思っている。死んだり意識不明のままだったりするような、そんな大事がリィの身に起こったなら、これほど彼のことを想っている自分にわからないはずはない。根拠も理由もないただの思いこみだとわかっているから、誰にも言ったことはない。それでもそう信じている。
時間と共に明るくなっていく空を見つめ、身じろぎもせずに窓辺にいると花冷えが体の中に染み込んでくるようだった。
このままでいても風邪をひくのが落ちだと思い、窓を閉めようとしたときだった。
人気のない路地に、ふと、影が差したようだった。アレフははっとして路地を見直した。先刻と少しも変わったところはなかった。気のせいかと思ったが、アレフの注意を引いたものは、少なくとも影ではないそれは、まだ路地にあるように思えた。
アレフは窓から身を乗り出して上下左右を眺め渡した。おかしな所はない。路地には誰もおらず、何もいない。なのにアレフの胸の中は途端にざわめきだした。心拍数があがり、呼吸が速くなるのがわかる。
(――まさか)
まさか!
そんなはずはないと思いながらも、アレフは身を翻して急いで玄関へ向かった。
昨夜しっかりと施錠した自分に舌打ちしつつ鍵を外し、伊達男としてあるまじき事に夜着のまま表に飛び出す。玄関に面した誰もいない往来を見渡し、窓から見える路地に入り、胸騒ぎの原因を探して視線をさまよわせる。
いつもとまったく変わりばえのしない光景しかなかった。
その中に異物があるはずなのに何も見つからないことに焦って、アレフは意味もなく周囲を見回した。なにかあるはずだ。なにか。なんだかわからないが、それは見つかりさえすればわかることだ。こんなことは今まで一度もなかった。
この時アレフは「それ」が気のせいだなどとは少しも思わなかった。リィの無事を信じていることと同じ理屈かもしれない。根拠も理由もないが、「それ」はとても近く感じた。アレフが帰りを待ちわびといる人にとても近いと感じた。
しかし、まるで誰かが息を吐いたようにふわりと空気が揺れて、それっきりアレフの胸を騒がせるものは消えてしまった。
唐突に何の変哲もない場所に放り込まれたようで、アレフは今度は別の理由から周囲を見回した。
あの影のような気配のようなものは綺麗さっぱり消え失せていた。
しばらくは諦め悪くその場に留まっていたアレフだったが、こうしていても無駄だと思い切りをつけて家の中に戻ることにした。ここに至ってようやく夜着のままだと気付いたからでもある。
アレフはそれにしてもついに自分の頭はどうかしてしまったのかと考えながら足を引きずるように路地を戻った。さっきの「それ」があまりに急になくなったので、自信が保てなくなったのだ。いつもいつも、気がつけばリィのことばかり考えているせいだろうか。
これでは、まるで。
やまない雨の中にいるようだ。
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みじめな気分で家に入っていくアレフの後ろで、吐息のように空気が揺れた。朝の白い光に透ける、ごく淡い人影のようなものがその場をゆらりと横切り、さほど間をおかずにまた空気が揺れると、そのまま溶けてなくなった。
あとには春の朝陽が残った。
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