すき だと いう こころに うそは ない 、 けれど





つ ば さ の な い と り  3

還 ら ぬ 想 い 出





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 幻の靴が廊下を横切る。
 幻の影が部屋を横切る。
 これは誰の夢?(誰の心?)

 暗い窓を叩く人、でも中には誰もいない。
 梢の風が寂しいと言った。窓辺のランプが淋しいと答えた。光る鏡が独りだと泣いた。
 灯りのない窓を叩く人、でも中には誰もいない。
 こつこつと音がする。

 幻の手が窓を叩く。
 これは誰の夢?



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 朝は晴れていたのに、陽が高くなるにつれて雲行きが怪しくなり、夕方になる頃には空はすっかり曇ってしまった。明日か、早ければ今日のうちにも雨が降り出しそうだ。
 外に出ようか、だとしたら傘をどうするか、窓ガラスごしに空を覗いたアレフはしばらく迷って、結局傘は持たずに出ることにした。独りの家で食事をする気になれないので、近頃は外食ばかりしている。寒いので上着をもう一枚羽織って家を出ると、雲がのしかかってくるようだった。
 ジョートショップと役所の間を抜けてさくら通りを西へてくてく歩きながら、考えるのは相変わらず同じ事だ。堂々巡りを繰り返すアレフには春の花も慰めにならない。歩く速度で近づき遠ざかる町並みを見るともなしに眺める。たった一人の欠落が街の音も春の色も洗いざらい漂白してしまう事実を今更思い知る。
 それでも想うのは彼のことばかり。
 遠く白い世界の彼方の、今何処に彼はいるだろう。
 曇り空はいつもより速やかに暮れていく。夕暮れの暗がりと街灯が灯るまでの間隙に身を潜めるように、そこに彼が、い

 いるわけがない。

 アレフは思わず足を止めた。その脇を家に帰るらしい子供らが駆け抜けていく。立ちつくしたまま見つめるその場所には誰もいない。いや、今、子供が通っていったが、そういうことではない。
 今朝と同じだ。アレフは動揺し、後ろを振り向いた。前後左右を確認して、まさか雨雪ではあるまいし空から降ってきたものでもないだろうと思いながら上も確認し、水でもあるまいし染み込んで消えるはずもないだろうと思いながら下も確認した。
 何もなかった。
 今朝と同じだ。
 気のせいだろうか。あるいはなにかの(それがなんなのかさっぱりわからないが)偶然だろうか。それともまったく無関係な誰かの意図を感じとっているだけだろうか。
 三番目の可能性はあり得そうに思えた。なにしろこの街は幽霊があちこちに出没するし、しょっちゅう魔法が暴走して騒動が起きたりするし、実に何が起こってもおかしくない所なのだ。
 往来で立ち止まっているのも馬鹿馬鹿しく、アレフはのろのろと歩き出した。
 そういえばシャドウという神出鬼没の謎の男が徘徊していたこともあったのだ。シャドウの消息は最後に一緒にいたはずのリィに聞き損ねているので分からない。雷鳴山の噴火騒動以来姿が見えないが、この街に留まっていない保証はない。それにあんな奴が世界に一人しかいないと決まっているわけでもない。似たような奴がエンフィールドに来ているのかもしれない。
 そもそもあの気配だってただの気のせいという確率が一番高いようにも思える。今朝は想い人の不在が引き起こした錯覚。さっきのは勘違いだ。夕暮れの通りにはそれなりに人通りがあるから、今朝のことを引きずっているせいでそんなふうに思っただけだ。
 説得力のある説だ。
 アレフは心の中で頷いた。そうだ、きっとそうに違いない。絶対に違うと主張する一派が奥底にいたが、それには頑迷に蓋をして目を背けた。別にそれで彼が帰るわけではないからだ。
 考え込んでいたせいで危うく目的地を通り過ぎるところだった。
 柔らかな音色のドアベルを鳴らして、アレフはさくら亭の中に足を踏み入れた。いつもの通り。




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 新作メニューだという川魚と木の実と香草のホワイトソース煮込みアスパラガス和えをつつきながらアレフは新説を思いついた。
 曰く、リィが帰らないのはあのフェニックス美術館盗難事件の時のようなトラブルに見舞われたからである。あのときは再審請求を通すために一年掛かった。リィは変に不運だったりするから、どこかで似たような事態に陥っていてもおかしくない。もっとも、この説は音信不通である理由を説明していないので、明らかに誤りなのだが。……それとも誤りではないだろうか。かつてこのエンフィールドでそうだったように、どこかの街で問題を抱えながらも、親しい人々とそれなりに楽しく過ごしていたりするのだろうか。
 考えるだに不愉快になってきたのでやめることにした。
 八つ当たり気味の勢いで料理を片づけてアレフは席を立った。このまま閉店間際までねばるという選択肢もあるが、今は暖かなざわめきよりも人肌が恋しい気分だ。
 勘定を済ませる間にパティと特筆すべき事もない世間話を織りまぜた会話を交わし、その裏側で鍵束の中のどの鍵を使おうかと考える。今の気分に合致する対応をしてくれそうな鍵の元の持ち主を検索しながら扉を内側から開けた。
 するとそこにたった今扉に手をかけようとしていたらしい人がいた。どうやらそれはシュウで、彼は礼儀正しく挨拶してきたようだったが、アレフは見ても聞いてもいなかった。
 その後ろ。三歩分の距離を空けて、立っている。
 アレフは声をあげた。
「……リィ!」
 違う!と冷静なもう一人のアレフが叫んだが、止まらなかった。
「な、な……っ、いつ帰ったんだよ?! そ、その前にそうだ何かあったのか?! 無事か?!」
 混乱したアレフの後ろの方から「なんですって?!」「本当かい?!」などと驚き慌てる声がしたが、頓着している余裕はない。
 障害物(シュウだったらしい)を無意識に力一杯押しのけて、アレフは一歩で距離を詰めた。
 間近に深い色の瞳をのぞき込む。ぬばたまの黒。
 手を伸ばすと白い貌がすっと遠ざかった。形のいい唇が開く。
 その瞬間、背後の扉が開いて、
「ちょっと! いつ帰ってきたのよ!!」
「ぐふっ!」
 飛び出してきたパティに激突されてアレフは顔面から地面に倒れた。




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 シュウが連れてきたのは黒い瞳を持った旅装の女だった。
 結局、アレフが勘違いしただけでリィと彼女は一応全くの別人ということらしかった。らしいというのは、当の本人の記憶がすっぱりなくなっているせいで、そういった諸々の事情を聞くというただそれだけのことに、実に二時間もの長い時間が必要だった。話の内容が多かったわけではなく、横やりが入ったり途中参加した聞き手のために最初に戻ったり勘違いと早とちりから来る騒ぎを静めたりと、いろいろしていたからである。シュウとその連れが食事をしながら話していたせいもある。
 もっぱら話していたのはシュウで、リィによく似た旅人は時折補足説明する以外は静かに食事をとっていた。
 アレフはといえば、鍵束の鍵のことなど綺麗さっぱり忘れてシュウの話を聞いていた。もちろんしっかり美しい旅人の隣を確保しているあたり、抜け目がないと言えよう。
 他にこの場にいるのはパティ、リサ、エル、トリーシャである。
「……ということで、泊まる所がまだ決まってないっていうから連れてきた」
 そこまで言い終えたシュウは食後のコーヒーを一気にあおり、ふーと大きく息を吐いた。喋り通しで喉が渇いたのである。
「まかしといて。今日は空いてる部屋があるわ」
 パティが空になったシュウのカップに新しくコーヒーを注ぎながら請け負った。
 静かに礼を述べた旅人の顔をしげしげと見遣って、エルが感心したように腕組みをした。
「それにしてもよく似てるなあ」
「そうか」
「もーほんとそっくりだよ! ボク絶対にリィさんの親戚かなんかだと思うな」
 ゆっくりと答える旅人の語尾にトリーシャの確信に満ちた声が被さった。
「きっと生き別れの双子に違いないよ」
「トリーシャ、いくらなんでもそれはちょっと……」
「そうよ。それに、リィからはそんな人がいるなんて聞いてないわよ?」
「ボウヤはそういう話はしなかったからねえ」
 そういった会話には参加せず、アレフはじっと旅人の横顔を眺めている。
 旅人は若い女だ。しかし女性らしい印象は受けない。黒い髪に黒い瞳、肌は白く、痩せすぎているが十分に美しい。適正に肉がついていれば絶世の美女と言っていいだろう。実に惜しいとアレフは思う。着るものはくたびれた旅装だが、身に纏う雰囲気は涼やかに落ち着いている。そのせいか歳はよくわからない。食器を扱う手つきは礼儀作法に則った優雅なものだった。あまり空腹ではなかったのか、食事は軽く済ませていた。コーヒーはブラック。言葉に不自由は見受けられない。先刻から臆面もなく見つめているアレフの視線に気付いているだろうに、特に意識した様子もなく、周囲を飛び交う憶測に静かに耳を傾けているようだ。
 アレフは、彼にしては非常に珍しいことに、話しかけようとしてかける言葉を見つけられず、意味もなく手の中のコップをぐるぐる回していた。彼はこの美しくも女性らしくない旅人に対して、なんとも落ち着かない気分を味わっていた。
 旅人は本当にリィによく似ていた。うり二つの別人よりも本人だと言われた方が頷けるほどに。
 だがそれも顔かたちだけのことで、雰囲気や話し方は全然違う。
 アレフは似ている外見と似ていない中身の不整合にひどく違和感を感じるのだ。

「私の顔はそれほど見応えがあるのか」
 ふと旅人がアレフに顔を向けた。言葉は責めるふうでなく、ただ純粋に疑問に思っただけのようだった。
 黒々とした瞳に見つめられ、アレフは内心たじろいだ。瞳の色が深すぎて感情が見えない。いつもなら美貌を讃える軽薄なセリフの一つや二つくらいわけもなく口に出せるが、この時はそうはいかなかった。
「……悪い」
 一言謝ったアレフに、旅人は表情を変えるでもなく応えた。
「咎めてはいない」
 熱のない淡々とした言い様にアレフは拒絶を受けたように感じた。リィの不在に弱っている心が曲解をしただけだが、傷には違いなかった。
 黙ってしまったアレフを見遣り、旅人は口を開いた。
「そのリィとかいうのはどんな奴だ」
「あ、そうだ、俺も知らないんだ」
 シュウがくるりと振り向いた。彼とリィはちょうど入れ違いのようにエンフィールドを出入りしていたので面識がないのだ。
 そこでリィを知っている他の面々が教えることになった。といっても口々に己の主観によるリィ像を言い立てるだけなのだが。
「どんなってとにかく乱暴なのよ。もう何かっていうとすぐ腕力に訴えようとするんだから」
「そうだねえ、ま、なかなか見所のある奴だね」
「しょっちゅう走り回ったり叫んだりしてた気がするけど」
「すごく格好いい人だよ。すら〜っとしてて、目元が涼しくて……」
 等々。
 誉めているのとけなしているのがほぼ等分だ。
 うんうんと頷きながら真面目に耳を傾けているシュウとリアクションはないもののきちんと聞いているらしい旅人を横目で眺めて、アレフは少々不安になった。
 ……彼女、ただ似てるだけでまったく無関係だったらどうしよう?
 色々と複雑な心境故に口をつぐんでいるアレフだが、その本性は旅人とリィとの関わりを確信している。還らぬ想い出を繰り返し手繰り続ける身にはそう判断するだけの下地がある。ただし事実の裏付けはまったくなく、それだけにリィと異なる言動を見るにつけ確信が揺らぐのである。
 半ば目を伏せるように自分の手元を見ている旅人の、コーヒーカップを掴む指が白く細く、まるで骨格標本のようだとアレフは思い、己の連想の不気味さにぞっとした。
 幽鬼のようなと言う表現は、旅人にあまりに似合っている。
 そしてそれは、明朗なリィとは対極を成す表現なのだ。


(リィじゃないのか?)
 これは一体誰だろう。


 見つめるアレフの手の中で冷めたコーヒーがたぷりと波打った。






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