ぼくはかえる かならずかえる きみのところへ





つ ば さ の な い と り  4

此 岸 に 至 り て





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 そこはどこまでも開けた平らかな場所だった。
 空は青く晴れ渡っている。夏の露を含んだようなつややかさとも、秋の次第に増していく高度と透度とも、冬の厳しく冴え渡った透徹さとも違う、明るく光に満ちていながら眠りを誘うようにとろりとした色合いの空だ。その高みに真っ白くふかふかした雲が二つ三つ、ゆったりと浮かんでいる。
 太陽は中天で輝き、世界を陽気な暖かさに温めている。
 遙か彼方には紫に霞む山並みが見え、大地は若草色で覆われている。所々に小さな白と紫と黄色の花が群れるように咲いていて、柔らかな風に静かに揺れている。時折、思い出したように高く遠く風の声がする。
 その天地の間に立てば大地はほのかに暖かく、草は素足に少々くすぐったい。穏やかな風には微かに花の香が混じっている。
 心地よい陽光を浴びていると、まるで躯が浄められて透けていくような気がする。
 これほどまでに美しい世界の主こそが己なのだ。そのことに非常な満足を憶え、これ以上希むことなとないように想われた。
 踏み出した足も軽く歩きだせば、足元の花びらが幾枚か、ふうわりと舞い上がりまるであとをついてくるようだった。
 明るく静かな世界は歩くだけでも楽しく、時折綺麗な声の小鳥や軽やかな蝶が風に乗るようにしてじゃれてくることもあり、それらと戯れるのもまた楽しかった。
 そこはどこまでもどこまでもひらかれていて、遮るものとてなく、果てがない。
 いくら歩いても陽は翳りも傾きもせず、足も疲れない。ただ空の高みを雲だけがゆっくりと流れていく。山並みは近づきも遠ざかりもせず、空と接して微睡んでいるようだった。
 どんな気分かと訊かれればこれこそが幸福だと答えたろう。
 熱くもなく寒くもなく、飢えもなく乾きもなく、胸の内は充足し、手足は縛られず自在に動く。
 安定して満ち足りた世界、心騒がすものもない。
 だが不意に気付いてしまう。
 足を止め周囲を見回し、変わらない世界の中に、たった一人でいることに気が付く。
 しばらくその感触に耐えていたが、直に耐えきれなくなり、名前を呼んだ。
 心臓の奥に隠してあった、持ち主すら知らない名前だ。
 けれど誰のものとも知れない名前に応える声はなく、それどころかこの広い世界に呼びかけは拡散し薄れて消える。
 何度も繰り返し繰り返し声を嗄らすほどに呼び続けても、何一つ小揺るぎもしない。
 堪えきれずに涙を零すと、あとはもう止まらなかった。
 泣いて名前を呼び、応えは還らず、それでもその場に留まることは歩むことよりもなお絶望で、足を動かすしかなかった。
 陽は翳らなかった。風は強くもならず止まりもしなかった。大地はしっかりと足元にあり、草と花は静かに揺れていた。山並みは変わらず遠くにあった。鳥と蝶はやってきて纏わりついてはまた飛び去っていった。
 強固な世界に取り巻かれ、ここから抜け出す術が見つからない。
 泣きながら呼びながら歩き続ける。
 果てのない世界を、
 どこまでも独り。




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 夢を見ていたらしい。
 長い長い距離を歩いていく夢だった。親しい人を訪れる幸福な夢だ。その人のことをとても大切に思っていた。会えることが嬉しく、喜ばしかった。随分と待たせてしまったけれど、その人はちゃんとそこにいて、怪我もなく元気な様子だった。それがとても嬉しかった。
 眠りから覚める僅かな隙にそう自覚したが、意識が浮上する間にそれはこぼれ落ちていき、掠れ薄れて文字通り泡沫の夢となる。誰かの残滓、記憶の面影、喪って遺された欠片を繋ぎ合わせて意味在る形にするのはとても難しい。
 ただ少なりとも記憶の内に残しておこうと足掻くのは、今現在、自分がまったく笑えない状態にあるからだ。過去はないし、身体制御も不確実ときた。
 体を起こそうともがいていると惨めで腹立たしい気分になってくる。寝起きは実に不便だ、体がいうことを聞かない。毎朝目を覚ます度に身動きとれないのでは無防備すぎると思い、さらにその度にそれでなにか不都合でもあるのかと思う。起きてすぐ動けないから何だというのだ。命を狙われているわけでもあるまいし。
 自嘲に唇を歪めながらもなんとか起きあがることに成功する。これだけで一仕事だ。思わず大きく息を吐いて、重い手を持ち上げて額に当てる。うっすらと汗をかいていた。
 薄暗い窓の外をカーテンの隙間からちらりと見遣る。
 頭を首だけで支えるのが重労働に思え、膝に頬杖でもつこうと我ながらひんやりした皮膚に触れながら手を移動させる。
 いくらも動かさないうちにぎょっとして手を止めた。
 目じりからこめかみにかけてが濡れていた。
 しばらくその意味が分からずに呆然とする。髪の毛をぐしゃぐしゃまぜながら寝起きで血の巡りの悪い頭の中身をひっかき回して、ようやく涙という単語を引っぱり出した。それからさらに時間をかけて、やっと自分が泣いていたことに思い当たった。そしてその後さらに間をおいてから、泣いた事実に驚いた。
 頭が回っていない。
 その停止頭脳で考えるに、寝る前に泣いた覚えはないし、そうだとしても寝ている間に乾くだろうから、泣いたのは寝ている間ということになる。寝ながら泣くなんて想像するとちょっと不気味である。
 何だろうと、思う。そんな泣くほどのことが寝てる間にあったとすれば夢くらいしかないだろうが、しかし肝心の夢の内容についてもうほとんど忘れかけている。
(えーと確か……逢い引き?のような……違ったか? 違った気がするな……)
 思い出そうと努力してみたが、結果ははかばかしくない。
(なんだったかな……うーん…………やっぱり逢い引きが近いような……いや散歩だっけ?)
 いまだぐらぐらと定まらない思考回路で考え続ける。
(散歩で逢い引きってのもなあ。違うよな……? なんだっけ、……あーっと……誰かと会う……んだったか? ということは見合い? 見合いで泣くって、運命の出会いでもしたのか俺。やっぱり見合いも違うよなあ。うーん…………なんだったんだ……?)
 うんうん考え続けて、ふと気が付くと、すっかり陽が昇っていた。階下からは朝の賑やかな物音が聞こえてくる。かなり長時間考えていたようだ。
(だめだ、思い出せない)
 こうしていても埒があかないと見切りをつけた。身支度をして階下へ降りることにする。
(でも泣くほどのことなんて、……やっぱりあれか。くそ、なんで覚えてないんだ)
 手を開いたり握ったりして体が思い通りに動くことを確認して、ベッドから降りた。




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 朝はしっかり食べろと言う宿の娘の勧めを丁重に断って、コーヒーとトースト半分の朝食を済ませた。
 あとはさっさとでかける事にする。
 今日はシュウとトリーシャが街を案内してくれる約束になっている。人捜しをするはずのところを、うり二つの男がかつていたというので、案内がてらそちらを当たってみることになったのだ。
 食事を終える頃には、どこの職場でも仕事が始まる時間になっていた。
 外に出ると曇り空の肌寒い天気だった。この分ではせっかく咲いた花も蕾に戻ってしまいそうだ。
 昨日通った道順を逆にたどって自警団事務所までてくてく歩く。
 途中、アレフに会った。女連れだったので遠慮しようかとも思ったのだが、道の向こう側から歩いてくるのに無視するのもなんだし、挨拶くらいはいいだろうと声を掛けた。
「おはよう、アレフ」
「あ、ああ。おはよう」
 連れの女性にも礼儀として挨拶をした。が、なんだか睨まれてしまった。邪魔者と思われたらしい。
 挨拶の他に用はなかったので先へ行こうとしたら、アレフに呼び止められた。
「あのさ、どこ行くんだ?」
「自警団事務所へ」
 昨日の話はアレフも聞いていたはずだからそう言えばわかるだろう。これ以上邪魔をするのも気が引けたので、後は二人だけにしてやろうと先を急いだ。


 事務所に着くと、シュウが二人の自警団員を紹介してくれた。やたらと上背のある方がリィとやらと関係の深い人物で、年かさの方はトリーシャの父親で自警団をまとめている人物らしい。
 上背のある自警団員はなにやら複雑そうな面もちだったが、年かさの自警団員はこの街で調べ事をするなら便宜を諮ると請け負ってくれた。
 トリーシャも合流して、反時計回りで街を案内してもらう。


 サーカスのテントで赤毛の少年に突進され、学園では授業で使っていたらしいボールの流れ弾に当たり、教会で赤いリボンの少女に驚かれ、北東の家では猫耳の少女に何故か懐かれ、病院では挨拶しただけのつもりなのに騒ぐなと医師から注意され、北西の立派なお屋敷からは派手な爆発音がしたのでそちらは避けて通り、武器屋に行ったら貧相な店主にやたらと歓迎され、雑貨店のオウムにどういうわけかつつかれ、公園を突っ切って、ジョートショップという店ではお茶を振る舞ってくれたので一休みすることにした。店には眼鏡をかけた大人しそうな少女も来ていた。彼女もリィと親しかったらしく、事情を聞くと知っている事を教えてくれた。
 だが結局一日かけてわかったことは、リィという人物が随分長い間帰ってこないということくらいだった。
 自警団事務所に戻って今後の対策を話し合ったが、有効な手だては思いつかず、また問題の解決を熱望していたわけでもないので、今回の依頼はこれで切り上げてもらうことにした。
 さっぱり進展していない事態にシュウは依頼の打ち切りを渋ったが、今後も必要になれば適宜協力を仰ぐからと言って納得してもらった。



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(…………疲れた)
 自警団事務所から宿に戻る途中の橋の上で、不意に疲労を覚えた。
 一休みするつもりで欄干にもたれかかり、川面を見下ろす。意図せずに溜息が洩れた。
 うなじに川を渡る風を冷たく感じ、片手で首筋の筋肉を揉みほぐすようにして強くさすった。
 ぼーっと水の流れる様を眺めていると、頭蓋の奥に鉛のような重い塊を感じる。
 疲労の原因なら見当がついている。この街の住人は、少なくとも現在関わっている人々は、誰も彼も皆親切で、そして自分は恩知らずにもその厚情を疎ましいと感じているのだ。放っておいてくれと言い出しそうな口と不愉快な顔をしたがる表情筋を抑える為に、疲れも倍増である。
 だめだな、と思う。親切を不快に感じるような狭量なことではいけない。
 やはり人として親切には素直に感謝するようでなくては。
(なんで疲れるかな。俺って親切に慣れてなかったりするのか?)
 覚えている限りでは、邪険に扱われた記憶は少ない。ということは忘れる前の人生は不遇だったのだろうか。……悲しい憶測だ。
 もっとも疲れている理由はそればかりでもなく、今日一日でたくさんの人に会って色々と話を聞いたせいでもある。今日会った人達の顔と名前を思い起こしてみた。
(あの……アリサさんだっけ、いい人だったよなあ)
 ほわん、と胸の中が暖かくなった。
 シュウに連れられて行ったジョートショップという店は、リィがこの街で世話になっていたところだという。出迎えてくれたのは優しそうな婦人で、喋る犬のような生き物を連れていた。急に訪ねたにもかかわらず、穏やかな物腰の女主人は丁寧にもてなしてくれた。
 景気よく記憶が吹っ飛んでいるので、親のことなど欠片も覚えていないが、自分の母親がこんな人だったらいいなあと思った。
 優しくたおやかでいて芯の強そうな、あんな母親だったならどれだけ幸福かしれない。
 実の母親でなくても、ただの知り合いでも、親切に慣れていないらしい身には望むべくもない人だ。
 それだけに行方不明のリィという人物に対して腹が立つのである。
(あんな人に世話になっといて、どこいったんだリィって奴は)
 俺だったら絶対そんなことしないのに、と思うわけである。ちゃんと覚えていればという限定付なのが現在の状況でいえる精一杯だが。
 別に忘れたくて忘れているわけではないだろうが、ひょっとして自分にもあんな風に帰りを待っていてくれる人がいるかもしれないと思うと、心穏やかではいられないのだ。
 もっとも、待つ人がいるだろうと思うから、こうしてあちこち訪ね歩いているわけなのだが。
 嘆息して見下ろす川面の色は黄昏のオレンジ色をしていた。昼間に見たときには水鳥が泳いでいたことを思い出す。
「……何れの日か是れ帰年ならん、てところかな」
 呟いてから、春を過ぎても帰れぬ身には違いないがそれにしても縁起が悪かったかと思った。
 顔を上げると東の空が藍色に変色していた。こちらには雲が残っていて星はないが、この分では雨は降らずにすむかもしれない。西の方は雲が切れている。
 そろそろ戻ろうかと考えていると、静かに人の気配が近づいてきた。
 視線を転じると、そこにいたのはアレフだった。人好きのする表情に、ほんの少しだけ困惑したような色が混じっている。
「朝も会ったな」
「そうだな」
 短く答えて隣に並んだ男を眺める。端正な造りの姿は話に聞くほどには好色そうに見えない。
 その男っぽい甘やかな横顔には見覚えがあるような気がする。とはいえ、五人に一人はそんな気がするので特に興味深い顔というわけではない。
 この街の印象を訊かれたのでいい街だと答えた。
 体を反転させて両肘と背中で欄干に寄りかかる。町並みの向こうに沈んでいく夕日の眩しさに目を細め、そのまま短い言葉でアレフとのやりとりを続けた。
 橋を行き過ぎる人の数は案外多い。その一人一人がそれぞれ違う過去と現在を背負っているのは、何とも不思議な心地のする事実だった。この中の誰か一人くらい、同じものを背負っていてもいいような気がする。
 やがて応酬する言葉も途切れ、網膜に刺す赤い陽が痛くて目を閉じた。
 瞼の裏の赤い残像に眉を寄せながら欄干から背中を離す。
 目を開けて傍らにいた男を見遣る。
 アレフはどこか痛みを堪えるような、ここにいない人間を見るような目でこちらを見ていた。
 それで彼が自分とリィとを同一に見ていることがわかった。
 アレフはリィととても親しかったと聞いた。そのアレフの判断なら信憑性があるだろう。そういえば猫耳少女もリィと同じ匂いがするとか言っていた。
(でも俺と違う気がするんだよな)
 話に聞くリィは乱暴でも随分とお人好しだったようだ。対する自分は乱暴でもお人好しでもないと思う。腕力に物を言わせることは否定しないが、少なくとも仕方のない時以外は暴力を振るったりしないし、それに客観的に見てとてもお人好しとか親切とかいう性質ではない。
 よく似た別人、というのが最も可能性の高い事実であるように思える。
「そんなに似ているか」
 言った声は呆れた風であったかもしれない。
 アレフが苦笑した。
「ああ、似てるよ」
「世の中には似た人が三人いるというが」
「君みたいな美人は二人もいないさ」
 気取った言い回しが可笑しくて、失礼だろうとは思ったが笑ってしまった。
「その言い方だと、リィという奴も、女みたいな顔だということになる」
「あいつ女装しても美人だったけどな」
 ということでアレフが聞かせてくれたのはリィが女装してリサと一緒にモンスター退治をしたという話だった。曰く、なんともすごい結果になったらしい。
「なんだか変なことやってるんだな」
「ごくたまに」
 すまして答えるアレフにもう一度笑ってみせて、欄干に乗せていた手を外した。
「……行くのか?」  問いかけに頷いて、それから日も暮れたからと付け足した。
 話している間に太陽は端まで沈んでしまった。名残の赤みがまだ残っているが、直に夜に取って代わるだろう。明日は晴れるかもしれない。
 家に帰るだろうと思ったいたアレフもさくら亭に行くというので、並んで歩いていくことにした。


 道すがら、ふと思いついたので訊ねてみた。
「寂しいのか」
「え?」
 突然言われてアレフが目を丸くした。
「寂しいのか」
 重ねて訊くと困ったような微笑みを浮かべた。
「なんで?」
 問われて隠す必要性も感じなかったので正直に答えた。
「よくわからないから。……そういう、寂しいとかいう感情はよくわからない。だからどんなものか訊いておきたい」
 アレフは答えに驚いたようだったが、表に出た反応は僅かだった。
「どんな、って言われてもなぁ。人恋しいような感じかな」
「一般常識くらいの知識なら持っている。その人恋しいというのもわからない」
「難しいな……」
 アレフはしばらく考えて、あれこれ言葉を尽くして説明してくれたが、やっぱりよくわからなかった。
「感情を理解するのは難しいな」
「あー、確かに理解じゃなくて実感するものかもな」
 お互いに何か頷き合いながらてくてく歩いていると、アレフがそういえばと言った。
「さっき橋の上でなんか言ってたけど、なんて言ってたんだ?」
「橋の上…………ああ、あれか」
 聞こえていたとは意外に耳聡いな、と思った。
「詩の一節だ」
「どういう意味なんだ?」
 訊かれて呟いた言葉が東方の言葉だったと気が付いた。
「いつになったら故郷に帰れるのか、という意味だが、……これを詠った詩人は長く郷里を離れていたんだ。結局生きて帰ることはなかったんだがな」
 アレフがそっと息を詰めた。あまり縁起のいい詩ではない。
 周囲を浸し始めた夜に紛れるように、そっと口の端にのぼらせる。
「江碧鳥逾白、山花欲然、今春看又過、何日是歸年……」




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 別れしな、アレフは早く記憶が戻るといいなと言った。
 頷いておいたが、本当のことを言うと、別に記憶なんて戻らなくともいいと思っている。
 実はそれよりも重要だと思う事柄があるし、上手に隠されてはいたものの、アレフの言葉には記憶喪失の旅人がリィであればいいという期待があった。
 明らかに性格は違うと思うのだが、顔が似ているということは意外にやっかいだ。
(それに俺一応女だしなあ……)
 いやまったく、どいつもこいつも自然に流してしまっているが、この場合は記憶よりも性別の違いが問題なのだった。これさえ説明できれば、案外簡単に此岸に戻れるように思うのだが……。






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