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それはいつも同じような調子だ。 お世辞にも丁寧とは言い難い。吐いて捨てるというほどではないけれど、礼儀や敬意といったものは感じられない。 親しげをやや通り越して、呼び捨てるという形容が似合ってしまう。 「アレフ」 ぞんざいな口調で。 呼べば答えるのが当たり前だと言わんばかりの。 「おい、アレフ、聞こえないのか?」 一度で答えないだけで語気に苛立ちが混じる。 気が短いと言ってしまえばそれまで。 けれど事実は違うことを知っているから、他人なら癇に障るだろう苛立ちが嬉しくて仕方がない。 にやけそうな顔の筋肉を引き締めて、気付かないふりをする。 声が聞きたい。 「アレフ!」 少しだけ異郷の響きの混じる、耳に心地いい声。 苛立ちの増している様子に、苦笑がこぼれそうになる。 つくづく短気だと思いながら、そろそろ潮時だろうかと振り向く時期を推し量る。あまり無反応だと向こうが実力行使にでしまうからだ。 げしっ! 「痛ぇっ!!」 こんなふうに。 「お前な、人が呼んでんだから返事ぐらいしろよ!」 背中に手をやりながら振り向くと、蹴った張本人はすぐ近くに立って怒りを露わにしていた。 「あ、あはは、ごめん」 「謝って済むと思うのか?」 呼んで答えないというだけで人を足蹴にする人物が言うことではないような気がする。 「いやぁ、仕事に夢中になっててさぁ」 「つくならもっとひねった嘘つけよ。ぼーっと通りを見てたくせに。どうせまた可愛い子がいたとかそんなんだろ」 『可愛い子』に気を取られていたことは事実だったので、はははと笑って誤魔化すにとどめておいた。ただし、その相手がいるのは、窓から見える通りではなく同じ室内なのだが。 「ったく、月末は何かと忙しいんだからしっかりしてくれよ」 ため息混じりの台詞に思わず笑みがこぼれた。 「…なんだよ」 「んー、悪かったなーっと思って」 「だからそういう見え透いた嘘をつくなよな」 「嘘じゃねーよ」 返ってきたのは不信の視線だった。 どうやら思い切り疑われているようだ。悪かったなどとは露ほども思っていないから、当然といえば当然だが。 「口でならなんとでも言えるよな。やっぱり行動で示してもらわないと」 書類の束を片手に持って、軽く首を傾けるようにしてこちらを見る。 言いたいことはわかるが、しかし。 たとえそうでなくとも、目の前に膳があれば、それは据えられていると見なすのが自分の流儀である。 「ほんとだって」 そう言ってのばした手は、いとも簡単に相手に届いた。 「わっ?!」 腕を引くと、難なく自分の胸に倒れ込んできた。 まずは奇襲成功である。 こちらが椅子に座っていたので、相手は半ば床に膝をつくような姿勢になっている。空いた手でこちらの肩をつかんで体を支えると、勢いよく顔を上げた。 何が言いたいのか予想がつく。 だから聞く必要はないだろうと判断した。 「な、なに………、!」 よって、抗議の言葉をさまたげる。 彼は驚いたらしく、手からばさばさと書類が床に落ちた。 奇襲第二弾も成功である。 「……ん……」 唇の隙間から吐息のような声が漏れた。 不安定な姿勢に背筋が強張っている。 腕をまわして抱き締めてやると、肩をつかむ指からゆるりと力が抜けた。 閉じたまぶたの裏に透ける黄昏の光と、耳元をくすぐる夕方の喧噪と。 腕の中にあるぬくもりと。 まるで外界から切り離されたように、穏やかな世界の中で、それだけが確かに感じられる。 じわり、と胸の奧が暖かくなる。 嬉しいというのとは少し違う。それよりも静かに、緩やかに浸透してくる。 辛いわけでも苦しいわけでもないのに、泣きたくなるようなもの。 ずっと昔にもあったような気がする。 久しく感じたことがなかったから忘れていたのだろうか。 「………」 ゆっくりと唇を離す。 心情としてはかなり名残惜しいが、適当なところで引かないと後が恐ろしい。 ごすっ!! 「でっ!!」 こんなふうに。 「…あ…あのなぁ……!」 拳を握りしめたまま、一つ深呼吸をして、 「いきなり何すんだてめーはっ?!」 思い切り怒鳴る。 「行動で示せって言ったのお前だろ?」 「けど誰もこんなことしろとは言ってないっ!!」 いくら声を荒げても顔が赤いのでは迫力はない。 「ええー?俺は反省の意を表明しただけだぜー?」 がすっ!! 「ぐわっ!」 再び殴られた。 「お前、今日残業な」 床に落ちた書類を拾い集め、無情な宣告を下す。 「これとこれとこれとこれとこれ。あ、あとこっちのもな。月末は給料計算やら何ならで忙しいからな。ついでにそっちのも頼むな」 「なんでー…」 目の前にどさどさと大量の書類を積み上げられてしまった。 「ちなみに残業手当もつかないぞ」 追い打ちである。 「どうしてー…」 「今月苦しいから」 とどめであった。 もはや言うべき言葉も見つからない。 うなだれるあまり業務用の机に乗ってしまった頭に、上から声が降ってきた。 「どうした?具合でも悪いのか?」 しらじらしいことこの上ないので、何も答えないでいると、 「ア・レ・フ」 「いててててっ」 ぎゅーと耳を引っ張られた。 「お前の耳性能悪ぃぞ?」 「わかった、わかったから離せ!」 「聞こえてんなら返事しろよ」 不機嫌そうな声である。 呼べば答えると思っているからだ。 「アレフ」 「はい、なんでしょう」 「今度はちゃんと聞こえてたな。よしよし」 機嫌は直ったらしい。 それが当然だと思っているから、答えたのが嬉しかったのだろう。 「じゃ、はやいとこ仕事にかかれよ。でないと今日中に終わらない」 「はいはい」 肩をすくめてペンを握ると、書類の山の向こうで彼がおかしそうに笑んだのがわかった。 「なあ…お前はさ、俺のほうの手伝ってくれないわけ?」 「だってそれアレフの仕事だろ」 「俺一人じゃ絶対無理。今日中に終わんねーよ」 「それは気の毒にな」 さらりと言われてしまった。 「うう……」 「…冗談だよ。もともと俺の分だし、手伝ってやるよ」 「おう、助かるぜ」 彼はどういたしましてと答える。 「あ、そうだ、アレフ」 彼の呼ぶ声は、いつもと同じ調子だった。 「ん?」 「終わったらなにか食いに行くか?」 「いいねぇ。そうしますか」 「決まりだな」 嬉しそうに微笑むのは、一緒に食事に行くからではなく、ちゃんと答えてやったからだとわかっている。 呼んで答えるのは当たり前という意識の奥底に、甘えが混じっていることに本人は多分気付いていない。他の誰かを呼ぶときと違って、自分を呼ぶときにそっけない言い方になるのも、そんな気遣いをしなくても答えてくれると思っているから。 つまりは特別だと。 そういうことの一切に無自覚なあたり可愛いと思うのだが。 やたら手だの足だのがでるのも愛情表現だと思えば何ということもない。 つくづく末期症状だなと思いながら、書類に視線を落とした。 ■終■ |