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リーファは夜道を歩いていた。吐く息が白く染まる。兄の姿を求め部隊を辞め、それからもう五日程が過ぎていた。 兄もどうやら今は単独行動をしているらしい。この数日、蒼の道化師、または自分に似た銀髪の剣士の噂を拾い集めて進んできたのだが、どうやら大分近くまで来たようだ。そんな手応えがあった。もしかしたら今日明日にでも出会うかもしれない。 そんなことを考えながら空を見上げる。日は暮れてしまったが、月が高く上がる頃には行き先の街に着きそうである。 今宵の月は見事な真円を描き、まだ浅い角度ながら夜の大地を照らしている。おかげで街道を行くには全く不自由しない。 澄み切った空気に、辺りはしんと静まり返っている。ただ、彼女の足音が響いていくだけだ。 が、不意にその静寂は破れた。行く先にある林の辺りで、人の話し声と、金属の擦れるような音がしたのだ。その音にリーファは聞き覚えがあった。 「あれは鞘走りの音!?」 思わず彼女は駆け出した。おそらく夜盗の類がでたのだろうが、何かおかしい。根拠はないが、雰囲気が、違う? 林の入り口まで駆け付け、彼女は足を止める。体が動かなくなった。以前見たはずの光景に、またしても凍りつく。 月光の下に、銀の仮面の騎士がいた。真紅の、血流そのものの剣を携えて。彼の前には恐怖に震える男たちが立ち尽くしている。やはり夜盗だろうか、粗末な武器を手に、蒼の道化師の魔剣を凝視するだけで一歩も動けない。 「兄者!! やめてくれ――――!!」 リーファが叫ぶ。刹那、彼の腕が一閃する。真紅の刀身が鞭のように舞い、彼ら全員を一瞬でなぎ払う。 飛び散る鮮血。それを、刀身が脈打ち吸いこんでゆく。その光景を月光があまりにも生々しく、また凶々しく映し出した。 「……兄者……」 リーファは全身から力が抜けていくのを感じた。これは本当にあのアルフレッドのしていることなのか。あまりの酷さにこの目で見たもの全てを疑いたくなる。全てただの夢だと思いたかった。しかし、これは全て現実なのだ。 「リフ……。また会えたな」 蒼の道化師が、こちらを向いた。だが仮面の下の表情はうかがい知れない。血を啜り終えた魔剣はまだ、鞭のような姿のまま、その手に握られている。血塗れの英雄という銘の通り、血そのものの湿った輝きを帯びて。 リーファはなんとか気を取りなおし、その剣の間合いぎりぎりまで近付く。そして、思い切って声を張り上げた。 「兄者! やはり兄者だったのだな。仮面を取ってくれ、私は聞きたいことが山ほどあるのだ!」 「リフ。仮面は取らん。お前の兄ではあるが、今の私は蒼の道化師だ。お前の知るアルフレッド・キーランではない。」 冷たい返事が返ってくる。彼女は顔を歪めた。 「何故そんなことを言うのだ!? 何故こんなことをしている!? 私には解らない! 兄者、何があなたを変えてしまったのだ? あなたの剣は、そんな獣ではなかった筈だ! 私の憧れた、あの騎士は何処へ行った!!」 あなたを尊敬していたのに。 妹の悲痛な叫びは、仮面を通してさえ兄の心を揺さぶった。剣を握る手が、震える。 「……リーファ。そんなに知りたいなら、聞くか……?」 妹は静かに頷く。真剣な目でこちらを見据えて。 アルフレッドはそれを見て、語ることを決意した。
「そん……な……」 リーファは絶句した。微かに全身が震えているのがわかる。 彼女は聞いた。大国サウザドの王子の命を守るべく、兄が国王の剣を託され、呪いを解く役を任されたこと。解く条件は一年で一千人を斬らなければならないということ。 そして―――一千人目は、身内でなければならないことを。 「サウザドの王はこう言った。成功の暁には、あの名高いサウザドの精鋭騎士団《王の剣》への入団を許可してくれると。戦に負け捕虜となり、剣闘士奴隷の身にまで落ちたこの私が、また騎士へと戻れるのだ。その為には、お前の命さえ貰う」 ずずず…… 生々しい音を立て、血流がしなる。だがそれを見ても、リーファは物怖じしなかった。 騎士へと戻る? その為に千人斬りを? ―――馬鹿げている。 「……相変わらず嘘が下手だな、兄者……」 言葉は吐息とともに漏れた。 サウザドという大国のことは彼女もよく知っている。幾つもの部族や小国の間の戦を押さえ、全てを取りこみ、平定してしまった国だ。膨大な量の土地と人民を抱えながら、衝突はせいぜい小さな氾濫や小競り合いだけに止め、あとは上手く均衡を保っていると聞いた。だが、それらを押さえている王は老齢で、跡取りはたった一人である。それが倒れればどういうことになるか少し考えればわかることだ。押さえるものがなくなったら ,元小国の王や部族の長などからなる地方領主は、国土の覇権を得んとして我先にと立ち上がるだろう。その結果が意味するものは。彼女が今まで戦ってきた、辺境諸国の小競り合いなどとは比べものにならない血みどろの戦争である。一度始まれば果てる事のない、泥沼の戦だ。 それをアルフレッドは、兄は防ごうとしているのだ。 「兄者は何も変わっていない……。」 リーファは目を伏せた。きっと本心を言えば、兄の大きな目的の為に、兄の呪縛を解く為に、自分がやすやすと命を差し出してしまうのではと恐れたのだろう。妹の逃げ道を断ってしまうのではないかと。だから、彼はあんな陳腐な嘘をついたのだ。自分に、逃げるか戦うかの選択を与えるために。 馬鹿な人だ。……愚かで、優しすぎる騎士。 「あなたはなにも変わっていない。そうやって、いつも独りで全てを背負おうとする。どんなに血に汚れていても、仮面で素顔を隠しても。あなたは、私の誇る兄者は変わっていない!」 銀の仮面の蒼い涙に、彼の心を見た気がした。 「あなたは騎士だ。ならば私も騎士として相手をしよう。私の命、持ってゆけ兄者」 勢いよく自分の剣を引き抜き、構えをとる。 強い恐怖はいまだにあった。だが剣先は震えない。優しい兄がここまで非情に徹してやってきた目的を遂げるためなら、ここで果てるのも悪くない。そう思った。なににせよ、打ちかかってきた者を斬れない兄者ではないのだ。 瞳を決意が彩る。そして彼女は、大地を蹴った。
本気だ。一目でそれが見て取れた。悲しみと、恐怖と、強い意思が溢れる瞳。瞬間、彼の体を動揺が走り抜ける。 もはや本当に後戻り出来なくなってしまったのを、アルフレッドは悟った。必死で隠していた本心はあっさりと見抜かれ、妹は、恐れていたとおりに自分から命を捧げようとしている。 しかもこちらに剣を向けて。 騎士が最も躊躇なく剣を振るえるのは、武器を捨て身を投げ出した者ではなく、刃を向けてくる相手だと知っているのだ。 だからこそ彼は動揺した。そこまで解っていて実行できる者などそうはいない。だが、彼女は実際にそうしているのだ。あと数秒で、こちらへ打ちかかってくるだろう。そうなれば本当に、斬るしかなくなる。 「……これが、リフ……お前でなければ……」 斬るべき妹が彼女でなければ、これほど迷わずに済んだのに。 本当に優しい、兄思いのお前でなければ……。 『何を迷っている? 我が主よ。月が天上にとどけば、もはや待たぬ。真実に望む血を求めに行くが、よいのか?』 期限は今日が終わるまでなのだ。だが、剣の促す声も無視する。なにか、大切なことを忘れている気がした。 そうだ……私は、何のために……。 折れた剣。自分を繋いでいた鎖。多くの仲間の死体。見せ掛けのの華やかさに包まれた、小さな闘場。暗い獄舎の中で、自分は何を望んだのか。手にした勝利と引き換えに課された役目。千人の血罪の意識。その見返りに、何を望んだ? 自由か、夢か、それとも栄誉か? 人々の平和な営みか? ―――違う。それより強く望んだものがあったはずだ。 リ−ファが動いた。流れるように動く、白銀の閃き。 ―――解らない。明確に意識したことはなかったっから。 白刃が眼前に迫る。妹の、悲痛な顔も。 『何をしている! 我に、己の身内を捧げよ!!』 刹那。頭の中の霧が晴れる!
深紅の流れる刀身が、一閃した―――。
視界を鮮血が覆いつくす。空を切った剣を手に、彼女は虚ろな瞳を宙に泳がせる。力を失った手から、抜き身の剣が地に落ちる。それは冷たい月の光を反射した。 「……どう……して……?」 擦れた声で問う。目の前の兄に。血に濡れた、その姿に。 アルフレッドの胸に、深紅の刃が突き刺さっていた。刃と呼べるかどうかも怪しい異形の刀身は、満足気にどくどくと脈打っている。銀の仮面は衝撃で飛んでいってしまったようだった。 「何故だ兄者? 私を斬るのではなかったのか? 何故自分に刃を向けた!! なぜだ!? 覚悟なら出来ていたのに!!」 取り乱し、兄の体を掴む。そんな妹の腕の中に、アルフレッドは力なく倒れこんだ。 「……剣は、身内の血を……捧げろ、と、言った……。お前を……俺の血は、同じ、ものだ……」 苦しげに咳き込みながら、彼は言った。そして、「もっと早く気づけばよかった」と笑う。 「馬鹿……! 馬鹿だ、兄者は……」 こらえきれず、瞳から涙が溢れる。泣きながら、リーファは兄の体を抱き締めた。次第に冷たくなっていくその体を。 意識が遠くなるのを感じながら、アルフレッドは満足気に微笑んだ。やっと解ったのだ。自分が何を望んでいたのかが。 望んだのは彼女の笑顔。自分は妹が、自ら望む以上の戦にまきこまれることを恐れた。立ち向かうのに疲れ、その笑顔が失われるのを恐れたのだ。その笑顔を守りたいと望んだのだ。 なんと簡単で、個人的な願いなのだろう。一千人も斬っておいてこれかと思うと、あまりの皮肉に笑いたくなる。が、その力さえももう、残っていない。 『―――我、満ちたり。定められた呪、成就と見做す。我が主にして最後の贄よ。我を満たした礼をしようぞ』 と……。遠い意識の底で、そんな言葉が聞こえた気がした。 |