湖上の悪魔:黒い分度器
それは今より遥か昔のこと。とある片田舎、寂しげな湖上に古い城が建っていた。気が
遠くなるほどの昔に打ち捨てられたその古城には、いつのころからか一人の男が住みつい
ていた。
その男は常に全身黒ずくめでさながら喪服のような服で身をつつみ、髪は白く瞳は赤か
った。そして、その背中には小さなコウモリの羽を生えていた。
彼はその風貌を隠すようにフードを深くかぶり、ゆったりとしたローブをみにつけては
近くの村に下りて行って歌を歌い、暮していた。
彼はむらの広場の一角に陣取り年代物ののリュートをかきならし、自慢の喉を披露して
は日銭を稼ぐ。
しかし彼にとってその金というものは全く意味をなさなかった。彼は普通の食料は必要
としなかったし、ほかにこれといって金のかかるような趣味は持ち合わせていなかった。
彼は人間ではなかった。必要なのは少量の血…。
そして彼には名前がなかった…。
ある秋の日のこと。いつものように村に出ていると急に風雨が強くなってきた。唐突に
嵐がきたのだ。途方に暮れた彼は仕方なく村で一晩の宿を借りることにした。さいわいい
つも歌を聞きに来てくれる娘が家を貸してくれるという。 彼はその言葉に甘えることに
した。
娘の家では暖炉の火が点され、冷え切った体を温めてくれた。
「濡れた服を着ていては風邪をひいてしまいますよ。」
その娘は非常に美しかった。名前をたしかアニマと言う。その彼女が粗末ではあるが清
潔に洗濯された服を差し出した。
かれは首を横に振った。自分の容貌は人の目に晒すべきではないのだ。
「恥かしがらないでくださいな。私はあっちへ行っていますから。」
彼女は微笑むと奥の部屋に消えて行った。
彼はしばし悩んでいたが、言われた通りに服に袖を通した。暖炉の側に置いてあったの
だろう。木の焼ける香りがした。しかしこれでは、背中の羽が目だってしまう。しばらく
思案していると娘がまた戻ってきた。
「大きさはどうかしら。父のだから大丈夫だとは思うのだけど。」
娘は湯気の立つ盆をもっていた。
「さあ、これでも召し上がってくださいな。服の方は…あら、すこし大きかったようです
ね。でもそれで我慢してくださいな。あと、濡れた服を渡してくださいな。暖炉の前に干
してしまいますから。」
娘は彼のローブを受けとって、また奥の部屋に消えて行った。
娘の姿が見えなくなったのを確認して彼は溜息をついた。
―――――さて、どうしたものか。今は上手く気付かれなかったが、やはり無理してで
も自分の城に帰るべきであったか――――――。
食事の出来は良かった。質素ではあったが、味付けなどのセンスは申し分ない。
「詩人さん、ユーリさんとおっしゃるのね。」
彼は困った。彼には本当に名前がないのだ。それを何故この娘はユーリと呼ぶのか見当
もつかなかった。
しかし、ここは話を合わせておくことにした。
「ええ。でもどうしてそれを?」
「あなたの服の裏側に刺繍がしてあっわ。」
そんなこと気付きもしなかった。以前の持ち主のものを勝手に拝借していたのだ。以前
の持ち主の名前だったのだろう。その持ち主は数年前に彼が血をすいつくして殺している。
「ああ、なるほど。そういえばそうでした。で、あなたは確か…アニマ…」
原因がわかれば動じることはない。彼は平然と言葉を返した。すると彼女は恥らうよう
に微笑んだ。
「あら、覚えていてくださったのね。」
忘れるはずもない。彼女が自分の歌を聞きに来る度にささやかな幸せを感じていたのだ
から…。彼女がそう呼ぶのなら、自分は今からユーリになろう。彼はそう思った。
空になった皿をかたづけはじめたアニマにユーリは聞いた。
「家族の方は?」
ふと彼は気になったのだ。自分が着ている服は彼女の父のものではなかったか。しかし
今ここには自分とアニマしかいない。
「いませんわ。」
アニマは寂しそうにふっと微笑んだ。
「両親は他界しましたわ。随分前に。」
「それは済まないこと聞いた。」
「いえ、結構ですわ。もう昔のことですから。」
娘はあらためて微笑むとまた奥の部屋に消えて行った。
暖炉で爆ぜる薪の音が妙に心地よかった。
「運命って不思議ね。」
その夜アニマが唐突に言った。
「何が不思議なのだ?」
彼には彼女の言葉の意味が全く想像つかなかった。
「私には以前好きなの人がいたの。あなたのように歌は上手くなかったけどやさしい人だ
ったわ。でも、数年前、突然いなくなってしまったの。湖の悪魔を退治してくると言いの
こして…。」
彼は動揺した。もしやその男とは、自分のローブの持ち主ではないか。とすれば彼女の
恋人を奪ったのはこの自分……。
「そして、私が今恋をしているのも同じ名前のユーリ…。あなたの声は本当に素敵だわ。
ずっと前から好きだったのよ。」
彼は自分の業の深さを呪った。運命とは、かくも残酷なものなのか…。
彼が罪の意識の余り真実を口にしようとしたその瞬間に入り口のドアを叩く者がいた。
「アニマや、ワシだワシだ。開けておくれ。そして今日こそは良い返事を聞かせておくれ」
嵐の夜だというのに一体誰なのだろうか。彼がいぶかっているとアニマがこっそりと耳
打ちをした。
「領主のガノン様ですわ。奥様だっていらっしゃるのに。私を娶りたいとおっしゃってる
の。すこし待っててください。」
アニマはドア越しにガノンに告げた。
「なんどいらしても答えは同じですわ。ガノン様。それに今日はお客人が来ておりますの。
どうぞお引き取りください」
「おお、愛しのアニマ。なんと冷たい言葉。私は嵐の中をお前に会いたい一心で来たのに
その仕打ちはあんまりではないか。それにこの雨と風で凍えて死んでしまいそうだ。どう
か中にいれておくれ。」
ドアの向こうの男は大げさにくしゃみをして見せた。
「解りました。ですが、嵐が収まったらお引取りくださいましね。」
アニマはしかたないと小さく溜息をついてから言った。
「おお、おお、約束するぞ。ワシは紳士だからな約束は守るぞ。」
アニマが開いたドアの向こうにはでっぷりと太った中年の男が立っていた。ガノンはそ
の体躯に似合わぬ素早い動きで家の中に滑りこむとアニマを抱擁しようとした。
「そのずぶ濡れのお姿で抱き締められたら、私も濡れてしまいますわ。先ずはお召し物を
かえてくださいませ。」
「おお、そうであった。」
ガノンが部屋の中に目をうつした時に、”客人”と目があった。するとガノンは突然目の
色を替えて怒り出した。
「アニマ! この男は何者なのだ! ワシという男がおるのというのに、このような不
貞! どういうことじゃ!」
ガノンの怒号にアニマは毅然と言い返した。
「だから、お客人がいると申しましたでしょう。それに、この方は嵐をやり過ごすために
一晩いらしているだけですわ」
「ええい、いい訳など聞かぬ! お仕置きが必要なようだな。ワシを愚弄した罪! 身を
もって知るがいい!」
ガノンは逆上し、腰にさしていた剣を抜き放った
アニマは数歩あとずさるが、剣をつきつけられて小さく悲鳴をあげた。
「そこの男…。動くなよ。動くとどうなるか位は分かるな?」
あのような体型をしていてもガノンとて戦で功をたてて領地を受けた身だ。油断なく配
る視線には威圧感がある。
「アニマ来るのだ!」
ガノンが乱暴にアニマの手を引いた。
「嫌っ!」
アニマが抵抗した拍子に剣がアニマの頬を浅く切った。
「やめろ、ガノン!」
ユーリの体が閃光となってガノンの左手を弾き飛ばす。
ガノンは数歩後ずさり、自分とアニマの間に立ち塞がった男を睨みつけた。自分の女を
奪った憎い男だ。
「おのれ! もう許さん! 貴様からあの世に行くがいい!」
ガノンは剣を大上段に振りかぶると渾身の力で振り降ろした。
ユーリが素手でその剣を弾くと、弾いた切っ先が運悪くユーリの服の袖の辺りを切り裂
いた。
ユーリの羽がの穴から飛び出す。
「…貴様…!? もしや湖上の悪魔! アニマをたぶらかしたのはやはりお前だな! く
そっ見ておれ!」
ガノンは踵を返すと嵐の夜に消えて行った。
ユーリはガノンが戻ってこないのを確認するとアニマの家にもどった。
「大変な事になったわ…。それに…。」
アニマは震える声でとちゅうまで言いかけた言葉を飲みこんだ。。
「すまない…。隠すつもりはなかったのだが…。人とは少々違うんだ。」
「いえ…いいのよ…いいのそんなこと気にしないで。」
アニマは激しく首を横に振り、そしてユーリの首に腕を絡めた。
「私はもう行こう。これ以上君に迷惑をかけられない。」
ユーリはアニマの腕をすりぬけてローブを手にとった。
「待って、一人にしないで。」
「駄目だ。”悪魔”と一緒にいたら、君は不幸になる。」
「待って! お願い!」
アニマの悲痛な叫びを背中に聞きながら彼は漆黒の空に消えた。乾きたてのローブの裾
をはためかせながら…。
その一部始終を見ていた影があったことは彼らにとって知る由もなかった。
村の南の端、領主の館。鏡台の前で悩ましげに眉をひそめる女がいた。ガノンの妻アイ
リーンである。片田舎に似合わぬ豪華な部屋で溜息を繰り返している彼女には悩みがあっ
た。
最近夫の様子がおかしい。どこかの娘にそうとう熱を上げているらしい。この妻という
地位を追われれば、また幼少の頃のように貧しい生活に戻らねばならない。それだけはど
うしても阻止したかった。
コツン…コツン
テラスの窓になにかが当たる音がする。夫につけていた間者だろう。
アイリーンは待ちかねたとばかりに窓を開く。そこには闇にとけこむ漆黒の装束を身に
つけた男が跪いていた。
「なにかわかったかえ?」
「はっ。夫君をたぶらかしたのは、村の東の外れ。風車小屋の近くのアニマという娘でし
た。そしてその娘はこともあろうに悪魔を連れておりまして…恐らく、魔女かと…。」
黒装束の男は抑揚のない声で言った。
「よくやった。褒めて遣わすぞ」
アイリーンは小躍りしたい衝動に駆られたが、それをぐっとこらえて威厳を取り繕った。
「では、報酬は例のように…。」
「案ずるな。」
「では、失礼。」
男は闇に掻き消えた。
「だれか! 誰かおらぬか!?」
夜の屋敷にアイリーンの声が響いた。
翌日、アニマのことが心配で村に降りてきたユーリの耳に大変な知らせが飛び込んで来
た。村中でその事が話題になっている。
「あのアニマが魔女だったらしいぞ。」
「なんでも領主様をたぶらかそうとしたらしい。」
「女手一つなのに随分楽な暗しだったようだけど、きっと魔法を使っているに違いないわ」
「今日の正午広場で処刑だそうだ。みんな急ごうぜ。」
「あの女は、アタシの彼を取ったわ。やっぱり魔女だったのね。あの綺麗な顔だってきっ
と悪魔との契約で手に入れたんだわ。恐ろしい!」
村人は口々に勝手な事を噂している。限りなく増幅していく憎悪を感じたが、今騒ぎを
起こせばアニマを助けようなど夢のまた夢になってしまう。
彼は感情をおし殺しながら広場に急いだ。正午までもうすぐだ。
アニマは真ん中に置かれた柱に縛り付けられていた。その足元には生木がつまれ、柱を
取り囲むように兵士が弓を携えていた。
広場には人が沢山集まっていた。処刑の前にアニマに向って石を投げつけているのだ。
ユーリの我慢は限界に達した。一気に跳躍するとアニマの前に立ち塞がり、石をその身
に受けた。
すると、ガノンの声が聞こえて来た。
「来ると思ったぞ湖上の悪魔! 今こそその魔女とともに打ち滅ぼしてくれよう! やれ
っ!」
兵士達が一斉に弓を放ち、湖上の悪魔ということばに野次馬達が蜘蛛の子散らすように
逃げまどった。
ユーリは放たれた矢を全て自分の体で受けとめた。
「この娘は関係ない! 殺すなら私だけにしろ!」
ユーリの言葉など意に介さないように矢が降り注いだ。
「やめて! ユーリ! 逃げて!」
アニマは必死に叫ぶがユーリは一向に動く気配がない。じっとアニマに向けられる矢を
自らの体でうけとめていた。
胸、肩、腕にはすでに無数の矢がつきささり、左目も射抜かれて凄惨な姿になってもユ
ーリはアニマをかばいつづけた。
「よし、いくら悪魔と言えどもそろそろ死んだであろう。止めは私の手で刺した事にする
ぞ。」
ガノンは右手を上げて射撃を止めさせると、自ら剣を抜き、近づいて来た。
「まだ、こんなものでは私は殺せんぞ。」
ユーリの口から凄みを帯びた言葉が発されると、ガノンは小さく飛びのいた。
「撃て! 撃つのだ!」
再び矢の雨が降り注ぐ。ユーリの腕に、脚に肩に矢が突き刺さる。
しかしユーリはその雨の中を悠然とガノンの方に歩いて行った。
矢が突き刺さる度に矢を引き抜いて前に進んだ。
その悪夢のような姿を見た兵士達は一斉に恐怖に顔を歪めて逃げ出していった。
「お前達! 何をしておる! 撃て撃つのじゃ!」
腰を抜かして尻餅をついたガノンが腕をめちゃくちゃに降り回しながら喚いた。
ユーリはガノンのすぐそばまで歩いてゆき、潰れたカエルのような姿のガノンに言った。
「二度と彼女に付き纏うな」
ガノンはこくこくと何度も頷いて、クルリと後ろを向くと転がるように逃げて行った。
……その時……。
「死ね!」
ユーリの背後で女の声がした。
しまったと思ったときには既に遅かった。場違いなほど豪華なドレスを身に纏った女が
アニマの腹を刺し貫いていたのである。
「ほほほほほ…あなたさえ死ねばいいのよ。あなたさえ死ねば! さあ、これであなたの
悪魔も消え去るんでしょう? 私の勝よ。おほほほほほほ」
ユーリは高笑いをあげる女との間を詰めた。今度は脅しではない。本気だ。
一瞬で間が詰まる。そして彼はアイリーンの喉を掴み、片手で持ちあげた。
アイリーンは信じられないという目をしながら、じたばたともがき苦しんだ。
「駄目…駄目よユーリ…。」
すぐ側でか細い声がした。
ユーリは手を話すと、目で『行け』と合図をした。すると弾かれたようにアイリーンは
走り去って行った。
「そう。いくら憎いからといって、殺してもなんにもならないわ。私はもう、駄目みたい
…。でもね。誰も殺しちゃ駄目よ。誰も…。もう、目が見えないの。こっちに来て…最後
に口付けを…。」
ユーリは顔に突き刺さる矢を引きぬくと、それでアニマを縛っている縄を切った。そし
てアニマを抱き締め、彼女の紫色の唇に接吻をした。
「ありがとう…あなたに会えてよかったわ…。私が死んだら、私のお墓の前で歌を歌って
ね。私が…好き…な…あなた…の声…。」
村の広場には孤独な吸血鬼の叫びがこだました。
ユーリはアニマの亡骸を抱いて湖上の城に帰ってきた。
そして、春になると一面花畑になる場所にアニマを埋めた。
「今は花はないが、春になればきっと満足してもらえると思う。それまで我慢してくれ。」
アニマが埋まっている場所に石を置き、それを墓標とした。
「私は、わからなくなってしまった。私は人を心から愛し、同時に憎んでしまった。人間
とはなんなのだ…。ある人間は私の心を打ちのめし、ある人間は癒す。私には分からない
…分からない…。私も眠りたい…君と一緒に行きたい…君のユーリでいたい…。」
彼が目覚めたのはそれから200年も後の事だった……。
この世のどこかに今でも特別美しい花を咲かせる場所があるという。
それは湖上の城。美しい娘。そして孤独な吸血鬼が眠る場所だという…。
終
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