鬼人草子:猫又三毛尾
重たい頭を何とか枕から持ち上げた檜山達臣は、先ほどから電話のベル
が鳴りつづける廊下を忌々しげに睨んだ。始めこそ無視したものの、相手に
は諦めるつもりがないらしい。明らかに、彼が自宅にいるのを見越して電話
をかけている。
もっとも、独身で自営業の男(25歳)が、月曜日の朝6時に外にいる可
能性は限りなく0に近かった。
「はい?」
「おはよう」
寝ぼけた声で返事をすると、受話器の向こうから品の良い女性の声が返っ
てきた。その声を聞いたとたん、すっきりと目が覚める。
「桃井のおばあさん?」
「はい、お久しぶり」
彼女こと桃井一重は彼にとって母方の祖母にあたる人物だが、その人がこ
んな朝早くから電話してくる理由がわからない。両親の生存中も正月に顔を
合わせるかどうか、という付き合いだった。両親が事故で死亡してから3年、
直接会ったことは一度もない。
「時に、暇でしょう? うちにいらっしゃい」
「……は?」
「できるだけ急いでね。お願いよ」
「あの、おばあさん」
問い返す間もなく、電話は一方的に切られた。
「なんなんだ?」
呟いてみても、その疑問が祖母の元に届くわけではない。
狐に摘まれたような気分で、彼は受話器を下ろした。
彼の家から隣の県の外れに位置する桃井家までは、電車を乗り継いでおよ
そ3時間弱の時間がかかる。
早朝に叩き起こされたのを幸いラッシュアワーより前に電車に乗った達
臣は、座席に座るなり猛烈な眠気に襲われた。
目を閉じたときは、5分ほど休むだけのつもりだった。しかし、睡眠時間
とはえてしてままならぬものである。
「終点ですよ」
「……あうぁっ!!」
5分のつもりが本格的に熟睡していた達臣は、若い女の声に飛び起きた。
「もう少し早めに起こしたほうが良かったのでしょうか」
少女といったほうが正しいようなその女性は、奇声を発して直立した男に
気圧されるでもなく尋ねた。
「いえ、ここで降りますから」
「そうですか」
生真面目に頷いた彼女はアーモンド形の大きな目が印象的な美人で、人並
みに身長がある達臣に比べると頭一つ分小柄だった。細長いキャディーバッ
グを背負い、首に小さな鈴を掛けている。
「ええと、どうもありがとう」
「どういたしまして」
鈴をちりんと鳴らして会釈すると、彼女はホームに降りて行く。
達臣はしばらくその場に突っ立っていたが、このままでは乗り換えの電車
を逃すことに気づいて、歩き始めた。
ホームに足を下ろした瞬間、シャツの右袖が燃え上った。
「え……!?」
慌てて左手で叩いても、消える様子はない。かえって勢いを増した炎に上
半身が包まれるまで、数秒とかからなかった。
髪が焦げ、皮膚が捲れあがり、熱さに喘ぐ口の中にも火が入ってくる。為
す術もなく体が焼け爛れていくのが、やけに鮮明にわかった。
「終点ですよ」
声を掛けられて気がつくと、目の前に車掌の顔があった。がらんとした車
内で一人棒のように立っている男を不審そうに見ている。
「ご気分でも?」
「大丈夫です」
ホームに降りる瞬間、又妙な現象が起きるのでは、との考えが頭を掠め
たが、特に何も起きなかった。
と、右手にぴりっとした痛みを感じる。何気なく持ち上げてみると、火傷
の痕のような赤い痣があった。
愕然とする達臣の前で、それは薄れて消えていった。
生家を嫌っていた母が、血縁以外の全てのつながりを拒否したために達臣と
はあまり関係がないが、桃井家はかなりの旧家で資産家である。
現代日本には不似合いなほど重々しい鉄の門の脇にあるインターホンを押
すと、しばらくして自動的に門が開く。四季折々の木や草花に彩られた広い
庭と古風な日本建築が現れた。今は泰山木が花盛りで、辺りの空気もほんの
りと香っている。
「達臣さん、いらっしゃい。突然どうしたの」
玄関から義理の叔母の由梨絵が出てきた。ややふっくらとした体形だが十
分美人といえる顔立ちで、動作も若々しくきびきびとしている。
「おばあさんに呼ばれたんですが。いらっしゃいますか?」
「お義母様? 今はお客がきてるけど」
首を傾げる由梨絵について、家の中に入る。この広い家の住人は、現在こ
の叔母と祖母を入れて4人だけだ。
「お義母様。達臣さんがいらっしゃいましたけど」
応接間の前で由梨絵が声を掛けると、少し間を置いて「お入りなさい」と
いう返事があった。
「失礼しま…」
障子を開けた達臣は、障子の枠に手を掛けたまま硬直した。
卓を間にして、和服姿の祖母が、見覚えのある少女と向かい合っている。
「君は…」
驚いたのは相手も同じらしく、ややつり上がり気味の目が限りなく丸に近
くなっていた。
「面識があるの?」
「はあ、来る途中の電車で」
「乗り換えた電車ではお会いしませんでしたよね?」
「乗り遅れました」
謎の人体発火現象に見舞われたとも言えないので、適当にごまかしておく。
「おすわりなさい」
由梨絵が茶を淹れると言って出て行くと、祖母は少女の隣を示した。
「まず紹介しておきましょう。彼女は葦原咲希さん。貴方の従妹です
咲希の父親は桃井家の長男で、達臣の母が物心つく前に家出したそうだ。
以来家の者は彼に関して固く口を閉ざしており、この家には毛一筋の痕跡も
ない。
「いくらなんでも偏執的じゃないですか?」
達臣は呆れたが、一重はこれを無視。咲希はと言えば、父親が出てきた家
でどんな扱いをされていようが知ったことではないらしい。
「私は全然構いません。あの父親ですから……」
それより別に気になる事があるらしく、小さくため息をつく。
「私が話しましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
祖母の申し出を断り、気を取り直すように深呼吸。番茶とおかきを持って現
れた由梨絵を聞き手に加え、咲希は話し始めた。
咲希の両親は彼女が小さい時に亡くなり、育ててくれたのは独り者の伯
母だった。そう行った事情で桃井家の事を知るはずもなく、婿として母の家
に入った父の旧姓も知らなかったという。しかし、そうも言っていられない
事態になった。
「伯母がいなくなったんです。仕事の関係で家を空けるのは珍しくないんで
すけど、1週間完全に音信不通というのは今までありませんでした。多少長
く帰らなくても大袈裟にするなとは言われているんですが」
伯母は義弟の親族に会いに行くと言っていたので、誰かが何か聞いている
かもしれない。
かくして彼女は会ったこともない祖母に連絡をとり、1週間前まで存在す
ら知らなかった家にやってきたわけだ。
「一応証拠として、こんなものを持ってきたのですが」
出すまでもなかったと笑いながら、脇において合った荷物を卓上に上げ
る。キャディーバッグのファスナーを上げると、紳士のスポーツ用品として
は風変わりな物が出てきた。
「父の話によると南北朝時代のもので……家出の際“かっぱらってきた”そ
うです」
装飾の一切ない無骨な太刀。黒塗りの鞘に収まったままでもずっしりとし
た重量感と存在感が伝わってくる。鞘は刀身が抜け出さないように柄に結び
付けてあった。
「確かに、蔵にあったものよ」
それを一瞥した一重は、深く頷いた。
「お返しします。不肖の父がとんでもないことを」
「いいのよ。お父さんの形見でしょう」
「でも」
「遺産相続だと思って、ね」
太刀の処遇は、うやむやの内に流れていった。恐らく咲希が持って帰るこ
とになるだろう。桃井家の長女として生まれ、数十年この家を切り回してき
た祖母は、今も実質的な最高権力者である。
「ところで、どうして俺が呼ばれるんですか?」
話を聞く限り、双方共に家出人の子供だという意外に2人に共通点はない。
「貴方の専門分野でしょう」
嫌な予感はしていたが、正しかったらしい。達臣の職業は、いわゆる私立
探偵である。父の事務所を引き継いだ始めは先代からの顧客に以来をもらっ
て実績を伸ばし、今では業界内でもそこそこの評判を得ている。
「料金は私が払うから。探しておあげなさい」
「人探しは確かに専門ですけど、手掛かりがない状態ですよね?」
「ええ。こちらに来ると言っていらしたそうだけど、着いていないのよ。何
かあったなら途中だと思うけど」
絶望的な状況のようだ。しかも1週間前。
「確約はできないけど、お代はおばあさんが負担してくれるそうだし。探し
てみようか?」
咲希は隣の青年に向き直ると、その顔を見上げた。
「樹伯母さんを探してくれますか」
低く押さえた声に尋ねられ、達臣は言葉を失う。決して大柄ではない咲希の
全身から黒塗りの太刀と共通する威圧感が放たれ、その目が金色に光った気
がした。
「よろしくお願いします」
しかし、それも一瞬のこと。手をついて深く頭を下げた咲希が顔を上げた
時には威圧感も消え去り、彼女の瞳は深みのある茶色に戻っていた。
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