人工楽園(6):黒い分度器

 この世界の月は美しい。

 都市を覆う薄い皮膜から透けて見える満天をうめつくさんばかりの完全なる真円。この月を見ていると神の存在を信じる気になる。先程までゴードンと呼ばれていた男は誰に言うとでもなく一人ごちた。

 塔の裏手。そこは塔をとりまく輝かしい街並とは違い、少し開けた場所だ。とは言っても数百メートル先には深夜なぞ気にした様子も無い明るい街があるのだが。

 その裏手に面したバルコニーに彼の姿はあった。

 彼はバルコニーに背を預け、懐から取り出した煙草に火をつける。その火は一瞬彼の指先に点り、揺らめいて消えた。

 白い煙を吐き出す。この瞬間だけすべてを考えずに済む。そして、男が目を閉じて深く息を吸い込んだ時、聞きなれた声がかけられた。

「やはり、ここにいましたか。」

 そこには、痩身の男が立っていた。人懐こい笑みを浮かべた平凡な印象を与える男である。薄紫のローブに身を包み、その胸には凝った意匠のペンダントを下げている。

「来ていたのか。ルバイヤート。」

 彼は身を起こして男に向き直った。

「ええ、私達の”同類”が現れたと聞きましてね。」

 嬉しいような困ったようなそんな微妙な表情を浮かべながらルバイヤートは少し首を傾げた。

「さすがに耳が早いな。央の塔使徒(レ・ドゥルー・ディ・エン)のイルド(万能)と呼ばれたお前となれば当然か。」

 彼はまた胸一杯に紫煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。

「今では、セクル(2番目)のルバイヤートの方が有名ですがね」

 ルバイヤートは苦笑を浮かべながら彼の隣に歩み寄った。

「で、今はなんと名のっているのですか?」

 二人の間に二呼吸ほどの空白が漂った。

「ゴードン…ライール…ヴォルフ…」

 そしてゴードンと呼ばれていた男は煙と一緒に吐き出すように幾つもの名前を連ねる。それにルバイヤーとは先ほどとはまた別の苦笑を浮かべた。

「つまり、まだ名前は見つからないままということですか…。」

 彼は少し月を見上げるようにして目を閉じた。

「名前など…どんな意味がある?」

 そして彼はルバイヤートに背を向けた。

「まあ、いいですよ。で、例の子にはなんと名乗ったのですか?」

 ルバイヤーとはこの無口な男の少し子供っぽいこういう仕草に親愛の情を覚えていた。彼はその友情を疎むように短く

「ゴードンだ。」

 と答えた。紫煙が穏やかな風に身を踊らせる。

 ルバイヤートはなにかあきらめたような様子で肩を竦めた。

「じゃあ今はそう呼ばせてもらいますよ。」

 ゴードンは遠くを見つめながら吐き出された紫煙とともに頷いた。

「しかし、よりによって一番似合わない名前を選んだものですね。」

 ルバイヤートは心底可笑しそうに笑いをこらえている。

「それより、本当は何しに来たんだ? ルバイヤート。まさか物珍しさからの見物でもあるまい。」

 ゴードンは手摺に身を凭せ掛けながら腹に手を当て、必死に笑いをこらえている長身の男に向き直った。

「そのことなんですが…貴方が死のうとしているのではないかと思いましてね。」

 ルバイヤートは声を落して真剣な顔で彼の目を除きこむ。彼の平凡なまなざしが危険な鋭さを帯び始める。

「それができれば苦労はしない。」

 彼は呆れたように呟き、居心地悪そうにまた背を向けた。

「いいえ、貴方はその方法に気付いているはずです。」

 ゴードンは黙ってまた煙を胸に導き入れた。

 月の光に煙が踊り、消えてゆく。





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