手:猫又三毛尾
十三の年に両親が死んで、連は蒼麻と暮らし始めた。
蒼麻は母の弟にあたるらしいが、年は姉と十以上も離れているために連の方が近い。しかし、年が
近いからといって気が合うというものでもないのである。
蒼麻は呪い師(まじないし)で、腕は非常に良い。腕の良さが災いして官憲や有力者に追いまわされ
たのも一度や二度ではないが、その度に巧く逃げおおせ、今も大手を振って表を歩いている。
以上、決して多いとはいえない情報は、蒼麻の数少ない友人たちが教えてくれたものだ。本人から
聞かされたことはそれに輪をかけて少なく、三年も一緒に暮らしているというのに、未だに蒼麻のこ
とはさっぱり理解できない。
さて、その日の朝も蒼麻は良く眠っており、連は一人で飯と漬物と夕べ残った汁で朝食を済ませて、
庭で洗濯を始めた。二人が住んでいるのは都の外れにある一軒家で、ちらりと見た印象では今にも倒壊
しそうに見える。ぐるりを透垣で囲った庭も広いには広いのだが、垣がなければどちらが外でどちらが
庭だかわからない有様だ。
そんな庭に盥と汚れ物を入れた籠を持ち出して、仕事にかかる。蒼麻は放って置けば一月ばかり着たき
り雀でいるからあまり洗濯物は溜まらないのだが、さすがに梅雨の晴れ間、十日ぶりの晴天ともなると、
普通の家なら六日分くらいの量が溜まっている。
その大半が連の物と、押入れから発掘された、この家にあるの理由が良くわからないもの。子供の前掛
け、女物の上着、明らかに蒼麻の物ではない派手な男帯、人形用の着物まであった。
まったく、誰の家なのだか。
苦笑するうちに、籠の中身はほぼ洗いあがった。
次を出そうと籠に入れた手が、妙な物が触れる。布より分厚く弾力があり、ほんのりと温かい。
目の前に持ち上げてみる。それは透き通るような桜色で、滑らかな肌をした手の平だった。
白い着物の少女が立っていた。
年のころは連よりも少し下だろうか。
微笑んでこちらに手を伸ばす彼女の手は、差し伸べた連の手を取ることができなかった。
手首から先が、なかったからである。
息が、苦しい。
「起きろ」
声と同時に、軽く肩をつつかれる。
「連」
目を開くと、色素の薄い端正な顔が目に入った。よく見れば細い目や少し癖のある髪など連の容貌と
似通った部分も多いが、年が上なだけあってこちらの方が落ち着いた雰囲気である。
「あ、蒼麻」
見回せば太陽は空の真ん中を過ぎた辺にあり、洗濯物は手拭一枚残さず洗い上げ、あとは干すばかり
になっている。連はその山に顔を伏せて、眠っていたようだ。息苦しいのも当然だろう。
「何があった」
「夢を、見たのかな。何かおかしいことでもあるの」
「質問しているのはこちらだぞ」
疑問に疑問を返された蒼麻は気分を害した風でもなく、脇に放り出したままの籠を指差す。
「あそこに、気配が残っている」
「…お化け?」
「悪いものではないな。心当たりがないのなら良い。気にしないことだ」
呪い師(まじないし)にこう言われて気にしない者がいたら、是非会ってみたい。
しかし、蒼麻はそれ以上答えてくれず、連も奇妙な手のことを話しそびれてこの話はおしまいになった。
午後は仕事をする。
連の父親は絵師だった。人を描くのが得意で、幼い子供から年を重ねた老人まで、墨一色で生き生き
と描き出したものである。その膝で育てられた連も当然のように筆を使うことを覚え、絵師とは行かな
いまでもその真似事で金銭を得ている。目下の所、草紙に挿絵を描く注文がぽつぽつと来る程度だが。
ふと思いついて、短い夢の中にあらわれた少女の姿を紙に写してみる。思い出そうとすればその姿は
鮮明に浮かんだ。
顎のとがった小さな顔と、それに不釣合いなほど大きな目。結わえずに腰まで垂らした髪は艶がなく、
肌は透けるように白く、瞳は漆のように黒い。
ちんまりとした鼻と口。折れそうなほど細い腕。
手首から先が、描けない。
少女が伸ばしてきたのは右の手。左手はどうだったろうか。
「先程見たのは、それか」
背後にぬっと立たれ、悲鳴をあげそうになった。熱中するあまり、周囲への注意が疎かになっていた
らしい。
「夢よ。ただの夢」
「そうか」
納得したようなことを言うが、蒼麻の目は紙から離れない。紙に穴が開くのではないかと、心配にな
るほどだ。
「本当の夢か?」
「え」
夢に本当も嘘もあるものか。しかし、連は返答に詰った。
「今夜、仕事がある」
突然、話が他所に飛ぶ。仕事に行くのにわざわざ断りを入れるとは、珍しいこともあるものだ。
曖昧な相槌を打つと、蒼麻はこう続けた。
「お前も来い。夕飯が済んだら出発する」
蒼麻に連れて行かれたのは都の中央辺りにある屋敷だった。蒼麻は昨日もここに来ていたそうで、出
迎える人の態度がやけに丁重である。
立派な建物だが、奇妙に人気がなかった。よく見ればあちらこちらに家人の姿が見えるから人はいる
ようだが、皆息を潜めて夜更けだというのに眠ろうとする様子もない。
案内された部屋で待っていたのは、年の頃四十余の男。まだ春になったばかりだと言うのに、頻りと
汗をぬぐうしぐさをしている。その横に、ほっそりした婦人が生まれて間もない赤ん坊を抱いて座って
いた。
これが屋敷の主人一家である。ぐっすりと眠っている赤ん坊以外の二人は明らかに落ち着かず、浮つい
た様子だ。
現在この家で起こっている事態を考えれば、落ち着かないのも無理はない。
物の怪が、出るのだという。
最初にそれが出たのは三月前。夜の更けた頃、ぺたぺたと廊下を歩く音に、家の者が気付いたのが始
まりだった。
最初は誰かが用足しに起き出したのだろうくらいに考えていたのだが、音は部屋に戻ろうとせず、廊
下を行ったり来たりして一向に止む気配がない。不審に思って廊下に出てみると、そこには誰もいなか
った。
こんなことが何度か続き、屋敷の者たちが不安を訴えるようになった頃、音を立てているものの正体
が判明した。
目撃者は、台所にいた下女だった。小さな灯りを点けて仕事をしていた彼女は、ふと横に目をやって、
竈の上にそれが乗っているのを見たのである。
それは、人の両手首だった。
手首は腰を抜かす下女に構う様子もなく、ぺたぺたと這いずって消えた。
以来、一対の手は日が暮れると必ず現れ、屋敷の者は安心して眠れない夜が続いている。
「それだけ?」
思わず拍子抜けしたように呟いた連は、慌てて口元を抑え、咳払いでごまかした。確かに夜歩き回る
手というのは不気味だが、それだけなら害もない。言っては難だが、この屋敷の人々の態度は、神経質
すぎるのではないか。
「それだけなら害はない。放っておけば良いことだ」
ごく小さな声のつもりだったのだが、聞こえていたらしい。蒼麻が、こちらは普通の声で言葉を返し
た。
主人夫婦の顔が、何か言いたげに曇る。他人事だと思って、と言いたいのだろう。
「害があるから俺がこうして来ている。その赤ん坊だ」
言われて夫人に抱かれた赤ん坊に目を向けるが、依然安らかに眠っている。
「普通、この時間になれば赤ん坊は部屋に寝かせておくだろう。何故ここにいると思う」
姿をあらわして以来、手の行動は過激になった。物を隠す、台所の皿を床に落として割る、眠ってい
る人間の髪を引き抜く、薬箱や化粧台の中身を滅茶苦茶にするなど、始末におえない。
それだけならまだ良い。本当の問題は、手がなぜかこの家の一人娘を執拗に攻撃することだ。両親を
始めとする家のものが守った為に無事だったが、下手をすると朝まで付きまとって殴りつけようとする。
どうしても無理だと言うことがわかると家のあちこちで先のような悪戯をする。
手の力はそれほど強くないが、赤ん坊も弱い。皆で何度も手を退治しようとしたが、全て失敗に終わ
った。叩こうとすれば逃げ、捕まえれば最初からそこにいなかったかのように消え失せてしまう。
まともなやり方では太刀打ちできないと考えた主人は、友人のつてで知った蒼麻に助けを求めたのだ
った。
「昨日の夜はどうでした」
「先生のお札を柱に貼っておいたところ、昨日は一度も出てこなかった有難いことだ」
道理で待遇が良いわけだ。連は前に置かれた茶と、添えられた菓子を眺めた。砂糖をふんだんに使っ
た恐ろしく高価な代物である。
「それで、あれが出てこられないようにして頂けるのでしょうか」
子供の命が懸かっているとあって、夫人は切実な様子で尋ねる。三月もの間、物の怪に悩まされ続け、
一晩静かになったくらいでは落ち着けないようだ。
「札を剥がさなければ、手は出てきません」
蒼麻が答える。夫人はほっと息を吐いた。
「しかし、それでは恨みが残る」
「恨み、と申しますと」
「事情はそちらの方が良くご存知のはずだ」
主人の顔色が変わる。
「何を言われるのやら。私たちには、他人に恨まれるような覚えはない」
「恨むという言葉が悪いのなら、未練と言い換えても良い」
「わけのわからないことを。もう出てこないならば何も問題はない。先生にはお引取り願おう」
人を呼ぼうと腰を浮かしかける主人の鼻先に、蒼麻は一枚の紙を広げて見せた。
既に青褪めていた顔が、どす黒く染まる。しかし、それよりも激しい反応を示したのは夫人の方だっ
た。
あっと一声あげて膝立ちになった姿勢のまま、こちらも血の気のうせた顔で固まっている。その視線
は蒼麻の持つ紙に吸い寄せられたきり動かない。
連が見ると、それは昼に描いた落書きだった。
「供養してやってください」
蒼麻が懐から取り出した子供の前掛けをひったくるように受け取った主人は、それをきつく握り締め
る。
夫人は何も言わない。大きく見開いたままの目から、涙が流れていた。
その時になって、連は漸く気付く。絵の少女とこの夫人は似ているのだ。
その娘が生まれた頃、彼女の両親は初めて授かった子供を心から可愛がっていたという。母親に良く
似た面差しの、可愛らしい子供だった。
ところが、いつになっても口をきかず、立ち上がりもしない。機嫌の良いときはにこにこしており、
気に入らないことがあれば、大声をあげて泣き喚く。どこかに行きたいときは四つん這いで、ぺたぺた
と音を立てて歩いた。
屋敷の奥に娘を隠すようにして育てていた両親がある決心をしたのは、娘が風邪をひどくこじらせた
時。夫人の胎内には二人目の子供が宿っていた。
娘はろくな看病も受けず、自分の部屋に放置された。医者を呼ぶことも、高価な薬を買うことも、こ
の家ならばできたのだが。
数日の後、娘は寝床の中で冷たくなっていた。相当苦しんだのだろう、己の首に両手の爪を立て、し
がみついていた。
他の者には死んだ、とだけ伝え、誰もそれを不審に思わなかったらしい。
知っていたとしても、敢えて真実を明るみに出そうとはしなかっただろう。
手はどうしても離れず、結局手首から切り落とした。
「お前が洗濯していた前掛けは、その娘の物だ」
「それが、どうして家にあったの?」
腑抜けたようになっている主人夫婦をそのままにして、二人は家に戻っていた。
もうするべきことはないと蒼麻が判断し、それならば連に異存はない。
異存はないのだが、いくら何でも腑に落ちないことが多すぎる。元々喋るのが得意ではない蒼麻から
情報を引き出すのは困難を極める作業だが、連は何とかこれに成功した。(三年の同居も全くの無駄で
はなかったようだ)
前掛けが押入にあった理由は簡単で、蒼麻が持ってきたのである。
昨日屋敷を訪れた際、人ならざるものの気配を探り、それがもっとも強く残っている品物、つまり件
の前掛けを失敬した。
屋敷に札を残してあったせいで、居心地が悪くなった娘の霊は、自分の跡が残っている前掛けと、そ
れを持つ蒼麻にくっついて家にやって来た。
蒼麻は一晩かけて彼女と語り合い、だいたいの事情を知る。
口が利けなかった娘とどうやって語り合ったのか、連にはわからなかったが、蒼麻にとって不可能な
ことではないらしい。
前掛けは屋敷に返すまで隠しておこうと押入に放り込んでおいたのだが、それを連が引っ張り出して
洗濯したというわけだ。
「押入に入れてある古着、全部曰く付きだなんて言わないよね?」
「そう言ったものもあるな」
二度と押入をかき回したりするまい。
考えてみれば、連が来るまで何事もなかったのだ。洗濯しないからと言って、死ぬことはないだろう。
数日後の昼過ぎ、連はいつも通り自室で筆を動かしていた。
「おい」
手を止めて後ろを見ると、思った通り蒼麻がいる。
「どうしたの」
「あの屋敷の主人、お前が描いた娘の絵が欲しいそうだ」
娘だと思って大切にする、と言ったそうだ。今更のような気もするが、これも一つの親心かも知れな
い。
連が見た手は、爪がきちんと切られてささくれもない、綺麗な物だった。誰かが面倒を見て、手入れ
してやったのだろう。
筆を手に取ったまま、少し考えてみる。
「探せばその辺にあると思うけど。新しく描きなおしたいな」
「好きにすればいい。お前の仕事だ」
絵は、数日後に仕上がった。
非常に珍しいことだが、完成品を渡した時、蒼麻はあからさまに機嫌良く笑って見せた。
絵の中の娘は先に描いた落書きと殆ど変わらない様子で、微笑みながら白い手を差し伸べていた。
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